役割破壊
「いいか。俺が前に出ているあいだ、お前は横か後ろから殴れ。絶対に正面には立つな」
アイズドの指示は、短くて分かりやすかった。
少なくとも、言葉の上では。
ルナは支給品の片手剣を握り直し、こくこくと頷いた。昨日の夜、どうにかエリュシオンまで戻ったあと、帰還アイテムの使い方、マップの見方、公開設定、録画の扱い、知らない人間から送られてくる怪しい取引申請の断り方などを一通り教わった。
その結果分かったことがある。
このゲームは、綺麗な景色を歩き回るだけの世界ではなかった。
設定を一つ間違えると、知らないうちに自分の位置情報が公開される。何気なく撮った映像が、現実のお金に換わる。知らない相手から送られてきたリンクを開くだけで、詐欺まがいの取引に誘導されることもある。
ファンタジーの皮を被っているのに、中身は妙に現実くさい。
ルナはそれを知り、少しだけ怖くなった。
そして同時に、目の前の男が言っていることは、たぶん聞いたほうがいいのだと理解した。
「分かったか」
「はい。アイズドさんが前。私は横か後ろ。正面には立たない」
「さんはいらないと言った」
「あ、はい。アイズドが前。私は横か後ろ。正面には立たない」
「返事だけは優秀だな」
「返事以外も、これから優秀になります」
「そこは今すぐ優秀になってほしいんだが」
アイズドは小さく息を吐いた。
立っているのは、エリュシオン西方の岩場より少し奥へ入った谷だった。昨日ルナが迷い込んだ場所よりも地形が分かりやすく、魔物の湧きも比較的安定している。初心者が来るには少し危ないが、アイズドいわく「無茶ではあるが無理ではない」らしい。
その差がルナにはまだよく分からない。
谷の奥に、低い唸り声が響いた。
岩陰から現れたのは、双牙の岩熊。
全身を灰色の岩皮で覆った、大型の熊型魔物だった。肩の高さだけでルナの背丈ほどある。口元からは左右に長い牙が伸び、地面を踏むたびに小石が跳ねた。
レベル表示は、ルナよりかなり上。
たぶん、普通の新規プレイヤー二人で挑む相手ではない。
だが隣のアイズドは、少しも慌てていなかった。
「まず見ろ。すぐ殴るな」
「見る?」
「ああ。あいつの攻撃がどこから来るか、どこまで届くか、どの瞬間なら近づけるか。分からないなら、分からないまま突っ込むな」
「はい」
「返事はいい。足が勝手に前へ出るなよ」
「……はい」
「今の間は何だ」
「ちょっと出そうでした」
「正直なのはいいが、出すな」
岩熊が吠えた。
音が谷に反響する。
ルナの肩がびくりと跳ねるより早く、アイズドが前へ出た。
左腕の黒銀の装甲が、音を立てて動く。さっきまでただの腕当てに見えていたそれが、いくつもの金属片にほどけ、前腕を覆う盾へと変わった。
《盾装》。
ルナはその名前を、昨日の説明で聞いている。敵の攻撃を受けるための形。アイズドが今使える三つの形態のひとつ。
岩熊の前足が振り下ろされた。
大きい。
速い。
怖い。
そう思った瞬間には、アイズドの盾がその一撃を受けていた。
いや、受け止めた、というには少し違った。
盾は正面からぶつかっていない。斜めに入って、岩熊の力を横へ逃がしている。アイズドの身体が半歩だけ沈み、足元の砂が散った。けれど、彼は倒れない。むしろ岩熊の前足のほうが、わずかに流れていた。
「横!」
短い指示。
ルナは慌てて走った。
岩熊の正面ではなく、脇腹へ。言われたとおりの位置に回り込む。支給品の片手剣を両手で握り、思い切り振る。
当たった。
金属が岩を叩くような鈍い音。
ダメージ表示は、びっくりするほど小さかった。
「えっ、硬い!」
「腹じゃない。前足の付け根を狙え。動かす場所は薄い」
「前足の、付け根!」
言われた場所を見ようとする。
けれど、岩熊はじっとしてくれない。前足を振る。身体を捻る。尻尾が揺れる。アイズドが盾で注意を引いているはずなのに、ルナの目には全部がいっぺんに動いて見えた。
それでも、アイズドは止まらない。
盾だった左腕が、次の瞬間には剣へ変わっていた。
《剣装》。
黒銀の刃が岩熊の前足を浅く切る。派手な傷ではない。だが、岩熊の動きが一瞬だけ鈍った。
続けて、アイズドは後ろへ下がる。
剣が解ける。
腕の上に細身の射出機構が組み上がる。
《射装》。
青白い照準光が走り、岩熊の膝にあたる部分へ三発の弾が撃ち込まれた。岩熊が低く唸り、重心を崩す。
盾。
剣。
射。
また盾。
ルナは、目で追うだけで精一杯だった。
昨日、遠くから見たときもすごいと思った。だが、近くで見るとまるで違う。武器が変わるたび、アイズドの立ち位置も、間合いも、敵との関係も変わっている。ただ武器を持ち替えているのではない。戦い方そのものが切り替わっている。
前で受ける人。
横から削る人。
離れて動きを止める人。
その全部が、一人の中で入れ替わっていた。
まるで、一人なのに一人じゃない。
ルナは思わず足を止めかけた。
「止まるな」
アイズドの声が飛ぶ。
「見てる暇があるなら、熊の足を見ろ。攻撃する気がないなら、せめて死なない位置にいろ」
「はいっ!」
ルナは慌てて動く。
岩熊の横へ回る。剣を振る。浅い。もう一度。少しだけダメージが増えた。前足の付け根。動く場所。アイズドの言った意味が、なんとなく分かる。
岩で覆われた魔物にも、全部が同じ硬さではない。
動く場所は薄い。
曲がる場所は脆い。
そこを狙えば、少しだけ通る。
ルナは三度目の斬撃を入れようとして、ふと背筋に冷たいものを感じた。
ぞわり。
首の後ろが、粟立つ。
音ではない。
表示でもない。
ただ、身体が先に気づいた。
来る。
そう思った瞬間、岩熊の尻尾が死角から薙ぎ払われた。
ーーーーーー
考える時間はなかった。
知識もない。
岩熊の尻尾に攻撃判定があることも、どのタイミングで振ってくるのかも、ルナは知らなかった。チュートリアルでは習っていない。攻略動画も見ていない。そもそも、この魔物の名前をちゃんと覚えたのも、ついさっきだ。
それでも、身体は動いていた。
ルナは半歩だけ、後ろへ重心を抜いた。
跳ぶのではない。
大きく避けるのでもない。
足裏の圧をほんの少し後ろへ逃がし、上体を遅らせる。尻尾が鼻先をかすめ、空を切った。風圧で前髪が揺れる。サファイアブルーの瞳のすぐ前を、岩の尾が通り過ぎていく。
当たらなかった。
当たる気が、しなかった。
気がついたら、避けていた。
「……あれ?」
ルナ自身が、一番きょとんとしていた。
道場で何百回も繰り返した感覚に似ていた。
相手の拳を見るな。
足を見るな。
肩を見るな。
全部を見ろ。
動く前には、必ず起こりがある。
祖父の声が、ふと頭の奥をよぎる。
現実の道場と、この仮想の谷はまるで違う。相手は人間ではなく、岩の熊だ。武器も、スキルも、ゲームのシステムも、ルナには何ひとつ分からない。
それなのに、動く前の気配だけは同じだった。
気配。
重心。
間。
言葉にすると曖昧だが、身体は知っている。
「ルナ、下がりすぎるな。そこは次の突進の線だ」
「あ、はい!」
アイズドの声で、ルナは我に返った。
気づけば、岩熊は向きを変えかけていた。尻尾を避けたルナを追おうとしている。真正面に立てば危ない。昨日から何度も言われたことだ。
その瞬間、アイズドの《射装》が岩熊の顔面を撃った。
小さなダメージ。
だが、岩熊の注意がアイズドへ戻る。
「今の位置でいい。足だけ狙え」
「はい!」
ルナは息を吸い、もう一度踏み込んだ。
怖くないわけではない。
だが、さっきより少しだけ見える。
岩熊が前足を引く。
なら、振り下ろし。
肩が沈む。
なら、突進。
尻尾の根元が揺れる。
なら、薙ぎ払い。
全部が分かるわけではない。むしろ、ほとんど分からない。けれど、一瞬だけ空気が変わる。その一瞬だけは、ルナの身体が先に反応した。
剣を振る。
避ける。
下がる。
また踏み込む。
ダメージは小さい。
スキルもまともに使えていない。
それでも、当たらない位置へ自然に身体が逃げる。
岩熊の苛立つような唸り声が、谷に響いた。
アイズドは、それを見ていた。
盾で受けながら。
剣で足を崩しながら。
射撃でヘイトを取り戻しながら。
その視線だけは、ルナの動きを追っていた。
ーーーーーー
双牙の岩熊が光になって崩れた頃、俺は静かに息を整えていた。
戦闘そのものは、難しくなかった。
昨日の《古代変形機装》の試運転に比べれば、まだだいぶ単純だ。相手は一体。地形も悪くない。ルナに危ない位置へ出させないよう調整する必要はあったが、それも白騎士団で若手の面倒を見ていた頃に比べれば軽い。
問題は、隣でぽかんとしている初心者のほうだった。
「アイズド、今の、何してたんですか?」
ルナが目を丸くして詰め寄ってくる。
「盾になったり、剣になったり、遠くから撃ったり。あれ、全部同じ人ですよね? 途中で入れ替わってませんよね?」
「入れ替わってたら怖いだろ」
「でも、そう見えました。一人なのに、一人じゃないみたいで」
「それは、だいたい合ってる」
俺は地面に落ちていた細い枝を拾い、砂地に簡単な図を描いた。
円を一つ。
その前に、大きな熊の絵。
我ながら下手だった。
ルナが少しだけ笑いをこらえた顔をしたので、俺は枝を止めた。
「何だ」
「いえ、熊がちょっと猫みたいだなって」
「説明に絵心は必要ない」
「はい」
「笑うな」
「笑ってないです」
笑っている。
だが、話が進まないので無視した。
「パーティ戦ってのは、普通、役割を分けて組む。まず敵の攻撃を引き受けて、前で受け止める役。これがタンクだ」
俺は熊の正面に丸を描く。
「さっき俺が盾で岩熊の攻撃を受けていただろう。あれがタンクの動きに近い」
「受け止める係、ですね」
「そうだ。次に、敵を削る役。アタッカー。近づいて斬る近接もいれば、離れて撃つ遠距離や魔法職もいる。さっきのお前は、一応この枠だ」
「一応」
「一応だ」
「そこ、二回言わなくてもいいと思います」
「大事なことだからな」
ルナは少しだけ唇を尖らせた。
俺は続けて、別の丸を後ろに描く。
「それから、味方の傷を治す役。ヒーラー。今回は俺が回復薬を使っただけで、まだ機装の形態としては使えない。だが、本来のパーティなら必須に近い」
「受ける人、削る人、治す人」
「ざっくり言えばな。実際には支援役や妨害役、召喚、設置、指揮系もあるが、最初はその三つでいい」
ルナは真剣な顔で、地面の図を見つめている。
理解しているのかどうかは怪しい。
ただ、聞く気はあるらしい。
「で、ここが肝心なんだが」
俺は三つの丸の間に、枝で線を引いた。
「普通は、この役割を一人で全部はやれない。タンクはタンクの装備とスキルで敵を受ける。アタッカーは火力を出す。ヒーラーは味方を治す。それぞれ得意なことが違うし、待機時間も、ステータスも、装備も違う。だから複数人でパーティを組む」
「一人だと、足りないから?」
「そうだ。一人が攻撃している間に守る奴がいる。一人が傷ついたら治す奴がいる。誰かの手が空かない時間を、別の誰かの手で埋める。それがパーティの基本だ」
「じゃあ、アイズドは」
ルナが俺の左腕を見る。
初期防具の袖に隠れているが、その下には《古代変形機装》がある。
「壁を無視してる」
俺は袖の上から機装を軽く叩いた。
「変形で戦闘特性を切り替える。受けたいときは盾。削りたいときは剣。距離を取りたいときは射撃。本来なら別々の人間が分担する役割を、一人の中で切り替えている。だから、お前の目には何が起きているか分からなかった。複数人分の動きが、一人の身体で入れ替わっていたからだ」
ルナはしばらく口を半開きにしていた。
それから、ぱっと顔を輝かせる。
「すっごい。じゃあアイズドは、一人でパーティなんですね」
「言い方は雑だが、まあ、今のところはそういう理解でいい」
「一人パーティ」
「変な呼び方を定着させるな」
「でも、分かりやすいです」
「分かりやすさには、たいてい大事なものが抜け落ちてる」
「難しいです」
「そういうことだ」
ルナは、分かったような分かっていないような顔で頷いた。
まあ、最初はそれでいい。
この世界の戦闘は、いきなり全部理解できるものではない。ロール、ヘイト、待機時間、硬直、スキル倍率、属性、装備補正、地形、敵の行動分岐。知るべきことは多い。
だが、知らなくても見えるものはある。
俺は、さっきのルナの回避を思い出していた。
ーーーーーー
ルナの斬撃は、はっきり言って下手だった。
スキルの使い方も甘い。間合いの詰め方も危なっかしい。敵の弱点部位を狙えと言っても、最初は硬い腹を叩いていた。ヘイトの概念も、立ち位置の意味も、まだほとんど分かっていない。
知識で言えば、完全に初心者。
だが、あの回避だけは違った。
岩熊の尻尾。
死角から、予兆表示の出ない角度で薙がれた一撃。俺は岩熊のモーションを見ていたから来ると分かったが、ルナの位置からではかなり見づらかったはずだ。初心者なら、普通に食らう。回避しようとして大きく跳び、次の突進の線に入ることも多い。
だが、ルナは半歩だけ重心を抜いた。
最小限。
ほとんど無駄のない避け方。
あれは、ゲーム知識ではない。
身体が先に答えを取っている。
俺が盤面を読んで、敵の行動を予測し、最適な位置へ動くのとは違う。ルナは理屈を組み立てる前に、危険な線から身体を外していた。
頭で計算する俺。
身体で答えに触れるルナ。
種類が、まるで違う。
「ルナ」
「はい」
「さっきの尻尾、なんで避けられた?」
ルナは真剣な顔で考え込んだ。
眉を寄せ、視線を右上に向け、何かを言語化しようとしている。だが、しばらくして困ったように笑った。
「避けたく、なったから?」
「説明が終わってるな」
「すみません。でも、本当にそんな感じでした。あ、このままだと当たるなって、身体が勝手に」
「見えてたのか」
「見えてた、というか……動く前に、ちょっとだけ分かるんです。現実でも、相手が踏み込む前に、こう、空気が変わるみたいなことがあって」
「祖父の道場で習ったやつか」
「はい。おじいちゃんは、起こりを見ろって言ってました。でも、私はまだ全然で。よく怒られてました」
「怒られてそれなら、怒ってた側は相当見る目が厳しいな」
「そうなんですか?」
「そうだ」
本人は分かっていない。
自分が何をしたのかも、どれだけ妙なことをしているのかも。
俺は思わず笑ってしまった。
とんでもないものを拾ったという確信が、また一段濃くなる。
ゲームの知識はない。
ネットリテラシーも怪しい。
録画の危険性も知らない。
地図の見方もまだ危うい。
だが、完全没入型VRにおいて、身体感覚は武器になる。特に近接職では、ほんの一歩の差が生死を分ける。スキルを押すタイミング、踏み込みの角度、敵の起こりを読む感覚。そういうものは、攻略サイトを読んだだけでは身につかない。
ルナは、そこに最初から手が届きかけている。
「お前、向いてるジョブがあるかもしれないな」
「ジョブ?」
「ああ。理屈を積むより、身体で殴る系のやつだ」
「それ、褒めてますか?」
「かなり褒めてる」
「身体で殴る系……」
ルナは自分の手に握った支給品の片手剣を見下ろした。
「アイズドみたいな、すごいジョブですか?」
「俺のはやめとけ」
「どうしてですか?」
「あれは人を壊す」
即答すると、ルナは少し目を丸くした。
冗談ではない。
《古代変形機装》は、理論値だけなら異常だ。だが、人間に扱わせる前提をしていない。三十本の時計を見ながら、変形硬直と装備補正と敵の行動を同時に処理する。あれを面白がるのは、正直かなりどうかしている。
ルナに向いているのは、たぶんもっと真っ直ぐなものだ。
身体の反応を殺さず、間合いと踏み込みを火力へ変える職。
攻撃を避け、受け流し、隙を突く。
知識より感覚が先に走るタイプの近接職。
俺は谷の奥を見た。
「お前のは、たぶん、もっと真っ直ぐなやつだ。避けて、踏み込んで、斬る。そういう職のほうが合う」
「真っ直ぐ……」
「まあ、まずは基本からだ。今日の時点では、敵の正面に立たなかっただけで合格にしてやる」
「やった。合格です」
「赤点回避レベルだ」
「合格は合格です」
「前向きだな」
「はい。前向きに初心者です」
「それはあまり誇るな」
ルナは笑った。
谷の風が、彼女の白銀の髪を揺らす。
俺は地面に描いた図を、靴の先で軽く消した。タンク、アタッカー、ヒーラー。役割の壁。パーティの基本。彼女が覚えることは山ほどある。
だが、最初の一歩としては悪くない。
少なくとも、さっきの岩熊戦で一つだけ分かった。
俺は世界を盤面として見る。
ルナは、盤面になる前の一瞬を身体で感じる。
その二つが並んだとき、何が起きるのか。
まだ分からない。
分からないから、面白い。
「次は、もう少し弱い相手で基礎練習だな」
「えっ、今のより弱いんですか?」
「普通は逆だ。初心者は弱い相手からやる」
「でも、倒せましたよ?」
「俺がいたからな」
「じゃあ、アイズドがいれば大丈夫ですね」
「その発想は危険だから、今すぐ捨てろ」
ルナはまた、元気よく「はい」と返事をした。
たぶん、半分くらいしか分かっていない。
俺は小さく息を吐き、歩き出す。
後ろから、ルナが軽い足取りでついてくる。
面倒な初心者。
数千万の録画爆弾を握っていた危険人物。
そして、たぶん近接戦闘の才能を持つ少女。
拾ったものの値段は、まだ分からない。
だが少なくとも、五十万円の産廃ジョブと同じくらいには、退屈しない予感がした。




