外縁連絡路
目的地が分かっている時ほど、人間は道を間違えやすい。
最短で向かいたくなる。必要な手順を飛ばしたくなる。見えているものを、もう分かったものとして扱いたくなる。特に、目的地の名前がやたら大きい時は危ない。深淵。根圏深層。レベル九十で受注可能な本命クエスト。そういう言葉は、人間の頭に余計な熱を入れる。
だが、今の俺たちは深淵へ向かっているわけではない。
クエスト欄の《深淵潜行》は、相変わらず灰色のままだった。
《深淵潜行》
《受注条件:レベル90以上》
《現在条件:未達》
《受注不可》
その下に、別枠の表示が浮かんでいる。
《関連補助記録》
《根圏外縁・予備確認》
《分類:管理通知》
《確認地点:フェネキア族管理領域外縁連絡路》
《制限:深層進入不可》
《備考:これは《深淵潜行》の受注ではありません》
しつこいくらい書いてある。
だが、しつこいくらいでちょうどいい。こういう警告は、一度読んだだけでは人間の都合のいい部分だけが記憶に残る。「外縁へ行ける」と「深層へ行ける」は違う。似ているようでまったく違う。鍵のかかった扉を開けることと、その扉の隙間から漏れている水音を聞くことくらい違う。
俺たちは今、水漏れを見に行く。
ただし、その扉の向こうが深淵というだけだ。最悪の住宅トラブルである。
第三炉を出て、旧街道の北側へ進むと、道の空気が少しずつ変わっていった。炉の熱が遠ざかり、土と根の匂いが強くなる。石畳は古く、ところどころに黒ずんだ根が食い込んでいる。リーフェ村へ向かった時の穏やかな田舎道とは違う。ここは使われなくなった道だ。だが、完全に死んでいるわけでもない。
ルナは灰衣のフードを深く被り、手は剣の柄に添えていた。
「白銀は?」
俺が聞くと、ルナは少しだけ視線を落とした。
「閉じています。でも、奥の方が少しざわつきます」
「外縁が近いからか」
「たぶん。見られているというより、気づかれている感じです」
「嫌な違いだな」
「はい」
黒鉄外装の内側では、《古代変形機装》が静かに沈黙している。昨日の時点では、根炉殻獣の根に対して青白い拒絶反応を示した。今日の外縁で何が起きるかは分からない。分からないから確認に行く。だが、分からないからといって突っ込んでいいわけでもない。
俺は記録板を開き、現在地と装備状態を入力した。
《外縁確認開始》
《深淵潜行:未受注》
《黒鉄外装:外縁確認用調整済》
《灰衣旅装:白銀通過路細化済》
《根下炉記録要約:所持》
《リーフェ村素材反応記録:所持》
《撤退条件:設定済》
最後の一行を見て、ルナが小さく頷いた。
「撤退条件、ちゃんと書くんですね」
「書かないと忘れる」
「アイズドさんでも?」
「俺だからだ」
進めそうなら進みたくなる。見えそうなら見たくなる。分かりそうなら知りたくなる。そういう癖がある。自覚している分だけましだが、自覚していても止まれない時がある。だから、先に書く。書いたものは、少なくとも後で自分を殴る棒になる。
便利だ。かなり痛いが。
ーーーーー
外縁連絡路の入口は、旧街道の崩れた石壁の奥にあった。
最初はただの根の塊に見えた。だが、近づくと根の表面に細い炉印が浮かぶ。灰緑の線。第三炉の記録にあった補助路の文様と似ているが、少しだけ違う。炉のための印というより、根に飲み込まれた炉印と言った方が近い。
入口の前に立つと、視界に表示が出た。
《フェネキア族管理領域外縁連絡路》
《関連補助記録:根圏外縁・予備確認》
《深層進入不可》
《深淵潜行:未受注》
《入域しますか?》
はい。
いいえ。
この二択ほど信用ならないものもない。
はいを選べば、たいてい面倒が始まる。いいえを選べば、たぶん何も起きない。何も起きなければ安全だ。安全で、効率的で、失うものもない。
だから俺は、少しだけ表示を見つめた。
昨日までなら、ここで笑って「はい」を押したかもしれない。だが、今回は違う。これはクエスト開始ではない。深淵潜行でもない。外縁の確認だ。俺たちは、入るために来たのではなく、戻るために入る。
「確認してから入る」
俺はそう言って、周囲を見た。
入口の根は、左右から絡み合うように閉じている。根の隙間には、黒緑の薄い膜が張っていた。膜の表面には波紋がない。水ではない。だが、近づくと空気が少し重くなる。簡易反応札をかざすと、灰鉄の線が微かに震えた。
「反応、弱」
俺は記録する。
「白銀は?」
「少し引かれます。でも、強くはありません」
「閉じたままでいけるか」
「入口だけなら」
「よし」
俺は表示へ指を伸ばし、はいを選んだ。
根の膜が、音もなく開く。
その奥にあったのは、地下道のような空間だった。石畳は残っているが、左右の壁は根に覆われている。天井からは細い根が垂れ下がり、足元には灰緑の疑似光がかすかに走っていた。明るい。だが、明るいのにどこか暗い。光そのものに、薄い濁りが混ざっている。
俺たちは一歩入った。
背後で、根の膜が閉じる。
閉じ込められた、とは思いたくない。
思いたくないが、音のない閉鎖感は普通に嫌だった。
「まず入口から十歩まで」
俺は言った。
「そこで反応確認。問題なければ二十歩。異常があれば戻る」
「はい」
ルナは短く答えた。
外縁連絡路の空気は、湿っている。だが、普通の湿気ではない。息を吸うたび、頭の奥に薄い膜がかかるような感覚がある。VRの感覚再現だと分かっていても、身体は少し緊張する。
十歩。
問題なし。
二十歩。
簡易反応札が、少し強く震える。
俺は足を止めた。
「ここから先、根鳴りがある」
「聞こえます」
ルナが言った。
耳を澄ませると、低い音があった。遠くで太い弦を弾いたような、あるいは巨大な木がゆっくり軋むような音。外縁の奥から、規則的ではない間隔で響いてくる。
これが根鳴り。
異常増幅かどうかは、まだ分からない。
記録する。
《根鳴り確認》
《強度:弱》
《周期:不規則》
《疑似光:軽度濁り》
《白銀反応:閉鎖状態で微弱》
《黒鉄機装:反応なし》
書き終えた時、前方の石畳がわずかに動いた。
いや、石畳ではない。
石の隙間から、細い根が伸びている。
ーーーーー
根は、最初は一本だけだった。
黒ずんだ細い根。指ほどの太さ。足元の疑似光を吸うように、ゆっくりとこちらへ伸びてくる。敵性反応は出ない。だが、簡易反応札は明らかに震えている。
「下がるな。様子を見る」
俺は盾装を出せるよう左腕に意識を向けた。
根は俺ではなく、ルナの方へ向かっている。
白銀に反応しているのか。いや、今は閉じている。それでも、灰衣旅装の内側にある白銀の気配を拾っているのかもしれない。
ルナが一歩引こうとした瞬間、根の先端が止まった。
彼女の動きに合わせて止まったように見えた。
「動きを見てるな」
「私を、ですか」
「たぶん。ゆっくり右へ」
ルナは小さく頷き、半歩だけ右へずれた。
根も、遅れて右へ曲がった。
嫌な確認が取れた。
白銀そのものではなく、白銀を持つルナの動きに反応している。いや、完全に見ているわけではない。遅い。こちらの動きの後を、なぞるように追っている。
視界に名前が表示された。
淀み芽。
地面の根がさらに二本伸び、黒緑の小さな芽を作る。芽というには不気味すぎる。植物のようでいて、先端が目のない顔のようにも見える。そこから細い根が複数伸び、俺とルナの間を探るように揺れた。
初遭遇。
しかも、かなり嫌なタイプだ。
「白銀は出さない方がいいですか」
「まだ出すな。まず黒鉄で受ける」
俺は盾装へ変形した。
《盾装》。
黒鉄の盾を斜めに構え、ルナへ伸びる根の前に入る。根が盾面に触れた瞬間、黒鉄外装の胸部に薄い圧が来た。打撃ではない。絡んで、引く。内側へ入り込もうとする感覚。
だが、灰鉄留め具が鳴った。
根の力が盾面を滑り、横へ逃げる。完全ではないが、浅い接触ならどうにかなる。きなこもちとグラン親方の調整は効いている。
「黒鉄は浅い接触なら逃がせる」
俺は記録しながら言った。
「戦闘中に記録しています?」
「癖だ」
「危ないです」
「知っている」
淀み芽が、今度は俺の盾に合わせて形を変えた。
細い根が束になり、小さな膜を作る。盾のような形。いや、盾というには薄い。こちらの盾面をなぞっているだけだ。模倣、というほど精度は高くない。だが、学習の気配がある。
長く見せるとまずい。
俺は盾装を維持したまま、前へ出た。受け続けるのではなく、根の支点を押す。淀み芽は膜をこちらへ向けようとするが、動きが遅い。盾面で横へ流し、足元の石畳に押しつける。
その瞬間、ルナの方へもう一本の根が伸びた。
「白銀、細く。一瞬だけ」
「はい」
ルナが剣を半分だけ抜く。
白銀が細く通る。強くはない。灰衣の内側から剣先へ、針のような線が走るだけだ。
淀み芽の反応が変わった。
伸びていた根が、一斉に白銀へ向く。予想通り。だが、勢いが強い。閉じていた時とは比べものにならない。
「すぐ閉じるな。右へ流せ」
「はい」
ルナは白銀を消さず、剣先を右へ動かした。根がそれを追う。その隙に、俺は盾で淀み芽の本体を石畳の灰緑の線へ押し込んだ。炉材線に触れた瞬間、淀み芽の黒緑の光が乱れる。
効く。
外縁の炉材線には、まだ淀みを乱す力が残っている。
「今だ。細く切れ」
ルナが踏み込む。
白銀は広がらない。剣筋だけを細く通り、淀み芽の核らしき黒い点を裂いた。
淀み芽が崩れる。
残った二本の根も、黒い粒になって消えた。
戦闘終了。
表示される経験値は微々たるものだった。ドロップもない。報酬目当てなら最低だ。だが、確認としては十分すぎる。
俺は記録板へ入力する。
《淀み芽、初確認》
《行動:対象の動きを遅れて追従》
《白銀露出時、誘引反応増大》
《黒鉄外装、浅い接触なら逃がし可能》
《灰緑炉材線接触時、淀み反応に乱れ》
《白銀による核切断で消失》
入力を終えた時、背後から声がした。
「ジンさん」
体が止まりかけた。
ーーーーー
声は、はっきり聞こえた。
男の声でも女の声でもない。いや、どちらにも聞こえる。年齢も分からない。だが、呼ばれた名前だけは明確だった。
ジンさん。
今の俺の名前ではない。
白騎士団の軍師だった頃の名前。仕事の名前。誰かの勝利を支えるために、見えない土台であり続けた男の名前。
ルナがすぐにこちらを見た。
「聞こえましたか」
「ああ」
「私にも、少し」
「何と?」
「名前までは分かりません。でも、誰かを呼んでいる感じがしました」
声はまた響いた。
「ジンさん、こっちです」
こっち。
どっちだ。
聞き返してはいけない。応じるな。セレンの警告が頭の奥で鳴る。声に返事をするなとはまだ直接言われていないが、淀みは脆きものを辿ると聞いている。今の呼びかけが、俺の脆い場所を触っていることは分かる。
俺は返事をしなかった。
代わりに記録板を開く。
《音声干渉確認》
《内容:過去名による呼びかけ》
《応答なし》
声は少しだけ揺らいだ。
「ジンさんが見てくれれば、勝てます」
やめろ。
そういう言い方をするな。
見れば勝てる。指示すれば崩れない。全部拾えば、誰かの失敗を消せる。そうやって十年やってきた。そうやって最後には、地味すぎると言われて外された。
ルナが一歩近づいた。
「アイズドさん」
今の名前で呼ばれた。
それだけで、ほんの少し戻る。
「応じません」
ルナは短く言った。
「ああ。応じない」
「戻りますか」
俺は周囲を見た。
淀み芽は倒した。根鳴り、疑似光、白銀反応、黒鉄外装の逃がし、音声干渉。初回確認としては十分だ。これ以上進めば、確認ではなく欲になる。もう少し見たい、もう少し分かりたい、もう少し奥へ。そういう欲は、深淵の周辺では最悪の燃料になる。
「戻る」
俺は言った。
ルナはすぐに頷いた。
背後の声が、少しだけ強くなる。
「まだ、終わっていませんよ」
終わっていない。
そうだろうな。
だが、今日終わらせる必要はない。
俺たちは来た道を戻った。声は何度か呼びかけてきたが、返事はしなかった。途中で、ルナの白銀が何度か揺れた。根が寄ろうとしたのだろう。彼女は消さず、細く保ち、必要な時だけ閉じた。
入口の根膜が見えた時、ようやく少し息が軽くなった。
膜を越えて旧街道側へ戻ると、外縁連絡路の湿った空気が背後に閉じ込められた。
俺はそこで、もう一度クエスト欄を開いた。
《深淵潜行》
《受注条件:レベル90以上》
《現在条件:未達》
《受注不可》
変わっていない。
当然だ。
淀み芽を倒しても、声を無視しても、外縁に一歩入っても、本命クエストは始まらない。俺たちは深淵に潜っていない。潜れないし、潜ってはいけない。
それでいい。
今日の成果は、進んだことではない。
戻ったことだ。
ーーーーー
第三炉へ戻る頃には、夕方になっていた。
きなこもちは作業場で待っていたが、俺たちの顔を見るなり工具を置いた。目が輝く前に、少しだけ警戒が走る。よし。危険物職人が危険物を見て一拍置くようになった。教育の成果である。
「どうだった?」
「外縁に入った。淀み芽と接触。白銀への誘引反応あり。黒鉄外装は浅い根絡みなら逃がせる。灰緑の炉材線に触れさせると淀みが乱れた」
「情報量」
「まだある」
「まだあるんだ」
「声がした」
きなこもちの表情が変わった。
「声?」
「俺の過去名を呼んだ。白騎士団の頃の名前だ」
グラン親方も記録室から出てきていた。俺の言葉を聞いて、眉をひそめる。
「淀みは、記憶や記録にも触れるということですな」
「可能性があります」
「応じましたか」
「応じていません」
ルナが隣で言った。
「アイズドさんは、返事をしませんでした」
その言い方に、少しだけ救われた。
俺は記録板を机に置き、今日の確認内容を共有した。ただし、声の詳細は限定記録にする。白騎士団の名前を第三炉の作業記録へ広げる必要はない。きなこもちも、それ以上は聞かなかった。
偉い。
本当に成長している。
「淀み芽の動きは、真似してる感じ?」
きなこもちが聞く。
「正確には、遅れて追ってくる。こちらの動きをなぞる程度だ。ただ、盾に似た膜を作った」
「学習してるかも」
「長く見せるのは危険だな」
「白銀は?」
ルナが答える。
「出すと寄りました。でも、消すだけだと道も見えにくくなる気がしました。今日は短く出して、右へ流しました」
「うん。いいと思う。消さず、晒さずだね」
「はい」
グラン親方が記録を整理しながら言った。
「初回確認としては、十分でしょう。次に入るなら、声への対応、淀み芽の模倣、炉材線の利用を前提にする必要があります」
「次も入るのか」
きなこもちが少し顔をしかめる。
「入る。ただし、すぐではない」
俺は答えた。
「今日はここまでだ。報告を整理する。外縁の中で長居するのは危ない」
「撤退も記録」
「そうだ」
きなこもちは頷いた。
その言葉が、少しずつ当たり前になってきている。
ーーーーー
夜、俺は第三炉の屋上で記録板を開いていた。
今日の記録は、思ったより重い。
外縁連絡路の入口。根鳴り。疑似光の濁り。淀み芽。白銀への誘引。黒鉄外装の逃がし。炉材線での乱れ。過去名を呼ぶ声。
そして、深淵潜行は未受注のまま。
この最後の一文が、実は一番大事かもしれない。
俺は記録の末尾に追加した。
《本確認により《深淵潜行》の受注状態は変化せず》
《深淵潜行:未受注》
《外縁確認のみ実施》
《進行ではなく、異常確認》
書いておく。
何度でも書いておく。
人間は都合よく忘れる。特に、何かを見つけた時、何かに近づいた時、自分が進んだと思いたくなる。だが、今日の俺たちは進んだのではない。見て、戻った。それだけだ。
それだけで十分だ。
ルナが屋上へ上がってきた。
「ここにいると思いました」
「最近、俺の行動が読まれすぎじゃないか」
「たぶん、分かりやすいです」
「たぶんで刺すな」
ルナは隣に立ち、夜の工房区を見る。
「声、まだ気になりますか」
「気になるな」
「ジンさん、という名前」
「ああ」
「それは、アイズドさんではないんですよね」
「昔の俺ではある」
完全に違うとは言えない。軍師ジンも俺だ。白騎士団で戦場を見て、勝たせ続け、地味すぎると言われて切られた男。それをなかったことにはできない。
だが、今の名前ではない。
「でも、今ここで返事をする名前ではない」
俺は言った。
ルナは頷いた。
「なら、また呼ばれても返事をしないでください」
「分かっている」
「必要なら、私が呼びます」
「何と?」
「アイズドさん、と」
単純だ。
だが、効く。
俺は少しだけ笑った。
「助かる」
「素直ですね」
「今日は疲れている」
「じゃあ、疲れている時は素直なんですね」
「変な学習をするな」
ルナは小さく笑った。
その笑いを聞きながら、俺は外縁連絡路の暗い道を思い出す。根の膜、濁った疑似光、淀み芽、そして声。あそこはまだ入口にすぎない。次に入れば、もっと厄介なものが出るだろう。
だが、今日は戻れた。
声に応じなかった。
白銀を消しきらなかった。
黒鉄は浅い接触を逃がせた。
深淵潜行は、まだ始まっていない。
それらを一つずつ記録する。
最高のクソゲーは、進んだことより戻ったことを試してくるらしい。
なら、こちらも覚えておく。
戻ることは、負けではない。
撤退もまた、記録である。




