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失業した軍師、産廃ジョブで世界の余白を攻略する 〜古代変形機装は、使い手の頭がおかしいほど強くなる〜  作者: 三元豚


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セレンへの報告書


 報告書というものは、剣よりも扱いが難しい。


 剣なら振ればいい。いや、もちろん雑に振れば死ぬし、相手の間合いや硬直や地形を読まなければただの棒切れになる。だが、それでも剣は分かりやすい。斬る。受ける。弾く。届くか届かないか。結果はだいたい目に見える。


 報告書は違う。


 何を書くか。


 何を書かないか。


 どこまで言うか。


 どこから黙るか。


 その順番を間違えると、人は死なないかもしれないが、後で世界が面倒な方向へ転がる。


 特に今回の相手は、セレンだ。


 フェネキア族の上位者。


 世界樹の根の奥、淀み、封印、そして名を記すことすら恐れられる七つの竜種について、少なくともこちらより遥かに深く知っているNPC。


 いや、NPCという言い方も最近はだいぶ雑に思えてきた。


 この世界の住人は、ただの案内役やクエスト配布装置ではない。少なくともセレンは違う。あの目は、プレイヤーを見ているだけではなく、こちらが何を知り、何を知らず、何を知らないままでいるべきかまで見ている。


 だから、報告書がいる。


 口頭で「なんかグレイム領の地下から世界樹っぽい記録が出ました。あと、名前を呼んじゃいけないやつの警告も見ました。やばそうです」と言うだけでは済まない。


 そんな報告をした瞬間、俺なら報告者を椅子に座らせて三時間ほど問い詰める。


 セレンなら三時間で済まない可能性がある。


 あの人、静かな顔で人の魂の奥まで見てきそうだ。怖い。上位NPC怖い。


 第三炉の記録室に、俺たちは集まっていた。


 俺、ルナ、きなこもち、グラン親方。


 机の上には、古代書庫の限定複写、根下炉記録の要約、灰鉄鉱と根麻布の低温共鳴確認、リーフェ村素材札運用記録、そしてセレンへの報告書草案が並んでいる。


 記録板の画面には、報告書の見出しだけが表示されていた。


 《フェネキア族上位者セレン殿への報告》


 重い。


 見出しだけで重い。


 宛名が重い。内容も重い。書いている俺の胃も重い。三重苦である。


「黒鉄さん、顔が報告書になってる」


 きなこもちが言った。


「顔が報告書とは何だ」


「真面目すぎて紙っぽい」


「紙に謝れ」


「記録板に謝る?」


「どちらでもない」


 ルナが記録板を見ながら言った。


「アイズドさん。最初に何を書くんですか?」


「最初は、見たものではなく、見なかったものを書く」


「見なかったもの?」


「ああ」


 俺は記録板に一行を入れる。


 《竜種関連記録について、固有名は未閲覧。複写なし。発声なし。記録上も固有名を保持していない》


 きなこもちが眉を上げた。


「最初からそこ?」


「最初からそこだ」


「根下炉とか、灰鉄とか、世界樹の話より?」


「より」


 俺は答える。


「セレンが一番気にするのは、おそらくそこだ。俺たちが何を知ったかではなく、何を知ってしまったか。特に、名を知ったかどうか」


 ルナが小さく頷いた。


「警告文にもありました。名を記すな、名を呼ぶな、名を知ることは淀みへの門」


「そうだ。だから、まず名を見ていないことを報告する」


 これは安全確認に近い。


 危険物を扱う時、まず「漏れていない」「燃えていない」「混ざっていない」を確認するのと同じだ。今回の危険物は情報だ。しかも、名前そのものが危険物扱いされている。


 なら、報告書の冒頭はこれでいい。


 見ていない。


 読んでいない。


 写していない。


 口にしていない。


 俺たちは境界線を踏み越えていない。


 それを先に伝える。


 グラン親方も、深く頷いた。


「妥当でしょう。職人の感覚で言うなら、まず炉に入れていない危険素材を報告するようなものです」


「似たようなものですね」


「ええ。火に触れていない。混ぜていない。試していない。その確認が先です」


 きなこもちが少し肩をすくめる。


「見たい気持ちはあったけどね」


「それも書くか?」


「やめて」


「好奇心はあったが、黒鉄が止めた、と」


「やめてってば」


 軽口を叩けるだけ、空気はまだ保っている。


 だが、報告書の中身は軽くない。


 俺は次の項目を作る。


 《一、グレイム領地下第七保管庫にて、古代書庫を確認》


 《二、古代書庫は領主印のみでは深層を開かず、炉、素材供給、職人実績、公開区分記録、保留理由記録を条件として参照する》


 《三、旧領主ノイズは過去に照合を試みたが、深層閲覧を拒絶されていた》


 ここまで書いて、手を止める。


 ノイズの拒絶理由を、セレンへどこまで出すか。


 炉会議には詳細を出していない。


 政治的混乱、復讐的利用、現行制度改善への限定利用という理由で、旧領主印拒絶履歴は監査記録として非公開保留にしている。


 だが、セレンは違う。


 フェネキア族上位者であり、世界樹の根に関わる相手だ。根下炉や古代書庫が世界樹根圏と繋がるなら、ノイズが拒絶された理由も、ある程度共有すべきかもしれない。


 ただし、全部ではない。


 報告は復讐の材料ではない。


 セレンに対しても、ノイズを叩くための文章にはしない。


「旧領主の拒絶理由は、どう書きますか」


 ルナが聞いた。


「断片だけだ」


 俺は答えた。


「炉を冷やす者、材を搾る者、記録を閉じる者。そういう警告文が出たことは書く。ただし、政治的利用を避けるため、領内では非公開保留としていることも添える」


「ノイズさんが悪い人だった、ではなく?」


「ああ。古代書庫は善悪判定をしていたわけじゃない。条件を見ていた。そこを間違えると、報告書の意味が変わる」


 グラン親方が静かに言った。


「領主権限だけでは開かない。関係と記録を見ている。そこが重要ですな」


「そうです」


 俺はそのまま記録する。


 《旧領主印拒絶理由断片には、炉の停滞、素材供給者への搾取、記録閉鎖を戒める文言あり。ただし、当該記録は政治的利用を避けるため、グレイム領内では監査記録として非公開保留中》


 よし。


 これで、事実と扱いの両方が入る。


 セレンへは出す。


 だが、領内では出していない。


 理由も書く。


 情報管理というのは本当に面倒だ。


 剣なら振るだけなのに。


ーーーーー


 次は根下炉の報告だった。


 ここが本題に見える。


 だが、さっきの竜種関連未閲覧の方が、安全確認としては先だった。


 順番は大事だ。


 俺は項目を追加する。


 《四、旧炉系統記録にて、根下炉の存在を確認》


 《五、根下炉は世界樹根圏より漏出する樹脈魔力を、加工熱および疑似光源へ転用する補助炉と記述される》


 《六、グレイム領第三炉は、旧炉系統上、灰鉄系・外殻補助・炉心材調整に近い位置にある可能性あり》


 ルナがそこを読み、ぽつりと言う。


「疑似光源。フェネキア族の里の疑似太陽と、似ていますね」


「似ている。だが、同じとは書かない」


「なぜですか?」


「規模が違う。用途も違う。フェネキア族の里の疑似太陽は、世界樹の膨大な魔力で地下空間全体を照らしている。根下炉の記録は、工房用の補助熱と光源だ。似ているから同一、と書くと雑になる」


「可能性として、関連あり?」


「それくらいだな」


 俺は追記する。


 《フェネキア族地下領域で確認した疑似太陽技術と同系統の可能性あり。ただし、規模・用途の差異が大きいため、同一視は避ける》


 きなこもちが横から覗き込んだ。


「黒鉄さん、報告書だとすごく慎重だね」


「報告書で雑だと後で死ぬ」


「戦闘より怖い?」


「相手による」


「セレンさんは?」


「怖い」


「即答」


 怖いものは怖い。


 あの人に雑な報告を持っていく勇気はない。


 勇気と無謀は違う。これは何度でも言いたい。


 グラン親方は、根下炉の項目を見つめていた。


「第三炉としては、この記録を受け、旧規格安定板と灰鉄鉱、根麻布の補助用途を検証中である、と添えてください」


「分かりました」


 記録する。


 《第三炉では、旧規格安定板の原型記録と照合し、灰鉄鉱・根麻布の補助用途を安全範囲で検証中》


 続いて、灰鉄鉱と根麻布。


 これは、セレンへ報告すべきだ。


 リーフェ村素材がただの低評価素材ではなく、古い炉系統に関わる可能性がある。世界樹根圏の外縁技術と繋がるなら、フェネキア族側の判断材料になる。


 ただし、村が狙われるような書き方は避ける。


 いや、セレンが村を狙うとは思わない。


 だが、報告書というものはどこでどう使われるか分からない。少なくとも、俺たちの手元を離れる文章だ。必要以上に素材価値を煽る書き方はしない。


 《七、リーフェ村産灰鉄鉱は、根下炉記録波形に対し、微弱共鳴を確認。反応は魔力蓄積ではなく、揺れを横へ逃がす方向》


 《八、リーフェ村産根麻布は、同波形に対し、微弱偏向を確認。反応は吸収ではなく、表面で流れを避ける方向》


 《九、火入れなし。理外創成なし。世界樹系素材不使用。竜種関連記録不使用》


「最後の一行、毎回入るね」


 きなこもちが言った。


「入れる」


「もう呪文みたい」


「安全確認だ」


「火入れなし、理外創成なし、世界樹系素材不使用、竜種関連記録不使用」


「唱えるな」


「ちょっと語呂いい」


「よくない」


 ルナが少し笑った。


 だが、彼女はすぐに真面目な顔へ戻る。


「リーフェ村のことも書きますか?」


「書く」


 俺は頷いた。


「素材の性質だけではなく、流通保全を始めたことも報告する。セレンにとって大事なのは、素材が反応したことだけじゃないはずだ。古代書庫は、素材の扱い方まで条件にしていた。なら、村をどう守っているかも書く」


 《十、リーフェ村素材は、価値上昇による買い占め・偽素材流通を避けるため、素材札、採取記録、乾燥記録、搬入記録による暫定流通保全を開始》


 《十一、札なし灰鉄鉱持ち込み事案一件を確認。正式素材としては認めず、炉会議監査へ回付済み》


 《十二、リーフェ村代表リリィおよびロアン村長には、深層記録を保留していること、保留理由、見直し条件を説明済み》


 ルナがそこで頷いた。


「リリィちゃんに、隠していることも伝えましたね」


「ああ。全部見せてはいない。だが、隠していること自体は隠していない」


「それ、大事だと思います」


「俺もそう思う」


 ノイズは記録を閉じた。


 理由も閉じた。


 だから、古代書庫は深層を開かなかった。


 俺たちが同じことをしないためには、保留理由を残すしかない。


 報告書にも、それを書く。


 見せられないものがある。


 だが、なぜ見せないのかを記録する。


 この積み重ねは、たぶんセレンも見るだろう。


ーーーーー


 報告書の中盤まで書いたところで、きなこもちが手を上げた。


「技術資料、もう少し足していい?」


「どこまでだ」


「灰鉄鉱と根麻布の反応波形。あと、黒鉄外装と灰衣旅装での使用結果。特に、灰鉄留め具が盾装の衝撃を逃がしたことと、根麻布が白銀の光を選んで通したこと」


「セレンに必要か?」


「必要かは分からない。でも、フェネキア族が世界樹の根を守ってるなら、根麻布や灰鉄の外縁用途は判断材料になるかも」


 俺は少し考える。


 技術資料を出しすぎると、報告書が重くなる。


 だが、セレンは上位者だ。こちらが勝手に削りすぎると、必要な判断材料まで消える可能性がある。


 問題は、どう出すか。


 全部本文に入れる必要はない。


「別添だな」


 俺は言った。


「本文には概要。詳細波形や装備反応は別添資料にする。ただし、深層記録や竜種関連には繋げない。灰鉄、根麻、第三炉での実用品反応まで」


「いいね」


 きなこもちは嬉しそうに頷いた。


「別添資料、作る」


「勝手に書きすぎるなよ」


「分かってる。火入れなし、理外創成なし、世界樹系素材不使用、竜種関連記録不使用」


「だから唱えるな」


 グラン親方も同意した。


「技術別添は有用でしょう。セレン殿がフェネキア族側で確認する場合、こちらの実験条件が明確であるほど誤解を避けられます」


「分かりました」


 きなこもちが別添資料を作り始める。


 手が速い。


 危険な時もあるが、こういう資料作りは意外と丁寧だ。素材名、試験条件、負荷、結果、停止条件。職人として危険を知っているからこそ、記録にも残せるのだろう。


 俺は本文へ戻る。


 最後に書くべきもの。


 それは、こちらの判断だ。


 単なる事実報告では足りない。


 セレンに対して、俺たちがどう判断したかを示す必要がある。


 《十三、現段階で、世界樹核心、フェネキア族地下領域深層、封印補助構造、竜種関連記録への踏み込みは行わない》


 《十四、次段階閲覧条件として、世界樹系素材の所持、またはフェネキア族上位者の承認が提示されている》


 《十五、当方の現在レベルおよび装備状況では、根の奥へ進む条件を満たさないと判断》


 ここまで書いて、ルナが口を開いた。


「根の奥へ進まない理由も、書くんですね」


「書く」


「弱いから、ですか?」


「準備不足だからだ」


「それ、同じでは?」


「違う」


「違いますか?」


「弱いから行かない、だとただの臆病だ。準備不足だから行かない、なら判断だ」


 きなこもちが吹き出した。


「言い方の問題じゃん」


「違う」


「黒鉄さんらしい」


 実際、言い方だけではない。


 レベル九十推奨のクエストに、レベル五十にも届いていない二人で突っ込むのは無謀だ。


 ただし、外縁部の予備調査なら可能性がある。


 そこまで含めて、セレンに判断を仰ぐべきだ。


 《十六、根圏外縁部での予備調査、またはセレン殿への直接報告について、指示を請う》


 これで本文は一通り形になった。


 俺は全体を読み直す。


 長い。


 だが、必要な情報は入っている。


 見なかったもの。


 見たもの。


 保留したもの。


 村を守るために始めたこと。


 次に進まない理由。


 指示を仰ぐ項目。


 報告書としては、悪くない。


 少なくとも、「やばそうなの見つけました」よりは百倍ましだ。


ーーーーー


 問題は、報告の送り方だった。


 フェネキア族の里へ直接行くか。


 セレンが残した連絡用の根印を使うか。


 直接行くには、時間がかかる。


 しかも、グレイム領での後始末がまだ完全には終わっていない。素材札運用の監査、札なし灰鉄鉱の流通経路調査、黒鉄外装と灰衣旅装の追加調整、旧街道のレベル上げ。


 全部を放り出してフェネキア族の里へ戻るのは早い。


 だが、報告を遅らせすぎるのも危ない。


 根下炉、世界樹根圏、竜種関連警告文。


 これらはフェネキア族側へ早めに知らせるべきだ。


「根印を使う」


 俺は言った。


 作業台の端に、小さな木片のようなものが置かれている。


 セレンから以前渡された連絡用の根印。


 世界樹の細い根を加工したような札で、表面にフェネキア族の紋様が刻まれている。普段はただの木片に見えるが、魔力を通すと淡く緑色に光る。


 便利そうに見える。


 だが、こういう便利アイテムほど使いどころが怖い。


 連絡手段ということは、向こうにもこちらの状態が多少は伝わる可能性がある。セレンなら、文面以上のものを読んでくるかもしれない。


 怖い。


 だが、使うしかない。


 ルナが根印を見つめる。


「これで、報告書を送れるんですか?」


「セレンが言うには、短い記録なら送れるらしい」


「この報告書、短いですか?」


 全員が記録板を見る。


 短くはない。


 どう見ても短くはない。


 きなこもちが真顔で言った。


「黒鉄さんの短い、信用できないね」


「俺のせいじゃない。内容が重い」


「根印、容量足りる?」


「容量という言い方をするな」


 だが、実際それは問題だ。


 全部送れるか分からない。


 俺は報告書を三層に分ける。


 第一層、要約。


 第二層、本文。


 第三層、技術別添。


 根印でまず送るのは第一層と本文の要約。詳細は、直接会った時または追加送信が可能なら送る。


 記録板に送信用の短縮版を作る。


 《報告要約》


 《一、竜種関連固有名は未閲覧・未複写・未発声》


 《二、グレイム領地下に古代書庫および根下炉記録を確認》


 《三、根下炉は世界樹根圏の樹脈魔力を補助利用する炉と記述》


 《四、灰鉄鉱・根麻布が根下炉記録波形へ微弱反応》


 《五、火入れなし、理外創成なし、世界樹系素材不使用、竜種関連記録不使用》


 《六、リーフェ村素材は札と品質記録により保護流通を開始》


 《七、深層記録は非公開保留。保留理由を関係者へ説明済み》


 《八、当方は根の奥へ進む条件未達。次段階指示を請う》


 これなら根印で送れるだろう。


 たぶん。


 たぶんが多い。


 この世界、通信容量までプレイヤーに推測させるな。


 グラン親方が、真剣な顔で頭を下げた。


「黒鉄殿。第三炉としても、この報告をお願いします。根下炉記録は、我々だけで抱えるべきものではありません」


「分かっています」


「ただし、第三炉の名を出す以上、必要であれば私も説明に立ちます」


「その時はお願いします」


 きなこもちが手を上げる。


「あたしも、技術説明なら行くよ」


「すぐ行こうとするな」


「でも、セレンさんに根麻布の話聞きたいし」


「気持ちは分かるが、今回は報告だけだ」


「ちぇ」


 ルナは根印をじっと見ていた。


「アイズドさん」


「何だ」


「送る前に、もう一度だけ確認していいですか」


「何を」


「名前を見ていないこと」


 俺は頷いた。


 全員で確認する。


 古代書庫の竜種関連警告文。


 固有名は黒塗り。


 未閲覧。


 複写なし。


 発声なし。


 記録上も保持していない。


 この確認を、報告書と同時に記録する。


 《送信前確認:竜種固有名未保持》


 ここまでやって、ようやく根印へ報告を流す準備が整った。


ーーーーー


 根印を作業台の中央へ置いた。


 ルナが少し緊張した顔で見ている。


 きなこもちも、さすがに軽口を止めた。


 グラン親方は、静かに背筋を伸ばしている。


 俺は記録板から送信用の報告要約を選び、根印へ接続する。


 視界の端に、小さなシステムメッセージが浮かんだ。


 《フェネキア族連絡根印を使用しますか?》


 はい。


 いいえ。


 この二択は、いつ見ても信用ならない。


 はいを押せば面倒が始まる。


 いいえを押せば、たぶん今だけは安全だ。


 だが、安全だからといって、正しいとは限らない。


 俺は少し息を吐き、はいを選んだ。


 根印が淡く光った。


 緑色の光が木目に沿って走り、細い根のような線が空中へ伸びる。


 第三炉の作業室に、森の匂いが一瞬だけ混ざった。


 湿った土。


 古い木の根。


 地下に差し込む疑似太陽の光。


 フェネキア族の里で感じた気配に近い。


 報告要約が、根印へ吸い込まれていく。


 文字が光へ変わり、細い根の線を伝ってどこかへ流れる。


 送信完了。


 ……とは出ない。


 代わりに、根印は沈黙した。


 怖い。


 こういう沈黙が一番怖い。


 俺は思わず根印を見つめた。


「届いたんでしょうか」


 ルナが小さく聞く。


「分からない」


「え」


「分からないものは分からない」


「正直ですね」


「嘘をついても根印は光らない」


 きなこもちが根印を覗き込む。


「叩いたら返事来る?」


「叩くな」


「軽く」


「やめろ」


 危険物め。


 その時、根印が再び光った。


 全員が黙る。


 緑の光が、今度は逆方向から戻ってくる。


 短い文字が空中に浮かんだ。


 《報告を受領》


 セレンの返信。


 たった五文字。


 だが、空気が変わる。


 続いて、二行目。


 《名を見なかった判断を、良しとする》


 ルナが息を止めた。


 きなこもちも、珍しく何も言わない。


 グラン親方が深く目を伏せた。


 俺は、その文章をしばらく見つめていた。


 良しとする。


 セレンは、そこを見た。


 根下炉より先に。


 灰鉄鉱や根麻布より先に。


 リーフェ村の流通保全より先に。


 名を見なかった判断。


 やはり、そこが最重要だったのだ。


 俺は背中に冷たいものを感じた。


 もし、あの時好奇心で黒塗りの先を見ようとしていたら。


 もし、きなこもちのノリに流されて警告文を深く掘っていたら。


 もし、名前らしきものを見てしまっていたら。


 この返信は違っていたのだろう。


 いや、返信が来たかどうかも分からない。


 根印の光は、さらに続く。


 《根下炉の記録、こちらでも照合を試みる》


 《灰鉄と根麻の反応記録は保持せよ》


 《村を守った判断も、良し》


 リリィたちのことだ。


 リーフェ村素材を保護流通にしたことも、セレンは見ている。


 やはり、古代書庫と同じだ。


 素材そのものだけではなく、素材をどう扱ったかを見ている。


 最後に、もう一文。


 《根の奥へは、まだ来るな》


 簡潔。


 非常に分かりやすい。


 来るな。


 セレンからの正式な禁止に近い。


 俺は少しだけ安心した。


 行け、と言われるより、今はありがたい。


 続く。


 《外縁なら、いずれ道を開く》


 《その前に、黒鉄と灰衣を整えよ》


 《淀みは、脆きものを辿る》


 そこで、根印の光は消えた。


 作業室に、第三炉の熱だけが戻ってくる。


ーーーーー


 しばらく誰も話さなかった。


 セレンの返信は短かった。


 だが、重かった。


 名を見なかった判断を、良しとする。


 根の奥へは、まだ来るな。


 外縁なら、いずれ道を開く。


 黒鉄と灰衣を整えよ。


 淀みは、脆きものを辿る。


 この五つで、十分すぎる。


「やっぱり、名前は駄目だったんですね」


 ルナが静かに言った。


「ああ」


 俺は答えた。


「見なくて正解だった」


「少し、怖いです」


「怖がっていい」


 淀みは、脆きものを辿る。


 この一文も引っかかる。


 脆きもの。


 心の隙。


 傷。


 過去。


 後悔。


 白銀の試練で見たもの。


 ルナが少し不安を覚えるのも無理はない。


 俺自身も、他人事ではない。


 白騎士団。


 地味すぎると言われて外された夜。


 勝つためにゲームをしていた自分。


 遊び方を忘れていた自分。


 淀みが脆きものを辿るなら、俺にも辿るものはある。


 嫌な話だ。


 最高のクソゲーは、心のデバフまで用意しているらしい。


 きなこもちが、ゆっくり口を開いた。


「黒鉄と灰衣を整えよ、だって」


「ああ」


「装備、もっとちゃんとやれってことかな」


「たぶんな」


「淀み対策装備は?」


「まだ保留だ」


「だよね」


 きなこもちは少し残念そうにしたが、すぐに真面目な顔になった。


「でも、外縁に行くなら、今の灰鉄留め具と根麻布の安全帯くらいは必要だよね」


「それは許可する」


「本格的な淀み対策じゃなくて?」


「あくまで干渉を逃がす補助装備。淀み対策とは書かない」


「記録上も?」


「記録上も」


「了解」


 グラン親方が頷く。


「第三炉としても、黒鉄外装と灰衣旅装の追加調整を優先します。根の奥へ進まないというセレン殿の指示がある以上、外縁準備に限定すべきです」


「お願いします」


 俺はセレンの返信を記録する。


 《セレン返信》


 《報告受領》


 《竜種固有名未閲覧判断を是とする》


 《根下炉記録の照合をフェネキア族側で試行》


 《灰鉄・根麻反応記録保持指示》


 《リーフェ村保護流通判断を是とする》


 《根の奥への進入禁止》


 《外縁道開放予定》


 《黒鉄外装・灰衣旅装の整備指示》


 《警告:淀みは脆きものを辿る》


 書きながら、最後の一文で手が止まる。


 淀みは、脆きものを辿る。


 これは今後のクエストの中心になるだろう。


 単なる毒や汚染ではない。


 精神干渉に近い。


 しかも、ランダムではなく、弱い場所を辿る。


 ルナの白銀。


 俺の過去。


 もしかすると、きなこもちの理外創成への執着もそうだ。


 全員、脆いところはある。


 ない人間などいない。


 そこを突いてくる敵は、物理的な強敵より厄介だ。


「アイズドさん」


 ルナが言った。


「何だ」


「外縁に行く前に、話しておいた方がいいことがある気がします」


「自分の脆いところか」


 ルナは一瞬驚いたようにこちらを見た。


 それから、静かに頷いた。


「はい」


「だろうな」


「アイズドさんも、ありますか」


「ある」


 即答した。


 隠すことではない。


 いや、今すぐ全部話せるかは別だ。


 だが、あるかないかで言えば、ある。


 白騎士団のこと。


 軍師ジンのこと。


 地味すぎると言われたこと。


 勝たせ続けたのに、見えない仕事として切られたこと。


 まだ全部は話していない。


 ルナは、俺が何かを隠していることには気づいている。


 いつか話す必要がある。


 おそらく、外縁へ行く前に。


 きなこもちが、空気を読んだのか読んでいないのか、少し明るい声で言った。


「じゃあ、次の課題は装備と心のメンテ?」


「言い方を軽くするな」


「でも、重くしすぎると動けないじゃん」


 それはそうだ。


 彼女の軽さに救われることもある。


 たまに炉へ突っ込みそうになるのが問題だが。


「装備は第三炉でやる」


 俺は言った。


「心の方は、また別だ」


「黒鉄さん、心のメンテ苦手そう」


「苦手だ」


「即答」


「得意なわけがない」


 ルナが少し笑った。


 その笑いに、さっきより少しだけ安心が混じっていた。


ーーーーー


 夜、第三炉の屋上に出た。


 セレンへの報告を終えた後の空は、妙に静かだった。


 工房区の煙はいつも通り上がっている。


 遠くで槌の音もする。


 だが、俺の中では、根印の緑の光とセレンの言葉が残っていた。


 《名を見なかった判断を、良しとする》


 《根の奥へは、まだ来るな》


 《淀みは、脆きものを辿る》


 短い。


 短いのに、逃げ場がない。


 ルナが隣に来た。


 灰衣の外套をまとっているが、フードは外している。白銀の髪が夜風に揺れた。


「セレンさん、怖いですね」


「怖いな」


「でも、少し安心しました」


「根の奥に来るなと言われたからか」


「はい。今行かなくていいんだって、はっきりしました」


「ああ」


 それは俺も同じだった。


 次へ進む理由はある。


 だが、進む場所は根の奥ではない。


 まず外縁。


 その前に、黒鉄と灰衣を整える。


 そして、淀みが辿る脆さに向き合う。


 やることが増えた。


 また未処理項目だ。


 だが、方向は見えた。


「アイズドさん」


「何だ」


「脆いところの話、いつか聞かせてください」


「いつか、な」


「はい。今すぐじゃなくていいです」


「助かる」


「でも、外縁へ行く前には」


「分かっている」


 俺は夜の工房区を見た。


 白騎士団。


 ジン。


 レオン。


 ミレイ。


 神崎マネージャー。


 地味すぎる仕事。


 見えない土台。


 切り捨てられた最適化。


 その話を、いつまでも隠したままではいられないのだろう。


 特に、淀みが脆きものを辿るなら。


 自分の弱点を知らないまま戦うのは、マップを見ずにレイドへ入るようなものだ。


 だいぶ嫌なたとえだが、事実だ。


「ルナも」


 俺は言った。


「はい」


「話せる時でいい」


「……はい」


 ルナは小さく頷いた。


 彼女にも、白銀の奥にあるものがある。


 それを無理に開けるつもりはない。


 だが、外縁へ行くなら、少なくとも自分で場所を知っておく必要がある。


 脆さは、消せない。


 だが、知らないまま突かれるより、知っている方がましだ。


 たぶん。


 きなこもちが下から声を上げた。


「黒鉄さーん、ルナちゃーん! グラン親方が明日の調整予定出してるー!」


 現実に引き戻される声だった。


 俺はため息を吐く。


「もう予定が来た」


「休めませんね」


「言うな」


「でも、黒鉄と灰衣を整えよ、ですから」


「セレンの言葉を便利に使うな」


 ルナは少し笑った。


 俺も、ほんの少しだけ肩の力を抜いた。


 報告書は送った。


 セレンは受け取った。


 名を見なかった判断は認められた。


 根の奥へはまだ行かない。


 次は外縁。


 その前に、装備と心の準備。


 面倒だ。


 だが、今回は面倒の方向がはっきりしている。


 それだけでも、十分ましだった。


 俺は屋上から第三炉の中へ戻る。


 視界の端には、新しい項目が表示されていた。


 《次段階候補:黒鉄外装・灰衣旅装追加調整》


 《次段階候補:旧街道実戦訓練》


 《次段階候補:根圏外縁部予備調査》


 そして、その下に小さく。


 《警告:淀みは脆きものを辿る》


 俺はそれを見て、静かに記録を閉じた。


 見なかったことにはできない。


 だが、今夜は閉じる。


 開けるのは、準備ができてからだ。


 それくらいの分別は、さすがに覚えた。


 たぶん。

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