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失業した軍師、産廃ジョブで世界の余白を攻略する 〜古代変形機装は、使い手の頭がおかしいほど強くなる〜  作者: 三元豚


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名を避ける記録庫


 記録庫という言葉から、俺は勝手に棚と本と埃を想像していた。


 フェネキア族の里にあるものだから、普通の図書館ではないだろうとは思っていたが、それでも記録というからには、木簡なり石板なり古文書なりが並んでいるものだと考えていた。人間、知らないものを想像する時は、だいたい自分が知っているものの延長で考える。経験とは便利であり、同時に想像力の足枷でもある。


 実際の記録庫は、棚ではなかった。


 里の奥、セレンの広間からさらに下へ降りた場所に、それはあった。根が絡み合って作られた広い空洞。その壁一面に、薄い光の筋が走っている。木の年輪にも、血管にも、回路にも見える。中央には水面のように滑らかな黒い床があり、踏み込むと足元に淡い緑の波紋が広がった。


 文字は浮かんでいない。


 紙もない。


 だが、情報の圧だけはある。


 俺の頭の奥に、白騎士団時代のレイド資料室が一瞬よぎった。大量のログ、敵行動表、職別の動線、配信向けクリップ候補、スポンサー提出用の成果資料。あれも情報の塊だったが、ここはそれとは違う。人間が整理した情報ではなく、根そのものに焼きついた記憶の層だ。


 ナユタが先導し、俺とルナはその後ろを歩いた。セレンは奥の根座に立っている。椅子ではなく、根が自然に寄り集まって彼女の背後で広がっていた。まるで、記録庫そのものが彼女の影であり、彼女自身もまた記録庫の一部であるように見える。


 怖い。


 相変わらず、この人は静かに怖い。


「ここが、里の記録庫です」


 セレンは言った。


「ただし、あなたたちに見せるのは記録の一部にすぎません。名ではなく、反応。形ではなく、痕跡。そう約束したはずです」


「ああ」


 俺は頷いた。


「七つの竜種についても、名は出さないんだな」


「はい。ここで名を呼べば、記録が応じます。応じた記録に、今のあなたたちは耐えられない」


 耐えられない。


 また、嫌なほど分かりやすい言い方だ。


 ルナが隣で小さく息を呑んだ。彼女の白銀は灰衣の内側に隠れている。フードも被ったままだが、ここでは外縁のように根が寄ってくることはない。見られてはいる。だが、引かれてはいない。里の管理下だからだろう。


「名を呼ばなければ、安全なんですか」


 ルナが聞く。


「安全ではありません。ただ、危険を限定できます」


 セレンはそう答えた。


 安全ではない。


 相変わらず、甘い言い方をしない。ありがたいが、胃には悪い。


 俺は左腕を軽く握った。黒鉄外装の下で《古代変形機装》は静かにしている。外縁炉印で反応した時のような青白い震えはない。だが、完全に無反応というわけでもなかった。ここに入ってから、左腕の奥で何かが眠りの向きを変えたような感覚がある。


 セレンの視線が、ほんの一瞬そこへ向いた。


「黒鉄。ここでは、その機装に問いかけてはなりません」


「問うな、か」


「はい。答えが返る可能性があります」


「返るのが駄目なのか」


「返った答えを、あなたが名として固定することが駄目です」


 まただ。


 名。


 固定。


 この里では、名前がただのラベルではないらしい。名前をつけることが、何かを確定させる行為になる。ゲーム的に言えば、未鑑定アイテムへ名前を与えた瞬間、状態がロックされるようなものか。いや、たぶんもっと重い。


 きなこもちがここにいなくてよかった。


 いたら絶対に「つまり命名禁止素材?」とか言っていた。言いそうだ。ものすごく言いそうだ。そして俺は胃を押さえることになっただろう。拠点担当として第三炉に残した判断は、やはり正しかった。


 俺は念のため、視界の端に表示を開いた。


 《深淵潜行》


 《受注条件:レベル90以上》


 《現在条件:未達》


 《受注不可》


 相変わらず灰色のままだ。


 外縁炉印を確認し、フェネキア族の里へ戻り、記録庫に案内されても、本命のクエストはまだ始まっていない。今ここで見るのは、深淵へ潜るための道ではない。深淵へ不用意に近づかないための反応記録だ。


 その線を、最初に引いておく。


 自分のために。


ーーーーー


 セレンが手を上げると、記録庫の壁面に光が走った。


 文字ではない。図でもない。もっと抽象的なものだった。七つの影。竜の形に似ているが、輪郭はすべてぼかされている。翼を持つもの、長い尾を持つもの、角のような線を持つもの、炉心のような光を抱くもの。それらは互いに重なり合わないよう、壁の上に遠く配置されていた。


 名はない。


 どの影にも、呼び名は刻まれていない。


 代わりに、それぞれの下に短い反応記録だけが浮かんだ。


 《白き灯に近づく》


 《黒き拒絶を避ける》


 《炉材を焦がさず乾かす》


 《根鳴りを遅らせる》


 《疑似光を濁らせる》


 《名に応じる》


 《記録を食む》


 嫌な文が混ざっている。


 特に最後二つがひどい。


 名に応じる。記録を食む。これを見て、名前を呼んでみようなどと思う人間がいたら、そいつは好奇心に足が生えた災害である。きなこもちを思い出したが、彼女はさすがにここまで来たら触らないと信じたい。たぶん。いや、たぶんをつける時点で信用が薄いな。


 俺は慎重に記録を見た。


「これは七つの竜種そのものじゃなく、反応だけを抜いているのか」


「はい」


 セレンは頷いた。


「竜種の名、姿、由来は伏せています。あなたたちに見せるのは、外縁で確認した現象と照合するための痕跡のみです」


「白き灯に近づく。黒き拒絶を避ける。これは、ルナの白銀と俺の機装に近い反応だな」


「近いですが、同じとは限りません」


「決めつけるな、か」


「そうです」


 セレンの声は静かだったが、そこには釘を刺す響きがあった。


「黒鉄。あなたは、断片から構造を組むことに長けています。それは強みです。ですが、ここではその強みが危うさにもなります」


「見えた線を、勝手に繋ぐなってことだな」


「はい」


 耳が痛い。


 俺は白騎士団時代、常に断片から全体を組んでいた。敵の動き、味方の癖、ログの変化、相場、視聴者の反応。少ない情報から次を読む。それが仕事だったし、それで勝たせてきた。


 だが、ここでは違う。


 線を引くことそのものが、危険を呼ぶ場合がある。名前を出せば応じる。記録を写しすぎれば食われる。反応を見た瞬間に結論を出せば、まだ固定すべきでないものを固定してしまう。


 攻略脳への嫌がらせがすごい。


 最高のクソゲーは、ついに推理そのものに罠を仕込んできた。


 ルナが壁の影を見つめていた。白銀の反応記録が浮かんでいる影の前で、彼女は少しだけ拳を握る。


「白き灯に近づく、というのは、私の白銀が危険なものを呼ぶという意味ですか」


「呼ぶこともあります」


 セレンは答えた。


「ですが、灯りは道を示します。呼び水であることと、導きであることは、矛盾しません」


「外縁で見た古碑と同じですね」


「はい。あなたはすでに、それを経験しました」


 ルナは静かに頷いた。


「消さず、晒さず」


「その線を忘れなければ、白銀はあなたを裏切りません」


 裏切らない。


 その言葉に、ルナの表情がわずかに揺れた。


 彼女は白銀を、自分の強さであり、怖さであり、隠すべきものとして扱ってきた。だが、裏切らないと言われた時、少しだけ救われたように見えた。


 俺は口を挟まなかった。


 これは、彼女と白銀の話だ。


 見て、覚えるだけでいい。


ーーーーー


 次にセレンが示したのは、外縁炉印の反応記録だった。


 壁の七つの影が薄れ、代わりに円形の炉印が床に浮かび上がる。俺たちが実際に見た外縁炉印と同じ形だ。ただし、ここに映る炉印は、淀みが付着する前のものらしい。灰緑の線が均一に光り、中央の炉材核も安定している。


 そこへ、黒い筋が重なる。


 俺たちが見た淀み付着とほぼ同じ位置だ。


「外縁炉印の淀みは、自然に付いたものではありません」


 セレンが言った。


「何かが通り、そこへ残した痕です。外縁炉印は、それを完全には拒めず、しかし深層への侵入も許さなかった」


「封鎖は維持されていた」


「はい」


「俺たちがやった一時分離は?」


「正しい処置でした。修復ではなく、分離。外周炉材線へ逃がし、中央核を壊さなかった」


 グラン親方の説明と一致する。


 少し安心するが、同時に気になる点もある。


「何かが通った、っていうのは」


「今は名を出しません」


「竜種かどうかも?」


「断定しません」


 セレンはきっぱり言った。


「ただし、七つの反応記録のうち、三つが外縁炉印の痕と一致しています」


 三つ。


 多いのか少ないのか分からない。いや、たぶん多い。外縁炉印一つに、七つの竜種のうち三種に関わる反応が残っている。どう考えてもろくでもない。


 床の炉印の周囲に、三つの反応だけが浮かび上がった。


 《疑似光を濁らせる》


 《記録を食む》


 《黒き拒絶を避ける》


 俺は眉を寄せた。


「疑似光の濁りは分かる。記録を食む、は白騎士団のUIや残響淀みに関係しているのか」


「近いでしょう。残響淀みは、あなたの過去の記録を使いました。外縁の淀みは、ただ声を真似るだけでなく、記録の形式を借りることがある」


「最悪だな」


「はい」


 セレンが普通に同意した。


 この人が「はい」と言うと、余計に怖い。


「黒き拒絶を避ける、というのは、俺の機装に触れた時の反応か」


「その可能性があります。ただし、あなたの機装がその反応記録そのものに属するとは言っていません」


「似ているだけかもしれない」


「はい。あるいは、古い拒絶の残響を持っているだけかもしれません」


 残響。


 また嫌な単語だ。


 俺は左腕を見た。黒鉄外装の下で眠る《古代変形機装》。古代文明が遺した機械竜中枢デバイス。まだ名を持たぬ黒き拒絶。情報が増えるほど、分からない部分が増える。普通ならストレスが溜まるところだが、今は少し違う。


 分からないまま置いておく。


 そう決めているから、まだ耐えられる。


 セレンがこちらを見た。


「黒鉄。今、問いたいですか」


「問いたい」


 俺は正直に答えた。


「だが、問わない」


「なぜ」


「答えを固定する段階じゃないからだ。今必要なのは、反応の照合であって、名付けではない」


 セレンは少しだけ目を細めた。


「よろしい」


 試された。


 たぶん、今のは試された。


 やめてほしい。試験は学生時代だけで十分だ。いや、プロ時代も毎日試験みたいなものだったな。人生、何歳になっても採点される。ひどい仕様である。


ーーーーー


 記録庫の奥で、ナユタが小さな根板を運んできた。


 それは本ではなく、薄い木の板に見える。だが表面には文字ではなく、細かな点と線が刻まれていた。セレンが触れると、そこから淡い光が浮かぶ。


「これは、里に残る古い外縁記録です」


 ナユタが言った。


「フェネキア族の里が、第三炉と補助路を共有していた時代のものです。外縁炉印がまだ安定していた頃、白銀に似た灯りと、黒き拒絶に似た反応が同時に確認された記録が一度だけあります」


「一度だけ?」


「はい。ただし、名はありません。記録者は、あえて名を残していません」


 セレンが根板をこちらへ向ける。


 そこに浮かんだのは、短い記録だった。


 《外縁炉印、第四夜》


 《白き灯、弱く道を示す》


 《黒き拒絶、根の濁りを退ける》


 《二つ並ぶ時、淀みは近づき、同時に裂ける》


 《進めば深き音》


 《戻れば封じは保たれる》


 《戻るを選ぶ》


 俺は、その最後の一文に目を止めた。


 戻るを選ぶ。


 昔にも、同じように外縁炉印の奥で何かを聞いた者がいた。白き灯と黒き拒絶に似たものを持ち、淀みを近づけ、同時に裂いた。そして、深き音の方へは進まず、戻った。


 俺たちと同じだ。


 いや、同じように見えるだけかもしれない。だが、記録としてはかなり近い。


「その人たちは、どうなった」


 俺が聞くと、セレンは少しだけ沈黙した。


「生きて戻りました」


「その後は」


「記録庫に名は残っていません」


「名を残さなかったのか」


「はい」


 名を残さない。


 それは、忘れられたということではない。おそらく、呼ばれないために残さなかった。名が応じる場所では、名前を残すことそのものが危険になる。


 俺はリーフェ村の素材札を思い出した。


 名前を記録することで守られるものもある。採取者、選別者、搬入者。誰が関わったかを残すことで、素材の信用は生まれた。


 だが、ここでは逆だ。


 名前を残さないことで守られるものがある。


 記録は盾だ。


 だが、盾の形は一つではない。


 セレンは静かに言った。


「外の世界では、名を残すことが信用になるのでしょう。ですが、根の奥に近い場所では、名を残さないことが守りになる場合もあります」


「厄介だな」


「はい」


 また同意された。


 セレンが普通に「はい」と言うたび、俺の中の何かが少しずつ諦めていく。


 ルナが根板の記録を見ながら言った。


「戻るを選ぶ、という記録が残っているのは、少し安心します」


「なぜ」


 セレンが聞く。


「進まなかったことも、ちゃんと残っているからです。何かを倒したわけではなくても、意味があったと分かるから」


 セレンは静かに頷いた。


「撤退も記録です」


 その言葉は、ここでまた重みを持った。


 撤退は敗北ではない。


 少なくとも、ここでは違う。


 戻るを選ぶ。


 その選択自体が、外縁炉印の封じを保ったのだ。


ーーーーー


 記録庫で見せられたものを、俺はすべて写さなかった。


 写していい部分だけを、セレンに確認しながら記録する。七つの影の名は写さない。姿も写さない。反応記録は、外縁炉印と照合した三つだけを要約する。古い外縁記録も、全文ではなく、要点を残す。


 《外縁炉印において、白き灯と黒き拒絶に類似する反応の古記録あり》


 《同記録では、深き音を追わず戻る選択が封じ維持に繋がったとされる》


 《記録者名なし。名を残さぬ形式》


 これだけだ。


 十分ではない。


 だが、今は十分だ。


 ルナも自分の記録板に、短く何かを書いていた。おそらく、白銀に関することだろう。彼女は書き終えた後、少しだけほっとした顔をした。


「何を書いたか聞いてもいいか」


「少しだけなら」


 ルナは記録板を閉じたまま言った。


「白銀は、私の名前ではない。でも、私が持つ灯りです。そう書きました」


「いいな」


「はい」


 いい。


 かなりいい。


 名前そのものではない。だが、自分が持つ灯り。ルナにとって、それは今のところ一番良い距離なのかもしれない。


 セレンが俺を見る。


「黒鉄。あなたは何を記録しましたか」


「黒き拒絶は、俺の名前ではない。機装の名前でもない。今は反応の仮称として扱う。そう書いた」


「仮称」


「ああ。固定しないための仮置きだ」


「良いでしょう」


 許可が出た。


 仮称。


 仮置き。


 いかにも俺らしいやり方だと思う。確定できないものを、暫定管理する。未処理項目に入れる。嫌な癖だが、今回は役に立つかもしれない。


 ただし、抱え込みすぎない。


 そこは忘れない。


 記録庫の光が、少しずつ弱まっていく。


 セレンは最後に、七つの影をもう一度だけ薄く浮かべた。名はない。輪郭もぼやけている。ただ、その存在だけが遠くにある。


「七つの竜種は、あなたたちが今すぐ知るべきものではありません」


 彼女は言った。


「ですが、その反応の痕跡は、すでに外縁に出ています。名を避けながら、痕跡を見る。それが今の段階です」


「段階ばかり増えるな」


「根は段階を持ちます。急げば絡みます」


「上手いことを言われた気がするが、素直に感心したくないな」


 セレンは微かに笑ったように見えた。


 気のせいかもしれない。


 この人が笑うと、世界が少しだけ不穏になる。


ーーーーー


 記録庫を出ると、里の空気が少し軽く感じた。


 実際には同じ根の中だ。だが、記録庫の圧が強すぎたせいで、外へ出ただけで深呼吸したくなる。ルナも小さく息を吐いていた。フードは少し下げられ、白銀の髪が淡く見えている。


 ナユタが俺たちを休息用の小さな根室へ案内した。中には柔らかな根で編まれた椅子と、淡い光を放つ水のようなものが置かれている。飲めるのかと聞いたら、ナユタは「飲めますが、初めての方は一口まで」と言った。怖い。何でも一口制限があると急に毒見感が出る。


 俺は飲まなかった。


 ルナは一口だけ飲み、少し目を丸くした。


「甘いです」


「飲んだのか」


「一口までと言われたので」


「勇気があるな」


「危険ならナユタさんが止めると思いました」


 信頼の置き方が素直だ。


 俺には少し難しい。


 椅子に腰を下ろすと、疲れが遅れてきた。戦闘ではない疲れだ。情報を見て、見ないようにして、名前を避けて、反応だけを拾う。頭の使い方が普段と違う。


 白騎士団のレイドなら、見える情報はすべて拾うのが基本だった。だが、ここでは見えたものをあえて見ない。読める文字を全文読まない。問えることを問わない。知りたい答えを保留する。


 攻略の逆だ。


 いや、これも攻略なのかもしれない。


 ルナが静かに言った。


「アイズドさん」


「何だ」


「名前を残さない記録も、あるんですね」


「ああ」


「リーフェ村とは逆ですね」


「そうだな」


「あの村では、名前を残すことで守れました。でもここでは、名前を残さないことで守る」


「場所によって、記録の形が違うんだろうな」


「難しいです」


「難しいな」


 記録は盾。


 だが、盾の使い方は場所で変わる。


 村では名を書く。里では名を避ける。外縁では反応だけを見る。第三炉では公開区分を分ける。


 面倒だ。


 だが、少し面白い。


 こういう面倒を面白いと思うあたり、俺もだいぶ手遅れである。


 ルナは自分の記録板を胸に抱えた。


「白銀は、私の名前ではない。でも、私が持つ灯り」


「いい記録だと思う」


「ありがとうございます」


「俺も、黒き拒絶を名前にしないようにする」


「仮称ですね」


「ああ。仮称で、仮置きで、未確定だ」


「アイズドさんらしいです」


「褒めているのか?」


「たぶん」


「またそれか」


 少し笑う。


 笑えるくらいには、戻ってこられた。


ーーーーー


 夕方、セレンが再び俺たちを呼んだ。


 今度は広間ではなく、里の外縁に近い小さな展望場だった。根の隙間から、遠く外縁連絡路の方角が見える。実際に距離が繋がっているのか、記録的に見せられているのかは分からない。フェネキア族の里では、その辺りの境界がいつも曖昧だ。


 セレンは外の方を見たまま言った。


「外縁炉印は、一時的に落ち着いています。ですが、淀みは消えていません」


「次に何をすればいい」


「急ぐ必要はありません。次に必要なのは、外縁炉印の再確認ではなく、反応の持ち主であるあなたたちが、自分の反応を理解することです」


「訓練か」


「訓練、確認、そして休息」


「最後が意外だな」


「休まぬ者は、淀みにとって扱いやすい」


 言われて、少し黙った。


 休まない者は扱いやすい。


 白騎士団時代の俺に刺さる言葉だった。休まず、見続け、抱え続け、勝たせ続ける。そういう人間は、確かに淀みにとって扱いやすいのかもしれない。少し囁けば、自分から全部背負うのだから。


 ルナも少し考えていた。


「白銀を持ち続けるにも、休むことが必要なんですね」


「はい。灯りは燃やし続ければ弱ります。閉じ続けても澱みます。通し、休め、また通す。それが必要です」


 通し、休め、また通す。


 ルナはその言葉を、心の中で繰り返しているようだった。


 セレンは俺を見る。


「黒鉄。あなたの機装も同じです。拒絶は力ですが、拒み続ければ硬くなり、硬くなれば折れます」


「つまり、使いどころを選べと」


「はい。そして、拒絶だけで進まぬことです」


 拒絶だけで進むな。


 黒き拒絶。


 俺には、どうにも耳の痛い言葉ばかりが集まる。拒むことで距離を取り、見えない仕事を抱え込み、必要とされながら捨てられた過去を、まだ完全には置けていない。黒鉄の外装は便利だ。だが、それだけを自分の形にしてしまえば、いつか折れる。


 俺は軽く息を吐いた。


「分かった。拒絶を名前にしない。力としても過信しない」


「よろしい」


 セレンは頷いた。


「明日は、里の外れで短い確認を行います。白銀を通すこと。黒鉄が受け流すこと。互いの反応を、外縁ではない場所で見直す。深層へ進むためではなく、深層へ進まないために」


「また訓練か」


「訓練ではなく、確認です」


「言い換えてもやることは近いだろ」


「近いですが、目的が違います」


 目的が違えば、同じ行動でも意味が変わる。


 旧街道もそうだった。


 戦闘も、撤退も、記録も。


 俺は頷いた。


「分かった。明日は確認だ」


「はい」


 ルナも頷いた。


 セレンは最後に、外縁の方角を見た。


「名を急がぬことです。名は、最後に残るもの。最初に呼ぶものではありません」


 その言葉を聞いて、俺は記録庫の名なき記録者を思い出した。


 戻るを選ぶ。


 名は残さない。


 それでも記録は残った。


 なら、今の俺たちも、名前を急ぐ必要はないのだろう。


 黒鉄。


 灰衣。


 白き灯。


 黒き拒絶。


 軍師ジン。


 アイズド。


 いくつもの呼び方がある。だが、そのどれを選ぶか、どれをまだ仮置きにするかは、急がなくていい。


 最高のクソゲーは、答えを出さないくせに、問いだけは丁寧に増やしてくる。


 だが、今日は少しだけ分かった。


 答えを急がないことも、たぶん攻略の一部だ。


 そして、深淵潜行はまだ灰色のまま。


 進むためではなく、進みすぎないために、俺たちはここで反応を見直す。


 それが今、セレンから許された唯一の前進だった。

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