隠密戦
「……とはいえ、このままリリィを連れて行くわけにはいかねぇな」
俺は、森の向こうにそびえ立つ領主の城から視線を落とし、ルナの腕に抱かれている少女を見た。
これから向かうのは、システム権限を掌握したプレイヤーが支配する敵陣のど真ん中だ。無数の高レベル衛兵が徘徊している城内に、戦闘能力を持たないNPCの子供を連れて行くのは自殺行為に等しい。それに、俺たちは現在、衛兵から無条件で狙われる『赤ネーム』の指名手配犯なのだ。
「……私、おいていかれるんですか?」
リリィが不安そうに身を縮め、ルナの服の裾をギュッと握りしめた。その瞳には、家族を失い、たった一人で逃げ惑ってきた絶望と孤独が色濃く残っている。
「勘違いするな。お前を捨てるわけじゃない」
俺はリリィの前にしゃがみ込み、彼女の泥だらけの小さな頭に大きな手を乗せ、少し乱暴に『ワシワシ』と撫で回した。
「わっ……」
「いいか、リリィ。お前は俺たちが戦いやすいように、ここで大人しく待っていてくれ。お前の父ちゃんや母ちゃん、お兄ちゃんを理不尽に奪ったあのクソ領主の野郎は、俺たちが責任を持って、絶対にぶっ飛ばしてきてやる」
俺は努めて大人の、そして頼りがいのある笑みを浮かべてみせた。
「だから、安心しろ。全部終わったら、必ずここへ迎えに来る」
俺の言葉と、頭を撫でる手の温もりに、リリィの強張っていた表情が少しずつ解けていった。
「……はいっ。私、ここで待ってます。旅の剣士様、それに……お兄ちゃんも、どうか気をつけて」
「お兄ちゃんって歳でもないんだがな」
俺が苦笑すると、隣でルナが「ふふっ」と優しく微笑んだ。
「アイズドさん。リリィちゃんは、先ほど事情を教えてくれたドワーフさんにお願いしましょう。彼も生産職とはいえプレイヤーですし、衛兵に見つからない安全な隠れ場所を知っているはずです」
「ああ、そうだな。……おい、ドワーフの旦那!」
俺が声をかけると、少し離れた岩陰でコソコソと様子を窺っていたドワーフのプレイヤーがビクッと肩を震わせた。
「ひぃっ! な、なんだよ赤ネームさん! 俺はもう金目のものは持ってねぇぞ!」
「金はいらねぇ。俺たちが城を落としてくる間、この子を安全な場所で匿っててくれ。もちろん、タダとは言わねぇ。後で必ず報酬を払う」
「し、城を落とすだって!? 本気かよ……まあ、そういうことなら、この子一人くらい隠しておくのは造作もねぇが……」
ドワーフは信じられないという顔をしながらも、しぶしぶと頷いてくれた。生産職とはいえ、彼も悪徳領主には腹に据えかねているのだろう。
「頼んだぜ。……行くぞ、ルナ」
「はいッ!」
リリィをドワーフに預けた俺たちは、鬱蒼とした森を抜け、グレイム領の高く分厚い城壁へと接近した。
城門には、完全武装した高レベルの衛兵NPCが何十人も配備され、目を光らせている。
赤ネームの俺たちが正面から近づけば、警告すらなく一斉攻撃を受けるのは明白だ。
「正面突破は無理ですね。アイズドさん、どうやって中に入りますか?」
「……城壁の裏側に回るぞ。どんな城にも、必ず生活排水を外に逃がすための『水路』が存在する」
軍師として数多のマップ構造を解析してきた俺の予測通り、城壁の西側の死角、草木に覆われた窪みに、鉄格子で塞がれた古びた水路の排出口を見つけ出した。
「鉄格子が嵌まってますけど……少し錆びてますね」
「よし。じゃあ切っちまえ」
ルナが白銀の片手剣を抜き放ち、流れるような一閃で見事に鉄格子を音もなく斬り裂いた。
「ナイスだ。さあ、潜るぞ」
水路の内部は、完全な暗闇に支配されていた。
一歩足を踏み入れると、ひざ下まである冷たい泥水が、仮想肉体を通してリアルな寒気を伝えてくる。
ピチャッ、ピチャッという水音と、どこからか聞こえる微かな水滴の滴る音だけが、石造りの狭いトンネル内に不気味に反響していた。
松明や光の魔法を使えば、水面を伝う光で巡回している衛兵に気づかれる恐れがある。俺たちは完全な暗闇の中を、壁を手探りで伝いながら、音を殺して慎重に進まなければならなかった。
「……冷たいですね、アイズドさん」
背後を歩くルナが、小声で囁く。
「我慢しろ。……足元に苔が生えてるから滑るなよ。匂いもキツいが、これもステルス任務の醍醐味だ」
ドブの臭いとカビの匂いが鼻を突く。完全没入型VRMMOの環境再現の高さが、今はひどく恨めしい。
暗闇と冷水。視界が塞がれた極度の緊張感が、精神をじわじわと削り取っていく。
頭上からは、時折、城壁の上を歩く重武装の衛兵たちの足音――ガシャン、ガシャンという金属音が重々しく響いてくる。もしここで見つかれば、逃げ場のない水路の中で蜂の巣にされるのは確実だ。
(……この水路の構造なら、必ず城の地下牢獄の近くに出るはずだ)
俺は息を殺し、脳内のマップと現在地を照らし合わせながら、一歩一歩、泥水を掻き分けて進んでいった。
やがて、果てしなく続くかと思われた暗闇の先に、微かな松明の灯りが揺らめいているのが見えた。
鉄格子の嵌まった排水口。その向こう側から、ジメジメとした空気と共に、うめき声のような低い音が漏れ聞こえてくる。
「……着いたな。城の地下牢獄だ」
俺が囁くと、ルナが無言のままコクリと頷き、白銀の剣の柄にそっと手を掛けた。
俺たちの隠密戦。
暴君の足元に潜り込こみ、気配を完全に殺したまま、悪意の巣窟たる城の深部へと静かに牙を剥き始めていた。




