崩壊する絶対王者
EHOの世界が、既存のマニュアルが一切通用しない地獄の期間――『探求期』へと突入してから、現実時間で二週間が経過していた。
白騎士団のトップパーティ専用ギルドハウス。
白と銀を基調とした豪奢な会議室の空気は、以前のような勝利とバズに酔いしれる熱狂とは程遠い、重く、淀んだ暗雲に完全に支配されていた。
「どういうことだよ……! なんで、たかが既存のボスの周回すらままならねぇんだよッ!」
沈黙を切り裂いたのは、若きエースであるレオンの苛立ちに満ちた怒号だった。
彼は金髪を乱暴に掻きむしり、会議テーブルを力任せに蹴り上げた。
超大型アップデートにより、EHOのボスたちの行動パターンやギミックは乱数によって完全に書き換えられた。
とはいえ、既存のボスであれば基礎的なステータスは変わらない。白騎士団が今、必死になって既存ボスを周回しようとしているのには、明確な二つの理由があった。
一つは、探求期に入ったことでボスのアイテムドロップテーブルが変更され、未知の強力な装備や素材が落ちるようになっていること。
そしてもう一つが、今世界中で話題を掻っ攫っている『ワールドクエスト(七つの竜種)』の進行に関する、情報の断片が手に入る可能性が高いためだ。
莫大な利益を生むワールドクエスト。企業スポンサーを抱える白騎士団にとって、これに乗り遅れることはチームの死活問題であった。銀縁メガネの代表マネージャー・神崎も、腕を組んだまま胃が痛むような難しい顔で押し黙っている。
「おい、解析班! お前ら、一体毎日何やってんだよ!」
レオンの矛先が、部屋の隅で疲労困憊になっていた数名の解析担当のプレイヤーたちに向けられた。
「探求期に入って二週間だぞ!? 今までなら、この時期にはとっくにボスのタイムライン解析は終わって、完璧なマニュアルが完成してただろ! お前らの仕事が遅せぇせいで、俺の配信の同接もガタ落ちなんだよッ!」
己の実力不足を棚に上げ、見苦しく他責を続けるレオン。
その身勝手な暴言に、ついに限界を迎えた一人の解析班のプレイヤーが、血走った目で立ち上がり、叫び返した。
「ふざけるなッ! 俺たちだって一睡もせずにデータと睨み合ってるんだ! だが、ボスのランダム行動の分岐が多すぎて、計算式が全く追いつかないんだよ!」
「言い訳すんな! 前はできてただろうが!」
「前は俺たちがやってたんじゃない! 今まで……ジンさんが、たった一人で率先して何百回も死に戻りをして、徹夜でデータを集めて完璧なマニュアルを組んでくれていたおかげで、俺たちのボス攻略は成り立っていたんだぞ!!」
解析班の男の悲痛な叫びが、会議室に響き渡った。
『見えざる土台』であった軍師・ジンの圧倒的な処理能力。それが失われた今、残された解析班だけでは、探求期の理不尽なギミックを読み解くことなど到底不可能だったのだ。
だが、レオンはその事実を認めることができなかった。己の輝かしい戦績が、すべてジンの敷いたレールの上で踊っていただけだという真実から、目を背け続けていた。
「ハッ、ジンさんがなんだって? 買い被りすぎなんだよ、あんなおっさん」
レオンは鼻で笑い、軽蔑しきったように吐き捨てた。
「あいつのプレイスキルなんて大したことない。安全圏に引きこもって、チマチマと回復魔法やバフを唱えるだけの、口うるさい姑みたいな奴だったじゃねぇか。あんな地味な奴、今の俺たちには必要ねぇよ」
――その言葉が、彼女の中で張り詰めていた、最後の一線を完全に断ち切った。
「……いい加減にしてッ!!」
会議室の空気を震わせたのは、今まで誰の意見にも逆らえず、いつも部屋の片隅で怯えていた気弱なエルフのヒーラー――ミレイの一喝だった。
「ミレイ……? お前、俺に向かって……」
「ジンさんの見えない努力を、バカにしないでくださいッ!!」
ミレイは立ち上がり、強く握りしめた拳を震わせながら、レオンを真っ直ぐに睨み据えた。
垂れ下がっていたエルフの耳が、怒りと悲しみでピンと張り詰めている。琥珀色の瞳には、今まで流せなかった悔し涙が溢れそうに揺れていた。
「レオン君が前線で派手に活躍できたのは、ジンさんが敵のヘイトを完璧に管理して、あなたが絶対に被弾しないように立ち回ってくれていたからです! 神崎さんがスポンサーを集められたのも、ジンさんが裏でアイテムの相場を計算して、ギルドの資金を維持してくれていたからです!」
ミレイの言葉は、会議室にいる全員の急所を的確に抉り出していった。
「ジンさんは、誰よりも不器用で、口が悪かったかもしれない。でも、誰よりも私たちの生存を優先して、自分の身を削って戦ってくれていた……本当のプロでした! それを理解しようともせず、数字とバズに目が眩んで彼を追い出した結果が……この惨状じゃないですか!!」
魂の底から絞り出されたミレイの気迫。
それは、利益至上主義に染まりきっていた白騎士団というギルドの『病巣』を、白日の下に引きずり出す強烈な一撃だった。
「ッ……この、俺に向かって……!」
レオンは顔を真っ赤にして反論しようとした。だが、ミレイの涙ながらの正論と、周囲の解析班たちがミレイに同調するような冷ややかな視線を向けていることに気づき、言葉を詰まらせた。
己の虚栄心を守りきれなくなったレオンは、激しい動揺と不快感を誤魔化すように、舌打ちをした。
「……チッ! やってらんねぇ! 勝手に喚いてろ、俺は降りる!」
レオンは逃げるようにシステムメニューを乱暴に叩き出し、ログアウトのボタンを押した。
光の粒子となって逃亡したエースの姿を見て、マネージャーの神崎も深く頭を抱え、重い沈黙の中に沈み込んでいった。
絶対王者と呼ばれた白騎士団が、内部から完全に瓦解した瞬間であった。
***
会議が解散し、誰もいなくなった静かなギルドハウスの自室。
ミレイは純白のローブを握りしめ、ベッドの上に力なく座り込んでいた。
初めて、自分の意見を言えた。
ジンを追放する会議の時、レオンたちの勢いに逆らえず、俯くことしかできなかった己の弱さを、ようやく少しだけ払拭できたような気がした。
だが、どれだけ正論を叫んでも、失われたものは二度と戻ってこない。
ギルドを去っていく時の、彼のあの冷たい瞳と、背中。
その背中に声をかけて引き留めることができなかった後悔が、ミレイの胸を今も鋭く締め付けている。
「ジン、さん……」
ミレイはぽつりと呟き、両手で顔を覆った。
今、彼はどこで何をしているのだろうか。
あの不器用で、誰よりも頼もしかった背中は、今もどこかの戦場で、誰かを護るために泥に塗れているのだろうか。
「戻ってきて……。お願い、ジンさん……私、まだ、あなたにちゃんとお礼も言えてないのに……」
静まり返った豪奢な部屋に、エルフの少女の切実な祈りと、静かな啜り泣きだけがいつまでも響いていた。
彼女の願いがもう二度と届かないことを、この世界の誰よりも、ミレイ自身が一番痛いほどに理解していたからこそ、その涙は止まることがなかった。




