戻るための記憶
休めと言われた翌朝、俺は本当に少しだけ休んでいた。
少しだけ、というあたりが我ながら情けない。休息を命じられているのに、つい記録板を開きそうになり、ルナに見つかって閉じる。寝る前に確認しようとして、ルナに見つかって閉じる。朝起きて、昨日の交差痕を要約しようとして、ルナに見つかって閉じる。
もはや見張りである。
灰衣の旅剣士は、いつの間にか俺の行動監査担当に就任していた。任命した覚えはない。だが、効果はある。効果があるので、文句が言いづらい。これが管理される側の気持ちか。白騎士団の若手たちも、俺の指示にこういう顔をしていたのかもしれない。少しだけ反省した。少しだけだ。
フェネキア族の里の朝は、音が少ない。
第三炉のように槌の音が響くわけでも、リーフェ村のように人の声や家畜の気配が混ざるわけでもない。根の奥から水が流れるような音がして、淡い緑の光が静かに揺れている。ここにいると、時間の流れまで根に吸われて遅くなったように感じる。
その静けさの中で、俺たちはセレンの広間へ呼ばれた。
ルナは灰衣のフードを軽く被っていた。白銀の髪は完全には隠れていない。肩に流れる部分だけが見えて、残りは布の内側に収まっている。隠しているが、消してはいない。昨日までの確認が、ちゃんと彼女の立ち姿に残っていた。
俺は黒鉄外装の左腕を一度だけ動かす。《古代変形機装》は静かだ。昨日の記録庫で、黒き拒絶という仮称を置いた。それは名前ではない。固定でもない。今は反応を呼ぶための仮置きだ。そう決めたことで、少しだけ左腕の重さが変わった気がする。
セレンは広間の中央で待っていた。ナユタもそばにいる。彼の手には、薄い根板が一枚あった。昨日まで見たものより小さく、表面にはまだ何も刻まれていない。
「黒鉄。灰衣。昨日の確認で、あなたたちは外の記録と根の記録が交わる痕跡を見ました」
セレンはいつも通り、前置きなく核心へ入る。
「軍師ジン。白銀。黒鉄と灰衣。白騎士団。第三炉。リーフェ村。それらは、すでに外側に記録として残り始めています」
「それを消せとは言わないんだろう」
「はい。消すことはできません。消そうとすれば、別の形で歪みます」
消すのではなく、重ねる。
昨日の記録庫で得た結論だ。
軍師ジンをなかったことにはできない。白銀を怖がった記録も消えない。黒鉄と灰衣という噂も広がり始めている。なら、それらの上に、別の記録を重ねていく。戻った記録。休めた記録。拒みすぎず流した記録。勝つだけではなく、戻るための記録。
セレンはナユタから根板を受け取り、俺たちの前へ差し出した。
「これは、里の記録庫から切り出したものではありません。今日、あなたたちのために作る記録です」
根板の表面に、淡い光が走る。
文字ではない。
点と線が現れ、互いに距離を取りながら揺れる。白い点。黒い点。灰緑の線。外側へ伸びかけて、途中で戻る線。深く沈みかけて、手前で止まる線。
見ていると、何となく分かる。
これは、俺たちが外縁でやったことだ。
白銀を通し、黒鉄で流し、淀みを外周へ逃がし、深層音を追わず戻った。その一連の動きが、文字ではなく反応として刻まれている。
「名ではなく、反応の記録です」
セレンは言った。
「黒鉄と灰衣が、外縁炉印で何を倒したかではなく、何を壊さずに戻したか。深層へ進まなかったこと。白銀を消さなかったこと。黒鉄が拒みすぎなかったこと。それらを残します」
「報酬ではないんだな」
「報酬ではありません」
「称号でもない」
「違います」
「クエスト進行でもない」
俺が念を押すと、セレンはわずかに目を細めた。
「分かっているなら、なぜ聞くのです」
「確認だ」
「よろしい」
視界の端に、同時に表示が浮かぶ。
《深淵潜行》
《受注条件:レベル90以上》
《現在条件:未達》
《受注不可》
続いて、別枠。
《関連補助記録》
《根圏外縁・予備確認》
《里内確認:完了》
《外の記録と根の記録の交差痕:確認》
《戻るための記録:作成中》
《注意:これは《深淵潜行》の進行ではありません》
しつこい。
だが、ここまでくるとむしろ安心する。システムが何度も線を引いてくれるなら、俺もそこへ何度でも戻れる。深淵潜行は未受注。今ここで受け取るものは、深層へ行くための鍵ではない。
戻るための記録。
それだけだ。
ーーーーー
セレンは根板をまずルナへ向けた。
「灰衣。あなたの白銀を、ほんの少しだけ通しなさい」
ルナは頷いた。
剣は抜かない。代わりに、胸元へ手を添える。灰衣の内側で、白銀が細く灯った。髪が淡く光る。だが、広がらない。外へ強く出るのではなく、そこにあることを示すだけの光だった。
根板の白い点が、それに応じて揺れる。
セレンが言う。
「白銀を消さず、晒さず、休めることを覚えた記録です。あなたが持ちなさい」
根板から、小さな白い線が分かれ、ルナの個人記録板へ移る。彼女は両手でそれを受け止めた。
視界に表示が浮かぶ。
《個人記録:灰衣》
《白銀休止の反応を記録》
《白銀は、名ではなく灯りとして保持》
ルナはしばらくその表示を見つめていた。
「名ではなく、灯り」
彼女が小さく呟く。
「はい」
セレンは頷いた。
「あなたが白銀を持つことと、白銀に名を奪われることは違います。その違いを、忘れないように」
「はい」
ルナの声は静かだった。
けれど、前よりも芯がある。彼女は白銀を怖がっている。そこは変わっていない。だが、怖いから消すのではなく、怖いまま持つ。休めて、また通す。昨日の確認が、ちゃんと記録になったのだろう。
次に、セレンは俺を見る。
「黒鉄」
「分かっている」
俺は左腕を軽く上げた。
「強く拒むな、だろ」
「はい。拒絶を細く」
難しい注文だ。
だが、昨日一度はできた。里の擬根を受け、流し、最後に細く拒んだ。外縁で反射的に弾いていた時とは違う。あれをもう一度、ここでやる。
俺は盾装へ変形しない。機装を出しすぎる必要はない。左腕の内側に意識を向け、青白い光をほんの少しだけ通す。拒絶ではなく、距離を作る線として。
根板の黒い点が揺れた。
青白い光に触れかけ、しかし弾かれない。距離を測るように、少し離れて止まる。
セレンの目がわずかに和らいだ。
「それでよいのです」
根板から黒い線が一つ分かれ、俺の記録板へ移った。
《個人記録:黒鉄》
《細い拒絶の反応を記録》
《拒絶は、破壊ではなく距離調整として保持》
距離調整。
昨日も書いた言葉だ。
やはり人間関係みたいで嫌になる。だが、嫌になるくらいには正しい。俺は近づかれると弾く。触れられる前に距離を作る。そうして守ってきたものもある。だが、何でも弾けば、守るべきものまで遠ざける。
受ける。
流す。
最後に、細く拒む。
黒鉄の運用としても、俺自身の運用としても、しばらくこれを覚える必要があるらしい。
「黒鉄」
セレンが静かに言った。
「軍師ジンの記録を消す必要はありません」
「分かっている」
「ですが、軍師ジンに指揮を渡してはなりません」
「それも分かっている」
「本当に?」
「……たぶんな」
セレンの視線が少しだけ鋭くなる。
ルナが隣で小さく言った。
「私も見ています」
「二人で疑うな」
「必要なので」
味方が増えたのに、逃げ場が減っている。おかしい。いや、逃げ場がない方が良い場合もあるのだろう。少なくとも、軍師ジンに戻りかけた時に止める人間がいるのは、悪くない。
ーーーーー
最後に、セレンは根板の中央へ手を置いた。
白い点と黒い点が、互いに近づく。完全に重なるわけではない。少し距離を置いたまま、灰緑の線を挟んで並ぶ。その線は外へ伸び、途中で黒緑の淀みへ触れ、しかし深い方へ落ちずに戻ってくる。
戻る線。
その形が、根板に刻まれた。
《補助記録:戻るための記録》
《黒鉄と灰衣が外縁より戻った反応を保存》
《深層進入不可》
《深淵潜行:未受注》
《用途:根圏外縁反応照合時の帰還基準》
帰還基準。
つまり、今後また外縁に近づいた時、この記録が「戻る形」の基準になる。勝ったかどうかではなく、戻れたかどうか。淀みに飲まれず、名に引かれず、深層音を追わず帰ってきた反応。その形が残る。
地味だ。
あまりにも地味だ。
だが、重要だ。
たぶん、俺はこういうものをずっと軽く見ていた。勝利条件。討伐ログ。攻略進捗。見える成果。そこばかり見ていた。けれど、戻るための形がなければ、どれだけ進んでも帰れない。
ルナが根板を見つめながら言った。
「これがあれば、次も戻れるんですか」
「保証ではありません」
セレンは答えた。
「ですが、戻った記録は、次に戻るための手がかりになります」
「手がかり」
「はい。帰り道は、歩いた者の記録によって太くなります」
帰り道は、記録によって太くなる。
いい言葉だ。
俺は少しだけ、リーフェ村の道を思い出した。素材札を持って第三炉へ運ぶ道。最初は誰も信用していなかった道が、記録によって少しずつ太くなっていく。誰が採り、誰が運び、どこで確認したか。その記録が、村と第三炉を繋いだ。
ここでも同じだ。
外縁から戻る道も、記録で太くする。
「黒鉄」
セレンが言った。
「あなたは、外の記録に触れた時、すぐに外へ戻ろうとしました」
「少しだけだ」
「少しだけでも、始まりには十分です」
「耳が痛いな」
「今は戻らないことです。白騎士団の断片は、解釈保留。そう記録したはずです」
「ああ」
「なら、その通りにしなさい。保留と書いたものを、自分の中で進行中に変えてはなりません」
また刺してくる。
だが、正しい。
俺は白騎士団の断片を見て、ほとんど反射で動きかけた。ジン、不要、新体制、外縁。あんな文字を見せられれば、気になる。気にならない方がおかしい。だが、今それを追えば、軍師ジンに指揮を渡すことになる。
保留。
今は保留だ。
ルナが静かに言う。
「私も覚えています」
「助かる」
「アイズドさんが勝手に進行中にしようとしたら、言います」
「行動監査担当め」
「はい」
認めた。
まあ、いい。
必要な役職だ。
ーーーーー
セレンからの最後の確認が終わると、ナユタが根門への道を整えに行った。
俺たちは広間の端で、持ち帰るものを確認する。
第三炉へ返す記録写し。セレンから付された限定補足。ルナの白銀休止の個人記録。俺の細い拒絶の個人記録。そして、里に保管される《戻るための記録》の写し。全部を持って帰るわけではない。根板の本体は里に残る。第三炉へは、反応の要約だけを持ち帰る。
また公開区分だ。
だが、今は分かる。
全部を持ち出せばいいわけではない。根の奥に置くべきものもある。第三炉に戻すべきものもある。自分だけが持つべきものもある。
ルナは自分の記録板を胸元へ収め、少しだけ息を吐いた。
「第三炉に戻ったら、きなこもちさんが聞きたがりますね」
「絶対に聞く」
「どこまで話しますか」
「白銀を休める感覚は話していい。黒鉄の細い拒絶も、装備調整に関わる部分は共有する。七つの反応、白騎士団の断片、名に関する記録は保留だ」
「白騎士団も?」
「今はな」
言ってから、少しだけ胸が重くなる。
だが、重くても言う。
白騎士団の話を第三炉で広げれば、きなこもちもグラン親方も心配するだろう。外の勢力の話になれば、炉会議や商人にも関わるかもしれない。今はまだ断片だ。解釈保留。扱うには早い。
「アイズドさん」
ルナがこちらを見る。
「今、少し苦そうでした」
「顔面管理が厳しいな」
「必要です」
「ああ。苦いのは苦い」
「でも、保留です」
「保留だ」
言葉にして、少しだけ落ち着く。
保留は逃げではない。
今はそういうことにする。
ナユタが戻ってきた。
「根門の準備が整いました。第三炉近くの旧街道へ通します。ただし、外縁連絡路には接続しません」
「安全な道か?」
「安全、とは申し上げません。ですが、今回の帰還用に整えた道です。外縁の濁りは通しません」
「助かる」
ナユタは少しだけ微笑む。
「黒鉄殿、灰衣殿。次に里へ来る時も、戻るための記録を忘れぬよう」
「ああ」
「忘れません」
ルナも頷いた。
セレンは広間の中央で、最後に俺たちへ言った。
「深淵潜行は、まだ遠い。ですが、遠いから安全というわけではありません。外縁は漏れ、外の記録は揺れます。焦らず、しかし忘れず、戻った記録を重ねなさい」
「注文が多いな」
「必要なものだけです」
「全部必要と言われるのが一番困る」
セレンは薄く笑ったように見えた。
やはり、この人が笑うと少し不穏だ。
「黒鉄。灰衣。次に外縁へ触れる時、あなたたちが何を倒したかではなく、何を戻せたかを見ます」
「分かった」
「はい」
俺たちはフェネキア族の里を後にした。
ーーーーー
根門を抜けると、空気が変わった。
里の澄んだ緑から、旧街道の乾いた土と古い石の匂いへ戻る。遠くにはグレイム領の工房煙が見えた。第三炉のある方角だ。里にいた時間はそれほど長くないはずなのに、妙に久しぶりに感じる。
ルナはフードを深く被り直した。白銀の髪が隠れる。だが、以前のように急いで隠したわけではない。ただ、外へ戻るために選んだ形だった。
「白銀は?」
俺が聞くと、ルナは胸元へ手を添える。
「休んでいます」
「いい返事だ」
「はい」
俺も左腕を動かす。
黒鉄外装の中で、機装は静かだ。拒絶は休んでいる。必要な時に、細く使う。そう思うだけで、左腕の重さが少しだけ違う。
第三炉へ戻る道中、根混じりの小型魔物が一度だけ出た。
俺は前へ出すぎず、盾装で突進を横へ流した。ルナは白銀を使わない。鞘と足運びだけで相手の核をずらし、最後に短く白銀を通して戻す。倒したというより、根の乱れを解いたような戦闘だった。
戦闘後、ルナが自分の剣を見つめる。
「前より、白銀を出す時間が短くなりました」
「弱くなった感じは?」
「ありません。必要なところだけ通せた感じです」
「それはいい」
「アイズドさんも、前に出すぎませんでした」
「監査されているからな」
「見ていました」
「だろうな」
少し笑いながら、俺たちは歩いた。
第三炉に近づくにつれ、槌の音が聞こえてくる。炉の熱。金属の匂い。きなこもちの声。グラン親方の落ち着いた指示。フェネキア族の里とはまったく違う場所だが、今はそれが少し懐かしい。
戻った。
その感覚が、ちゃんとあった。
ーーーーー
第三炉へ着くと、きなこもちは入口で待っていた。
待っていたというより、待ち構えていた。工具鞄を抱え、記録板を片手に、今にも質問を投げつける体勢である。危険物職人、完全待機状態。見た瞬間に少し疲れる。
「おかえり!」
「ただいま」
「変なもの拾ってない?」
「記録は拾った」
「それが一番変なんだよなあ」
きなこもちは言いながらも、俺たちの外装と灰衣をざっと確認する。まず損傷を見る。次に染みを見る。最後に顔を見る。順番が職人として正しいのか、人としてどうなのかは微妙だ。
「黒鉄外装、損傷少ない。灰衣も白銀痕が落ち着いてる。二人とも、なんか少し変わった?」
「確認してきたからな」
「何を?」
「白銀を休めることと、黒鉄が拒みすぎないこと」
きなこもちの目が輝いた。
「詳しく」
「話せる範囲でな」
「出た、公開区分」
「大事だろ」
「大事だけど、むずむずする」
グラン親方も記録室から出てきた。
「お帰りなさい、黒鉄殿、ルナ殿。セレン殿への報告は無事に?」
「ああ。外縁炉印の記録は受領された。深淵潜行は、相変わらず未受注だ」
「それを聞いて安心しました」
グラン親方は本気でそう言った。
普通なら、クエストが進まないことを安心するのは変な話だ。だが、今の俺たちにはよく分かる。進んでしまう方が危ないこともある。灰色のままだから守られている線もある。
俺は第三炉の記録室へ入り、持ち帰った要約を広げた。
「里からの記録は三つだ。ひとつ、白銀は消すのではなく休める。ふたつ、黒鉄の拒絶は破壊ではなく距離調整として扱う。みっつ、戻るための記録を里に残した。第三炉へは、その要約だけ持ち帰っている」
「戻るための記録」
グラン親方がその言葉を静かに繰り返した。
「よい名ですな」
「名じゃない。たぶん」
「そうですな。記録の呼び方、でしょう」
きなこもちが記録板を覗き込む。
「白銀を休めるって、どういう感じ?」
ルナが一歩前へ出た。
「白銀を消すのではなく、内側に留めます。外へ出さないだけで、そこにあることは認める感じです」
「なるほど。灰衣の調整、変えられるかも。抑え込む布じゃなくて、休める時に引っかからない布にする。黒鉄さんの方は?」
「俺は受けて、流して、最後に細く拒む」
「また難しいこと言ってる」
「言ったのはセレンだ」
「じゃあ難しいのも納得」
きなこもちはすぐに黒鉄外装の胸部を見始めた。
「でも、これなら灰鉄留め具の配置も変えられる。拒絶反応を強く弾く方向じゃなくて、横に逃がして最後だけ細く切る感じに」
「切るな。距離を作る」
「細かい」
「そこが大事らしい」
「分かった。距離を作る感じ」
職人の顔になっている。
危ないが、頼もしい。
グラン親方は、里からの要約を慎重に読みながら言った。
「第三炉の記録区分も更新しましょう。外縁炉印の一時分離記録はそのまま。里内確認については、装備調整に必要な範囲のみ共有。七つの反応、外の記録に関する項目は保留でよろしいですか」
「ああ。特に白騎士団関連は保留だ」
言った瞬間、きなこもちの手が止まった。
「白騎士団?」
しまった。
いや、完全に隠すつもりではなかった。ただ、扱い方を間違えたくなかった。俺は一度息を吐き、言葉を選ぶ。
「外の記録に、俺の過去と関わる断片があった。確定情報じゃない。予言でもない。だから、今は解釈保留にしている」
「黒鉄さんの過去って、軍師ジンのこと?」
「そうだ」
きなこもちは、思ったより静かだった。
「追わないの?」
「今は追わない」
「本当に?」
また疑われた。
俺はルナを見る。ルナは静かに頷く。
「見ています」
「監査が厳しいな」
「必要です」
きなこもちは少しだけ安心したように笑った。
「じゃあ、保留だね」
「ああ。保留だ」
言葉にして、また線を引く。
ーーーーー
その日の夜、第三炉の記録室で新しい保管区分が作られた。
《根圏外縁・予備確認》
《外縁炉印:一時分離記録》
《里内確認:白銀休止および黒鉄受け流し》
《戻るための記録:要約》
《外の記録との交差痕:解釈保留》
《白騎士団関連断片:限定保留》
《深淵潜行:未受注》
最後の一行を、グラン親方があえて記録の表紙にも入れた。
「大きく書きましたな」
俺が言うと、親方は真面目に頷いた。
「大きく書くべきでしょう。これは、進めていないことを守る記録です」
進めていないことを守る記録。
本当に、記録というものは奥が深い。進めたことを残すだけではない。進めなかったこと、戻ったこと、保留したこと、それらも守るために残す。
きなこもちが腕を組んで言った。
「じゃあ、第三炉としては次に何をする?」
「装備調整だな」
俺は言った。
「白銀を休めるための灰衣調整。黒鉄の細い拒絶に合わせた灰鉄留め具の再配置。それと、外縁炉印へ再確認に行く前に、通常戦闘で二人の連携を安定させる」
「レベル上げ?」
「そうなる。ただし、深淵潜行のために急ぐわけじゃない」
グラン親方が頷く。
「レベル九十は遠い。ですが、そこへ急ぐことと、今できる確認を重ねることは別ですな」
「ああ」
レベル九十。
まだ遠い。
だが、遠い条件は消えたわけではない。いつかはそこへ向かうのだろう。だが、今すぐではない。今は、白銀と黒鉄の扱い方を覚え、戻る記録を重ね、外の記録に飲まれない形を作る。
その時、俺の視界の端に小さな通知が出た。
外部掲示板の自動拾い上げ通知。
俺は普段、あまり見ない設定にしている。だが、第三炉で関連語を監視するため、いくつかの単語だけ通知が来るようにしていた。黒鉄。灰衣。グレイム領。第三炉。リーフェ村。
通知には、短い見出しが表示されていた。
《グレイム領の黒鉄と灰衣、低評価素材ルートを変えた謎の二人》
続いて、もう一つ。
《白騎士団新体制、次期遠征で外縁系未確認フィールドへ》
部屋の空気が、少しだけ止まった。
俺は通知を閉じなかった。
だが、開きもしなかった。
ルナが隣に来る。
「アイズドさん」
「分かっている」
「今は?」
「開かない」
言葉にすると、少しだけ楽になる。
きなこもちが心配そうにこちらを見る。
「白騎士団って……」
「解釈保留だ」
俺は短く言った。
「外縁系未確認フィールドと書いてあるだけだ。俺たちの外縁炉印とは限らない。白騎士団が何を知っているかも分からない。今この場で軍師ジンに戻る理由にはならない」
自分に言い聞かせるような言葉だった。
だが、言えた。
ルナが頷く。
「はい」
グラン親方が静かに言った。
「では、その通知も記録しますか」
俺は少し考えた。
記録するか。
記録すれば固定される気がする。だが、記録しなければ俺の中で勝手に膨らむ。なら、短く、事実だけ。
「する。見出しのみ。解釈なし。対応保留」
俺は記録板へ入力した。
《外部掲示板通知》
《黒鉄と灰衣に関する噂化を確認》
《白騎士団新体制、外縁系未確認フィールドへの遠征見出しを確認》
《関連性未確認》
《対応保留》
《軍師ジンとしての介入なし》
最後の一文を入れたところで、ルナが少しだけ笑った。
「ちゃんと書きましたね」
「ああ」
「えらいです」
「子ども扱いするな」
「普通に褒めました」
「それが一番慣れない」
きなこもちが横から言う。
「黒鉄さん、褒められるの下手だね」
「得意なやつの方が怖い」
「そんなことないよ」
「きなこもち、お前は褒められたら調子に乗るだろ」
「乗る」
「即答するな」
少しだけ笑いが戻った。
それでいい。
通知は不穏だ。白騎士団の名前も、外縁系未確認フィールドという言葉も、俺の中の古い傷に触れてくる。だが、今は開かない。今は追わない。対応保留。軍師ジンとしての介入なし。
それもまた、戻るための記録だ。
ーーーーー
夜、第三炉の屋上に立つと、グレイム領の工房火が赤く揺れていた。
フェネキア族の里の緑の光とは違う。ここは熱い。音がある。人の手が入っている。槌で叩き、火で曲げ、記録板に書き、素材札を結ぶ場所だ。戻ってきたのだと、改めて感じる。
ルナが隣に立つ。
「白騎士団、気になりますか」
「気になる」
「追いたいですか」
「追いたい気持ちはある」
「でも」
「今は追わない」
言えた。
きちんと言えた。
「追わない理由は、怖いからではない。情報が足りないからだ。外縁との関連も不明。白騎士団が何をしようとしているかも不明。俺が今動けば、ただ過去に引っ張られているだけになる」
「はい」
「だから保留する」
「はい」
ルナは頷いた。
それだけで十分だった。
俺は視界にクエスト欄を開く。
《深淵潜行》
《受注条件:レベル90以上》
《現在条件:未達》
《受注不可》
灰色の本命は、まだ遠い。
その下に、補助記録。
《根圏外縁・予備確認》
《フェネキア族里内確認:完了》
《戻るための記録:作成済》
《外部記録接触痕:解釈保留》
《次段階:通常領域での連携安定化、装備再調整》
《注意:深層進入不可》
次段階。
ようやく、外縁の中ではなく外へ戻った段階が見えた。
深層へ急ぐのではない。白騎士団へ走るのでもない。まずは通常領域で、白銀を休めることと、黒鉄が拒みすぎないことを体に馴染ませる。装備を調整し、レベルも上げる。戻る記録を増やす。
地味だ。
だが、確実だ。
「ルナ」
「はい」
「次は、普通の狩りに行くぞ」
ルナは少し目を丸くした。
「普通の狩り、ですか」
「ああ。外縁でも深層でもなく、普通のフィールドだ。白銀を細く使う練習、黒鉄の受け流し、二人の距離。ついでにレベルも上げる」
「普通なのに、やることが多いですね」
「普通をちゃんとやるのが一番難しい」
「それは、分かる気がします」
ルナは小さく笑った。
「では、届くところからですね」
「便利に使いすぎだ」
「でも、合っています」
「合ってるな」
俺も少し笑った。
外では、黒鉄と灰衣の噂が動き始めている。白騎士団も、どこかで外縁系未確認フィールドへ向かおうとしている。深淵潜行はまだ灰色のままで、七つの竜種の名も伏せられたままだ。
何も解決していない。
だが、戻ってきた。
白銀は消えずに休み、黒鉄は拒みすぎずに流れ、俺たちはフェネキア族の里から第三炉へ戻った。
それは、きちんと記録する価値のあることだ。
最高のクソゲーは、相変わらず次の面倒を用意している。
なら、こちらも次の準備をするだけだ。
勝つためではなく、戻るために。
そして、今度こそ、過去に指揮を渡さないために。
俺は黒鉄外装の内側で、小さな素材札が揺れる感覚を確かめた。リーフェ村の最初の控え札。戻る場所を思い出させる、装備欄に表示されない盾。
その重さを確かめながら、俺は夜の第三炉を見下ろした。
明日からは、また普通のフィールドへ出る。
普通に戦い、普通に戻り、普通に記録する。
たぶん、それが今の俺たちに必要な、一番難しい攻略だった。
第三炉の屋上で、俺はふと左腕の機装表示を開いた。
理由はない。
いや、正確にはある。外縁炉印で反応した青白い拒絶。セレンが言った、黒き拒絶はまだ名を持たぬ、という言葉。そこに何か引っかかりが残っていた。
《古代変形機装》
古代文明が遺した機械竜中枢デバイスを基礎とする特殊戦闘体系。
機装核を介し、戦況に応じて武装形態および戦闘特性を変化させる。
変形可能形態は、適合条件の解放により増加。
各形態は既存上級クラスの戦闘特性を部分再現する。
何度も見た説明文だ。
五十万円を突っ込んだ直後、産廃かもしれないと思いながら読み返した文章。
その時の俺は、待機時間や硬直や出力制限ばかりを見ていた。使えるか。強いか。運用できるか。そういう数字と仕様だけを拾っていた。
だが、今見ると、最初の一文が妙に重い。
古代文明が遺した機械竜中枢デバイス。
機械竜。
それは、比喩なのか。
それとも、この世界に実在した何かの名前なのか。
七つの竜種。
白き灯。
黒き拒絶。
名を呼ぶな。
名を記すな。
それらの言葉が、説明文の奥に沈んでいた一語と、細く繋がった気がした。
もちろん、今の段階で結論を出すのは危険だ。
機械竜が七つの竜種の一つなのか。
七つの竜種に対抗するために作られたものなのか。
あるいは、竜種を模倣しようとした古代文明の失敗作なのか。
分からない。
分からないのに、名前だけはそこにある。
俺は説明欄を閉じた。
問うな。
セレンの声が、頭の奥で響いた気がした。
なら、今は問わない。
ただ、記録だけしておく。
《古代変形機装:説明欄に機械竜中枢デバイスの記載あり》
《外縁炉印での黒き拒絶反応と関係する可能性》
《七つの竜種との関連は不明》
《解釈保留》
書いて、そこで止める。
便利な言葉だ。解釈保留。
だが今は、それが一番安全な盾だった。




