三ヶ月の命運と、失われた盤石
白と銀を基調とした、目も眩むような豪奢な内装。
EHO最大規模の覇権ギルド『オーダー・オブ・ナイツ(白騎士団)』が所有するトップパーティ専用のギルドハウスの片隅で、ミレイ――水瀬 美怜は、誰にも聞こえないような小さな溜め息をこぼした。
神聖系ヒーラーの証である純白のローブに身を包んだ彼女は、『エルフ(森精族)』のプレイヤーである。
淡いミルクティー色のふんわりとしたボブカットの隙間からは、エルフ特有の長く尖った耳が覗いている。しかし、普段はピンと上を向いているはずのその耳は、今、明確な『不安』と『絶望』に苛まれ、力なく下へと垂れ下がっていた。
「おい、見たかよ今の同接! 俺の《イアイカスター(抜刀術士)》の抜刀コンボ配信、十万人超えだぜ! やっぱり時代は『魅せるプレイ』だな!」
「素晴らしいよ、レオン君。スポンサーの役員たちも大喜びだ。この調子で、明日の大型アップデート後も派手なクリップを量産してくれたまえ」
長机の向かい側では、派手な金髪をツーブロックにした若手エースのレオンと、銀縁メガネを光らせる代表マネージャーの神崎が、空中に展開した配信のアーカイブ映像を見ながら下品な笑い声を上げている。
彼らの頭の中には、目先の『数字』と『バズ』しかない。
ミレイはギュッとローブの裾を握りしめ、琥珀色の瞳を伏せた。
――明日。
EHOの世界は、最も恐ろしく、そして最も熱狂的な【周期】を迎える。
この『エターナル・ホライゾン・オンライン』という仮想世界は、世界の管理者である超高度AI『アルファ』によって、厳格な『三ヶ月のサイクル』で統制されている。
三ヶ月に一度行われる超大型アップデート。
それは、単なる新しいマップやアイテムの追加ではない。既存のボスの行動パターン(タイムライン)やギミックが乱数によって完全に書き換えられ、これまでプレイヤーたちが築き上げてきた『最適解』という名の攻略マニュアルが根底から無効化され、既存のボスの容易な周回すら不可能になるのだ。
そして何より、全プレイヤー、全企業プロチームが血眼になる最大の理由が【ワールドクエスト】の更新である。
EHOには、公式に『金銭換算システム』が存在する。
ゲーム内で得た希少素材や通貨は、暗号資産を経由して現実の莫大な富へと直結する。中でも、発生条件が隠されたワールドクエストを最初にクリアした者には、ゲーム内での名誉だけでなく、次期パッチの『完全な先行情報』が与えられる。
情報がそのまま金になるこの世界において、それは現実の通貨にして『数億』、あるいはそれ以上の価値を持つ。大企業がこぞってプロチームのスポンサーにつくのは、この莫大な利権を奪い合うためなのだ。
だからこそ、アップデート直後の第一ヶ月目――誰もギミックの法則性がわからず、挑めば必ず理不尽な即死攻撃に蹂躙される『探求期』の地獄は、プロにとって絶対に負けられない熾烈な情報戦の始まりを意味する。
これまでは、その地獄をたった一人で背負ってくれていた人がいた。
(……ジン、さん)
ミレイの脳裏に、かつてこの場に座っていた、黒髪の長身の青年――前衛アナリストの『ジン』の横顔が浮かぶ。
EHOにおける最高難易度レイドバトルは、四人パーティを二つ合わせた『八人』での挑戦を基本とする。
本来、その極悪なギミックの数々を解明し、パーティ全員が対処可能になるまでには、トッププロのチームであっても『一ヶ月半』の時間を要するのが常識だった。
だが、ジンは違った。彼はその常識を嘲笑うかのように、『一ヶ月も経たずに』完全攻略マニュアルを完成させるという、馬鹿げた記録を保持していた。
その裏にあったのは、常軌を逸したストイックさと狂気的な解析作業だ。
ジンは、自分以外の七つの枠に、クランのサブメンバーや解析班を含めた十二人の人員を配置し、彼らを疲労度に合わせて『交代』させながら、自身は一睡もせずに最前線に立ち続けた。
何十回、何百回という死に戻りを繰り返し、自らのアバターの死を代償にして敵の攻撃フレームとダメージデータを収集し続ける。そのとち狂った行動の果てに抽出された血と汗の結晶が、レオンたちが当たり前のように享受していた『マニュアル』だったのだ。
それだけではない。
(……ジンさんが抜けた後、ギルドの『金融操作』は誰がやるの?)
ミレイの不安は、戦闘面だけに留まらなかった。
リアルマネーが直結するこの世界において、ギルドの資産を運用し、オークションハウスでの素材の相場をコントロールし、スポンサーから要求される利益率を維持するための『資金繰り(マネジメント)』。
それら裏方の膨大な事務作業すらも、すべてジンが一人で完璧にこなしていたのだ。
だが、現在のギルドはどうだ。
情報戦の要を失ったにもかかわらず、新体制の主要メンバーたちはそれに気づかず、怠慢と見栄え重視のプレイにしか注力していない。後釜を育てるどころか、誰もジンのやっていた作業の全容すら把握していないのだ。
「あーあ、明日のアプデが待ち遠しいぜ。新ボスのワールドファースト討伐なんて、俺の反射神経にかかれば初見で余裕だろ。バズりすぎてサーバー落ちちゃうかもな!」
レオンが、ふんぞり返ってエナジードリンクをごくりと飲み干す。
「ああ、期待しているよ。あの『計算ばかりしているおっさん』がいなくなって、チームの動きもスピーディで華やかになったからね。今の君たちなら、どんな未知のギミックでも一蹴できるはずだ。資金の方も、君のグッズ売上でどうにでもなるさ」
神崎もまた、一切の危機感を抱かずにグラスを掲げた。
(……違う。違うんです)
ミレイは、泣き出したい衝動を必死に堪えていた。
「あの……神崎マネージャー、レオン君」
ミレイは勇気を振り絞り、震える声で進言した。
「明日のアップデートに向けて……その、もう少し情報の収集や、海外の解析班との連携を密にした方が良いのではないでしょうか。それに、ギルドの資金運用についても、まだ誰も引き継ぎを――」
「あ?」
レオンが、不機嫌そうに鋭い吊り目をミレイに向けた。
「なんだよミレイ。俺のプレイに不満があるってのか?」
「そ、そういうわけじゃ……」
「お前、あの地味なおっさんのこと、やたら慕ってたもんなぁ。そんなに心配なら、お前は後ろで指くわえて見てろよ。ギミックなんて、俺が見てから全部避けて、ボスの首を刎ねてやるからよ」
「……っ」
「ミレイ君。君の不安もわかるが、少し神経質になりすぎだよ」
神崎が、冷たい声でピシャリと切り捨てる。
「我々はEHO最強のトップチームだ。プロとしての誇りを持ちたまえ。事前の情報戦などという地味な作業に時間とコストをかけるより、最高のコンディションで明日の配信に臨むことが優先だ」
(……もう、駄目だ)
ミレイは深く俯き、エルフの長い耳をペタリと寝かせた。これ以上言葉を続けることを諦めたのだ。
彼らは完全に『最適化の罠』に陥っている。
自分たちが誰の掌の上で最強を演じられていたのか、その真実を理解しようともしない。
ジンという絶対的な基盤を失い、見栄えの良さ(配信映え)という空虚な城を築いているだけの彼らが、明日から始まる本当の『地獄(探求期)』を生き残れるはずがない。
ギルドハウスの窓の外。
EHOの仮想世界の空が、夕暮れの茜色から、夜の深い闇へと沈んでいく。
明日のアップデート後、世界は一変する。
既存のボスは姿を変え、未知の古代遺跡が解放され、誰も見たことのない極悪なギミックを持つボスたちが、プレイヤーたちに理不尽な暴力を振るうだろう。
マニュアルのない世界で、このチームは確実に崩壊する。
『……ミレイは、そのままでいい。回復のタイミングは全部俺が合わせる』
いつかの激戦の中で、彼がボイスチャット越しに言ってくれた、低く穏やかな声を思い出す。
どんな窮地でも、彼がいれば絶対に全滅することはなかった。彼がすべてを計算し、背負ってくれていたから。
彼が追放される時、神崎やレオンの勢いに逆らえず、彼を庇うことができなかった自分の弱さが、今更になってミレイの胸を鋭く締め付ける。
(ジンさん……)
純白のローブの胸元を強く握りしめ、ミレイは静かに目を閉じた。
かつて彼が、本当に親しい身内にだけ漏らしていた、彼が一番好きだったという名前。
(ジンさん……アイズさんがいれば、こんなことにはならなかったのに……っ)
後悔の念と共に、彼女の頬を冷たい仮想の涙が一筋、伝い落ちていった。
明日から始まる、白騎士団の悲惨な没落の運命。
それを唯一予見していたのは、かつての軍師の本当の凄さを一番近くで見ていた、一人の気弱なエルフのヒーラーだけであった。




