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失業した軍師、産廃ジョブで世界の余白を攻略する 〜古代変形機装は、使い手の頭がおかしいほど強くなる〜  作者: 三元豚


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里へ戻る理由


 報告書というものは、事実を並べれば完成するように見えて、実際にはそう簡単ではない。


 何を書き、何を書かないか。どの順で並べ、どこまでを確認済みとし、どこから先を推測として扱うか。それを間違えると、ただの記録が余計な火種になる。特に今回のように、外縁炉印、淀み付着、白銀反応、黒鉄機装への拒絶反応、さらに「名を記すな」などという不穏な古碑まで絡んでいる場合、うっかりした一文がそのまま呪文の詠唱開始になりかねない。


 言葉は道具だ。


 だが、道具は使い方を間違えると簡単に指を落とす。


 第三炉の記録室には、朝から紙と記録板と沈黙が積もっていた。俺、ルナ、きなこもち、グラン親方。机の上には、外縁炉印の写し、淀み付着の一時分離記録、白銀反応域の要約、黒鉄機装への拒絶反応の記録、そしてセレンから出た文言が並んでいる。


 《深淵潜行は、なお未達》


 《外縁確認記録をまとめよ》


 《黒き拒絶は、まだ名を持たぬ》


 《白き灯は、まだ名を呼ぶな》


 《次は、里へ直接来い》


 短い。


 短いが、重い。


 あれだけ外縁で調べ、戦い、戻り、記録をまとめた結果、最終的に出てきた指示がそれだ。次は里へ直接来い。つまり、ここからは根印越しのやり取りではなく、セレン本人、あるいはフェネキア族の管理側へ直接報告しろということになる。


 ただし、ここを間違えてはいけない。


 フェネキア族の里へ戻るのは、《深淵潜行》を進めるためではない。


 俺は念のため、視界の端に表示を開いた。


 《深淵潜行》


 《受注条件:レベル90以上》


 《現在条件:未達》


 《受注不可》


 灰色のまま。


 何も変わっていない。


 外縁炉印を確認しても、淀み付着を一時分離しても、深層音を聞いても、俺たちはまだ深淵へ潜る資格を得ていない。レベル九十という条件は、そのまま俺たちの前に立っている。つまり、里へ戻る理由は、ロックされた本命クエストを進めるためではない。


 受けられないクエストの周辺で、何が漏れ出しているのか。


 それを、セレンに直接報告するためだ。


 最初から里へ行けばよかった、という話でもない。むしろ逆だ。


 外縁を見ずに里へ戻っても、俺たちが持っていけるものは少なかった。根の奥は危ないらしい。淀みがあるらしい。黒鉄と灰衣は気をつけた方がいいらしい。その程度の曖昧な話しかできなかっただろう。だが今は違う。外縁炉印を確認し、淀み付着を見て、一時分離まで行った。白銀が灯りであり呼び水でもあること、黒鉄機装が根に拒絶反応を示すこと、深層音を追わず撤退したこと。それらを持っていける。


 里へ戻る理由は、ようやく揃った。


 グラン親方が、報告書の項目を読み上げる。


「第一項、外縁連絡路の状況。第二項、淀みの浅瀬と模倣性。第三項、残響淀みおよび記録干渉。第四項、白銀反応域と白呼び根。第五項、外縁炉印の状態。第六項、淀み付着の一時分離。第七項、深層音の確認と撤退判断。以上を主報告とします」


「黒鉄機装と白銀の反応は?」


 きなこもちが聞く。


「別添にする。主報告に入れると、そこだけ目立ちすぎる」


 俺は記録板を指で送った。


「黒鉄機装への拒絶反応、白銀の灯りと呼び水、古碑の警告文。この三つは、セレンへの直接報告では口頭補足に回す。第三炉の写しには事実のみ。解釈は入れない」


「古碑の全文は?」


「写さない」


「聞かない」


 きなこもちは即答した。


 偉い。


 いや、普通なら当たり前かもしれないが、彼女の場合は偉い。危険物が危険物を見て触らない選択をしている。人類はまだ捨てたものではない。


 ルナは自分の記録板を見つめていた。灰衣の旅剣士としての記録ではなく、白銀に関する個人記録だ。内容は見ない。見ないが、彼女の指が少し止まっているのは分かる。


「白銀の反応は、私が話します」


 ルナが言った。


「いいのか」


「はい。私の白銀です。怖かったことも、消さなかったことも、私が話した方がいいと思います」


「無理に全部話す必要はないぞ」


「全部は話しません。でも、必要なことは話します」


 いい線引きだ。


 脆さを隠すな。だが、晒し物にもするな。


 セレンの言葉は、今もここに残っている。


 グラン親方が報告書の表題を確定した。


 《根圏外縁確認報告》


 《外縁炉印確認、および淀み付着一時分離について》


 硬い。


 実に硬い。


 読者の目を引く気が一切ない。だが、これでいい。今回の報告に必要なのは煽りではなく正確さだ。変に「外縁炉印、復活か」などと書けば、絶対に余計な連中が寄ってくる。情報屋も、攻略組も、素材商人も、たぶん変な宗教家みたいなプレイヤーも寄ってくる。寄ってくるな。全員、自分の最寄り狩場で幸せに暮らしていてほしい。


 きなこもちが、最後の確認として言った。


「深層については?」


「行っていない。音を聞いただけ。構造も存在も未確認。そこを強調する」


「深層はまだ触らないんだよね」


「ああ。セレンが止めている。俺たちも追わなかった」


「じゃあ、あたしも勝手に想像しすぎない」


「それは難しいんじゃないか」


「難しいけど、努力する」


「偉い」


「黒鉄さんに褒められた。こわい」


「褒めるのをやめるぞ」


「続けて」


 少し笑いが起きた。


 重い報告書の上に、軽い声が乗る。それくらいがちょうどいい。全部を深刻に扱うと、深刻さそのものに飲まれる。


ーーーーー


 報告書を根印へ送る前に、俺たちは第三炉側の保管区分を決めた。


 外縁連絡路の地形記録は限定公開。第三炉関係者と炉会議監査のみ。淀みの模倣性と残響干渉は非公開保留。白銀と黒鉄機装への反応は、依頼者情報としてさらに制限。古碑の警告は全文写し取りなし。深層音は、確認事実のみ残して場所の詳細は伏せる。


 公開区分の山だ。


 もうゲームというより行政文書である。だが、こういう地味な線引きがなければ、あとで面倒が増殖する。俺はもう、未処理項目の繁殖力を嫌というほど知っている。あいつらは湿った場所と曖昧な記録を好む。


 グラン親方が写しを封じ、第三炉の印を押した。


「これで、第三炉側の記録は整いました」


「ありがとうございます」


「黒鉄殿。フェネキア族の里へ向かう道ですが、前回と同じ経路が開くとは限りません。セレン殿からの返信を待つべきでしょう」


「直接来い、と言った以上、案内は出るか」


「出ると見るべきです。出なければ、こちらから無理に探すべきではありません」


 その通りだ。


 フェネキア族の里は、普通に歩いて行ける場所ではない。根印や外縁連絡路を介して、条件を満たした時だけ道が見える。無理に探せば、外縁の罠道や淀みの浅瀬に迷い込む可能性がある。正しそうな道ほど信用できないというのは、もう学んだ。


 俺は根印の前に報告書を置いた。


 緑色の光が、静かに文面をなぞる。書いた文字が一行ずつ沈み込むように消えていく。第三炉の記録板には写しが残るが、根印へ送った本体は、根の奥へ吸い込まれていった。


 しばらく何も起きなかった。


 きなこもちが小声で言う。


「既読ついた?」


「やめろ。急に現代的にするな」


「でも、読まれてる感じはあるよね」


「あるな」


 ある。


 かなりある。


 根印の光が消えず、じっとこちらを見ているような圧がある。返信を待つ時間というのは、なぜこう胃に悪いのか。昔、スポンサーに月次報告を送った後のことを少し思い出した。やめろ。仕事の記憶を根印に重ねるな。


 やがて、文字が浮かんだ。


 《報告を受領》


 《外縁炉印の一時分離を確認》


 《深層音を追わなかった判断を、良しとする》


 ここまでは、前にも近い文言が出ていた。


 続きが浮かぶ。


 《深淵潜行:条件未達》


 《受注不可》


 《ただし、外縁確認記録の直接報告を求める》


 そして、次の文。


 《黒鉄と灰衣、里への再来訪を許可する》


 深淵潜行は、条件未達。


 受注不可。


 その表示が、ここでもはっきり出た。


 つまり、里へ戻るのは深淵へ潜るためではない。外縁で見たものを、直接セレンへ報告するためだ。線が引かれた。ありがたい。こういう線引きはいくらあってもいい。面倒な世界では、線が命綱になる。


 続いて、さらに文字が浮かぶ。


 《第三炉の記録写しを持参せよ》


 《白銀の個人記録は本人が持て》


 《黒き拒絶については、まだ名を問うな》


 最後の一文で、左腕がわずかに鳴った。


 黒き拒絶。


 セレンはやはり、《古代変形機装》をそう呼んでいる。いや、呼んでいるというより、呼び名ではなく状態を示しているのかもしれない。まだ名を持たぬ、黒き拒絶。名前を問うな。つまり、今はそれが何であるかを無理に確定するなということだ。


 知りたい。


 だが、問うなと言われた。


 こういう時、問いたくなるのが人間である。だから人間はよく滅びかける。俺は滅びたくないので、我慢する。


 文字はさらに続く。


 《日没前、旧街道北端の根門へ向かえ》


 《外縁連絡路へは入るな》


 《根門より里へ通す》


 道が指定された。


 旧街道北端の根門。外縁連絡路ではなく、旧街道側の別経路。つまり、外縁炉印を通って里へ行くわけではない。外縁はあくまで確認地点であり、里へ向かう道は別に開かれる。


 安全、とは言わない。


 だが、セレンが指定した道なら、少なくとも罠道よりはましだろう。たぶん。セレン自身が罠でない限り。いや、そういう疑い方を始めると何もできない。今は信頼というより、条件に従う。


 ルナが静かに言った。


「白銀の個人記録は、私が持つんですね」


「ああ。第三炉の写しには入れない」


「はい」


 彼女は自分の記録板を胸元に抱えた。


 きなこもちが少しだけ寂しそうに言う。


「旧街道北端か。じゃあ、ここで見送りだね」


「そうなる」


「里まではついて行っちゃ駄目?」


「駄目だ」


「分かってた」


「分かっていて聞くな」


「聞くだけなら安全かなって」


「安全ではない。俺の胃に悪い」


 きなこもちは笑ったが、すぐに真面目な顔になった。


「黒鉄さん、ルナちゃん。セレンさんの前で、変に強がらないでね」


「どの立場から言っている」


「拠点担当」


「急に頼もしいな」


「でしょ」


 彼女は少し胸を張った。


「第三炉側の記録はこっちで守る。外縁炉印のことも、勝手に広げない。だから二人は、ちゃんと報告して、ちゃんと戻ってきて」


「戻る」


 俺は答えた。


 ルナも頷く。


「戻ります」


 それを聞いて、きなこもちは少しだけ安心したように笑った。


ーーーーー


 出発は昼過ぎになった。


 旧街道北端の根門へ向かうには、前にレベル上げをした道をさらに進む必要がある。外縁連絡路ほど危険ではないが、根混じりの魔物は出る。油断はできない。とはいえ、今の目的は戦闘ではない。道を確認し、根門へ着き、セレンが開く経路に入る。それだけだ。


 俺は黒鉄外装を身に着け、外套を羽織った。左腕の機装は沈黙している。ルナは灰衣のフードを深く被り、白銀を隠した。胸元には彼女自身の個人記録が入っている。


 グラン親方が、封じた第三炉の記録写しを俺へ渡した。


「これはセレン殿へ直接渡してください。開封する場合は、相手の指示を待つのがよろしいでしょう」


「了解です」


「こちらの印も入れてあります。第三炉が、この報告の写しを保持している証です」


「証明書だな」


「はい。記録は盾ですから」


 その言葉に、少しだけ笑った。


 リーフェ村で使った言葉が、第三炉の親方の口から戻ってくる。記録は盾。素材札も、報告書も、撤退判断も、全部そうだ。剣では倒せないものを、記録で止める。地味だが、悪くない。


 きなこもちが、灰鉄の小さな留め具を俺に差し出した。


「予備。黒鉄外装の胸部用。外縁じゃなくても、根が絡む可能性はあるから」


「助かる」


「あと、ルナちゃんにはこれ」


 彼女は細い根麻布の帯を渡した。


「白銀が強く出そうになった時、手首に一回巻いて。気休めだけど、感覚を戻す目印になる」


「ありがとうございます」


 ルナは丁寧に受け取った。


 きなこもちが少し笑う。


「気休めでも、あると違うから」


「はい。持っていきます」


 準備は終わった。


 俺たちは第三炉の裏門を出た。前にグレイム領を離れる時とは違う。今回は完全に旅立つのではなく、報告に向かう。戻る前提の出発だ。それでも、見送る側の空気は少し重い。


 きなこもちが手を振る。


「ちゃんと戻ってきてね!」


「戻る」


「変なもの拾わないでね!」


「必要なものだけにする」


「やっぱり怖い!」


 その声を背中に受けながら、俺とルナは旧街道へ向かった。


ーーーーー


 旧街道は、以前より少しだけ見え方が変わっていた。


 レベル上げに来た時は、根混じりの魔物と戦うための場所だった。今は、フェネキア族の里へ続く入口を探す道に見える。同じ石畳、同じ根、同じ古い炉材。それでも、目的が変われば風景の意味も変わる。


 人間は本当に勝手だ。


 だが、その勝手さのおかげで、同じ場所を何度も別の目で見られるのかもしれない。


 道中、根殻獣が二体出た。


 以前なら検証対象として細かく動きを見ただろうが、今回は必要最低限で処理する。俺が盾装で突進を流し、ルナが白銀を使わず脚を崩す。最後だけ細く白銀を通し、核を切る。短い戦闘だった。


 ルナの動きは、以前より安定している。


 白銀を出す直前に、迷いが少ない。怖さは残っている。だが、怖いから止まるのではなく、怖いから細く使う方向へ変わっている。


「今の、よかったな」


 俺が言うと、ルナは少しだけ驚いた。


「そうですか?」


「ああ。白銀を出す前に、ちゃんと自分で線を決めていた」


「きなこもちさんの布帯、持っていると思うと少し落ち着きます」


「気休めも馬鹿にできないな」


「はい」


 彼女は手首に巻いた細い根麻布を見た。


 強力な装備ではない。数値も大して上がらないだろう。だが、感覚を戻す目印になる。そういうものは、ステータスに出ないだけで重要だ。


 俺も黒鉄外装の内側にあるリーフェ村の小さな素材札を確かめた。これも同じだ。防御力は上がらない。攻撃力も上がらない。だが、戻る場所を思い出させる。


 ゲームの装備欄に表示されないものほど、人間には効くのかもしれない。


 旧街道を進むにつれ、空気が変わっていく。第三炉の熱が遠ざかり、根の匂いが強くなる。だが、外縁連絡路ほど濁ってはいない。もっと静かで、古い。使われなくなった道が、まだ誰かを待っていたような感覚がある。


 夕方が近づいた頃、道の北端に着いた。


 そこには、石の門があった。


 いや、門というより、根が門の形を取っていた。二本の太い根が左右から伸び、上で絡み合い、楕円形の空洞を作っている。根の表面には、フェネキア族の里で見たものに似た紋様が浮かんでいた。


 根門。


 視界にそう表示される。


 門の前に立つと、根印が淡く光った。


 《第三炉の記録写しを示せ》


 俺は封じた記録写しを取り出した。根門の前へ差し出すと、根がゆっくり伸び、封印に触れる。第三炉の印が一瞬光り、すぐに元へ戻った。


 《確認》


 続いて、文字が浮かぶ。


 《白銀の個人記録は本人が持て》


 ルナが一歩前へ出た。


「持っています」


 彼女の胸元で、個人記録板が淡く光った。根門はそれ以上求めなかった。内容を見るわけではない。ただ、本人が持っていることを確認しただけらしい。


 良い。


 それならいい。


 最後に、もう一度表示が出る。


 《深淵潜行:条件未達》


 《受注不可》


 《これより通すのは、外縁確認記録の報告者である》


 分かりやすい。


 いや、十分に不穏ではあるが、少なくとも線は引かれている。


 根門の中央に、緑色の光が満ちていく。向こう側の景色が揺らぎ、森のような、地下のような、どちらとも言えない空間が見えた。フェネキア族の里へ続く道だ。


 ルナが小さく息を吸う。


「戻るんですね」


「ああ」


「前より、持っているものが多いです」


「そうだな」


 第三炉の記録写し。白銀の個人記録。リーフェ村の素材札。黒鉄外装。灰衣旅装。外縁炉印の記録。持っているものは確かに増えた。荷物も、意味も。


「重いですか」


 ルナが聞く。


「重い」


「でも、嫌ではない?」


「ああ。嫌ではない」


 そう答えると、ルナは少しだけ笑った。


 俺たちは根門をくぐった。


ーーーーー


 根門の向こうは、静かな道だった。


 外縁連絡路のような濁りはない。旧街道のような崩れた石畳もない。足元には柔らかな根が編まれたような道が続き、左右には緑の光を帯びた樹皮の壁がある。フェネキア族の里へ初めて向かった時と似ているが、今回は道の見え方が少し違う。


 前は、ただ導かれていた。


 今は、報告を持っている。


 その違いだけで、歩く感覚が変わる。


 ルナは灰衣のフードを少しだけ下げ、周囲を見た。白銀の髪が、根の光に淡く照らされる。根は反応したが、外縁のように寄っては来なかった。むしろ、一定の距離を保っている。


「ここでは、白銀に寄ってきません」


「里の管理内だからか」


「たぶん。見られてはいます。でも、引っ張られません」


「それならいい」


 俺の左腕も静かだった。外縁炉印で感じた青白い反応はない。《古代変形機装》は沈黙している。いや、眠っているという方が近い。黒き拒絶は、まだ名を持たぬ。そう言われたことを思い出し、俺は左手を握る。


 問うな。


 今は、問わない。


 道の奥から、誰かが歩いてきた。


 フェネキア族の青年だった。以前も見た顔だ。名前は、たしかナユタ。里で案内役のように動いていた若者だ。薄い緑の髪に、根の飾りを編み込んでいる。彼は俺たちを見ると、少しだけ目を細めた。


「黒鉄殿、灰衣殿。セレン様がお待ちです」


「久しぶり、でいいのか」


「こちらでは、それほど時間は経っていません。ですが、あなた方は多くを見てきたようですね」


「見たくて見たものばかりではないがな」


 ナユタはわずかに笑った。


「外縁とは、そういう場所です」


「嫌な納得感がある」


 彼は俺の持つ記録写しと、ルナの胸元の個人記録を見た。


「第三炉の記録写しと、白銀の記録。どちらも、そのままお持ちください。セレン様の前で、必要な時に示していただきます」


「ここで渡すんじゃないのか」


「はい。今回は、記録を物として受け取るのではなく、持ってきた者の言葉も合わせて聞くとのことです」


 重い。


 つまり、報告書を提出して終わりではない。説明しろ、ということだ。まあ、当然か。外縁炉印の一時分離、白銀の反応、黒鉄機装の拒絶、深層音。紙だけで伝わる話ではない。


 ルナが静かに頷いた。


「分かりました」


 ナユタは彼女へ少し柔らかい視線を向ける。


「灰衣殿。白銀を閉じなくて構いません。ただし、晒さなくても構いません」


 ルナの目がわずかに揺れた。


 セレンと同じ系統の言葉だ。


「はい」


 彼女は短く答えた。


 ナユタは今度はこちらを見る。


「黒鉄殿。機装については、セレン様から問われるまで答えなくて構いません」


「問うなと言われたが、問われる可能性はあるのか」


「あります。ただし、名ではなく、反応についてです」


「なるほど」


 名を問うな。


 反応は話せ。


 難しい線引きだが、少し分かる。今の段階で必要なのは、それが何者であるかを決めることではなく、何にどう反応したかを共有することなのだろう。


 ナユタが背を向ける。


「では、こちらへ」


 俺たちは彼について歩き出した。


ーーーーー


 フェネキア族の里は、前と同じようで、少し違って見えた。


 巨大な根に抱かれた集落。淡い緑の光。木と布と根を組み合わせた住居。静かに行き交うフェネキア族の人々。外の町とは違う時間が流れている。第三炉の熱とも、リーフェ村の素朴さとも違う。ここは根に近く、だからこそ根の奥を恐れている場所だ。


 里の人々は、俺たちを見ても大きく騒がなかった。ただ、いくつかの視線が向く。黒鉄と灰衣。以前来た時より、その視線には少しだけ重さがあった。俺たちが外縁を見てきたことを、すでに知っているのかもしれない。


 この里では、情報の流れ方が外とは違う。掲示板や市場や配信ではなく、根と記録と気配で伝わる。便利だが怖い。いや、外の掲示板も十分怖いか。


 奥の広間へ入ると、セレンがいた。


 以前と同じように、根の椅子に腰かけている。年齢の分かりにくい顔。静かな目。こちらの内側まで見ているようで、実際に少し見ていそうな気配。やはり怖い。かなり怖い。


 彼女は俺たちを見ると、ゆっくり頷いた。


「戻りましたか、黒鉄。灰衣」


「報告に来た」


 俺はそう言い、第三炉の記録写しを掲げた。


「外縁炉印の確認、淀み付着の一時分離、深層音の確認。第三炉の写しも持ってきている」


 セレンは記録写しを受け取らなかった。ただ、視線だけでそれを確かめる。


「記録は後で見ます。まず、あなたたちの言葉で聞きましょう」


 やはりそう来た。


 俺は小さく息を吐いた。


「どこから話せばいい」


「あなたが戻る判断をしたところから」


「外縁炉印の奥で深層音を聞いた。だが、追わなかった」


「なぜ」


「目的が違ったからだ。俺たちは外縁炉印を確認し、淀み付着を一時分離し、戻って報告するために行った。深層音を追えば、確認ではなく侵入になる」


 セレンの目が、わずかに細くなる。


「よく戻りました」


 それだけだった。


 だが、その一言で、背中の力が少し抜けた。


 続いて、セレンはルナを見る。


「灰衣。白銀は、どう見えましたか」


 ルナは胸元の個人記録に手を添えた。


「灯りでした。でも、呼び水でもありました。消せば楽になる時もありました。でも、消すと道も見えなくなりました」


「それで」


「細く持つことにしました。隠すけれど、消さない。必要な時だけ通す。まだ怖いです。でも、持っていたいです」


 セレンは静かに頷いた。


「それでよい」


 ルナの肩が、ほんの少し下がった。


 短い言葉だ。


 だが、今の彼女には十分だったのだろう。


 最後に、セレンの視線が俺の左腕へ向いた。


「黒鉄。拒絶は何に触れましたか」


 名ではない。


 反応についてだ。


「根炉殻獣の根、外縁炉印の淀み、炉材核の光。どれも、左腕の機装に触れようとした時、青白い拒絶反応が出た。根は引いた。だが、炉印側も震えた。強く使えば、たぶん壊す」


「そう見ましたか」


「ああ」


「なら、まだ問わないことです」


「名前をか」


「はい。名は、形を固定します。今のそれは、まだ固定してはならない」


 分かるようで、分からない。


 だが、今はそれでいいのだろう。


 セレンは、広間の奥へ視線を向けた。そこには、根で覆われた古い扉のようなものがある。前回来た時には気づかなかった。いや、見えていなかったのかもしれない。


「外縁炉印の報告により、根の奥で起きていることの輪郭が少し見えました」


「深層へ行けと言うのか」


「いいえ」


 即答だった。


「深淵潜行は、まだ受けられません。あなたたちは、深層へ入るために戻ったのではありません。深層へ入らないために、何が起きているかを知る段階です」


 妙な言い方だ。


 だが、外縁で学んだことと重なる。


 進むために戻る。だが、奥へ行かないために知る。


 セレンは続けた。


「次に必要なのは、外縁炉印と里の古い記録を照合すること。七つの竜種に関する名を避けながら、反応だけを整理すること。そして、黒鉄と灰衣が互いに何を引き寄せ、何を逃がすのかを知ることです」


 七つの竜種。


 ついに、言葉が出た。


 ただし、名ではない。総称だ。それでも、広間の空気が少し重くなる。


 俺は思わず聞き返しそうになったが、止めた。


 名を問うな。


 今は、まだ。


 セレンはそれを見ていたように、わずかに頷いた。


「焦らぬことです。黒鉄。あなたは、問えば答えが返ると思っている」


「違うのか」


「返ることもあります。ですが、返った答えに耐えられるとは限りません」


 嫌なことを言う。


 だが、正しいのだろう。


 ルナが静かに言った。


「では、今は何をすればいいんですか」


 セレンは、俺たち二人を見た。


「報告を終え、休みなさい。その後、里の記録庫へ案内します。見るのは名ではなく、反応です。深層ではなく、外縁です。七つの竜種ではなく、それらに触れた時に残る痕跡です」


 段階が、また増えた。


 だが、今回は少し違う。


 外縁で拾った記録が、里の記録と繋がる。第三炉、リーフェ村、旧街道、外縁炉印、フェネキア族の里。別々に見えていた線が、また一つ繋がろうとしている。


 面倒だ。


 間違いなく面倒だ。


 だが、ここまで来た理由はある。


 俺は黒鉄外装の内側にある小さな素材札を指で確かめた。リーフェ村の最初の控え札。第三炉の記録写し。ルナの白銀の個人記録。全部、ここまで持ってきた。


「分かった」


 俺は言った。


「名ではなく、反応を見る。深層ではなく、外縁を見る。報告して、休んでから記録庫へ行く」


「よろしい」


 セレンは静かに頷いた。


 広間の根が、淡く光った。


 俺たちはようやく、フェネキア族の里へ戻ってきた。


 ただし、遊びに来たわけではない。答えをもらいに来たわけでもない。深淵潜行を始めに来たわけでもない。


 外縁で見たものを、正しく置くために来た。


 そして、まだ呼んではいけない名を、呼ばないまま進むために来た。


 最高のクソゲーは、今日も答えを出し渋る。


 だが、少なくとも今は分かっている。


 答えに飛びつかないことも、攻略の一部だ。

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