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失業した軍師、産廃ジョブで世界の余白を攻略する 〜古代変形機装は、使い手の頭がおかしいほど強くなる〜  作者: 三元豚


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外の記録と根の記録


 記録庫へもう一度入ると聞いた時、俺は少しだけ嫌な顔をしたらしい。


 自覚はなかった。だが、ルナがこちらを見て「今、嫌そうでした」と言ったので、たぶんそうなのだろう。最近、俺の顔面は本人よりもルナに管理されている気がする。顔面管理者、灰衣。嫌な役職だ。いや、助かっているのも事実なので、余計に文句が言いづらい。


 前日の記録庫では、七つの竜種について、名ではなく反応だけを見た。白き灯に近づくもの。黒き拒絶を避けるもの。記録を食むもの。疑似光を濁らせるもの。どれも答えというより、答えへ近づかないための警告だった。


 そして今日は、外の記録と根の記録が交わる痕跡を見るという。


 言葉だけなら、さらに面倒だ。


 外の記録。根の記録。交わる痕跡。


 もう少し日常的な表現にしてほしい。たとえば「ログ混線」とか「記録干渉」とか。いや、それはそれで嫌だな。専門用語にしたところで、胃の重さは変わらない。


 記録庫へ向かう前、セレンは俺たちにもう一度だけ確認した。


「今日見るものは、未来ではありません」


「未来ではない?」


「はい。外の記録に触れた痕跡です。これから必ず起きることではなく、すでにある記録へ根が触れた跡を見るだけです」


「つまり、予言ではない」


「そうです」


 それは大事な線引きだった。


 未来が見えるなどと言われたら、面倒どころではない。見えた未来を避けようとして余計に踏むとか、見たせいで固定されるとか、そういう話になりかねない。ゲームで予知能力が出てくると、だいたい運営と脚本家の性格が悪い。いや、この世界はもう十分に性格が悪いのだが。


 ルナが静かに聞く。


「外の記録というのは、私たちの記録ですか」


「あなたたち自身の記録も含みます。ですが、それだけではありません。人々が呼び、書き、残し、繰り返した記録です。名声、噂、公開された戦闘記録、誰かの記憶に強く残った役割。そうしたものは、外側に層を作ります」


「層、ですか」


「はい。外の者たちは、それを情報と呼ぶのでしょう」


 情報。


 その単語だけ、急に聞き慣れていた。


 白騎士団時代、情報は金だった。攻略ログ、未公開ルート、職業解放条件、レイドボスの行動表、素材相場、配信で伸びる場面。誰より早く知ることが、そのまま利益になった。だが、セレンが言う情報は、もう少し生々しい。人間が繰り返し呼び、見て、記憶したもの。それが記録の層になる。


 軍師ジン。


 白騎士団。


 レオン。


 ミレイ。


 そうした名前が、俺の内側だけではなく外側にも残っているのだとしたら、淀みがそこに触れた理由も少し分かる。


 分かりたくはないが。


 俺は視界の端に表示を出した。


 《深淵潜行》


 《受注条件:レベル90以上》


 《現在条件:未達》


 《受注不可》


 灰色のまま。


 続いて、別枠が開く。


 《関連補助記録》


 《里内確認:外の記録と根の記録の交差痕》


 《目的:記録干渉の確認》


 《制限:深層進入不可》


 《注意:これは《深淵潜行》の進行ではありません》


 しつこいが、ありがたい。


 記録庫へ入るたびに新しい情報が増える。情報が増えると、人は進んでいる気になる。だが、本命は進んでいない。深淵潜行は未受注。今やっているのは、深層へ入らないために、外縁に漏れた異常の形を確かめる作業だ。


 セレンは俺の表示を見るように、わずかに目を細めた。


「その線を忘れなければ、今日は戻れます」


「忘れたら?」


「記録に引かれます」


「最悪の答えだな」


「はい」


 また普通に同意された。


ーーーーー


 記録庫は、昨日より静かに見えた。


 壁一面の根の光は弱く、中央の黒い床も波紋を立てていない。だが、静かだから安全というわけではないことは、もう学んでいる。むしろ静かな場所ほど、何かがこちらを待っている。世界はそういう陰湿なところがある。


 ナユタは入口近くで足を止めた。


「今日は、僕はここで記録を取ります。奥へ入るのはセレン様と、黒鉄殿、灰衣殿だけです」


「危険なのか」


「危険を限定するためです。人数が多いほど、外の記録も増えます」


 なるほど。


 人が増えれば、その人に紐づく記録も増える。外の記録を見る場所では、同行者の過去や噂や名も余計な入口になるのだろう。きなこもちを連れてこなかった判断が、また正しくなる。彼女の場合、職人としての記録より、危険物へ寄っていく好奇心が入口になりそうだ。入口どころか勝手に扉を作りそうで怖い。


 セレンが中央へ進む。


 俺とルナも続いた。


「今日見るのは、三層です」


 セレンは言った。


「第一に、根の記録。外縁炉印や古い補助路に残る、里側の記録です。第二に、外の記録。あなたたちが外で呼ばれ、残されてきた記録です。第三に、その二つが触れた痕跡。淀みは、この第三層を使います」


「淀みが直接、外の記録を読んでいるわけではない?」


「完全には読めません。ですが、強く残った形には触れます」


「強く残った形」


「軍師ジン。黒鉄。灰衣。白銀。そうした呼び名は、ただの文字ではありません。何度も呼ばれ、何度も記録され、あなた自身も反応してきた形です」


 俺は少しだけ黙った。


 呼び名はただの文字ではない。


 アイズド、軍師ジン、黒鉄。どれも俺を指している。だが、同じではない。それぞれの名前に、違う役割が張りついている。ジンと呼ばれれば戦場を見る。黒鉄と呼ばれれば盾を構える。アイズドと呼ばれれば、今の自分へ戻る。


 名前は、形を作る。


 だからこそ、名を急ぐなと言われるのだろう。


 セレンが手を上げると、床に三つの輪が浮かんだ。


 一つ目は灰緑の輪。外縁炉印の色に近い。二つ目は淡い白の輪。外の記録、と言われなければただの光に見えただろう。三つ目は黒緑の輪。薄く濁り、輪郭が少しだけ崩れている。


 灰緑の輪に、外縁炉印の映像が浮かぶ。


 昨日見た記録と同じだ。円形炉印、中央核、外周炉材線。そこへ黒い筋が重なる。外縁で俺たちが一時分離した淀みだ。


 次に、白い輪が揺れた。


 そこに浮かんだのは、文字と音と映像が混ざったものだった。


 人の声。


 配信画面のコメント。


 戦闘ログ。


 断片的な言葉。


 ――白騎士団の軍師。


 ――ジンさんの指示、地味だけど安定する。


 ――レオンのラスト一撃、神。


 ――裏で支えてる人。


 ――ジンさんもいた?


 その最後の一文が、妙にくっきり見えた。


 俺は息を止めかける。


 ルナが隣で、すぐに名前を呼んだ。


「アイズドさん」


 戻る。


 呼ばれた名前に、少しだけ助けられる。


「見えていますか」


「ああ」


「全部、見る必要はありません」


「分かっている」


 分かっているが、目が勝手に拾う。


 白騎士団の配信ログ。コメント。切り抜きの断片。誰かの感想。誰かの無関心。俺が見えなかった仕事の、見えなかったまま残った外側の記録。


 セレンの声が聞こえる。


「これは、あなたの過去そのものではありません。外に残った形です。そこへあなたの内側の反応が重なることで、淀みは軍師ジンの残響を作りました」


「俺の記憶だけじゃないのか」


「はい。あなたの記憶と、外側に残った記録。その交差が使われました」


 黒緑の輪が揺れた。


 白い記録の断片へ、黒い筋が伸びる。コメントの文字が歪み、戦闘ログの形を借り、外縁炉印の淀みと繋がっていく。すると、前に見た青いレイド管理UIが生まれた。


 《軍師ジン》


 《作戦管理者》


 《指示を》


 見るだけで、喉が重くなる。


 だが、今度は少し違った。


 これは俺そのものではない。


 俺の記憶そのものでもない。


 外に残った記録と、俺が反応してしまう形を、淀みが重ねて作ったものだ。


 つまり、偽物だ。


 ただし、触れると痛い偽物。


「悪趣味だな」


 俺は言った。


「はい」


 セレンは、やはり同意した。


 ルナが少しだけ眉を寄せる。


「外の記録が使われるなら、他の人の記録も使われるんですか」


「使われます」


「白騎士団の人たちも?」


「可能性はあります。ただし、今すぐ彼らが飲まれるという意味ではありません。記録に触れた痕跡がある、という段階です」


 線引き。


 ここでもまた必要になる。


 未来ではない。確定ではない。だが、可能性はある。外の記録に触れたなら、白騎士団側にも何かの影響が出るかもしれない。


 俺は、レオンの名前を見た。


 白い輪の中に、彼の断片が浮かぶ。


 ――レオン最強。


 ――白騎士団の顔。


 ――ラストアタックの王子。


 ――ジンさんの指示なくてもいけるだろ。


 その最後の文字に、わずかに黒い筋が触れた。


 俺は思わず一歩出そうになった。


 ルナが手を伸ばし、俺の袖を掴む。


「アイズドさん」


 足が止まる。


「まだ、見るだけです」


「ああ」


 危ない。


 今、俺は助けに行くような気持ちになった。いや、助けるも何も、ここにレオンはいない。これは外に残った記録の断片だ。本人ではない。確定した危機でもない。だが、あの文字を見た瞬間、俺の中の軍師ジンが勝手に盤面を見ようとした。


 全部拾うな。


 全部抱えるな。


 まず受ける。


 流す。


 最後に、必要な分だけ拒む。


 昨日の確認を思い出す。


 俺は深く息を吐いた。


「セレン」


「はい」


「この痕跡は、どう扱う」


「今は記録します。干渉が外へ伸びているか、外から根へ引かれているか、どちらの向きかを見ます」


「向きがあるのか」


「あります。外の記録を淀みが食みに行くのか、外の記録が淀みに引き寄せられているのか。似ているようで違います」


 また面倒な分類が来た。


 だが、大事だ。


 前者なら、淀みが外へ出ようとしている。後者なら、外側の強い記録が淀みの餌になっている。対策が変わる。


ーーーーー


 セレンが黒緑の輪を少しだけ拡大した。


 そこには、糸のような線がいくつも浮かんでいた。外縁炉印から伸びる黒い線。白騎士団の記録断片へ触れた線。リーフェ村の素材札に似た記録へ触れようとして、弾かれた線。第三炉の報告書へ近づき、公開区分の壁のようなものに阻まれた線。


 俺は思わず見入った。


「記録の公開区分が、壁になっている?」


「完全な壁ではありません。ですが、形を定め、線を引いた記録は食まれにくい」


 セレンは淡々と言った。


「リーフェ村の素材札も同じです。誰が採り、誰が選び、どこへ運んだか。それが明確であれば、淀みは偽の形を被せにくい」


 俺は少しだけ驚いた。


 ここでリーフェ村の素材札が繋がるのか。


 安い石と布を守るために始めた記録が、淀みの干渉に対する小さな盾にもなっている。偽札を防ぐための仕組みが、記録を食むものに対しても意味を持つ。


 記録は盾。


 また、その言葉が戻ってくる。


 ルナが静かに言った。


「名前を残すことが守りになる場所もある。でも、名前を残さないことが守りになる場所もある」


「はい」


 セレンが頷く。


「重要なのは、何を残し、何を残さないかを選ぶことです。外では名を残すことで守る。根の奥では、名を避けることで守る。どちらも記録です」


「面倒だな」


「はい」


 もう何度目か分からない同意だった。


 だが、今回ばかりは少しだけ笑いそうになった。


 面倒だ。


 だが、確かに面白い。


 白い輪に、別の記録が浮かぶ。


 第三炉。グラン親方。きなこもち。黒鉄外装。灰衣旅装。そこには、俺たちが残した公開区分と保留理由が薄い膜のように重なっていた。淀みの黒い線はそこへ触れようとして、形を崩す。


 保留理由。


 公開区分。


 面倒な管理が、盾になっている。


 きなこもちに見せたい。絶対に「ほら、やっぱり記録大事じゃん!」と得意げになる。いや、彼女はもう分かっているかもしれない。第三炉に戻ったら報告しよう。ただし、名を避けて。


 セレンが俺を見る。


「黒鉄。あなたの過去の記録は、形が強すぎます」


「強すぎる?」


「はい。軍師ジンという形が、外にも内にも強く残っています。だから淀みが使いやすい」


「迷惑な話だな」


「ですが、弱めることはできます」


「消すのか」


「いいえ。消す必要はありません。別の記録を重ねるのです」


 別の記録。


 俺は眉を寄せる。


「アイズドとしての記録か」


「はい。黒鉄としての記録も、リーフェ村の素材札も、第三炉の報告書も、灰衣と並んで戻った記録も。軍師ジンだけがあなたではないと、外にも内にも記録していく」


 ルナがこちらを見た。


「それなら、もう始まっています」


「そうだな」


 俺は小さく頷いた。


 ジンを消すのではない。


 アイズドの記録を増やす。


 黒鉄の記録を、戻った記録を、任せた記録を、撤退した記録を増やす。そうすれば、淀みが軍師ジンだけを掴もうとしても、形が単純ではなくなる。


 記録で自分を守る。


 地味だ。


 あまりにも地味だ。


 だが、俺らしい。


「白銀も同じですか」


 ルナが聞いた。


 セレンは頷く。


「灰衣。あなたも、白銀を恐れる記録だけを残してはなりません。白銀を通した記録、休めた記録、戻るために使った記録。それらを重ねなさい」


「白銀を持っていても戻れた記録」


「はい」


 ルナは自分の胸元の記録板に触れた。


 昨日書いた個人記録。白銀は自分の名前ではない。でも、自分が持つ灯り。そこへ、また新しい記録を重ねていくのだろう。


ーーーーー


 白い輪の中に、今度は小さな揺れが生まれた。


 第三炉でも、リーフェ村でも、白騎士団でもない。もっと曖昧な記録。噂のようなものだ。


 ――黒鉄と灰衣。


 ――グレイム領で低評価素材を引き上げた二人。


 ――第三炉の黒い重装騎士。


 ――白い剣の旅人。


 ――名前は?


 ――所属は?


 ――情報屋が探している。


 俺は目を細めた。


「もう噂になっているのか」


「外では、名は速く流れます」


 セレンが言った。


「黒鉄と灰衣という呼び方も、外の記録になり始めています」


「それも淀みに使われる?」


「使われる可能性はあります。ですが、軍師ジンほど固まってはいません。まだあなたたちが形を選べます」


 形を選べる。


 それは、危険であり、猶予でもある。


 黒鉄と灰衣という噂が広がれば、外側のプレイヤーや商人や情報屋が寄ってくる。面倒だ。だが、その記録をどう残すかによって、淀みに使われにくくもできる。


「嘘を混ぜるべきか?」


 俺が聞くと、セレンは少しだけ目を細めた。


「嘘は、別の淀みを呼びます」


「だろうな」


「隠すことと偽ることは違います。名を避けることと、偽名を広げることも違います」


 また線引きだ。


 隠す。避ける。保留する。偽らない。


 面倒だが、必要な線だ。


 ルナが言った。


「黒鉄と灰衣という記録も、私たちが戻った記録にすればいいんですね」


「はい」


 セレンは頷いた。


「勝った記録だけではなく、戻った記録。倒した記録ではなく、分離した記録。強さではなく、扱い方の記録。それを残しなさい」


 強さではなく、扱い方。


 これは作品の芯に近い気がした。いや、作品とか言うな。メタい。危ない。俺の中の何かが今変な方向へ行きかけた。戻れ。


 俺は記録板に入力する。


 《外の記録と根の記録の交差痕》


 《軍師ジン:外部記録と本人反応が強く、淀みに利用されやすい》


 《対策:ジンを消すのではなく、アイズド、黒鉄としての戻る記録を重ねる》


 《白銀:恐怖の記録だけでなく、通し、休め、戻った記録を重ねる》


 《黒鉄と灰衣:噂化の兆し。偽らず、隠しすぎず、扱い方の記録を残す》


 《公開区分と保留理由は、記録干渉への防壁として機能する可能性》


 書きながら、自分で思う。


 完全に地味だ。


 だが、この地味さが今の武器なのだろう。


ーーーーー


 記録庫の光が、急に一度だけ揺れた。


 白い輪の端に、小さな黒い染みが浮かぶ。セレンの表情が、わずかに硬くなった。


「何だ」


 俺が聞くより早く、ナユタが入口で根板を押さえた。


「外側の記録に、新しい接触痕です」


 新しい。


 その言葉で、空気が変わる。


 セレンが手を伸ばし、染みを拡大する。白い輪の中に、短い文字が浮かんだ。だが、ほとんどが欠けている。


 《白騎……》


 《新体……》


 《外縁……》


 《ジン……》


 《不要……》


 最後の文字が、黒く滲んだ。


 俺の胸の奥が、少しだけ冷える。


 白騎士団。


 新体制。


 外縁。


 ジン。


 不要。


 断片だけで結論を出すな。


 さっき言われたばかりだ。


 俺は拳を握り、開く。


「これは現在の記録か?」


「断定できません」


 セレンは言った。


「外の記録の層に触れた痕です。最近のものか、古いものが再び浮いたものか、ここでは分かりません」


「だが、白騎士団に触れている」


「はい」


 ルナがこちらを見る。


「アイズドさん」


「分かっている。全部拾わない」


 言葉にする。


 自分を止めるために。


 白騎士団の新体制。ジン不要。そんな文字を見せられれば、俺の古傷は反応する。だが、これは確定情報ではない。予言でもない。本人たちが今どうなっているかも分からない。今ここで、俺が勝手に白騎士団を救う必要はない。


 だが、無視していいわけでもない。


 面倒だ。


 本当に、面倒の重ね方がうまい。


 セレンは黒い染みを閉じた。


「今日はここまでです」


「いいのか」


「これ以上見ると、あなたが軍師ジンとして見始めます」


「否定できないな」


「だから閉じます」


 白い輪が消える。


 黒緑の輪も、灰緑の輪も静かに沈んだ。


 記録庫に、また静けさが戻る。


 だが、俺の中には小さな黒い染みが残っていた。


 白騎士団。


 新体制。


 外縁。


 ジン。


 不要。


 断片。


 まだ断片だ。


 記録板に書くか迷った。書けば固定される気がする。だが、書かなければ抱え込むことになる。


 俺は短く書いた。


 《白騎士団関連と思われる外部記録接触痕を確認》


 《内容断片のみ。解釈保留》


 《即時対応なし》


 《軍師ジンとしての判断を保留》


 これでいい。


 今は、これで。


 ルナがその記録を見て、静かに頷いた。


「保留、ですね」


「ああ。未処理項目ではなく、解釈保留だ」


「違うんですか」


「違うことにしたい」


「では、違います」


「優しいな」


「たぶん」


 いつもの言い方に、少しだけ救われた。


ーーーーー


 記録庫を出ると、里の空気が冷たく感じた。


 実際には変わっていないのだろう。だが、外の記録を見た後では、根の中の静けさが少し遠く感じる。外では噂が流れ、情報が動き、誰かが誰かを呼び、名前が形を作っている。その一部に、淀みが触れようとしている。


 ナユタが根板を抱えたまま言った。


「今日の記録は、里でも限定して保管します。白騎士団という外の名は、ここでは広げません」


「助かる」


「名を広げることは、道を作ることでもありますから」


 その言い方は、かなり重かった。


 名を広げることは、道を作ること。


 白騎士団という名をここで不用意に広げれば、根の記録と外の記録の間にさらに道ができるかもしれない。だから、話す相手も記録する場所も選ばなければならない。


 セレンは俺たちを見た。


「黒鉄。灰衣。外の記録に触れたからといって、すぐに外へ戻る必要はありません」


「分かっている」


「本当に?」


「疑うな」


「疑います」


 即答された。


 この人は本当に容赦がない。


 ルナが横で小さく笑い、それから真面目に言った。


「私も見ています。アイズドさんが全部抱えようとしたら、止めます」


「頼む」


「はい」


 セレンはそのやり取りを見て、少しだけ頷いた。


「それでよいのです。黒鉄一人の記録にしないこと。灰衣一人の恐れにしないこと。二人で見たものは、二人で持ちなさい」


 二人で持つ。


 それもまた、記録の形なのだろう。


 俺は黒鉄外装の内側にあるリーフェ村の小さな素材札に触れた。第三炉の写しは封じられている。ルナは自分の白銀の個人記録を持っている。今日の記録は、里の限定記録にも残る。


 全部を一人で持たない。


 それは、白騎士団時代の俺が一番苦手だったことだ。


ーーーーー


 その日の夕方、里の小さな根室で、俺とルナは記録を整理した。


 セレンからは、明日の朝まで休めと言われている。休めと言われたので、俺は記録を整理している。休息とは何か。哲学である。だが、今日の記録だけは、放置すると中で発酵しそうだったので、ある程度まとめておいた方がいい。


 ルナが呆れたように言う。


「休めと言われましたよね」


「だから短くまとめている」


「それは休みですか」


「俺基準では」


「基準を見直した方がいいと思います」


「正論だな」


 俺は記録板を閉じた。


 本当に閉じた。


 ルナが少し驚いた顔をする。


「閉じました」


「珍獣を見るな」


「見ていません」


「見てるだろ」


「少しだけ」


 俺たちは少し笑った。


 笑った後、ルナがぽつりと言う。


「外の記録、怖かったです」


「白騎士団のやつか」


「それもあります。でも、噂になることも」


「ああ」


「黒鉄と灰衣が、外で勝手に形になるかもしれないんですよね」


「なるだろうな」


「怖いです」


「俺もだ」


 噂は便利で厄介だ。名前が広がれば、助かる場面もある。信用にもなる。だが、名前だけが一人歩きすれば、本人の知らない形を作る。黒鉄と灰衣が、俺たちとは違う何かとして外に残ってしまう可能性がある。


 その記録を、淀みが使うかもしれない。


「でも、形を選べるってセレンさんは言いました」


「言ったな」


「なら、戻った記録を増やしましょう」


 ルナは真面目な顔で言った。


「倒した記録だけではなく、戻った記録。白銀を消さなかった記録。黒鉄が全部弾かなかった記録。二人で持った記録」


 俺は少し黙った。


 それは、かなりいい答えだった。


「ルナ」


「はい」


「成長が早いな」


「珍獣を見る目をしています」


「してない」


「少ししています」


「少しだけだ」


 彼女は小さく笑った。


 そして、自分の記録板を開き、一行だけ書いた。


 何を書いたかは見えない。


 だが、彼女は読み上げた。


「灰衣は、白銀を持って戻る」


 短い。


 だが、強い。


 俺も自分の記録板を開き、一行だけ書いた。


 《黒鉄は、拒みすぎず戻る》


 地味だ。


 相変わらず地味だ。


 だが、今の俺にはちょうどいい。


 その下に、もう一行。


 《軍師ジンの記録は保留。アイズドの記録を重ねる》


 これでいい。


 消すのではない。


 重ねる。


ーーーーー


 夜、根室の外では、里の灯りが静かに揺れていた。


 外縁連絡路の濁った光とは違う。第三炉の火とも、リーフェ村の素朴な灯りとも違う。根に守られた、深い緑の光だ。眠るには少し幻想的すぎるが、外よりはずっと落ち着く。


 俺は眠る前に、もう一度だけ表示を確認した。


 《深淵潜行》


 《受注条件:レベル90以上》


 《現在条件:未達》


 《受注不可》


 灰色。


 何も変わらない。


 だが、その下にある補助記録は更新されていた。


 《関連補助記録》


 《外の記録と根の記録の交差痕を確認》


 《白騎士団関連の外部記録接触痕:解釈保留》


 《黒鉄と灰衣の噂化兆候:確認》


 《記録干渉への対策:戻った記録を重ねる》


 《注意:これは《深淵潜行》の進行ではありません》


 進行ではない。


 だが、必要な確認だった。


 深淵へ潜る前に、俺たちは外縁で漏れているものを見る必要がある。外縁で漏れているものは、根だけではなかった。過去も、噂も、名前も、外の記録も漏れていた。


 白騎士団とは、いずれ向き合うことになるのかもしれない。


 だが、今すぐではない。


 今は、記録を整理し、休み、持ちすぎないことを覚える段階だ。


 俺は記録板を閉じた。


 今度こそ、本当に。


 隣でルナが少しだけ笑った気配がした。


「閉じましたね」


「閉じた」


「えらいです」


「子ども扱いするな」


「普通に褒めました」


「それはそれで変な気分だ」


 ルナはまた少し笑った。


 外の記録と根の記録。


 それらが触れた場所に、淀みは入り込む。


 なら、俺たちができることは、触れられても簡単には形を奪われないようにすることだ。ジンだけではない記録を作る。白銀を恐れるだけではない記録を作る。黒鉄と灰衣が、勝つだけではなく戻る記録を作る。


 最高のクソゲーは、ついに過去ログまで敵に回してきた。


 ふざけるな、と言いたい。


 だが、ログならこちらにもある。


 戻った記録。


 任せた記録。


 消さずに休めた記録。


 拒みすぎずに流した記録。


 地味で、映えなくて、誰かに見せても一瞬で伝わらない記録ばかりだ。


 けれど、そういうものこそ、俺が一番よく扱える。


 だったら、やってやる。


 軍師ジンではなく、アイズドとして。


 黒鉄として。


 灰衣と並んで、戻るための記録を積み重ねる。


 その一行を胸の奥に置いて、俺はようやく目を閉じた。

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