外縁炉印
外縁炉印へ向かう朝、第三炉の空気はいつもより少し静かだった。
炉の火は変わらず燃えている。槌の音も、記録板をめくる音も、きなこもちが工具を落としかけて慌てる音も、いつも通りそこにある。だが、俺たちの周囲だけ、少しだけ熱が低い。外縁連絡路で拾ったものが、全員の頭のどこかに残っているのだろう。
淀みの浅瀬。模倣淀み芽。残響淀み。白騎士団のレイド管理UI。白銀を呼ぶ根。名を記すな、名を呼ぶなという欠けた古碑。
並べるだけで面倒だ。面倒の詰め合わせである。贈答品なら送り主に文句を言いたい。いや、送り主はたぶん世界だ。クレーム窓口はどこだ。セレンか。絶対に勝てない。
きなこもちは、灰衣旅装の裾を最後にもう一度だけ確認していた。白銀を細く通す線を整え、外套の内側に仕込んだ根麻布の流れを指でなぞる。ルナは黙ってそれを見ていた。緊張しているが、怯えてはいない。少なくとも、白銀を消そうとしている顔ではなかった。
「ルナちゃん、今日も白銀は細く。強く出そうになったら、灰衣が少し重くなる。そこで無理に押し込まないで、呼吸を一つ置いて」
「はい」
「怖くなったら閉じてもいい。でも、閉じっぱなしにしない。閉じて確認して、また必要なら通す」
「分かりました」
きなこもちが頷き、次に俺の黒鉄外装へ視線を向けた。
「黒鉄さんは、胸部と左肩の逃がしを強めた。白銀に寄った根を受ける時、真正面で止めるより、横に流す方がいい」
「いつも通りだな」
「いつも通りを、ちゃんとやるのが大事なんだよ。あと、機装への拒絶反応が強く出たら、そこで無理に押さえ込まないで。黒鉄外装で逃がして、記録を取って、戻る」
「戻る、まで含めてか」
「撤退も記録」
言われた。
この台詞をきなこもちから聞くようになるとは思わなかった。人は成長する。危険物も成長する。ただし危険物であることに変わりはないので、取り扱い注意の札は貼ったままでいい。
グラン親方は、根下炉記録の要約写しと、外縁炉印に関する古い図を渡してきた。図は半分欠けている。外縁連絡路の全体像ではなく、第三炉補助路から外縁炉印へ向かう一区画だけを写したものだ。中央には、円形の炉印。そこから四方へ伸びる細い線。根鳴り、疑似光、通行制限、封鎖弁。読める単語は少ないが、分かることはある。
外縁炉印は、ただの道標ではない。外縁連絡路の一部を制御していた管理点だ。
「目的は確認です」
グラン親方が静かに言った。
「外縁炉印の状態、根鳴りの乱れ、淀みの付着、第三炉補助路との接続痕跡。この四点が分かれば十分です。起動や修復は行わないでください」
「起動しろと言われてもやりませんよ」
「黒鉄殿は、動くものを見ると仕組みを読みたくなる方ですからな」
「否定しづらい」
俺が言うと、ルナが少し笑った。
グラン親方は続ける。
「外縁炉印は、古い制御点です。半端に触れれば、根鳴りを逆に強める恐れもあります。淀みが付着しているならなおさらです。見て、記録し、戻る。これを第一としてください」
「了解です」
言葉にして確認する。
見て、記録し、戻る。
戦闘があっても、勝つことは目的ではない。外縁炉印を完全に直すことも、奥へ進むことも、まだ目的ではない。目的を間違えると、人間は簡単に自分を正当化する。倒せそうだから倒す。開けられそうだから開ける。進めそうだから進む。そうやって墓穴を掘る。しかもゲームの墓穴は、たまに物理的な穴より深い。
俺は視界の端に表示を出した。
《深淵潜行》
《受注条件:レベル90以上》
《現在条件:未達》
《受注不可》
相変わらず灰色のまま。
その下に、別枠が重なる。
《関連補助記録》
《根圏外縁・予備確認》
《確認項目:外縁炉印》
《状態:未確認》
《制限:深層進入不可》
《注意:これは《深淵潜行》の進行ではありません》
分かっている。
だが、何度でも見る。外縁炉印へ向かうからといって、深淵へ潜るわけではない。深淵へ潜る資格はまだないし、潜る気もない。俺たちは、灰色の扉の周囲で漏れている異常を確認しに行くだけだ。
ルナが灰衣のフードを被る。白銀の髪が隠れ、彼女は灰衣の旅剣士になる。俺も黒鉄外装の上から外套を羽織り、左腕を軽く握った。内側の《古代変形機装》が、かすかに応じる。
グラン親方が言った。
「ご武運を」
きなこもちがすぐに付け足す。
「無理しないでね。あと、変なものは拾わない」
「拾わない」
「絶対?」
「必要な記録だけ拾う」
「そこが怖いんだよなあ」
否定はしない。
俺たちは第三炉を出て、外縁連絡路へ向かった。
ーーーーー
外縁連絡路の入口に着くと、根印はすでに淡く光っていた。
《関連補助記録:根圏外縁・予備確認》
《外縁炉印の所在を確認せよ》
《深層へは進むな》
《黒鉄を過信するな》
最後の一文だけ、妙に俺へ刺してくる。
「俺だけ注意が雑じゃないか?」
思わず言うと、ルナが根印を見たまま答える。
「でも、大事です」
「否定できないのが腹立たしいな」
黒鉄を過信するな。つまり、前回までの戦闘で黒鉄外装が根を流せたからといって、外縁炉印周辺でも同じようにできるとは限らない。装備が通じる範囲を見極めろということだろう。セレンの言葉は毎回、無駄に的確で無駄に痛い。
俺たちは根の膜を越えた。
疑似光は、昨日より少しだけ濃く濁っていた。明るさ自体はあるのに、視界の奥が重い。光が白ではなく灰に近づいている。簡易反応札は常時震えているが、警告域ではない。まだ進める。
淀みの浅瀬を避け、白銀反応通路へ入る。ルナは剣を抜き、白銀を細く通した。刃先に白い線が灯ると、隠れていた炉材線が足元に浮かび上がる。道は消えていない。ただ、白銀があると見えやすくなる。
同時に、根もわずかに寄る。
俺は盾装をいつでも出せる位置で、半歩斜め後ろについた。
「白銀は?」
「細く保てています。根は、見ていますけど、まだ強くは来ません」
「怖さは?」
「あります」
「よし」
「それ、やっぱり変です」
「言えたならいい」
ルナは少しだけ息を吐き、そのまま進んだ。
前に白呼び根と戦った通路を越える。昨日の戦闘跡は、ほとんど残っていなかった。砕けた根は消え、炉材線は薄く光るだけになっている。だが、古碑のあった場所だけは違った。黒い淀みが少し薄くなり、欠けた碑文の一部が以前より読める。
《白き灯は道を示す》
《されど呼び水にもなる》
《名を記すな》
《名を呼ぶな》
そこで止める。
俺は全文を写さない。ルナも読もうとしない。固有名に関わる場所は、今は踏み込まない。七つの竜種に関係している可能性はある。だが、可能性があるからこそ、ここで軽率に触れない。知っている断片を全部出せばいいわけではない。情報にも、封をしておくべき時がある。
古碑の先で、道は広がった。
そこには、円形の空間があった。天井の根が高く持ち上がり、周囲を石柱が囲んでいる。床には同心円状の炉印が刻まれ、その中央に灰緑の光を失いかけた炉材の核が埋まっていた。
外縁炉印。
視界にそう表示される。
ようやく着いた。
だが、喜ぶより先に、俺の簡易反応札が強く震えた。ルナの白銀も、細く揺れる。外縁炉印の中央から、黒緑の細い筋が何本も伸びていた。淀みが付着している。完全に飲まれているわけではないが、炉印の線の一部を黒く濁らせている。
「触るな」
俺は言った。
「はい」
ルナは白銀を細く保ったまま、一歩下がる。外縁炉印の光が、彼女の剣先に反応してわずかに強くなった。白銀を灯りとして認識しているのだろう。だが同時に、黒い筋も動く。やはり呼び水でもある。
俺は記録板を開き、距離を保ったまま入力する。
《外縁炉印確認》
《円形管理炉印》
《根鳴り制御点と思われる》
《炉材核の光、弱》
《淀み付着あり》
《白銀への反応あり》
《黒鉄機装への反応は未確認》
《深淵潜行:未受注》
最後の項目を書いた瞬間、左腕の内側が低く鳴った。
《古代変形機装》が、外縁炉印へ反応した。
いや、逆かもしれない。外縁炉印が、機装へ反応した。
中央の炉材核に、青白い線が一瞬だけ走る。世界樹の根の灰緑とは違う。古代機装の竜眼に近い光だ。
ルナがすぐにこちらを見る。
「アイズドさん?」
「機装が反応している」
「強いですか」
「まだ弱い。ただ、無視はできない」
黒鉄を過信するな。
入口の根印の文言が頭に浮かぶ。
ここで機装を近づければ、何かが分かるかもしれない。外縁炉印と《古代変形機装》の関係。根下炉系統との接続。機械竜中枢デバイスと世界樹根圏の境界。知りたい。かなり知りたい。
だが、目的は確認であって起動ではない。
俺は左腕を一歩引いた。
青白い反応が少し弱まる。
「近づけないんですか」
ルナが聞く。
「近づけたいが、近づけない」
「偉いですね」
「珍獣を見るな」
「見ていません」
「少し見てるだろ」
「少しだけ」
緊張した空気の中で、少しだけ笑えた。
その直後、外縁炉印の黒い筋が一斉に揺れた。
ーーーーー
淀みは、炉印の線を伝って広がった。
黒緑の光が床の同心円を走り、外縁炉印の中央から細い根が伸びる。白銀へ。黒鉄へ。炉材核へ。三方向へ同時に。
視界に名前が表示される。
炉印淀み。
そのまますぎる名前だが、分かりやすい。外縁炉印に付着した淀みが、こちらの反応で動いたのだろう。こちらから起動していない。だが、近づいただけで動いた。性格が悪いにもほどがある。
「灰衣、白銀を消すな。だが下げろ」
「はい」
ルナは剣先を下げ、白銀の線を細く落とした。根の一部がそちらへ引かれるが、勢いは弱まる。俺は盾装へ変形した。
《盾装》。
黒鉄の盾を構え、炉印から伸びる黒い根を受ける。受け止めない。横へ逃がす。胸部の灰鉄留め具が低く鳴る。根が盾面を滑り、床の炉材線へ触れる。そこで灰緑の光が走り、黒い根がわずかに乱れた。
炉印そのものには、まだ抵抗する力が残っている。
なら、それを使う。
「炉印の灰緑に触れさせる。黒い線を切るな、まず流す」
「はい」
ルナは外縁炉印の外周を見た。白銀を強く出せば、黒い根は彼女へ集まる。だが、白銀を細く動かせば誘導できる。白呼び根の時と同じだ。
彼女は剣先を右へ動かした。白銀の線が、外周の灰緑の炉材線へ向く。黒い根がそれを追う。炉材線に触れた瞬間、淀みが乱れ、床に小さな火花のような光が散った。
効いている。
ただし、遅い。
炉印淀みの本体は中央の炉材核に絡みつき、少しずつ黒い筋を太くしている。このまま誘導だけしていると、中央を飲まれるかもしれない。
俺は射装を使うか迷った。
黒い筋の支点を撃てば乱せる。だが、ここは炉印だ。外したら制御点そのものを傷つける可能性がある。俺の射装は精密射撃に向いているが、それでも未知の炉印へ撃つのは危険だ。
なら、近接で支点を外す。
「灰衣、中央へ近づくな。外周だけ誘導しろ」
「アイズドさんは?」
「俺が中央の黒い筋を剥がす」
「危なくないですか」
「危ない」
「では」
「だが、切らずに剥がす。起動はしない」
俺は盾装のまま中央へ近づいた。炉印核の周囲で、黒い根がざわめく。左腕の機装が反応する。青白い光が、黒鉄外装の隙間から漏れそうになる。
抑えろ。
過信するな。
機装が反応しているからといって、答えを出そうとするな。
俺は盾の縁を、黒い筋と炉材核の間へ差し込んだ。切らない。抉らない。支点をずらすだけだ。黒い根が盾へ絡む。胸部、肩、腕へ負荷が来る。灰鉄留め具が鳴る。
重い。
物理的な重さではない。根がこちらの内側へ入り込もうとする感覚がある。視界の端に、青い文字が一瞬だけ走った。
《軍師ジン》
来るな。
俺は反応しない。声にもしない。記録もしない。
黒い根が、盾から左腕へ移ろうとした。機装に触れようとしている。触れた瞬間、青白い光が走り、根が焼けるように引いた。だが、同時に炉材核も激しく震える。
機装への拒絶反応。
確認。
だが、これ以上はまずい。
「灰衣、右外周を強く光らせろ。一瞬だけ」
「はい!」
ルナが白銀を一瞬だけ強めた。灰衣の外套がわずかに重くなったのが見える。それでも彼女は押し込まず、剣先だけに光を集めた。
黒い根の一部が、俺からルナの白銀へ向く。
その瞬間、俺は盾を横へ滑らせた。黒い筋の支点が外れ、炉材核から半分剥がれる。切らない。剥がす。剥がれた黒い根は、白銀に引かれて外周へ流れ、灰緑の炉材線に触れた。
光が弾ける。
炉印淀みが大きく揺らいだ。
「今のまま、外へ逃がす!」
ルナは白銀を消さず、外周へ細く流す。黒い根がそれを追い、炉材線の上を走る。俺は盾装で中央の残りを押し、外へ滑らせる。切らない。壊さない。起動しない。ただ、淀みの絡みを外へ逃がす。
地味だ。
かなり地味だ。
敵のHPバーを削っている感じはない。だが、これが正しい。炉印を守るなら、破壊ではなく分離だ。戦闘ではなく、掃除に近い。いや、命がけの掃除だ。掃除にしては最悪すぎる。
炉印淀みが最後に抵抗した。
黒い根が一本、ルナの剣先ではなく、彼女の手首へ向かう。白銀そのものではなく、白銀を持つ本人を狙った。
「ルナ!」
彼女は剣を引きかけた。だが、引けば白銀の線が乱れ、淀みが中央へ戻る。止まった一瞬が危ない。
俺は射装へ変形した。
《射装》。
近距離。一発。狙うのは根ではなく、ルナの手首へ向かう黒い根の足元、炉材線との接点。撃つ。弾が接点を弾き、灰緑の光が走る。黒い根が硬直した。
すぐ盾装へ戻す。
ルナが白銀を細く返し、根を外周へ誘導する。外周の炉材線が光り、黒い根が弾けるように消えた。
外縁炉印の中央から、黒緑の濁りが引いていく。
炉材核の光は、まだ弱い。
だが、灰緑の線が戻った。
視界に表示が走る。
《関連補助記録を更新》
《外縁炉印を確認》
《淀み付着を一時分離》
《完全修復には至っていません》
《深層進入不可》
《深淵潜行:未受注》
よし。
修復ではない。
一時分離。
それで十分だ。
ーーーーー
外縁炉印の円形空間に、静けさが戻った。
俺は中央へ近づきすぎない位置で膝をつき、記録板を開いた。手が少し重い。脳も疲れている。だが、今記録しなければ細部が逃げる。こういう時の記録癖だけは、元軍師でよかったと思う。少しだけだ。あまり認めると調子に乗るので、少しだけ。
《外縁炉印》
《状態:淀み付着あり》
《炉材核光量:弱》
《白銀反応:灯りおよび誘引》
《黒鉄機装反応:青白い拒絶反応》
《炉印淀み:中央核へ絡み、外周炉材線に触れると乱れる》
《対応:破壊せず、外周炉材線へ誘導》
《結果:淀み付着を一時分離》
《完全修復なし》
《深層進入不可》
《深淵潜行:未受注》
《撤退推奨》
最後に、撤退推奨。
システムがそう出しているなら迷う必要はない。いや、迷うな。中央の炉材核はまだ弱く光っている。機装を近づければ、さらに何か分かるかもしれない。白銀を当てれば、外縁炉印が一時的に起動するかもしれない。だが、それは今やることではない。
俺は立ち上がった。
「戻る」
ルナは少し驚いたようにこちらを見る。
「もう?」
「ああ。外縁炉印を確認した。淀み付着も一時分離した。機装への拒絶反応も見た。これ以上は確認ではなく介入になる」
「……はい」
ルナは剣を収めようとして、少しだけ迷った。
「白銀を閉じてもいいですか」
「いい。道は覚えた。帰りは俺が前に出る」
「はい」
白銀が消える。足元の炉材線の光が弱まるが、完全には消えない。外縁炉印の中央が、淡く一度だけ光った。
その光の中に、文字が浮かんだ。
《外縁炉印、予備応答》
《白き灯と黒き拒絶を確認》
《深層封鎖、維持》
《外縁確認記録を持ち帰れ》
報告せよ、ではなく、持ち帰れ。
それは少しだけ分かりやすかった。
俺たちは戻るために来た。
記録を持ち帰るために来た。
なら、これでいい。
その時、外縁炉印の奥、まだ進んではいけない深い根の向こうで、低い音がした。
根鳴りではない。
もっと深い。巨大なものが、遠くで寝返りを打ったような音。
ルナが息を止める。
「今のは」
「聞かなかったことにはできないな」
「でも」
「行かない」
俺は即答した。
自分でも驚くくらい早かった。
「今のは記録する。だが、追わない」
ルナは頷いた。
俺は記録板に一行だけ追加する。
《外縁炉印奥より深層音を確認》
《追跡せず撤退》
その下に、もう一度書く。
《深淵潜行:未受注》
それで終わりだ。
終わりにする。
ーーーーー
帰り道、外縁連絡路は妙に静かだった。
白呼び根も、模倣淀み芽も出ない。残響淀みのUIもない。だが、それが逆に怖い。何かを許されたようで、同時に見送られているような感じがする。セレンの視線か、根圏の反応か、あるいは深層の何かか。どれも嬉しくない。
入口の根印まで戻ると、光が浮かんだ。
《関連補助記録を更新》
《外縁炉印の確認を受領》
《淀み付着の一時分離を確認》
《深層音を追わなかった判断を、良しとする》
良し。
その一言で、少しだけ肩の力が抜けた。
続いて、文字が変わる。
《深淵潜行は、なお未達》
《外縁確認記録をまとめよ》
《黒き拒絶は、まだ名を持たぬ》
《白き灯は、まだ名を呼ぶな》
《次は、里へ直接来い》
ルナが息を呑んだ。
俺も、少しだけ黙った。
次は、里へ直接来い。
つまり、ここで初めてフェネキア族の里へ戻る理由ができた。俺たちは里へ行くために外縁連絡路を進んでいたわけではない。外縁を確認し、炉印の状態を見て、記録を第三炉へ持ち帰るために来ていた。その記録を受けて、セレンが直接来いと言った。
段階が進んだ。
面倒も増えた。
だが、筋は通った。
「フェネキア族の里へ、ですね」
ルナが言った。
「ああ。ただし、すぐではない」
「報告をまとめてから」
「第三炉にも戻る。グラン親方ときなこもちにも記録を確認してもらう。外縁炉印をいじった事実は重い」
「一時分離です」
「そうだ。修復ではない。そこを間違えないように書く」
記録の言葉一つで、意味が変わる。
修復したと書けば、責任が生まれる。起動したと書けば、余計な期待と危険を呼ぶ。一時分離。予備応答。深層封鎖維持。正確に書く必要がある。
ルナが小さく笑った。
「また記録ですね」
「また記録だ」
「嫌ですか」
「嫌ではない」
「好きですか」
「それは認めたくない」
「では、たぶん好きですね」
「俺の言い方を悪用するな」
少しだけ笑いながら、俺たちは外縁連絡路を出た。
ーーーーー
第三炉へ戻ると、きなこもちがこちらを見るなり固まった。
「何かやった?」
「一時分離した」
「何を?」
「外縁炉印に付着していた淀みを」
「やってるじゃん!」
「修復はしていない。起動もしていない。淀みの支点を外周炉材線へ逃がしただけだ」
「だけ、の規模が大きいんだよなあ」
きなこもちは叫びながらも記録板を開いた。手が速い。文句と実務が同時に動くあたり、職人である。
グラン親方は記録を読み、深く息を吐いた。
「外縁炉印が、まだ応答したのですか」
「弱いですが」
「淀み付着を一時分離し、深層封鎖を維持。これは大きい記録です」
「ただし、完全修復ではありません」
「もちろんです。そこは明確に書きましょう」
俺たちは記録室で報告を整理した。
外縁炉印の位置。炉材核の状態。淀み付着。一時分離の手順。白銀の誘引反応。黒鉄機装への拒絶反応。深層音。追跡せず撤退。セレンからの直接来訪指示。
項目は多いが、余計な推測は入れない。七つの竜種に関わりそうな言葉は保留。黒き拒絶、白き灯という表現も、そのまま引用するが解釈は書きすぎない。名を呼ぶなという警告がある以上、こちらで勝手に名付けるのは危ない。
きなこもちが記録板を覗き込みながら言う。
「黒き拒絶って、黒鉄さんの機装のことだよね」
「おそらくな」
「まだ名を持たぬ、ってどういうこと?」
「分からない。分からないから書かない」
「むずむずする」
「我慢しろ」
「してる」
しているなら偉い。
ルナは、自分の記録板に何かを書いていた。たぶん、白銀のことだろう。今日、彼女は白銀を灯りとして使い、呼び水としても扱い、それでも消さずに戻ってきた。外縁炉印の淀みを逃がす時も、白銀を強く出しすぎずに線を保った。
彼女の変化も、記録としては大きい。
ただし、それは本人の記録だ。
俺が勝手に書くことではない。
グラン親方が最後に、報告書の表題を確認した。
《根圏外縁確認報告》
《外縁炉印確認、および淀み付着一時分離について》
硬い。
だが、それでいい。派手な表題はいらない。事実を正確に残す方が大事だ。
セレンへの報告は、明朝送ることになった。根印を通じて送る前に、第三炉側で写しを取り、公開区分を分ける。外縁炉印の詳細は限定記録。白銀と機装への反応はさらに制限。深層音については、確認事実のみ。
また公開区分だ。
この世界、本当に情報管理をさせすぎである。
ーーーーー
夜、俺は第三炉の屋上で、黒鉄外装の左腕を見ていた。
外縁炉印で機装が反応した時の感覚が、まだ残っている。青白い光。黒い根の後退。炉材核の震え。黒き拒絶は、まだ名を持たぬ。セレンの言葉が頭の中に残る。
名を持たぬ。
俺は《古代変形機装》の名前を知っている。だが、セレンの言う名は、たぶんそれではない。もっと深い、世界の仕組み側の名。竜種や根圏や古代炉と関わる、呼んではいけない種類の名。
知りたい。
かなり知りたい。
だが、今は呼ばない。
知らないことを、知らないまま持つ。これもまた、慣れない作業だ。
ルナが屋上へ来た。
「ここにいると思いました」
「俺はそんなに分かりやすいか?」
「少し」
「その少し、だいたい多いな」
彼女は隣に立ち、夜の工房区を見る。
「外縁炉印、怖かったです」
「ああ」
「でも、戻れました」
「それが一番大事だ」
「次は、フェネキア族の里ですね」
「そうなる」
「前とは違いますね」
「何が」
「前は、よく分からないまま連れていかれた気がします。でも今度は、報告するために行く」
その通りだった。
フェネキア族の里へ戻る理由は、ようやくはっきりした。外縁を調べ、外縁炉印を確認し、一時分離を行い、深層封鎖が維持されていることを見た。その報告を、セレンへ直接届ける。
ついでに、黒き拒絶と白き灯について、たぶん何かを聞くことになる。
聞きたくないような、聞きたいような。面倒な感情だ。
「アイズドさん」
「何だ」
「今日、外縁炉印の奥で音がしました」
「ああ」
「あれを追わなかったの、少しだけ悔しかったです」
「俺もだ」
「でも、追わなくて良かったんですよね」
「そうだ」
ルナは頷いた。
「撤退も記録」
「ああ」
「今日は、それが少し分かりました」
彼女はそう言って、灰衣の胸元へ手を添える。
「白銀を消さないことも、進みすぎないことも、どちらも選ぶことなんですね」
「そうだな」
俺は黒鉄外装の内側にある小さな素材札に触れた。リーフェ村の最初の控え札。あれも、選んで残した記録だ。全部を持っていくわけではない。必要なものを、必要な形で持つ。
外縁炉印も同じだった。
全部を開ける必要はない。
全部を知る必要も、今はない。
届くところから。
また、その言葉に戻る。
「明日は報告書だ」
俺が言うと、ルナは少し笑った。
「また記録ですね」
「また記録だ」
「でも、必要です」
「ああ」
「では、手伝います」
「助かる」
ルナは少し驚いた顔をした。
「最近、素直ですね」
「珍獣を見るな」
「見ていません」
「見てるだろ」
「少しだけ」
夜の第三炉に、低い炉の音が響いている。
外縁炉印は確認した。淀みは一時的に分離した。深層音は追わなかった。セレンからは、里へ直接来いと指示が出た。
次の道は決まった。
だが、急がない。
報告をまとめ、線を引き、持っていくものを選ぶ。フェネキア族の里へ戻るのは、それからだ。
最高のクソゲーは、また一つ面倒な扉を開けた。けれど今回は、こちらも少しだけ分かっている。
扉が開いたからといって、すぐ飛び込む必要はない。
まず、記録する。
そして、戻る。
そこから次の一歩を選ぶ。
外縁炉印の奥で聞こえた深い音は、まだ耳の奥に残っている。だが、今は追わない。追わなかったことも、今日の勝ち筋だ。
そう思えるくらいには、俺たちは少し変わっていた。




