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⑫地の雲、天の雲

 朝露に濡れる森から山の頂へ、高く聳え立つ木々の間を縫って二匹の真白き仙孤(せんこ)が走る。夜明け前の静謐な空気は肌にひんやりと触れ、天よりも濃い緑の気配が心地よい。

 やがて神境で一番高い場……天へと続く神境の口へと至る。

 仙孤の背から降り立つと、綾羅の前には見事な雲海が広がっていた。

「久々に見ると綺麗ですね」

 綾羅の背後で、サクヤが誰にともなく呟く。

 一面にどっしりと横たわり毛羽立つ雲の海に、波と見まごう雲の影。向こうに見える山には上からも薄雲が覆いかぶさり、雲海の水平線は昇りくる日の光で薄紫色に染まる。

 天から見る雲とはまた違う風情は確かに美しい――けれど綾羅の瞳は更に上にある筈の、雲に隠れて見えぬ天神界へと向けられていた。

 仄暗さの中でも輝く銀の髪は頭上高くから結い下ろされ、風に乱されないようにと絹布で束ねられた毛先が腰の辺りで揺れる。花に蝶が舞う意匠の簪も、髪を束ねる絹布もともに桜色で、身に着けた衣は娘らしい淡い桃色をしている。

 これらの衣装は、かつてこの神境で暮らしていた母の物――当時、今の主へと譲り渡されていたのであるが、恐れ多いと全く手を付けられずに大切に保管されていた物である。

 昨日、その主の館にて歓待を受けたにも拘わらず、深く打ち沈んだ綾羅は首を折り、瞼を伏せた。

 母娘の背後には、二神を見送る為に、大小二匹の狐が畏まって並び座している。

「貴方たちにもお世話になりましたね」

 払暁の空に溶け込みそうな薄紫の衣を身に着けたサクヤは、微笑んで振り返った。その髪はまるで花弁のように頂点で幾つかの輪に結ばれて開き、左右にも一房ずつ輪に垂らされている。頂点には大きな白い一輪花の髪飾りが飾られ、その花を飾るように小さい花簪が散らされている――これは、今の主が手ずから結った髪である。

 主である天狐と昔から懇意にしているサクヤに、大柄な狐は最大限の敬意を払い、頭を垂れる。

「我が主の申しつけなれば、我らの事など何一つお気になさらずに」

「もう狼に追い掛けられるのはこりごりですけれどねぇ」

 小柄な狐の冗談めかした軽口に、大柄な狐が尖った目で睨め付ける。

 ふふ、と笑って少し屈み、サクヤは二匹の頭をもふりと撫でた。

「ほら、綾羅もお礼を……」

 ぽつり……ぽつ。ぽつり。

 不意に降る雨に、皆が天を見上げた。

 いや、それは雨ではなく――黄金(きん)色に輝く神気の欠片。

 音もなく降りそそぐそれは光芒とともに雲海を黄金色に染め、あふれる力の恩恵に地神界の空気は歓喜に震える。

 養花天の雲を細長く切り取って飛翔する光が、遥か遠い高みから舞い降りてくる。

 胸を衝く鼓動に綾羅は大きく目を見張った。

 琥珀色の瞳に映るのは至高にして唯一の存在――黄金色(きん)の龍。

 瞳の中の龍は大きくうねりながら真っ直ぐ降下してくる――果てなく広い天から只一点を目掛けて。

 幼き頃目にしたものと寸分違わぬその威風に、涙に揺れる視界は輝きに満ち溢れる。

 雲と雲の間を泳ぐように舞う優美な姿――煌めく無数の鱗を纏いし龍体を堂々と顕しながら黄龍は降臨する。

 余りの恐れ多さに仙孤は頭を垂れて身を固くし、サクヤは微笑みながら跪く。

 見る間に神境へと降り来たりた黄龍は水面をくぐるようにとぷんと結界の壁を通り抜け、龍体から神身へと変化した。

 明黄色の衣を風に(なび)かせながら地に足を着けると、少し離れた場に佇む綾羅に笑みかける。

 涙をぼろぼろと溢れさせながら、綾羅はただぼんやりと、黄龍を眺める――夢にまで見た余りにも美しい光景に、愛しい神の溢れる神力の心地良さに、熱にうかされたようにその身が動きを止める。

 黄龍は少し困ったような表情になりながら、おいでとばかりに両腕を広げた。

 ああ、黄龍様はほんとうに私を迎えに来てくれた。

 ふわりと漂いくる香に(いざな)われ、ようやく綾羅の足は前に進む。

 森の方から風が吹き、白い花びらがひとひら、ふわり、舞う。また、ひとひらひとひら……かと思うと、湧き上がる数多(あまた)の花びらが一気に乱舞し始める。

 瞬く間に神境の空気が一変した。

 裳裾(もすそ)に足を取られそうになりながらも懸命に足を運ぶ綾羅を、背後から大きな影が抜き去った。

 目の端を掠めたのは、黒い槍持ちて黄龍へと襲い掛かる父の姿。

 瞬きよりも短いその間――身構えるのでも、武器を手にするのでもなく、黄龍は確かに綾羅の方を見ていた。

 愛しみを込めた眼差しで微笑んで、唇で何か言葉を紡ぐ――飛花の波に攫われるようにして二神の姿は掻き消えた。

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