⑩助けの手
「王海」
凛としたその声が、白狐を追い掛ける狼の足を止めた。くるりと向きを変えると、足早に駆けて洞穴の前を通り過ぎて行く。
綾羅は入り口から二神を覗こうとするが、その姿は視界の外にあり、ただ声だけが聞こえてくる。
「綾羅はそこに居るのですね?」
問い掛けに答える声はなく、代わりに、きゅうん、と甘えたような狼の鳴き声がする。
「ただの獣の振りなど止めて下さい……」
ちゅ、と小さな音がした後、ようやく、父の声が聞こえた。
「サクヤよ、儂は認めない。綾羅はまだ十八……嫁ぐにはまだ早い」
「笄礼はもう済んでいます。それに、僕はもっと早くに貴方に嫁ぎましたよ?」
うぐぐ、と父が唸る声が聞こえる。
母様は怒ってるのかしら、と綾羅は思う。
時々、起こる夫婦喧嘩の折、何故か母の一人称は〝僕〟になる事を、綾羅は何度も耳にしている。
「そ、そうだ、彼奴から正式な申し入れがあった訳ではなかろう? 綾羅の片思いではないのか!?」
「後日、正式に婚姻を申し入れたいという私信を拝受しております」
「う、ぐ……だ、だが、奥向きでの暮らしなど、綾羅には難しいであろう!?」
「貴方は娘の事も知らないのですか? 綾羅は歌舞音曲に詩歌や刺繍も得意で、どこに出しても恥ずかしくない娘です」
「だ、だが、親を騙して夜出歩く娘など……」
「王海……」
とても静かな、困惑を含んだ声が父の口を閉ざす。
「貴方は僕に、本当にしたい事は何かと聞いてくれました。なのに、綾羅にはそれを許さないのですか?」
その問い掛けを最後に会話は途絶え、辺りは沈とし風の音だけがさわさわと聞こえる。
やがて、草を踏む音と共に狼が洞穴の前を鳴きながら駆け去って行き、悲しげな遠吠えが一つ、森に響いた。
「母様ぁ、綾羅はここ……」
そう声を上げようとした時、予め解っていたかのように、サクヤが目の前に歩んで来た。すっと腕を伸ばすと結界の壁に手の平を当てる。綾羅は内側からその手に手を合わせる――鏡に映したように同じ顔の、白緑色の瞳をした女神が立っている。
「綾羅」
「かあさまあぁぁ!」
その叫びに呼応するかのように、まるで菌糸のように細い糸が壁の内部を真っ白に埋めつくした。サクヤの五指の先がずぶりと壁に埋め込まれる。そのままサクヤが拳を握ると、糸と化した結界は五指に絡み取られ、手の中に吸収されて消え失せた。
途端に綾羅はサクヤの胸に飛び込み、全力でしがみつく。
「よかったあぁぁぁ! ここからもう出られないのかなって……わぁあぁぁああん!!」
サクヤは幼子のようにわめく我が子を優しく抱き締め、髪を撫でた。濃い紫色の衣に身を包む姿は気品高く、落ち着いた様子は綾羅に比して悠然として見える。
一頻り泣きわめいて落ち着いた綾羅はやがて鼻をすんすん鳴らしながら、顔を上げた。
「母様ぁ……私、ひどい顔でしょ?」
「綾羅はどんな顔をしていても可愛い私の娘ですよ。でも……目が、腫れていますね……」
冷たい指で瞼を撫でられるととても心地良くて、綾羅は目を細めた。
母の胸の心地良さにぼんやりしていると、突然、がさっ、と音が立った。
ゆっくりとそちらへ顔を向けると、先程逃げた小さな白狐が、座して控えていた。
「サクヤ様、よろしければ娘様とご一緒に主の館へ」
そう言うと見る間に大きな姿へと変化し、地面へ身を伏せる。
「助かります。綾羅、おいで」
サクヤは綾羅の手を取って狐の背に乗らせ、自分はその前に座した。綾羅は、狼とはまた違う毛皮の手触りに少し機嫌を良くし、その毛並みを一撫でしてからサクヤの腰に両腕を回す。
「では、参ります」
一言断りを入れて駆け出した狐の背で、綾羅は問う。
「こちらの主……様? ここはどこなの? 母様」
「ここは、父様が生まれた森。そして、土地神として守護していた森ですよ」
言われて初めて、綾羅は辺りを見渡した。さわさわと葉擦れの音は心地よく、鳥や獣の生き生きとした気配を感じながら、大きく息を吸い込む。
「今、この神境は、天狐が守護していてね」
「てん、こ……?」
「ウカノ神様の眷属の、御狐様よ。着いたらご挨拶しましょうね」
はぁい、と、いつもの調子に立ち戻り、綾羅は明るく返事を返した。




