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⑨綾羅と父

 首元のくすぐったさに、綾羅は目を覚ました。

 ふかふかで温かい毛皮に包まれてとても心地良い。

 二、三度瞬きをしてから起き上がろうと手をつくと、もふりと沈み込む――大きな狼を寝台にしている事に気付く。

「父様……」

 半身を起こして見上げると、狼と視線が合った。どうやら怒りは冷めたようで、すっかりと落ち着いた様子で心配そうに眺めている。

 物凄い勢いで攫われ、天から地へと急降下した時にはとても息苦しかったのだが、今は楽に息が出来る。

 綾羅はぼふっと顔を狼の毛皮に埋めて大きく鼻で息を吸った。

 父と兄、二匹の狼に囲まれ育った綾羅にとってこの匂いは心地よく、何よりも安堵できるものである。

 すぅー、すぅー、と何度か呼吸をしつつ、目が覚める前の出来事を頭の中で整理する。

 あんなに怒られたのは、あの時以来だわ。

 幼い頃、どうしても自分の力で空を飛ぶんだ、と我儘を言って、館の敷地の端から飛び降りた。慌てふためく兄を尻目に、どこからか父が飛んできて、抱き留めてくれたその広い胸を思い出す。その時、珍しく母からではなく、父からこっぴどく叱られたのだ。

 幼い綾羅は空も飛べない自分が情けなくて、叱る父が怖くて、叱られた事が悲しくて、大泣きしてしまった。

 けれど父を嫌いになる事はなかった。

 父は綾羅を真っ直ぐ見詰め、愛する綾羅を失うのが儂は怖いんだ、と、幼い子ども相手に真剣に話してくれたからだ。

 ぼんやりと昔を思い出しながら、綾羅は身を起こして狼に(もた)れかかった。結っていた筈の髪は千々に乱れて顔にまとわりつき、涙が乾いて頬がひりつく。指で髪をある程度整えてから、目を擦って辺りを見渡した。

 上から幾つも差す陽光に照らされ、苔が仄かに青い輝きを放っている。そう大きくはないその空間は、湿った土の匂いに満たされた洞穴である。

「ここは……地神界、よね……父様」

 問いかけに答えは無く、狼はただ、綾羅を眺めて目を細めている。

 口もきいてくれないの? と悲しく思いながら、首を返して背後を見ると、大きく光が差し込む出口が見えた。

 すっくと立ち上がって足早に向かい、外へ出ようとする……が、目に見えぬ結界の壁に柔らかく跳ね返され、そこから先へ進む事が出来ない。

 狼はゆっくりと綾羅の前へと回り込むと、通せんぼするように、出口を塞いで横たわった。

「綾羅を閉じ込めるの……? 父様……」

 父の怒りは綾羅の想像を超えていた。ただ叱られて、家に連れ戻されるだけかと思っていたのに。

 狼は是の答えを返すように尾を持ちあげ、ぼふんと地面へ叩き付ける。

 どうやら逃れられない様子に綾羅は諦めて、再度、狼に凭れて座した。ころり、横を向くと狼の首元に両腕を回し、その長い鼻面に頬ずりをする。

「父様、大好きよ」

 狼は高い音で小さく鳴く。

「でも……今、お傍に居たいのは黄龍様なの……」

 小さく口を開けていた狼は、その口を堅く閉じてそっぽを向いてしまう。

「もぉ……父様ぁ……こっち向いてぇ……綾羅の話を……」

 何か物音でも聞こえたのか、狼は出口の方へと首を向け、耳をそばだて、鼻を動かした。綾羅もそちらの方を向くが、見えるのはただ木々と茂みと差す陽のみ。

 その陽の光の中に、一際強い輝きを放つものが見えた。小さな光が結界を何の抵抗も無く通り抜ける――それは黄金色に輝く龍の折り紙。ガウッと吼えて噛み付かんとする狼の牙を避け、綾羅の周りをくるりと一回り飛ぶと、首の辺りでふっと消えた。

 遠くから草を踏み分ける足音が聞こえる――綾羅は胸を高鳴らせ、狼は牙を剥いて低く唸る。

「この辺りかと思ったのですが……」

 声が聞こえた途端、狼は跳ねるように立ち上がり、耳をぺたりと下げて尾を巻いた。

「母様だわ……母様、かあさまぁ!!」

 綾羅の叫びは結界の外へは届かないようで、返事はない。

「おかしいですね」

 その言葉の後、ふうと一つ、溜息が聞こえた。

「地神界に降りるのは久しくて……少し、疲れました。貴方の胸を……借りても良いですか? ああ、とても休まります……」

 草の揺れる音ががさがさと暫く立っていたかと思うと、やがて静かになった。

 狼は尾は巻いたまま、耳はぴんとそば立てて出口の前をうろうろと右に左に歩き回る。

「抱き締めても良いですか? それとも……私を包み込んで下さいますか?」

 少し気だるそうなサクヤの呟きに、吐息に、狼は唸り声を上げて結界を飛び出した。猛烈な勢いの吼え声のすぐ後、キュンッ、と甲高い鳴き声とともに、綾羅の目の前を小さな白狐が走り去った。

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