瓦解した玉座
かつて、この場所は『絶対王者』の象徴だった。
白と銀を基調とした豪奢な内装、高価な調度品で飾られたEHO最大規模の覇権ギルド『オーダー・オブ・ナイツ(白騎士団)』のトップパーティ専用ギルドハウス。
しかし現在、その空間を支配しているのは、栄光の熱気ではなく、冷え切った墓所のような重苦しい静寂だった。
純白のローブに身を包んだエルフのヒーラー、ミレイは、誰もいない薄暗い廊下を重い足取りで歩いていた。
『探求期』に突入してから、ギルドの状況は坂道を転げ落ちるように悪化し続けている。頼みの綱だった既存ボスの周回すらままならず、攻略班は連日の全滅で疲弊しきり、一般メンバーのログイン率も目に見えて低下していた。
「……ジンさん」
ミレイはぽつりと呟き、胸の前で両手を組んだ。
かつての軍師、ジン。彼がいた頃は、どれほど理不尽なアップデートが来ようとも、彼が敷いた『最適解』という名のレールの上を走っていれば、必ず勝利と栄光に辿り着くことができた。
だが、彼を不当に追放した代償は、あまりにも早く、そして残酷な形でこのギルドを食い破り始めていた。
その時。
静まり返った廊下の奥――普段は誰も近づかない、ギルドの最高責任者である『代表』の執務室から、激しい怒号が響き渡った。
「どういうことだか、説明してもらおうか! 神崎! それにレオン!!」
ミレイはビクッと肩を震わせ、思わず執務室の分厚い扉の影に身を隠した。
わずかに開いた扉の隙間から、室内の緊迫した空気が漏れ出している。
そこには、額に青筋を立てて激怒している白騎士団の代表と、顔面を蒼白にして俯くマネージャーの神崎、そして、いつもなら不遜な態度を崩さないエースアタッカーのレオンが、まるで叱られた子供のように震え上がっている姿があった。
「さ、代表……落ち着いてください。これは一時的なスランプで……」
「落ち着いていられるかッ!」
ダンッ! と代表がデスクを力任せに叩きつけた。
「さきほど、ライバルギルドである『八咫烏』から公式発表があった。奴らはすでに既存ボスの攻略を完全に終わらせ、新たなワールドクエストへ至るための『鍵』を手に入れたそうだぞ!!」
「なっ……! 八咫烏が、もうですか!?」
神崎が信じられないというように目を見開く。
「そうだ! 奴らだけではない、他の中堅ギルドすら次々と探求期のギミックを突破し始めている! それなのに、我が白騎士団はどうだ? 第一フェーズのギミックすら安定せず、全滅を繰り返すだけの無様な有様! スポンサー企業からは『話が違う』と資金提供を打ち切る通達が次々と届いているんだぞ!」
代表の怒号に、レオンがギリッと奥歯を噛み締めて顔を上げた。
「俺たちの実力が落ちたわけじゃねぇ! 今回のボスの乱数がクソなだけで……!」
「お前のその実力とやらで、なぜボスが倒せない! 抜刀コンボで見栄え良く斬り伏せればいいだろうが!」
「それは……っ!」
レオンは言葉に詰まり、悔しそうに顔を歪めた。
敵の攻撃のタイムラインが読めなければ、いかに強力なバースト火力を持っていようと、無防備な隙を晒して死ぬだけだ。彼が輝けていたのは、敵のヘイトと行動を完全にコントロールしてくれていた『見えざる土台』があったからに過ぎない。
「神崎! ギルドの資金面も火の車だ! マーケットの相場も読めず、無駄な素材ばかり高値で買い漁りやがって! なぜこんなことになった! これまでは、こんな惨状には一度も陥らなかったはずだ!」
「も、申し訳ありません! しかし、今までのデータ管理システムが……」
「システムではない! 人だ!」
代表は、血走った目で二人を睨み据え、氷のように冷酷な声で宣告した。
「……ジンだ。お前たちが勝手に追い出した、軍師のジンがいなくなったからだ」
扉の隙間から息を潜めていたミレイの肩が、大きく跳ねた。
「私は先日、過去のギルドの全取引履歴と、攻略データのログを専門家に依頼して洗い直させた。……驚いたぞ。我が白騎士団の繁栄が、どれほどの異常な努力の上に成り立っていたのかを知ってな」
代表の口から語られる事実は、ミレイの想像すらも遥かに超えるものだった。
「ジンは、ボスのタイムライン解析を一人で徹夜でこなしていただけではない。裏でマーケットボードに張り付き、ライバルギルドである八咫烏や他勢力の物資の買い占め動向から、彼らの攻略進度を完全に逆算して把握していたのだ。そして、絶妙なタイミングで偽の相場操作を行い、他ギルドの資金と時間を浪費させ、我がギルドの攻略が必ずワールドファーストになるよう、盤面のすべてを裏からコントロールしていた!」
「な……裏で、そこまで……!?」
神崎の眼鏡の奥の瞳が、驚愕に見開かれた。
「そうだ。お前たちが見栄えの良い配信で踊っていられたのは、ジンが敵の動きから経済の相場まで、ありとあらゆる泥臭いリスクを完封し、お前たちを『絶対に勝てる安全圏』に立たせていたからだ!」
代表は、ワナワナと震える手で神崎の胸ぐらを掴み上げた。
「私は、ジンの追放など許可した覚えはないぞ……! 誰の許可を得て、あのジンを勝手にクビにしたッ!! 私の留守中に、目先のバズと数字に目が眩んで、このギルドの『心臓』を抉り捨てたお前たちの独断専行……絶対に許さないぞッ!!」
「だ、代表……お許しを! ジンがそこまでやっていたとは、私たちも知らなくて……!」
「俺だって……あんな地味なオッサンの指図なんかなくても、俺の剣技があれば……!」
「まだそんな戯言を抜かすか、この三流が!! お前たちの実力など、彼が敷いたレールの上でのものに過ぎなかったのだと、今の惨状を見てまだ理解できないのか!」
代表の容赦のない糾弾に、神崎は顔面を蒼白にしてへたり込み、レオンは自尊心を粉々に打ち砕かれ、わなわなと肩を震わせて俯くことしかできなかった。
かつて「不要だ」と切り捨てた男が、実は自分たちを神輿に担ぎ上げていた絶対的な支配者であったという皮肉な真実。彼らの狼狽と後悔は、あまりにも無様で、そして遅すぎた。
――扉の外で、その一部始終を聞いていたミレイは、力なくその場に座り込んだ。
(ジンさん……ジンさん……!)
ミレイは両手で口元を覆い、溢れ出す涙を堪えきれずに震えた。
彼女は、彼が誰よりもチームのために努力していたことを知っているつもりだった。だが、代表の口から語られたジンの真の有能さと、彼が一人で背負っていた途方もない重圧と責任の大きさを改めて再確認したミレイ。
どれほどの孤独の中で、彼はこの巨大なギルドをたった一人で支え続けていたのだろうか。
そして、その努力を誰にも評価されず、「地味だ」と蔑まれ、挙句の果てに裏切られた時、彼はどれほどの絶望を味わったのだろうか。
(ジンさんは……私たちを、ずっと護ってくれていたのに……ッ!)
ジンを追放する会議の時、レオンたちの勢いに逆らえず、彼を庇うことができなかった己の気弱さが、ミレイの胸を鋭い刃のように切り裂いていく。
失ってから初めて、その存在の大きさに気づく。
見えざる土台を失った白騎士団は、もう二度と元の栄光を取り戻すことはできない。八咫烏に後れを取り、スポンサーに見放され、沈みゆく泥船と化したこのギルドで、ミレイはただ一人、後悔と罪悪感の涙を流し続けることしかできなかった。
「……ごめんなさい、ジンさん。本当に、ごめんなさい……っ」
誰もいなくなった薄暗い廊下で、エルフの少女の痛切な懺悔が、静かに、そして空しく響き渡っていた。




