氷華の迷宮と、深淵の守護者
極光の氷原の最深部、システムによる『拒絶の結界』をすり抜けた俺たちを待っていたのは、青白い氷晶で覆われた広大な地下迷宮だった。
遺跡の内部は、外の猛吹雪こそ遮断されているものの、吐く息が瞬時に白く凍りつくほどの尋常ではない冷気に満ちていた。
壁も天井も、そして足元の床も、すべてが透き通るような純氷で構成されている。
「おっと……」
「きゃっ!」
歩き出して数歩、隣を歩いていたルナがツルッと足を滑らせ、俺の腕にドンッとぶつかってきた。
俺は咄嗟に彼女の肩を抱き留め、転倒を防ぐ。
「悪い、大丈夫か?」
「あ、ありがとうございます……っ。すみません、なんだか足元がすごく滑って……」
ルナは俺の腕の中で少しだけ頬を赤く染め、慌てて体勢を立て直した。
「気をつけろ。ただの氷じゃない、これは『氷床ギミック』だ」
俺は床をブーツでコツコツと叩きながら、前を歩く二人の騎士にも注意を促した。
「一度移動の入力をすると、壁や障害物にぶつかるか、一定距離を滑り切るまで止まれなくなる仕様だ。MMORPGの氷雪系ダンジョンじゃ、定番中の定番の嫌がらせギミックだな」
「なるほど、慣性で足を持っていかれるというわけか。重装の身には少々厄介な仕様だな」
ガウェインが、大剣を杖のように使いながら慎重に足場を確かめる。
「フン、止まれないなら止まらなければいいだけだろう」
モードレッドは氷の上をスケートのように滑りながら、器用にバランスを取ってみせた。
「まあ、そう言うな。俺たちは今、かつてないほど状態が良いんだからな」
俺は己のステータス画面を視界の端に呼び出し、小さく笑みをこぼした。
表示されている俺とルナのレベルは、共に『79』に達している。
グレイム領での激戦や道中での狩りによる経験値もあったが、最大の要因はあの地下都市で行った『理外の創造(特殊合成)』だ。神話の時代から誰も見つけられなかった未知のアイテム――『忘却された世界樹の琥珀』を生成したことによる「ワールドファースト・クラフト」の莫大な経験値ボーナスが、俺たちのレベルをカンスト一歩手前まで一気に押し上げてくれたのだ。
「ルナ、身体の軽さはどうだ?」
「最高です! レベルが上がったおかげで、ステータスがさらに伸びてます。どんな敵が来ても、絶対に押し負けません!」
ルナが力強く白銀の剣の柄を叩く。
「……ほら、さっそくお出迎えだ」
俺が視線を向けた先、通路の奥の氷壁がメキメキと音を立てて崩れ、中から巨大な氷の彫像のようなモンスターが三体、姿を現した。
レベル85の『フロスト・ガーゴイル』。氷の迷宮の防衛機構だ。
『GYAAAAッ!』
ガーゴイルの一体が、氷の槍を連射しながら突進してくる。
「ルナ! 右斜め前の柱に向かって滑り込め! モードレッドは左から回れ!」
「はいッ!」
「応!」
俺は《戦陣軍師》の魔導書を開き、二人にバフをかけながら的確な移動座標を指示した。
ルナは俺の指示通り、自らの意志で走るのではなく、氷床の『滑る慣性』を逆手にとって高速で柱の裏へとスライドし、氷の槍の弾幕を見事にやり過ごした。
そして、ガーゴイルが突進の勢いを殺せず壁に激突したその一瞬の硬直を、彼女が見逃すはずがない。
「――シッ!」
柱を蹴って跳り返したルナが、白銀の片手剣による《穿空の絶華》をガーゴイルの関節の隙間へと正確に叩き込む。レベル79の暴力的なステータス補正が乗った一撃は、甲高い破砕音と共にガーゴイルを光の粒子へと粉砕した。
「ハァァァァッ!」
反対側からは、モードレッドの真紅の雷光が氷床の上を滑るように駆け抜け、残る二体をまとめて両断した。
「すでに氷床ギミックを完全に自分の足捌きに取り込んでやがるな」
俺は魔導書を閉じながら、二人のアタッカーの順応性の高さに舌を巻いた。
日常ではどこか抜けているルナだが、こと戦闘において彼女の身体能力と戦闘勘は、一切の無駄を排除した完璧な刃と化す。俺の指示を疑うことなく、自然体で背中を預けてくれる彼女の存在は、軍師としてこれ以上ないほど頼もしかった。
「ガウェインのおっさんも、見事なヘイト誘導だったぜ」
「ふっ、この程度、円卓の騎士にとっては造作もないこと。さあ、奥へ進もう」
四人の特異点による連携は、即席とは思えないほど完璧に噛み合っていた。
氷床ギミックと雑魚敵の不意打ちが入り乱れる道中を、俺のコールと三人の圧倒的な武力で次々と突破していく。
やがて、迷宮の最深部を塞ぐ、一際巨大で豪奢な氷の扉の前へと辿り着いた。
「この奥だな」
俺が言うと、三人が無言で頷き、それぞれの武器に手を掛けた。
分厚い氷の扉を、ガウェインとモードレッドが両側から力任せに押し開く。
冷たい霧が晴れた先に広がっていたのは、床一面が鏡のように磨き上げられた純氷で構成された、巨大な円形の闘技場だった。
天井からは無数の氷柱が剣のようにぶら下がり、空間全体がうっすらと青白い光を放っている。
そして、その闘技場の中央。
凍りついた玉座のような氷塊の上に、一人の『女』が静かに浮遊していた。
「……あれが、上限解放の鍵を持つボスか」
俺は目を細め、アナライズをかけた。
『氷華の魔女 ―― Lv.88』
レベル88。
現在のシステムの絶対的な上限である80を大きく超え、俺たちがこれから至ろうとしている『未知の領域』に肉薄する恐るべき数値。だが、あのアーサー王の時のような絶望的なレベル差(10以上)ではない。レベル79となった俺たちならば、ダメージの完全無効化を免れ、十分に刃が届く適正レベルのボスだ。
彼女は、雪と氷の結晶を織り交ぜたような純白のドレスを纏い、顔の半分は氷のヴェールで覆い隠されていた。モルガンのような艶やかな妖艶さはない。そこにあるのは、すべてを凍てつかせる無機質で、絶対零度の冷酷な美しさだ。
『……深淵を覗く者よ。ここより先は、絶対の静寂。生者の熱を、凍てつく永遠へと還しましょう』
氷華の魔女が、感情の欠落した透き通るような声で宣告する。
彼女の周囲に、無数の氷の結晶が刃となって展開し、闘技場の空気が一段と鋭く張り詰めた。
「相手にとって不足はない。……俺たち自身のレベル上限をぶち抜くための、最後の壁だ」
俺は右腕の機装をカチャリと鳴らし、魔導書のページを開いた。
MMORPGのレイドバトルにおいて、戦闘開始前の『役割の確認』は絶対の儀式である。
「全員、聞け! これから俺たちのパーティの陣形を定義する!」
俺の力強い声に、ルナ、モードレッド、ガウェインの三人が、ピシッと表情を引き締めて俺を見た。
「ガウェイン! あんたはメインタンクだ。開戦と同時にヘイト(敵視)を限界まで稼ぎ、ボスの顔を常に『北側』に向けて固定しろ! ボスの攻撃を俺たち後衛に絶対に向けるな!」
「承知した! この漆黒の盾、決して破らせはせん!」
ガウェインが大剣を床に打ち付け、重厚な咆哮を上げる。
「モードレッド、ルナ! お前らは両側面から火力を出す近距離アタッカー(メレーDPS)だ。ボスの背後と側面を取り、敵の攻撃の予兆(AoE)を見逃さずに最大火力を叩き込め!」
「ああ、任せておけ! 凍てつく魔女の装甲、私の紅雷で粉々に砕いてやる!」
「はいっ! アイズドさんの指示通り、確実に急所を突きます!」
モードレッドが真紅の剣を構え、ルナが白銀の刃を抜いて、静かに、だが鋭く息を吐いた。
「そして俺は、最後方から《戦陣軍師》として、お前らのHP管理とバフの展開、およびギミックのコール(全体指揮)を担う」
俺は魔導書に魔力を流し込み、エメラルドグリーンの光の妖精を肩の傍らに顕現させた。
レベル79に到達した俺たちと、レベル88の深淵の守護者。
ステータスに差はあるが、俺たちにはそれを補って余りある、プロの戦術と最高の信頼関係がある。
「いくぞ、お前ら! 神話の鍵、むしり取ってやるぜ!」
「ウォォォォォォォォッ!!」
俺の開戦のコールと共に、ガウェインが《ウォークライ》の咆哮を上げて猛然と氷床を滑り出し、氷華の魔女へと突撃した。
レベル90の壁を越えるための、四人の特異点による最後の試練。
極光の氷原の最深部で、絶対零度のレイドバトルが、今まさにその幕を切って落としたのだった。




