逃亡者たちの休息と、新たなるスローライフ
視界の端に明滅していた赤色の警告が、静かに消灯していくのを、俺は重い瞼の裏で感じていた。
完全没入型仮想現実《フルダイブVR》の世界において、疲労とは肉体的な乳酸の蓄積ではなく、脳髄が処理する情報量の飽和を意味する。
レベル90という未知の領域への開放、そして数百人規模の強欲な探索者たちからの緊急離脱。絶え間なく演算領域を酷使し続けた俺の精神は、文字通り焼き切れる寸前の状態だった。
だが、その焦燥と過負荷の熱は、この場所の清浄な空気を仮想肉体の肺に吸い込んだ途端、嘘のように霧散していった。
「……信じられないくらい、穏やかな空間だな」
宿屋の簡素な木製ベッドから身を起こした俺は、窓枠越しに広がる光景に、思わず感嘆の息を漏らした。
『空を抱く地下都市』。
フェネキア族が数千年もの間、外界の悪意と澱みから秘匿し続けてきた絶対安全圏。地下数十層という圧倒的な深度に位置しながら、俺の頭上には、淡い青紫色から黄金色へと滑らかに遷移する『空』が存在していた。
システム的な視点で解析すれば、それは岩盤の表面に張り巡らされた無数の魔力回路が、地脈のマナを光学的に変換して生み出している擬似的な天蓋に過ぎない。だが、その環境制御機構がもたらす光は、狂王アーサーのいたキャメロットの灼熱や、極光の氷原の絶対零度とは対極にあった。まるで微睡む赤子を包み込む揺り籠のように、限りなく優しく、温かな波長を放っている。
「アイズドさん、起きましたか?」
控えめなノックと共に扉が開き、白銀の髪を揺らしながらルナが顔を覗かせた。
蒼色の軽装鎧に身を包んだ彼女の表情もまた、激戦の疲労やトラウマを一切感じさせない、柔らかなものだった。
「ああ。随分と長く寝ちまったみたいだな」
「ふふっ、無理もないですよ。あれだけの無茶をしたんですから」
ルナに促されるまま、俺は宿屋を出て、地下都市の中央広場へと向かった。
そこには、俺の戦術的な予測を遥かに超える、活気と温もりに満ちた情景が広がっていた。
「そぉれ! 私の剣を躱してみろ、フェネキアの戦士たちよ!」
「ガッハッハ! 良い筋をしておるが、まだまだじゃな、真紅の小娘!」
広場の一角で、モードレッドが真紅の甲冑を鳴らしながら、フェネキア族の若者たちと木剣で楽しげに手合わせをしている。彼女の顔には、母を喪った悲壮感はなく、純粋な戦士としての朗らかな笑みが浮かんでいた。
その少し離れた場所では、漆黒の巨漢であるガウェインが、キャメロットから避難してきた子供たちを両肩に乗せ、不器用ながらも優しく微笑みかけている。あの威圧感の塊のような彼を恐れる者は、ここには誰もいない。
そして、彼らを見守るように、鉄灰色の騎士アグラヴェインが、フェネキア族の長老たちと何やら農作物の生産効率や備蓄管理について熱心に意見を交わしていた。
種族も、生まれた国も違うNPCたち。本来ならば決して交わることのなかった彼らが、まるで昔からの隣人であるかのように笑い合い、一つの巨大な共同体を形成している。
「みんな、すっかり馴染んじゃいましたね」
隣を歩くルナが、嬉しそうに目を細める。
「ああ。……正直、驚いたぜ。あの鉄石面の騎士たちが、ここまでスローライフに適応するとはな」
俺たちは石畳の市場を歩き、砂狐の特徴を持つ獣人が営む屋台の前に立ち止まった。
「いらっしゃい、開拓者のお兄さん! うちの特製、地下キノコの香草焼きはどうだい?」
「二つもらうよ」
差し出された串焼きを一口齧る。
その瞬間、ポリゴンで構成された仮想の食物であるにも関わらず、芳醇なスパイスの香りと肉汁の旨味が、味覚エンジンを通じて脳髄を強烈に刺激した。
「……美味い」
「本当に! すごく美味しいです!」
ルナも頬を綻ばせ、無邪気に串焼きを頬張っている。
その笑顔を見つめながら、俺はふと、インベントリの中に眠るアイテムのアイコンを仮想ウィンドウ上に呼び出した。
レベル上限を90へと引き上げた証。
小動物の姿をしたマーリンの言葉が、脳裏に反芻する。
『勝てないなら、勝てるようになればいい。僕なら、その本当の在り処へ君たちを導くことができる』
あいつの導きのおかげで、俺たちは上限解放のアイテムをゲットした。だが、外のフィールドにはレベル80のカンストプレイヤーたちが、数百人単位の群れをなして俺たちを血眼で探し回っている。
彼らの欲望と悪意が渦巻く世界で、俺たちが真の自由を得て、あのレベル121の『憤怒の竜』を討ち倒すためには、さらなる限界突破の道を歩まなければならない。
(……だが、今はいい)
俺は串焼きを噛みちぎりながら、広場で笑い合う避難民たちと、円卓の騎士たち、そしてフェネキア族の姿をもう一度見渡した。
プロゲーマーとして、効率と利益の追求だけに全神経を注いでいた頃の俺なら、こんな生産性のない『日常イベント』など一秒でも早くスキップ《早送り》していただろう。
だが、あの絶望的な死地から彼らを救い出し、こうして彼らが笑っている光景を目にした時、俺の胸の奥底に満ちてきたのは、どんなレアアイテムを獲得した時よりも深い、静かな達成感だった。
「……アイズドさん?」
ルナが、不思議そうにこちらを覗き込んでくる。
「いや」
俺は肩の力を抜き、かつてないほど穏やかな笑みを浮かべた。
「無茶をして助け出した甲斐が、あったなと思ってな」
俺の口からこぼれたその言葉に、ルナは一瞬だけ目を丸くし、そして、弾けるような満面の笑みで大きく頷いた。
「はいっ!」
俺もまた、深く、静かに安堵の息を吐き出す。
世界を揺るがす神話の竜も、外のフィールドを徘徊するハイエナたちも、今は関係ない。
環境制御の光が優しく降り注ぐこの絶対安全圏で、俺たちは束の間の、しかし何よりも尊い平穏な時間を、ただ静かに噛み締めていた。




