白銀の平和なカフェタイム
カチャリ、とフォークとナイフが陶器のお皿に触れる上品な音が、賑やかな店内のBGMに混ざって聞こえてくる。
休日の午後。大学の近くにあるお洒落なカフェで、私は友人の美咲ちゃんと向かい合い、季節限定のフルーツパンケーキをつついていた。
甘いメープルシロップと焼きたての生地の香りが、平和な休日の昼下がりを完璧に演出している。
「……でね、神代さんに教えてもらった通りにバリアのタイミングをズラしてみたら、本当にレイドボスの全体攻撃をノーダメージで凌げたの! やっぱりジン様……ううん、神代さんは神様だわ! 今度、新しいダンジョンの攻略も手伝ってくれるって言ってくれてさ!」
「えっ? ああ、そういえば言ってたね」
「そう! 優しいよねぇ。プロ時代は冷徹な軍師って言われてたのに、実際はすごく面倒見が良いっていうか、大人の余裕があって素敵だと思わない?」
頬を紅潮させて熱弁を振るう美咲ちゃんに相槌を打ちながら、私はアイスティーのストローを咥え、ぼんやりと窓の外を行き交う人々を眺めた。
平和だ。本当に、ここは平和で安全な世界だ。
誰も武器を持たず、殺気も放たず、空からは猛吹雪も降り注がない。ただ温かな陽光がアスファルトを照らし、穏やかな時間が流れている。
つい数日前に私が身を置いていたあの世界とは、まるで正反対の場所。
極光の氷原で吹き荒れていた、仮想肉体を削り取るような絶対零度の風。
レベル121の『憤怒の竜』が放つ、空間そのものを圧殺するような圧倒的な咆哮。
そして、私たちを逃がすために、自らの命を燃やして散っていった気高き魔女の最期の微笑み。
システム上の安全装置によって、現実の私には何の傷も残っていない。私の手は白く滑らかなままで、剣の柄に擦れた豆もなければ、炎に焼かれた火傷もない。
けれど、あの死闘の中で感じた極限の恐怖と、限界を超えて刃を振り抜いた瞬間の熱は、今も私の神経の奥底に微かな痺れとして残っていた。
あんなにも過酷で、一歩間違えればすべてを失ってしまうような世界なのに。なぜか今の私には、目の前にある甘いパンケーキよりも、あっちの血生臭い世界の方がずっと『鮮明』に感じられてしまうのだ。
「ちょっと、ルナ? また上の空になってるよ?」
不意に、美咲ちゃんが眉を寄せて私の顔を覗き込んできた。
「えっ? ご、ごめんなさい! ちゃんと聞いてるよ!」
「嘘だ。どうせまた、神代さんのこと考えてたんでしょ?」
美咲ちゃんの指摘に、私の心臓がトクンと大きく跳ねた。
「な、なんでアイズドさんのことなんて……」
「だって、さっき私が『神代さんが手伝ってくれる』って言った瞬間、すっごく分かりやすく眉間にシワ寄せて、ストローをガジガジ噛んでたじゃない。……ルナってば、本当に素直っていうか、分かりやすいんだから」
美咲ちゃんは呆れたように息を吐き、自分のコーヒーカップを手に取った。
「まったく。あんたがそこまでゲームにのめり込むなんて、少し前までは想像もできなかったわ。……まあ、あんな凄い人の隣にいたら、現実の生活が退屈に思えちゃうのも無理ないけどね」
「あんな凄い人」という言葉に、私の胸の奥がキュッと締め付けられた。
アイズドさん。現実世界での名前は、神代冬司さん。
私を初心者狩りから助け出してくれて、この世界の本当の歩き方を教えてくれた人。
口が悪くて、いつも「効率だ」とか「最適解だ」とか言いながらも、最後には必ず私やNPCの人たちを護るために無茶をしてしまう、不器用で最高に頼もしい私の相棒。
私は彼を、「一番信頼できるパーティメンバー」であり、「尊敬する恩人」だと思っていた。それ以外の何者でもないと、自分に言い聞かせていた。
でも……。
(どうして私は、ふとした瞬間に、アイズドさんのことばかり考えてしまうんだろう)
大学の講義中も。電車に揺られている時も。こうして美味しいスイーツを食べている時でさえも。
彼の少し無精髭が残る整っていない顔立ちや、呆れた時に片方の眉だけ上がる癖。私を安心させるように、頭を『ワシワシ』と乱暴に撫でてくれるあの大きな手のひらの温もり。
それらを思い出すだけで、どうしようもなく胸が甘く痛み、息苦しくなる。
そして何より、先ほど美咲ちゃんが「一緒にプレイする約束をした」と言った時の、胸の奥をチクチクと刺すような黒いモヤモヤ。
尊敬する恩人が他の人に褒められ、頼られているのなら、本来なら嬉しいはずなのに。
どうして私は、彼が私以外の誰かに優しくすることに、こんなにも苛立ちを覚えてしまうのか。彼の一番近くで、彼の背中を護る存在は、絶対に『私』じゃなきゃ嫌だと思ってしまうのか。
「…………あっ」
その瞬間。
私の心の中に掛けられていた無自覚の鍵が、パチン、と音を立てて外れたような気がした。
ただの信頼や、友人としての情愛ではない。
彼をもっと知りたい。彼に特別な存在として見られたい。彼の隣という『特等席』を、誰にも譲りたくない。
「……嘘。私、アイズドさんのこと……」
自分の心の中に芽生えていたその感情の『正体』に、私はようやく気がついてしまった。
ずっと無自覚なまま蓋をしていた感情。
それは、どうしようもなく不器用で、けれど誰よりも優しいあの人に対する、紛れもない『恋心』だった。
「ちょ、ちょっとルナ!? どうしたの、いきなり顔が真っ赤になってるよ!?」
「わっ、ち、違います! これは、その、カフェの中が暑いだけで……っ!」
私は慌てて両手で顔を覆った。
鏡を見なくても分かる。今の私はきっと、耳の先まで茹でダコのように真っ赤に染まっているはずだ。
手で覆った頬が、熱で焼け焦げそうなくらいに熱い。心臓の音がうるさすぎて、美咲ちゃんの声すら遠く聞こえる。
「暑いって、エアコン効いてるじゃない。……ははーん。さてはルナ、自覚しちゃった?」
美咲ちゃんが、ニヤニヤと意地悪な笑みを浮かべて私を覗き込んできた。
「やっぱり、神代さんのこと……好きなんでしょ?」
「……っ!!」
私は顔を覆ったまま、机に突っ伏した。否定の言葉は、もう出てこなかった。
「ふふっ、可愛いところあるじゃない。でもルナ、気をつけてよね? 神代さんは本当に素晴らしい人だし、私にとっても神様みたいな存在だけど……大人の男の人なんだから。ルナみたいに無防備に懐いてたら、いつか痛い目を見るんだからね?」
「うぅ……美咲ちゃんの、いじわる……」
私は机に突っ伏したまま、消え入りそうな声で呻いた。
恋心だと自覚してしまった途端、彼とどう接していいのか分からなくなってしまいそうだ。
次にログインした時、私はアイズドさんの顔をまともに見られるのだろうか。
頭を撫でられたら、嬉しさで変な声を出してしまわないだろうか。
(でも……早く、戻りたいな)
真っ赤になった頬を手のひらで冷まししながら、私はふと、そんなことを願っていた。
今頃、あの美しい『空を抱く地下都市』では、アイズドさんが渋い顔をして次の作戦を練っているはずだ。
モードレッドさんとガウェインさんが、彼を囲んであれこれと脳筋な提案をしている姿が目に浮かぶ。
早くあの場所に帰りたい。あの理不尽で、過酷で、だけどどうしようもなく温かい、私たちの『居場所』へ。
そして、私の大好きなあの人の隣へ。
平和な休日のカフェのテラス席で、私は初めて自覚した甘酸っぱい想いを胸に秘めながら、次なる冒険の空を、そして白銀の剣を振るう自分の姿を、愛おしく思い描いていた。




