軍師ジンの残響
第三炉に戻ると、きなこもちの第一声は予想通りだった。
「情報量、多くない?」
分かっていた。分かっていたが、言われると少し腹が立つ。俺だって好きで淀みの浅瀬だの、模倣淀み芽だの、白騎士団のレイド管理UIだのを拾ってきたわけではない。向こうから勝手に出てきたのだ。道端に落ちている石ころなら蹴って無視できるが、外縁部の異常はそうもいかない。拾わないと、後で足に刺さる。
記録室の机には、俺が持ち帰った確認記録が並んでいた。淀みの浅瀬、模倣性、炉印反応、声による誘導、白騎士団のレイド管理UI。グラン親方がひとつずつ整理しながら炉印の照合を進め、きなこもちは黒鉄外装の胸部に残った薄い染みを確認している。
「染みは前より浅いね。灰鉄留め具が逃がしてる。でも、完全に無効化できてるわけじゃない」
「外装の損傷か?」
「損傷じゃない。触れられた跡に近いかな。淀みが黒鉄外装を覚えようとしてる感じ」
「最悪の言い方をするな」
「でも、たぶんそう」
たぶんで済ませたい内容ではない。だが、きなこもちの見立ては外れることが少ない。素材と装備に関しては、本当に厄介なくらい目がいい。本人の好奇心がそれ以上に厄介なのが問題だが。
ルナは灰衣旅装を脱ぎ、外套の内側を見てもらっていた。白銀を通した線に沿って、根麻布の表面に黒い細かな痕が残っている。淀みが白銀の通り道を追った跡だという。彼女はそれを見ても、大きく動揺はしなかった。ただ、外套の布を指でなぞり、少しだけ息を吐いた。
「白銀を出せば、やはり見られるんですね」
「見られるし、寄られる。でも、ルナちゃんの出し方ならまだ制御できてる。広げすぎなければ、外套がちゃんと逃がしてくれる」
「では、消さなくていい」
「うん。消さない方がいい」
その返事に、ルナは静かに頷いた。
白銀を怖がることはやめていない。だが、怖いから閉じるという方向へは戻っていない。怖さを持ったまま、線を細く選んでいる。たぶん、それでいい。怖くなくなる必要はない。怖いものを、どう持つかが大事なのだろう。
グラン親方が、炉印の照合結果をこちらへ向けた。
「淀みの浅瀬に半没していた炉印は、第三炉補助路の誘導炉印で間違いありません。ただし、あれは本来の制御点ではなく、外縁炉印へ向かう途中の小さな標識に近いものです」
「つまり、外縁炉印は別にある」
「はい。おそらく、外縁連絡路の中ほどにある管理炉印でしょう。根鳴りと疑似光を制御する小規模な炉印で、根下炉本体とは違いますが、系統上は繋がっています」
次に確認すべき場所は見えた。
外縁炉印。
だが、それは《深淵潜行》が進んだという意味ではない。
俺は念のため、視界の端にクエスト表示を開いた。
《深淵潜行》
《受注条件:レベル90以上》
《現在条件:未達》
《受注不可》
灰色のままだ。
当然だ。淀みの浅瀬を見つけても、模倣淀み芽を倒しても、過去のUIを拒んでも、深淵へ潜る資格が生まれるわけではない。今やっているのは、ロックされた扉の周囲に漏れ出した異常の確認でしかない。
それでも、確認項目は増えた。
《関連補助記録》
《根圏外縁・予備確認》
《確認項目:外縁炉印》
《状態:未確認》
《制限:深層進入不可》
《注意:これは《深淵潜行》の進行ではありません》
しつこい表示だ。
だが、今の俺には必要だった。
目的地が近づくと、人間は勝手に進んだ気になる。見えた道を、もう歩いていい道だと勘違いする。俺はそういう勘違いを何度も見てきたし、たぶん自分でもやってきた。だから、灰色表示くらい何度でも見ておいた方がいい。
問題は、外縁炉印へ行く途中で何を見せられるかだ。
白騎士団のUIは、まだ胸の奥に残っている。実際には消えた。だが、あの青い文字とカウントの感覚は、目を閉じるとまだ浮かぶ。作戦管理者、ジン。前衛、レオン。回復、ミレイ。戦闘開始まで十秒。あの画面は、俺にとって見慣れすぎていた。
見慣れすぎているものほど、罠になる。
ーーーーー
翌朝、俺とルナは再び外縁連絡路へ入った。
第三炉からの追加装備は最小限だ。黒鉄外装の灰鉄留め具を少しだけ締め直し、灰衣旅装の白銀通過路も細かく調整してある。きなこもちには「変なUIが出ても触らないこと」と言われた。変なUIを触る趣味はない。触らなくても向こうから画面を開いてくるのが問題なのだ。
入口の根印は、淡い光を帯びていた。俺たちが近づくと、短い文が浮かぶ。
《関連補助記録:根圏外縁・予備確認》
《外縁炉印の所在を確認せよ》
《深層へは進むな》
《記録に呑まれるな》
記録に呑まれるな。
嫌な言い方だ。
声だけではない。文字、ログ、UI、過去の記録。淀みはそれらを使う。白騎士団のUIがまさにそうだった。声に返事をしなくても、記録を見てしまえば内側を揺らされる。視覚情報は、声より逃げにくい。
ルナが正面を向いたまま言った。
「アイズドさん。今日は、白騎士団の表示が出ても、一人で見続けないでください」
「見ない方がいいのは分かっている」
「そうではなくて、見えたら言ってください」
ルナは静かに続ける。
「私には見えないかもしれません。でも、出ていると分かれば、止められます」
「止める気か」
「はい」
「物理で?」
「必要なら」
「頼もしいが、怖いな」
「アイズドさんが全部抱えようとする方が怖いです」
返す言葉が少し遅れた。正論は盾で受けづらい。角度をつけても滑らない。まっすぐ刺さる。
「分かった。出たら言う」
「はい」
外縁連絡路の疑似光は、さらに濁っているように見えた。だが、簡易反応札の揺れはまだ警告域ではない。淀みの浅瀬へ向かう明るい罠道を避け、俺たちは暗い道を進む。浅瀬の手前で足を止め、炉印の反応だけ確認した。
浅瀬は静かだった。模倣淀み芽は出ない。だが、黒緑の光はまだ薄く溜まり、炉材の欠片は半分沈んだままだ。俺はそこへ近づきすぎず、記録だけ取る。
そこからさらに左奥へ進むと、道は細く下り始めた。石畳の幅は狭く、両側の根が天井のように絡み、疑似光は斜めに差し込んでいる。足元には、古い炉材の破片が点々と埋まっていた。第三炉の記録によれば、外縁炉印へ近づくほど誘導炉材が増えるらしい。
「この先、根鳴りが強いです」
ルナが言った。
耳を澄ませると、低い振動がある。音というより、地面の奥から骨へ伝わる揺れだ。簡易反応札も強く震えているが、まだ警告には届かない。
「進む。だが、いつでも戻るぞ」
「はい」
その返事を聞いた瞬間、視界の端に青い光が走った。
白騎士団のUI。
俺は足を止める。
ルナもすぐに止まった。
「出たんですね」
「ああ」
青い枠が、視界の左端へ展開される。メンバー一覧、HPバー、クールタイム、ヘイト順位、薬品残数。見慣れた情報が、あり得ない場所に並んでいく。俺の名前は、アイズドではない。
《軍師ジン》
その表示を見るだけで、喉の奥がわずかに狭くなった。
続いて、ボイスチャットの文字起こしが流れる。
《レオン:押し切れるだろ、ジンさん》
《ミレイ:回復、今ですか?》
《神崎:見せ場を意識してください》
声は聞こえない。だが、文字だけで声が思い出せる。レオンの苛立った息。ミレイの迷い。神崎マネージャーの丁寧で硬い声。全部、記憶の奥に残っている。
俺は記録板を開こうとして、手を止めた。
記録に呑まれるな。
今、このUIを細かく解析し始めれば、俺はたぶんジンに戻る。何秒後に誰がミスをするか、どのスキルを切れば戦線が保つか、どう組めばレオンが最後に映えるか。そういう盤面を勝手に読み始める。
だから、まず言う。
「白騎士団のレイドUIが出ている。レオン、ミレイ、神崎のログが見える」
「今、戦闘中ではありません」
「ああ。ここにはいない」
「なら、見なくていいです」
単純な言葉だった。
見なくていい。
それだけで、少し呼吸が戻る。
だが、淀みは待ってくれない。前方の根が割れ、黒緑の光をまとった魔物が現れた。人型に近い。いや、人型というより、指揮者を模した影に見える。細い腕が何本もあり、それぞれに青い線のようなものを引いている。
視界に名前が表示される。
残響淀み。
嫌な名前だ。
俺専用みたいで腹が立つ。
ーーーーー
残響淀みは、すぐには襲ってこなかった。
その代わり、周囲に小さな淀み芽を三体生み出した。一体は盾の形、一体は刃の形、一体は白い光を真似たような濁った線をまとっている。前に見た模倣淀み芽より、役割分担がはっきりしていた。
UIの中で、勝手に敵情報が書き換わる。
《敵編成確認》
《前衛:盾型》
《火力:刃型》
《誘導:白銀模倣》
《推奨指示:灰衣を後方待機》
余計なお世話だ。
「灰衣、右から白銀模倣を――」
言いかけて、止まった。
今の言い方は、白騎士団の指揮に近い。役割を割り振り、行動を指定し、最適に動かそうとしている。必要な指示ならいい。だが、今の俺はUIに引っ張られた。
ルナがこちらを見る。
「アイズドさん?」
「すまん。今のは取り消す」
「はい」
「まず下がる。相手の動きを見る。お前は自分の判断で白銀模倣を見てくれ」
「分かりました」
言い直すと、ルナの動きが少し柔らかくなった。彼女は灰衣の裾を流し、右へ低く移動する。白銀は出さない。白銀模倣が反応を待っているのを見て、あえて鞘のまま距離を詰める。
俺は盾装へ変形した。
《盾装》。
盾型の淀み芽が正面から来る。重さはないが、こちらの盾面に合わせて膜を作り、受け流しを封じようとする。俺は盾で受けず、一歩前へ踏み込んで膜の内側へ入る。形を合わせる相手には、合わせる前に距離を潰す方が早い。
だが、UIがまた勝手に表示を出す。
《三秒後、刃型が灰衣へ接近》
《灰衣へ後退指示推奨》
見える。
本当に三秒後、刃型がルナの背後へ回ろうとしている。指示を出せば防げる。俺は言いかけた。
「ルナ、三秒後に――」
そこでルナの肩がわずかに硬くなった。
聞こえたのだろう。彼女は俺の指示を待った。自分で動くのではなく、次の言葉を待とうとした。その一瞬で、灰衣の流れが止まり、白銀の通り道が鈍る。
まずい。
俺は言葉を変えた。
「背中、来てる」
「はい」
それだけでいい。
ルナは自分で半歩ずれた。刃型の攻撃が灰衣の裾をかすめる。彼女は白銀を出さず、鞘で刃型の腕を弾き、外套の影で視線を切った。そこへ、細い白銀が一瞬だけ通る。刃型の核が浅く削れる。
細かく指示しない方が、彼女は強い。
当たり前だ。
ルナは白騎士団の駒ではない。俺の盤面上のユニットでもない。彼女は灰衣で、自分の白銀を選んで通す剣士だ。
残響淀みの腕が揺れ、UIに新しい文字が流れる。
《指示不足》
《味方被弾率上昇》
《軍師不適格》
腹の奥が冷える。
分かっている。
そう言われるのが嫌なのだ。見落とせば誰かが傷つく。指示しなければ戦線が崩れる。だったら全部見て、全部言えばいい。そうやって十年やってきた。そうして、最後には地味すぎると言われた。
盾型が押し込んでくる。俺は盾装で受け、剣装へ短く変えようとした。だが、UIの指示が視界を埋める。
《剣装切替、〇・二秒遅延》
《射装使用推奨》
《灰衣の白銀、出力不足》
うるさい。
昔なら、この情報量を全部捌いた。いや、捌けてしまった。だから頼られ、だから任され、だから切られた。見えるから抱えた。抱えられるから、誰もそれが重いと気づかなかった。
「アイズドさん!」
ルナの声が、UIの文字を割った。
俺は我に返る。盾型の膜が黒鉄外装に絡み、胸部へ染みを伸ばしていた。反応が遅れた。UIに気を取られたせいだ。
剣装へ変形する。
《剣装》。
絡む膜を切る。だが、一歩遅い。染みが胸部から左肩へ伸びる。灰鉄留め具が震えるが、逃がしきれない。
ルナがこちらへ走ろうとした。
「来るな。白銀模倣が寄る」
「でも」
「自分の敵を見ろ」
言ってから、強すぎたと思った。
ルナの動きが止まりかける。違う。そうじゃない。俺は息を吐き、言葉を選び直す。
「俺は持つ。お前は、お前の判断で切れ」
ルナの足が再び動いた。
白銀模倣が彼女の正面で揺れる。濁った白い線が、ルナの剣筋を真似ようとする。ルナは白銀を出しすぎない。灰衣の中で一度隠し、相手が待つ方向を外し、細い線だけを逆へ通す。白銀模倣の中心が裂けた。
一体撃破。
同時に、残響淀みが腕を振る。白騎士団UIの中で、レオンの名前が赤く点滅した。
《レオン:前に出ます》
《ジン:止めろ》
《指示なし》
《前衛、死亡》
存在しないログが流れる。過去の失敗ではない。俺の記憶を使った、あり得たかもしれない最悪の分岐。俺が指示しなかったせいでレオンが死ぬ映像。ミレイの回復が遅れ、後衛が崩れ、ボスの範囲攻撃で全滅する画面。
実際には違う。
だが、胸が重い。
俺が見なければ、誰かが死ぬ。俺が指示しなければ、戦線が崩れる。そう思っていた自分が、まだ内側にいる。
残響淀みが、俺の声で囁いた。
「全部見ろ。全部抱えろ。そうすれば勝てる」
返事をしそうになった。
その瞬間、ルナが叫んだ。
「私は、白騎士団の駒ではありません!」
声が、外縁連絡路に響いた。
灰衣の外套が揺れ、白銀が一瞬だけ強く光る。だが、広がらない。彼女は出しすぎる直前で絞り、細い一本の線として刃を通した。残響淀みではなく、俺に絡んでいた盾型の膜だけを切る。
黒鉄外装の胸部から染みが剥がれた。
UIが大きく乱れる。
俺は息を吸う。
そうだ。
ここは白騎士団のレイドではない。レオンはいない。ミレイもいない。神崎もいない。視聴者もスポンサーもいない。目の前にいるのはルナだ。灰衣の旅剣士だ。俺が全部動かす相手ではない。
「……悪い」
俺は言った。
「少し、戻りかけた」
「分かっています」
「止めてくれたのか」
「はい」
「物理じゃなかったな」
「必要なら次は物理です」
「やめてくれ」
少しだけ笑えた。
その程度で十分だった。
ーーーーー
残響淀みの動きが乱れた。
白騎士団UIの表示も崩れている。だが、完全には消えていない。なら、今のうちに終わらせる。長引けばまた飲まれる。
「灰衣、残響本体を狙う。俺は二体を止める」
「はい」
短い指示。
それでいい。
俺は盾装で盾型と刃型をまとめて受ける。受け止めるのではなく、外縁炉印へ続く誘導炉材の欠片が埋まっている場所へ誘導する。淀みの攻撃は炉印に触れると乱れる。浅瀬で分かったことだ。ここにも小さな誘導炉材がある。完全な制御点ではないが、使える。
盾型が膜を張る。俺はその膜をあえて滑らせ、炉材へ触れさせる。緑の光が一瞬だけ走り、盾型の輪郭が揺らいだ。刃型が横から入る。剣装へ短く変え、足元の根だけを切る。長く見せない。すぐ盾装へ戻す。
ルナは残響淀みへ向かう。白銀を出さず、灰衣の外套だけで距離を詰める。残響淀みが彼女の動きを読もうとするが、白騎士団UIの乱れと炉材の反応で、腕の動きが遅れている。
UIに、また文字が流れた。
《灰衣、火力不足》
《黒鉄、指示遅延》
《勝率低下》
黙れ。
言葉にはしない。
返事もしない。
ただ、盾を前へ出す。
ルナが残響淀みの間合いに入った。そこで彼女は一瞬だけこちらを見る。指示を待っているのではない。確認だ。
俺は頷いた。
ルナは自分の判断で白銀を通した。
細く、鋭く、灰衣の内側から一本だけ。残響淀みの中心へ伸びた白銀は、青いUIの文字ごと黒い核を貫いた。
残響淀みが崩れる。
白騎士団のUIが、最後に一文だけ表示した。
《指揮者:ジン》
そこへ、俺は個人記録を重ねる。
《軍師ジンは過去の名前》
《アイズドは、今ここで選ぶ名前》
青い文字が割れた。
残響淀みは、黒緑の光となって外縁連絡路の根へ吸い込まれていく。周囲に生み出されていた淀み芽も、糸が切れたように崩れた。
戦闘終了。
だが、勝った気はしなかった。
むしろ、無理やり引き戻されたような感覚が残る。俺は黒鉄外装の胸部に手を当てた。染みは薄くなっているが、完全には消えていない。
ルナが隣に来た。
「大丈夫ですか」
「大丈夫、とはまだ言えない」
「では?」
「戻れた」
「はい」
「助かった」
言うと、ルナは少しだけ目を丸くした。
「アイズドさんが、素直にお礼を言いました」
「珍獣を見るな」
「見ていません」
「見てるだろ」
「少しだけ」
その少しが結構大きい。
だが、今回は言わせておく。助かったのは事実だ。彼女が止めなければ、俺は残響淀みにさらに深く引き込まれていたかもしれない。
ーーーーー
戦闘後、俺たちは外縁炉印へ進まず、少し手前の誘導炉材のそばで記録を取った。
進めなくはない。道は続いている。外縁炉印の所在も、かなり近いところまで絞れている。だが、進まない。残響淀みとの接触で、アイズド個人への干渉が一段深くなった。ここでさらに外縁炉印へ向かうのは、勝てそうだから続ける、という悪い癖に近い。
俺は記録板へ入力する。
《残響淀みと接触》
《白騎士団レイドUI再現》
《指揮欲求への干渉》
《灰衣への過指示により、白銀運用が一時硬直》
《灰衣の声かけにより復帰》
《戦闘勝利。ただし精神干渉深度上昇》
《外縁確認項目:外縁炉印》
《状態:未確認》
《理由:精神干渉深度上昇により撤退判断》
《深淵潜行:未受注》
最後の一文を入れる時、少しだけ指が重かった。目的地は近い。進めば確認できるかもしれない。だが、今は戻る方が正しい。
深淵潜行は、まだ始まっていない。
受注条件はレベル九十。
今の俺たちは、外縁で何が起きているかを確認しているだけだ。外縁炉印へ近づいたからといって、深淵へ潜る資格が生まれるわけではない。むしろ、ここで無理をすれば、受注不可の扉に頭から突っ込むだけになる。
ルナが、その記録を横から見て頷いた。
「進まないんですね」
「ああ。今の俺は、少し引っ張られやすい」
「自分で言えたなら、大丈夫です」
「大丈夫の基準が相変わらず変だな」
「でも、言えない時よりいいです」
「それはそうだ」
外縁連絡路を引き返す途中、俺はルナに話した。
白騎士団の軍師ジンだったことは、少し前に触れている。だが、今日はもう少しだけ言わなければならないと思った。
「俺は、白騎士団で戦場を見ていた。敵の行動、味方の癖、スキルの戻り、ヘイト、回復、薬品、配信の見せ場。全部だ」
「はい」
「見えるから、抱えた。抱えられるから、周りも任せた。俺もそれでいいと思っていた。誰かが失敗する前に消せば、誰も傷つかないと思っていた」
言葉にすると、ひどく傲慢に聞こえた。
実際、傲慢だったのかもしれない。
「でも、それは見えない仕事だった。勝てば派手なやつが褒められる。支えた側は、支えたことに気づかれない。最後には、地味すぎると言われて外された」
ルナは黙って聞いていた。
「それで、俺はたぶん傷ついた。必要とされたいのに、使われるだけは嫌だ。見られたいのに、見せ物にはなりたくない。そういう面倒な矛盾が残っている」
「それが、淀みに触られたところですね」
「ああ」
「じゃあ、次に同じことがあったら、また止めます」
「頼む」
「はい」
「ただ、物理は最後にしてくれ」
「努力します」
「そこは断言してほしい」
ルナは小さく笑った。その笑いに救われる。重い話を重いまま抱え続けると、たぶん足が止まる。少し笑えるくらいがちょうどいい。
入口の根印まで戻ると、セレンの文言が浮かんだ。
《関連補助記録を更新》
《残響との接触を確認》
《記録に呑まれかけたことを確認》
《戻った判断を、良しとする》
そして、少し間を置いて、もう一文。
《過去を否定するな》
《だが、過去に指揮を渡すな》
嫌なほど的確だった。
俺はその文言を記録し、しばらく見つめた。過去を否定するな。だが、過去に指揮を渡すな。軍師ジンを消す必要はない。だが、今の戦場をジンに預けるな。そういう意味だろう。
「本当に、セレンさんは容赦がないですね」
ルナが言った。
「ああ。静かに急所を刺してくる」
「でも、正しいです」
「それが一番厄介だ」
根印の光が消える。
俺たちは外縁連絡路を出た。背後の根の膜が静かに揺れる。外縁炉印はまだ確認していない。確認項目は残っている。だが、今日は戻る。
撤退も記録。
勝てたから進むのではなく、勝ったからこそ引く。
それが、今の俺たちに必要な線だった。
第三炉へ戻る道すがら、ルナがふと呟いた。
「アイズドさん」
「何だ」
「私は、駒ではありません」
「ああ」
「でも、隣で戦う相手ではあります」
「分かっている」
「忘れたら言います」
「頼む」
白騎士団の残響は、たぶんまた来る。軍師ジンの画面も、レオンやミレイの声も、これで終わりではないだろう。
だが、今は返事をしなかった。
指揮も渡さなかった。
そして、戻ってこられた。
それで十分だ。
俺は黒鉄外装の内側で、小さな素材札が揺れる感覚を確かめながら歩いた。リーフェ村で受け取った、最初の控え札。戻る場所を思い出させる、小さくて重い記録。
軍師ジンは過去の名前。
アイズドは、今ここで選ぶ名前。
深淵潜行は、未受注。
外縁炉印は、まだ未確認。
それらを一つずつ記録しながら、俺たちは第三炉へ戻った。




