淀みの浅瀬
声に応じなかったからといって、安全になったわけではない。
外縁連絡路で最初に分かったのは、淀み芽がこちらの動きを遅れてなぞること、白銀には寄ること、黒鉄外装の灰鉄留め具は浅い接触ならどうにか逃がせること、そして聞こえるはずのない声が、こちらの過去を撫でるように呼びかけてくるということだった。
結論として、かなり嫌な場所だ。
ただ、嫌だから近づかないで済む段階でもない。俺たちの目的は攻略ではなく確認であり、怖い場所へ突っ込むことではなく、どこからが危険なのかを見極めて戻ることにある。理性的に言えばそうなるが、実態は湿った根と濁った光の中へもう一度足を踏み入れる作業なので、理性というやつもなかなかブラックな労働環境に置かれている。
翌朝、俺たちは再び外縁連絡路の入口に立っていた。
黒鉄外装は、胸部と肩回りの逃がしを再確認済み。灰衣旅装も、白銀の通り道を細く保つよう調整されている。第三炉からは追加の簡易反応札を二枚、きなこもちからは「絶対に変な露に触らないこと」という雑だが正しい注意を受け取った。雑でも正しいなら、だいたいの標語より役に立つ。
視界の端には、昨日と同じ表示が残っている。
《深淵潜行》
《受注条件:レベル90以上》
《現在条件:未達》
《受注不可》
その下に、別枠の補助記録。
《関連補助記録》
《根圏外縁・予備確認》
《分類:管理通知》
《確認地点:フェネキア族管理領域外縁連絡路》
《制限:深層進入不可》
《備考:これは《深淵潜行》の受注ではありません》
しつこい。
だが、しつこいくらいでいい。昨日、外縁連絡路に一歩入っただけで、淀み芽と過去名を呼ぶ声が出た。これで本命の深淵に潜ったつもりになったら、頭の方が淀んでいる。今の俺たちがやっているのは、鍵のかかった扉を開けることではない。扉の周りで漏れている濁った水を、手袋越しに確認しているだけだ。
ルナは灰衣のフードを深く被り、根の膜の向こうを見ていた。
「今日は、前より進むんですよね」
「少しだけだ。異常が出たら戻る。声が聞こえても応じない。逃げた淀み芽は追わない。道が増えても、すぐには選ばない」
「最後、嫌な言い方ですね」
「嫌な予感がするからな」
嫌な予感は、だいたい当たる。特に俺の場合、楽観的な予測より悲観的な予測の方がよく当たる。嬉しくない才能である。
外縁連絡路へ入ると、前と同じ薄い緑の疑似光が足元を照らした。ただ、今日はその光が少し濁って見える。暗いわけではない。透明な水に墨を一滴落としたように、光の中へ薄い影が混ざっている。
「昨日より、光が重いです」
ルナがすぐに言った。
「疑似光の濁り、増加か」
「明るいのに、見ていると少し疲れます」
「記録する」
俺は記録板を開き、外縁連絡路への再進入、疑似光の濁り増、根鳴りは弱、簡易反応札は常時微振動、声は現時点でなし、と短く残した。こうして書くと調査らしく見えるが、実際には足元の根がいつ動くか分からない薄暗い道を、正体不明の声に怯えながら歩いているだけだ。
怖い散歩も、記録を取れば確認作業になる。
便利な言葉である。
ーーーーー
外縁連絡路は、前に淀み芽を倒した痕跡を過ぎたあたりから変わっていた。
石畳が二つに分かれている。右の道は緑の疑似光が強く、根も少ない。石畳も比較的きれいに残っており、奥には古い炉印らしき光が見えた。
左の道は暗い。根が石を割り、ところどころ地面が沈み、疑似光も弱い。普通に考えれば右を選ぶ。安全そうで、明るく、道の形も残っている。いかにもこちらが正規の道ですという顔をしていた。
だからこそ、俺は足を止めた。
「アイズドさん?」
「すぐ選ばない」
簡易反応札を見る。灰鉄の線は震えていない。いや、違う。震えていなさすぎる。外縁部に入ってから常に微振動していた札が、右の道へ近づいた瞬間だけ完全に沈黙している。
安全だから沈黙している、という見方もできる。だが、この場所で完全な無反応は不自然だった。外縁全体が微熱を持っているような状態なのに、そこだけ何も拾わない。安全地帯ではなく、反応を隠されている可能性がある。
俺は第三炉の根下炉記録要約を開き、周囲の炉印配置と照合した。右の道に見える炉印は、形だけなら正しい。だが、線の向きが一つ違う。第三炉補助路の誘導炉印は、進行方向に対して根の流れを横へ逃がす配置を取る。右の炉印は、こちらを奥へ引き込む向きになっていた。
「右は罠だな」
ルナが右の道を見る。
「明るいのに?」
「明るすぎる。札が沈黙している。炉印の向きも違う」
「正しそうに見せているんですね」
「ああ。最短ルートっぽい顔をしている」
そう言ってから、自分の胸に少し刺さった。
こういう道に、俺は弱い。明るく、整っていて、目的地へ近そうで、無駄がなさそうな道。かつての俺ならまず選んだ。安全性を計算し、進行効率を優先し、最短で目的地へ向かう。そういう判断は悪ではないが、この外縁部では、その癖そのものが餌になる。
淀みは、脆きものを辿る。
俺の脆さは、過去の名前だけではない。正しそうな最短経路を見ると、体が勝手に線を引くところも、たぶんその一つなのだろう。
「左へ行きますか」
「暗い方が正規とは限らない。ただ、右は怪しい。左を調べる」
「はい」
左の暗い道へ足を向けると、簡易反応札がまた微かに震え始めた。嫌な安心感だった。危険が見える方がまだまし、というのはなかなか終わっている。
数歩進んだところで、背後から声がした。
「そっちは遠回りですよ」
若い男の声だった。
聞き覚えはない。だが、声の調子が妙に柔らかく、こちらの判断を正そうとするような響きを持っている。
ルナが息を止める。俺は振り返らない。
「応じない」
「はい」
声は続いた。
「明るい道の方が安全です。皆、そちらを通っています」
皆。便利な言葉だ。誰だ、その皆は。名前を出せ。いや、出されても困る。声に応じるな、問い返すな。セレンの警告を思い出しながら、俺は記録板へ短く入力する。
《音声干渉、二度目》
《内容:右道への誘導》
《応答なし》
記録だけする。返事はしない。
声はしばらく続いたが、こちらが進むにつれて薄れていき、最後に「ジンさんなら分かるはずです」とだけ聞こえた気がした。
返事はしなかった。
ーーーーー
暗い道の奥には、浅い水場のような場所があった。
水ではない。根と石の隙間に、薄い黒緑の光が溜まっている。液体のように見えるが、表面は揺れない。足を近づけると、簡易反応札が小刻みに鳴った。
視界に表示が浮かぶ。
《淀みの浅瀬》
名前の時点で帰りたい。浅瀬でこれなら深場は何だ。考えたくないが、考えないわけにもいかないあたりが本当に性格の悪い世界である。
「踏まない方がいいですね」
ルナが言う。
「踏むな。触るな。白銀も近づけすぎるな」
「はい」
浅瀬の中央には、古い炉材の欠片が半分沈んでいた。表面に刻まれている炉印は、第三炉の記録にあった外縁誘導炉印と一致する。ただし、淀みに浸かっているせいか、線の一部が黒く濁っている。
目的の一つ、疑似光の濁りと炉印の確認には成功した。
だが、ここで喜ぶほど俺も純朴ではない。
見つけたということは、何かが出る。
案の定、淀みの浅瀬が揺れた。
黒緑の光が盛り上がり、小さな人型にも獣型にも見える影が四つ現れる。前に見た淀み芽より輪郭が曖昧だが、動きは少し人間に近い。
視界に名前が表示された。
模倣淀み芽。
「昨日より露骨だな」
「真似るんですね」
「たぶんな。俺たちの形を借りるタイプだ」
模倣淀み芽の一体が、左腕を大きく広げた。盾のような根の膜が展開する。もう一体は、外套のように黒い薄膜を纏い、低く構えた。
俺とルナの真似だ。
気分が悪い。
「灰衣、白銀は最後だけだ。こいつらに学習させない」
「はい」
俺は盾装へ変形した。
《盾装》。
同時に、盾を模倣した淀み芽が前へ出る。こちらの盾面に合わせ、根の膜を斜めに構えた。形だけなら悪くない。だが、重心が浅い。受け流す形は真似ているが、なぜその角度にするのかまでは理解していない。
なら、そこを突く。
真正面からぶつからず、盾を低く滑らせる。相手の根膜の下へ差し込み、支点を外す。模倣淀み芽の体が崩れたところで、すぐ剣装へ短く変え、根の中枢を切ろうとした。
だが、刃が入る直前、別の淀み芽が俺の剣装を真似た。細い黒い刃を作り、こちらの軌道へ合わせてくる。遅い。だが、合わせてくるだけで厄介だ。
剣を止める。
追撃しない。
俺が止まると、模倣淀み芽も一瞬止まった。こちらの動きに反応している。先読みではない。反応だ。
「こいつらは、後出しだ」
「後出し?」
「こちらの動きに合わせて形を作る。だから、見せた技を長く続けるな」
「分かりました」
ルナが低く動いた。灰衣の外套が根の上を流れる。模倣された黒い外套が、それを追う。だが、ルナは白銀を出さない。鞘で足を払い、外套の裾で視線を切り、あえて決定打を入れない。
模倣淀み芽は白銀を待っている。待っているから、動きが鈍る。
そこで、ルナは一瞬だけ剣を抜いた。
白銀が針のように通る。待っていた模倣淀み芽の中心を、逆に貫いた。
一体目が崩れる。
残り三体が白銀へ反応し、浅瀬全体が小さく波打った。根がルナへ向かう。俺は盾装で割り込んだ。受け止めない。根を盾面で滑らせ、浅瀬の外へ逃がす。黒鉄外装の胸部に黒い染みが走ったが、灰鉄留め具が横へ散らした。
前より負荷は軽い。調整は効いている。
ただ、長く触れるとまずい。
「灰衣、右奥。俺が二体を止める」
「はい」
指示を出す。だが、細かくしすぎない。三秒後、半歩、角度、そういう言葉を飲み込む。ルナを駒にしない。必要な方向だけ渡す。
ルナは右奥へ走り、俺は盾装で二体を引き受けながら、剣装へ短く切り替えて足元の根を切った。射装は使わない。模倣されたら面倒だ。飛び道具を学習されると、こちらの選択肢が減る。
だが、最後の一体が浅瀬の中へ沈み込み、距離を取った。
逃げるつもりではない。
浅瀬の奥から黒い棘を伸ばす。遠距離攻撃。こちらが射装を見せていないのに、向こうから出してきた。環境攻撃か。
棘はルナの背後を狙っている。
射装を使えば止められる。だが、見せることになる。模倣されるかもしれない。迷っている間に棘が伸びる。
迷うな。
俺は射装へ変形した。
《射装》。
一発だけ。狙うのは淀み芽ではなく、棘の根元。撃つ。黒い棘が弾け、ルナの背後で霧のように散った。すぐ盾装へ戻す。
模倣淀み芽がこちらを見る。
見られた。
次に来る。
案の定、残った淀み芽の腕が細く変形し、射出機構に似た形を取った。雑だ。だが、形だけは真似ている。
「学習された」
「どうしますか」
「使わせる」
模倣射装が黒い棘を撃つ。だが、照準が甘い。俺の射装は腕と視界と形態安定率を合わせて撃つ。こいつは形だけ真似た。撃てばいいと思っている。雑な射撃ほど、盾で誘導しやすい。
盾装で斜めに受ける。棘は盾面を滑り、浅瀬の炉材へ刺さった。炉印が一瞬だけ光る。模倣淀み芽の体が硬直した。
なるほど。
淀みの棘は、炉印に触れると乱れる。
「灰衣、炉印へ追い込む」
「はい」
俺は盾で一体を押し、ルナが外套で視線を切る。白銀は最後だけ。淀み芽が炉材のそばへ寄った瞬間、ルナの剣が細く光り、核を斬った。
三体目が消える。
最後の一体は、また地面へ沈もうとした。
追わない。
前と同じだ。逃げるなら逃がす。追跡はしない。だが、今回は逃げる前に炉印の光が走り、沈みかけた淀み芽の体が一瞬だけ浮き上がった。
俺は剣装へ短く変形し、核を断った。
浅瀬が静かになる。
ーーーーー
戦闘後、俺たちは浅瀬の縁まで下がった。
HPは大きく削れていない。だが、精神的にはかなり疲れる。敵が強いというより、こちらの癖を返してくるのが厄介だった。盾を真似る。灰衣を真似る。射装まで見れば形だけ借りる。まだ浅い模倣だから崩せたが、これが深くなると危ない。
俺は記録板に入力する。
《淀みの浅瀬》
《疑似光濁り、中》
《旧炉印、淀みに半没》
《模倣淀み芽、四体》
《行動模倣:盾装、灰衣、射装を確認》
《模倣精度:浅い。形のみ。意図理解なし》
《炉印接触時、淀み反応に乱れ》
《追跡なし》
続けて、システム表示を確認する。
《深淵潜行》
《受注条件:レベル90以上》
《現在条件:未達》
《受注不可》
変化なし。
当然だ。淀みの浅瀬を確認しても、模倣淀み芽を倒しても、深淵潜行が進むわけではない。これは本命クエストではない。関連補助記録が増えただけだ。
その別枠が、静かに更新される。
《関連補助記録》
《根圏外縁・予備確認》
《淀みの浅瀬を確認》
《模倣性を確認》
《外縁炉印の所在推定が可能になりました》
《確認項目:外縁炉印》
《注意:これは《深淵潜行》の進行ではありません》
しつこい。
だが、今回は本当に助かる。
外縁炉印。次の確認項目だ。だが、それは深淵潜行の進行ではない。ロックされた本命クエストの周囲にある、危険な異常点の一つにすぎない。
そこを間違えるな。
俺は記録板にも同じことを書く。
《外縁炉印:所在推定可能》
《扱い:確認項目》
《深淵潜行:未受注》
書いた直後、視界の端に見慣れないウィンドウが開いた。
白い枠。青い文字。古い戦闘ログ。いや、違う。これは白騎士団時代のレイド管理UIだ。
今のアイズドの画面には存在しないはずの表示。軍師ジンとして使っていた、味方のクールタイムとヘイト管理をまとめる専用画面。
そこに、文字が浮かぶ。
《レイド編成:白騎士団》
《作戦管理者:ジン》
《前衛:レオン》
《回復:ミレイ》
《戦闘開始まで:10》
心臓が嫌な音を立てた気がした。もちろんVRアバターの心臓など演出だ。だが、意識はそれを現実の緊張として受け取る。
ルナがこちらを見た。
「アイズドさん?」
「白騎士団のUIが出ている」
「見えますか、今も」
「ああ」
「触らない方がいいですね」
「そうだな」
ウィンドウの中で、カウントが進む。
九。
八。
七。
俺は指を動かさない。閉じる操作もしない。応じない。触らない。問わない。
だが、文字は勝手に増えた。
《ジンさん、指示を》
《ジンさんが見てくれれば勝てます》
《ジンさん、どこですか》
声ではない。
文字だ。
だが、同じだ。応じるな。
俺は目を逸らさず、ウィンドウを見たまま言った。
「これは俺のログじゃない」
カウントが止まる。
「軍師ジンの画面だ。今の俺のものじゃない」
ルナは隣で黙って立っていた。口を挟まない。ただ、必要なら止める距離にいる。
俺は記録板を開き、自分の個人記録を表示する。
《軍師ジンは過去の名前》
《アイズドは、今ここで選ぶ名前》
その二行を確認すると、白騎士団のUIが一瞬だけ揺らいだ。完全には消えない。だが、文字が乱れ、カウントが崩れる。
最後に、青い文字が黒く滲んだ。
《指揮者:ジン》
その下に、新しい文字が重なる。
《不在》
ウィンドウは静かに消えた。
俺はしばらく動かなかった。
ルナが小さく聞く。
「大丈夫ですか」
「大丈夫、とは言い切りたくないな」
「では?」
「応じなかった」
「はい」
「それで今は十分だ」
ルナは頷いた。
「戻りますか」
「ああ。今日はここまでだ」
迷わなかった。
淀みの浅瀬を確認し、模倣淀み芽の性質も見た。炉印への反応も得た。そして、白騎士団のUIが出た。十分すぎる。これ以上進む理由はない。
俺たちは浅瀬から離れ、外縁連絡路を引き返した。背後で、疑似光が濁ったまま揺れている。明るい右の道は、帰り際もまだ安全そうに光っていた。だが、俺たちはそちらを見ない。正しそうな道ほど、今日は信用できなかった。
ーーーーー
入口の根印まで戻ると、表示が浮かんだ。
《関連補助記録を更新》
《淀みの浅瀬、確認》
《模倣性、確認》
《炉印反応、確認》
《声と記録に応じなかった判断を、良しとする》
前より項目が多い。セレンはやはり、こちらの記録を拾っているのだろう。もしくは外縁全体を通じて見ている。どちらにせよ、気が抜けない。上司か。いや、上司より怖い。
最後に、一文が表示される。
《外縁炉印の所在を確認せよ》
《深層へは進むな》
外縁炉印。
次の確認項目だ。
ルナが言った。
「外縁炉印……第三炉の記録と関係がありますよね」
「ああ。淀みの浅瀬に半分沈んでいた炉印より、大きい制御点だろうな」
「行きますか」
「次にな。今日は戻って報告する」
「撤退も記録」
「そうだ」
俺は根印の文言を記録し、外縁連絡路を出た。
根の膜を越えると、グレイム領側の空気が少しだけ軽く感じた。実際には同じ仮想空間だ。だが、脳はこういう違いを勝手に重さとして処理する。便利なのか、面倒なのか分からない。
道を戻りながら、ルナがぽつりと言った。
「白騎士団のUI、怖かったですか」
「怖いというより、腹が立った」
「腹が立った?」
「ああ。勝手に人の古い画面を開くな、と思った」
ルナは少しだけ笑った。
「それは、アイズドさんらしいです」
「そうか?」
「はい。怖がるより先に文句を言えるなら、少し安心です」
「安心材料の基準が変だな」
「でも、応じませんでした」
「ああ」
応じなかった。
声にも、光の道にも、白騎士団のUIにも。それが今日の成果だ。敵を倒したことより、そちらの方が重要かもしれない。
第三炉に戻れば、きなこもちがまた目を輝かせるだろう。淀みの浅瀬、模倣淀み芽、炉印反応、白騎士団UI。情報量が多い、と言うに決まっている。グラン親方は眉をひそめながら記録を整理し、セレンへの報告用に要約を作ることになる。
未処理項目は増える。
だが、今日増えたものは、進むための記録ではなく、進みすぎないための記録だ。
外縁炉印。淀みの模倣。軍師ジンの残響。次に確認すべきものは増えた。だが、本命の扉はまだ灰色のままだ。
深淵潜行は、未受注。
俺は歩きながら、黒鉄外装の内側にある小さな素材札を指で確かめた。リーフェ村でもらった、最初の控え札。装備より重い、小さな木片。それがあるだけで、少しだけ戻る場所を思い出せる。
ジンではなく、アイズドとして。
黒鉄として。
俺は、今日も返事をしなかった。




