黒鉄と灰衣の噂
噂というものは、本人の知らないところで勝手に育つ。
事実という骨に、誰かの推測という肉がつき、面白がりの尾ひれが生え、最後には元の生き物が何だったのか分からない怪物になる。
白騎士団にいた頃もそうだった。レオンが一撃でボスの装甲を割った、という話は事実だったが、そこから「レオンには隠し補正がある」「運営に優遇されている」「軍師の指示なんて要らない」「むしろジンが火力を抑えている」などと、妙な方向へ膨らんでいった。噂は自由だ。自由すぎて、たまに本人の人格権を裸足で踏み抜いてくる。
そして今、黒鉄と灰衣も、その自由すぎるものに囲まれ始めていた。
黒鉄の重装騎士。灰衣の旅剣士。グレイム領の第三炉に出入りし、リーフェ村の素材評価を変え、旧採石場で鉱石獣を倒し、素材札制度に関わり、セレンへの報告書まで作った匿名の二人組。客観的に見ると、かなり怪しい。いや、かなりではない。普通に怪しい。
正体不明の重装騎士と、顔を隠した灰色の剣士が、地方領の素材流通と古代炉記録に首を突っ込んでいる。説明だけ聞くと、陰謀側の人間に見える。実際は、面倒に巻き込まれた元プロ軍師と白銀を隠した旅剣士なのだが、そんな事情は外から見えない。見えないものは、勝手に補われる。そして補った人間は、だいたい楽しそうだ。
第三炉の朝、黒鉄外装の左腰調整を終えた俺は、作業台の横で記録板を確認していた。灰鉄留め具の角度、腰帯の逃げ、射装時の腕部覆い、全部の再調整が入っている。地味な記録だ。かなり大事だが、読んで楽しいものではない。
そう思っていたら、きなこもちが横から別の記録板を差し出してきた。
「黒鉄さん、見て」
「何だ」
「噂まとめ」
「見たくない」
「即答」
「見たくないものを見せるな」
「でも、見た方がいいよ。面白いから」
「面白い噂は、本人にとって面白くない」
俺の拒否を聞かなかったことにして、きなこもちは記録板を机に置いた。そこには、グレイム領の掲示板やプレイヤー間の情報交換から拾ったらしい書き込みが並んでいる。
《黒鉄の重装騎士、第三炉の裏番説》
《灰衣の旅剣士、白銀系ユニーク持ち説》
《リーフェ村素材高騰の黒幕》
《第三炉で未公開レシピが出たらしい》
《黒鉄、重装騎士なのに動きが変》
《盾職かと思ったら腕から何か撃ったってマジ?》
《灰衣、顔見えないけど絶対美少女》
最後のやつはどうでもいい。いや、どうでもよくないかもしれないが、今は置いておく。問題は黒鉄の方だ。
重装騎士なのに動きが変。腕から何か撃った。そこまで見られている。《古代変形機装》の名前や仕組みまでは出ていない。剣装、盾装、射装を切り替える変形武器だとまでは知られていない。だが、違和感は拾われている。非常にまずい。
「どこで見られた」
「旧採石場の近くにいた採取プレイヤーじゃないかな。距離はあったみたいだけど、黒鉄さんが腕を構えたのは見えたっぽい」
「射装か」
「たぶん」
やはり射装は露見リスクが高い。一発牽制なら誤魔化せると思っていたが、遠目でも「腕から何か撃った」くらいには見えるらしい。重装騎士が腕部投射具を使うこと自体は珍しくない。だが、そこに第三炉、古代書庫、リーフェ村素材の噂が重なると、ただの腕部投射具では済まなくなる。
人は関連づける。関連がなくても繋げる。繋げた方が面白いからだ。
ルナが記録板を覗き込んだ。フードは外しているが、第三炉内なので問題ない。白銀の髪は炉の光を受けて淡く光っている。
「私のことも、書かれていますね」
「気にするな」
「絶対美少女、って」
「気にするな」
「でも、顔は見られていません」
「だから気にするな」
きなこもちがにやにやする。
「ルナちゃん、灰衣でも美少女オーラ出てるんだよ」
「オーラは困ります」
「白銀だからね」
「困ります」
ルナは本気で困っている。茶化すな、危険物。
俺は記録板をスクロールした。噂はさらに続く。
《黒鉄と灰衣、グレイム領限定NPC説》
《いやプレイヤーだろ。動きがプレイヤー》
《白騎士団関係者じゃない?》
そこで指が止まった。
白騎士団。まだ具体名は出ていない。ジンという名前もない。だが、嫌な線だ。黒鉄の動きが変、戦場の管理がうまい、素材流通や記録にも詳しい、第三炉で裏方のように動いている。そういう要素が、元プロ軍師のジンへ繋がる可能性はある。
俺は、まだアイズドとして遊んでいたい。ジンに戻る気はない。だが、噂はそんな個人の都合を尊重しない。勝手に嗅ぎつけ、勝手に名札を貼り、勝手に過去を引きずり出す。
「黒鉄さん?」
きなこもちが俺の顔を見た。
「そこ、気になる?」
「少しな」
「白騎士団関係者ってやつ?」
「ああ」
「本当に関係あるの?」
きなこもちの問いは軽かった。だが、ルナの視線が少しだけ動いた。彼女は、俺が元白騎士団の軍師だったことをまだ詳しくは知らない。ただ、俺が過去に何かを抱えていることは知っている。セレンの言葉もある。淀みは、脆きものを辿る。
いつか話す必要がある。だが、今ここで軽く明かす話ではない。
「昔、少しな」
俺は短く答えた。
きなこもちが目を細める。
「少し、ね」
「少しだ」
「黒鉄さんの少し、信用できない」
「するな」
「自分で言う?」
「信用されると困る」
軽口で流す。流しきれたかは分からない。ルナは何も聞かなかった。その沈黙が、少しありがたかった。
ーーーーー
昼前、第三炉の前に外部プレイヤーが来た。
五人組。全員がそれなりに装備を整えている。レベル帯はおそらく四十台前後。前衛二、斥候一、後衛二。編成としては悪くない。ただ、歩き方が攻略組ではない。目的地へ向かう足ではなく、何かを探している足だ。
第三炉の門前で、彼らは周囲を見回していた。
「ここか」
「黒鉄の重装騎士、ここに出入りしてるって話だけど」
「灰衣の方も見たいな」
「お前、それ目的違うだろ」
「いや、情報収集だって」
聞こえている。聞こえてしまっている。俺たちは第三炉の内側、搬入口の陰にいた。俺は黒鉄外装ではなく、簡易作業用の外套をまとっている。左腕の機装は隠してある。ルナはフードを深く被り、顔を隠していた。
きなこもちが小声で言う。
「来ちゃったね」
「ああ」
「どうする?」
「直接は出ない」
「逃げる?」
「対応を分ける」
こういう時、本人が出ると噂が育つ。黒鉄本人が出てきた。灰衣もいた。やっぱり第三炉にいる。会えた。話せた。そうなると、次から人が増える。だから、ここは第三炉として対応する。個人ではなく、工房として。
グラン親方に視線を向けると、彼は静かに頷いた。
「私が出ます」
「お願いします」
「第三炉は個人情報を扱わない。素材と装備の依頼窓口のみ受ける。そう伝えます」
「十分です」
グラン親方は堂々と門前へ出た。外部プレイヤーたちは少し驚いたように姿勢を正す。
「第三炉に何か御用ですかな」
「あ、えっと、黒鉄の重装騎士って人に会いたくて」
「第三炉は、所属外の個人情報を開示しておりません」
即答。強い。
「いや、怪しいことじゃなくて、情報交換をしたいだけで」
「第三炉は素材と装備の依頼を受ける場です。個人への接触を仲介する場ではありません」
「でも、ここに出入りしてるって聞いて」
「工房に出入りする者の情報は守ります。あなた方の情報も同じように扱います」
これを言われると、相手は引きにくい。第三炉は黒鉄だけを守っているのではない。すべての利用者の情報を守る。そういう建前にしている。良い建前だ。建前は盾になる。素材札と同じだ。
外部プレイヤーの一人が、やや粘った。
「じゃあ、黒鉄の人が作った装備とか、素材の情報だけでも」
「第三炉で扱う装備情報は、依頼者の許可なく公開しません」
「リーフェ村素材の件は?」
「公開範囲内の情報は掲示をご覧ください。詳細な検証記録は炉会議承認を通してください」
完封である。
グラン親方、強い。剣は振っていないが、盾性能が高い。
外部プレイヤーたちは顔を見合わせた。悪人ではなさそうだ。ただ、噂に釣られてきただけだろう。情報が欲しい。誰より早く知りたい。それ自体は普通だ。EHOでは情報に価値がある。未公開素材、隠し職、古代書庫、特殊装備。そういうものは金になる。
だから、人は集まる。
昔の俺なら、集める側だった。未確認情報を拾い、整理し、価値を見積もり、チームの利益に変える。白騎士団の軍師ジンは、そういう仕事をしていた。今、自分がその対象になっている。なかなか嫌な気分だ。
外部プレイヤーたちは結局、公開掲示を見て帰ることになった。ただし、完全には諦めていない顔だった。
「また来るね」
きなこもちが言った。
「ああ」
「第三炉前、張られるかも」
「それは困る」
「黒鉄さん、いよいよ有名人?」
「やめろ」
ルナが小さく言った。
「私たち、長居しすぎたんでしょうか」
「かもしれない」
俺は答えた。
グレイム領でやるべきことは、一区切りついた。第三炉の装備調整はまだ残っている。リーフェ村の素材札運用も監査が必要だ。だが、俺たちがずっと前に出続ける必要は薄くなってきた。むしろ、前に出るほど噂が育つ。
黒鉄と灰衣の名前が、グレイム領の中で固まりすぎる。名前が固まると、追う人間が出る。追われると、正体が割れる。正体が割れると、面倒が爆発する。非常に分かりやすい地獄の階段だ。
ーーーーー
午後、第三炉の記録室で対策会議をした。
メンバーは俺、ルナ、きなこもち、グラン親方。議題は、黒鉄と灰衣の噂への対応だ。嫌な議題である。自分の噂対策会議ほどやりたくないものはない。とはいえ、放置すれば噂は勝手に肉をつけ、骨格を変え、いつの間にか別の怪物になる。そうなる前に、最低限の線引きだけはしておく必要があった。
グラン親方が記録板を開いた。
「現在確認されている噂は、大きく四種類です。一つ目、黒鉄の重装騎士の職業・装備に関するもの。二つ目、灰衣の旅剣士の正体に関するもの。三つ目、リーフェ村素材高騰の裏事情に関するもの。四つ目、第三炉と古代書庫の未公開情報に関するものです」
「全部嫌だな」
「はい」
グラン親方は真面目に頷いた。真面目に頷かれると、こちらの逃げ場がない。
グラン親方はそのまま続ける。
「第三炉としては、工房利用者の情報を守る方針を明確化します。個人への接触仲介はしない。装備詳細は依頼者本人の許可なく公開しない。素材情報は公開区分に従う。この三点を、掲示として出します」
「それでお願いします」
「ただし、第三炉の前に人が集まること自体は止められません」
「そこが問題ですね」
人が増える。視線が増える。黒鉄外装の偽装が試される。灰衣の白銀が見られる。そして、どこかで噂が次の段階へ進む。非常に分かりやすい地獄の階段だ。
きなこもちが手を上げる。
「黒鉄さん、しばらく第三炉の正面から出入りしない方がいいんじゃない?」
「裏口か」
「うん。職人搬入口と、旧炉側の通路。第三炉の人なら使う道」
グラン親方が頷く。
「可能です。黒鉄殿とルナ殿には、しばらく旧炉側の通路を使っていただきましょう」
「助かります」
ルナが少し申し訳なさそうに言った。
「私のせいで、第三炉に迷惑が」
「ルナ殿のせいではありません」
グラン親方は即座に言った。
「第三炉が扱った仕事の結果、注目が集まっているだけです。工房が利用者を守るのは当然です」
「ありがとうございます」
グラン親方、本当に盾性能が高い。精神面でも硬い。俺も見習いたい。いや、見習うとさらに仕事を抱えそうなので、少しだけにしておく。
グラン親方が記録板を指で送った。
「リーフェ村素材に関する噂については、公開掲示の内容を更新します。追加用途は検証中、価格は段階改定、札なし素材は正式扱いしない。この三点を改めて明記します」
「いい」
俺は頷いた。
「噂が出る時ほど、公開情報を整える。出せるものを出しておけば、隠している部分への過剰な推測を少しは減らせる」
「減りますか?」
きなこもちが聞く。
「少しはな」
「全部は?」
「無理だ」
「だよね」
噂を完全に止めることはできない。だが、空白が多すぎると、そこへ余計な推測が詰め込まれる。だから、出せる範囲の情報は出す。逆に、出せない情報は理由を添えて保留する。これは古代書庫の公開区分と同じだ。
また同じ構造である。この世界、やたらと情報管理を要求してくる。ゲームとは何だったのか。いや、ゲームだ。面倒なほどゲームだ。
ルナが静かに言った。
「私たちは、どうしますか」
「しばらく前に出る回数を減らす」
俺は答えた。
「第三炉の調整は続ける。だが、公開の場には出ない。リーフェ村への直接支援も、必要最低限にする。村側で回せるものは村側へ渡す」
「離れる準備ですね」
「ああ」
その言葉に、部屋の空気が少し変わった。離れる。グレイム領を出る。まだ今日ではない。だが、そう遠くない。
俺たちはここに根を張るために来たわけではない。黒鉄と灰衣の仕事は、一区切りを迎えている。これ以上長くいれば、守るはずのものに別の負荷をかけるかもしれない。
「そろそろ、グレイム領に長居しすぎたかもしれない」
俺が言うと、きなこもちが少し寂しそうにした。
「行っちゃうの?」
「すぐではない」
「でも、行くんだ」
「いずれな」
「フェネキア族の方?」
「その前に旧街道の訓練だ。レベルも足りない。セレンにも根の奥へは来るなと言われている」
「外縁から、だっけ」
「ああ」
ルナは黙っていた。灰衣のフードの影で、彼女が何を考えているのかは見えにくい。だが、たぶん同じだ。グレイム領には、守れたものがある。同時に、ここに居続ければ、また別のものが増える。
進むためには、離れる準備も必要だった。
ーーーーー
その日の夕方、第三炉の掲示が更新された。
《第三炉利用者情報保護について》
《第三炉は、依頼者および利用者の個人情報、装備詳細、未公開検証記録を、本人許可なく第三者へ開示しません》
《素材情報は公開区分に従い、公開掲示および炉会議承認記録を参照してください》
《個人への接触仲介、所在確認、装備詳細問い合わせには応じません》
事務的だ。非常に事務的だ。だが、強い。こういう文面は派手ではないが、盾になる。
外部プレイヤーが掲示を見て、少し不満そうにしている。商人らしき男もいる。情報屋っぽいプレイヤーも混じっている。みんな、何かを知りたがっている。
俺は第三炉の二階窓から、それを見下ろしていた。黒鉄外装は着ていない。灰色の作業外套で姿を隠している。隣にルナが立つ。彼女もフードを深く被り、白銀を隠している。
「噂って、早いですね」
「早い」
「怖いです」
「怖がっていい」
「でも、少し不思議です」
「何が」
「黒鉄と灰衣は、隠れるための名前だったのに、今はその名前で探されています」
皮肉な話だ。正体を隠すために作った仮の姿が、別の目印になる。黒鉄の重装騎士。灰衣の旅剣士。顔も本名も職業も隠しているのに、その隠し方自体が名前になっている。
「嘘も続けると形になるらしい」
俺は言った。
「悪いことですか?」
「場合による」
「今は?」
「半々だな」
黒鉄と灰衣の名前があったから、グレイム領で動けた。第三炉やリーフェ村を守る時、匿名のまま信用を積むことができた。だが、その名前が広がれば追われる。便利な仮面は、長く使うほど顔に近づく。外すタイミングを間違えると、皮膚ごと持っていかれる。嫌なたとえだが、そんな感じだ。
ルナは掲示の前の人々を見ながら言った。
「私は、灰衣の名前が嫌いではありません」
「そうか」
「はい。でも、白銀を全部隠すための名前にはしたくないです」
「昨日の続きだな」
「はい」
「なら、そうすればいい」
ルナは少し笑った。
「アイズドさんは、簡単に言いますね」
「難しく言ってもやることは変わらない」
「それもそうですね」
俺たちはしばらく黙って外を見た。外部プレイヤーたちは、掲示を読み、不満を漏らし、少しずつ散っていく。全員が諦めたわけではない。また来るだろう。別の手で探る者もいるだろう。
黒鉄と灰衣の噂は、ここで終わらない。だが、今日のところは第三炉の盾が機能した。
ーーーーー
夜、俺は自分用の記録板を開いた。
《黒鉄と灰衣の噂 確認》
《第三炉前への外部プレイヤー接触:一件》
《第三炉対応:個人情報非開示》
《公開掲示更新:完了》
《正面出入り:一時停止》
《旧炉側通路使用:開始》
《黒鉄外装運用注意:射装長時間使用禁止》
《灰衣旅装運用注意:白銀露出量管理》
《判断:グレイム領滞在期間を短縮検討》
記録して、少しだけため息を吐く。これもまた、戦闘ログのようなものだ。誰が来た。何を聞いた。どう返した。どの噂が危険か。何を隠し、何を出すか。剣ではなく、情報の戦闘。面倒だ。だが、これを放置すると後がもっと面倒になる。
ルナが記録板を見て言った。
「白騎士団関係者、という噂も記録するんですか?」
俺は手を止めた。そこに気づいたか。気づくよな。
「する」
俺は短く答えた。
《危険噂:白騎士団関係者説》
《現時点で個人名なし》
《ジンとの関連指摘なし》
《注意継続》
ルナはしばらくその行を見ていた。
「アイズドさん」
「何だ」
「いつか話すこと、これですか?」
逃げるか。誤魔化すか。茶化すか。選択肢はいくつかあった。だが、セレンの言葉が頭をよぎる。淀みは、脆きものを辿る。
隠すことと、消すことは違う。昨日ルナに言った言葉が、自分に返ってくる。過去を今すぐ全部話す必要はない。だが、ないことにするのは違う。
「ああ」
俺は答えた。
「いつか話すことの一つだ」
ルナは、それ以上聞かなかった。ただ、静かに頷く。
「分かりました。待ちます」
「助かる」
「でも、外縁へ行く前には」
「分かっている」
その返事は、たぶん逃げではない。少なくとも、逃げだけではない。
俺は記録板を閉じた。視界の端に、次の項目が浮かぶ。
《次段階候補:旧街道実戦訓練》
《次段階候補:噂拡散抑制》
《次段階候補:白騎士団関連情報への注意》
また増えた。未処理項目は、本当に菌類か何かかもしれない。湿気があると増える。今の第三炉は熱いはずなのに、増える。最悪だ。
「アイズドさん、顔が嫌そうです」
「嫌だからな」
「でも、進むんですよね」
「進む」
「グレイム領を離れる準備も?」
「ああ」
俺は窓の外を見る。夜の工房区に、第三炉の火が赤く揺れている。黒鉄と灰衣の名前は、ここで少し育ちすぎた。このまま居続ければ、噂はさらに形を変える。
なら、次へ進む準備をしなければならない。
リーフェ村の記録は村へ渡した。第三炉は利用者情報を守る方針を出した。装備も、まだ未完成だが動き始めている。あとは、実戦訓練と引き継ぎ。そして、外縁へ。
噂は追ってくるだろう。黒鉄の重装騎士。灰衣の旅剣士。その名前を完全に消すことは、もうできないかもしれない。だが、名前に飲まれる必要もない。見せるものを選ぶ。隠すものを決める。出す情報と出さない情報を分ける。
結局、また同じ話だ。
最高のクソゲーは、噂ひとつにも公開区分を要求してくる。まったく、性格が悪い。だが、今日のところは第三炉の盾が機能した。黒鉄と灰衣は、まだ正体を隠せている。
それだけで、今は十分だった。
俺は記録板を閉じ、炉の赤い光から少し離れた。噂は勝手に歩く。なら、こちらも歩く場所を選ぶしかない。




