⑪夫婦
久方ぶりの主の帰還に神境の空気はどこか活気づいて心地よい。
丘を登るとやがて、朧月夜の光に照らされ、座している大きな影が見えた。
「王海」
鈴の音のような美声にも振り返らず、黙り込んだままの背は揺るがない。
「貴方のお好きな御酒をお持ちしましたよ」
ぴくりと背が動く……が、やはりそれ以上は動こうとしない。
小さな溜息が漏れた。
「ではこれは、ウカノ神様に進呈する事にいたします。かつての貴方の想い神の」
その一言が男を振り返らせた。
「な、なにを……そんな話を一体どこで……」
くすり、可笑しそうに小さく笑ってサクヤはオオノ神の隣に座した。その手には白磁の酒壺を下げている。
「やっとこっち、向いてくれましたね」
はい、と衣の領から出して寄越された盃に、オオノ神は自然と手を出し受け取った。
「僕は気にしていませんよ。昔の話、ですから」
にっこりと作り笑いをしてサクヤは盃に酒を注いだ。何を言っても墓穴になりそうな空気を感じてオオノ神は再度、押し黙る。間を埋めるように注がれた奉納酒を飲み干し頬を緩めた。
それを見てサクヤもまた己の盃に酒を注ぎ、少し、唇を付ける。
「……綾羅の事は、どうするつもりですか?」
「儂は許さん。一夜を過ごしたのだぞ? あ奴は、未婚の娘と」
「一夜……と言っても、綾羅の身は清いままです。ただお話をして、いつしか眠ってしまったのだと綾羅は言っています」
「それでも儂は許さん」
「ですが……」
突然、オオノ神は握った拳で地を殴りつけた。
「何故あ奴なんだ!!!」
その怒りに神境に漂う神気が震え、辺りが沈と静まり返る。
しばらく時を置いて後、サクヤが徐に口を開いた。
「綾羅は父様が大好きです。そして、その父様によく似た男に惹かれた……それだけの事」
「似ている、だと?」
「はい。貴方方は良く似ています。何をも包み込む温かさ、どのような運命にも立ち向かう芯の強さ、一族を愛する想い」
「お前はあ奴の本性を解っておらん」
オオノ神は大仰に顔を顰めた。
サクヤは小首を傾げて見詰めるが、オオノ神は苦々しい表情のままで盃を逆さにし、徳利の口に蓋をするように被せた。
「……明日の朝、お前は綾羅と共に天へ帰りおれ。後の事は儂に任せておけばええ」
「王海……」
眉尻を下げて途方に暮れたように見上げる瞳に、オオノ神はふっと肩の力を抜いて口元を緩めた。
サクヤの手から盃を取り上げ、地へと置く。と、両手をその頬へと添え顔を寄せ……柔らかな声で、ジン、と通り名を囁く。こつんと額と額を、鼻と鼻をくっつけ合い、暫しその瞳の奥を覗き込んで後……口元に軽く、口づけた。
そのまま両手で頬を包み込み、親指でその頬を撫でながら、すっかりと険の取れた顔で笑む。
「儂も後から天へと戻る故、待っていてくれ」
和らいだ神気に安堵の笑みを返し、サクヤは、はい、と素直に頷いた。
「でも……」
細い手でオオノ神の掌を包み込んで自らの膝の上へ納めると、サクヤはその肩へと凭れかかり、頭を預けた。
「今はもう少しだけ、このままで居させて下さい」
静かな夜の帳の下――重ね合った手の、指の温もりを確かめ合いながら寄り添う二つの影は、いつしか雲の影に紛れて見えなくなった。




