地下から世界樹へ
休むと言った。
今度こそ休むと言った。
そして、珍しく本当に少し休めた。
第三炉の一室で、俺は数時間ほどログアウトし、現実の身体で飯を食い、風呂に入り、仮眠を取った。人間の生活としてはかなり最低限だが、ここ最近の俺にしては十分すぎるほど文明的である。何しろ、昨日までの俺は古代書庫と炉会議と暫定管理記録に追い回されていた。仕事を辞めたはずなのに、なぜかゲーム内で仕事の増殖を眺めている。人生、バグっている。
ログインし直した時、第三炉の火はまだ燃えていた。
工房区の朝は早い。炉の音、槌の音、素材を運ぶ荷車の音。そういうものが、街の呼吸みたいにあちこちから聞こえてくる。
昨日、ノイズが古代書庫に拒絶されていた理由を見た。
領主印だけでは深層は開かない。
炉を動かすこと。
素材を正しく扱うこと。
供給村との記録を残すこと。
職人の実績を積むこと。
公開と保留の理由を残すこと。
それらが揃って、ようやく書庫は一部だけ応えた。
つまり、俺たちは選ばれたわけではない。
条件が揃っただけだ。
そう思っている。そう思っていないと困る。俺が選ばれし何かだった場合、今後の面倒が全部運命扱いされる。そんなものは願い下げだ。俺は失業した元軍師であって、古代文明に祝福された黒鉄の勇者ではない。字面が重い。返品したい。
だが、条件が揃った結果、次の扉が見えてしまったのも事実だった。
《深層分類 次段階閲覧条件》
《世界樹系素材の所持》
《または、フェネキア族上位者の承認》
世界樹。
フェネキア族。
どちらも、俺たちはすでに一度触れている。
フェネキア族の里で、セレンからレベル九十以上推奨の特殊クエストを提示された。世界樹の根に関わる淀み。フェネキア族が守る封印。そして、その奥に眠るとされる七つの竜種の一角。
今の俺たちは、そこへ行けない。
レベルも足りない。装備も足りない。情報も足りない。何より、グレイム領の後始末も終わっていない。
だから、今日は行かない。
ただ、見えてしまった線を整理する必要がある。
また仕事である。
休みは短かった。
「黒鉄さん、目が諦めてる」
第三炉の作業台で、きなこもちがそう言った。
「諦めてはいない」
「じゃあ悟ってる?」
「近い」
「職人から見ても、今の黒鉄さんは炉に入れる前の素材みたいな顔してる」
「どういう顔だ」
「これから熱されることを知ってる顔」
「嫌すぎる」
ルナは隣で小さく笑っていた。《根麻影踏の旅装》のフードは軽く上げているが、まだ髪全体は隠している。第三炉の中なら多少は気を抜けるとはいえ、外から誰が見るか分からない。白銀は目印だ。目印は隠すに限る。
グラン親方は、昨日の旧炉系統記録を整理していた。
《根下炉》
《灰脈炉》
《外殻試作炉》
《封印補助炉》
グレイム領の古い炉の系統図に出てきた名だ。
その中でも、今日見るべきなのは《根下炉》だった。
根の下の炉。
名前がもう嫌な予感しかしない。
世界樹の根と繋がる可能性が高い。というか、繋がらなかったら逆に驚く。世界樹、根、地下工房、古代書庫。ここまで並んで関係ありませんでした、なら古代人はミスリードの天才である。嫌な才能だ。
「黒鉄殿」
グラン親方が記録板をこちらへ向けた。
「旧炉系統記録のうち、《根下炉》に関する断片だけが再照合可能になっています。ただし、深層分類ではなく、旧炉系統側の補助記録です」
「つまり、世界樹の核心ではなく、グレイム領側の工房記録か」
「そのはずです」
「なら、見る価値はある」
ルナが俺を見た。
「今日は、世界樹の奥には触れないんですよね」
「触れない」
「七つの竜種も?」
「触れない。名前も出さない。記録にあっても読むだけだ」
「読むだけで大丈夫なんですか?」
「大丈夫じゃなさそうなら閉じる」
言いながら、俺は自分で自分の言葉を信用しきれていなかった。
このゲームにおいて、「読むだけ」はたいてい危険だ。読むだけでクエストが生える。読むだけでフラグが立つ。読むだけでNPCが意味深な顔をする。書物とは物理攻撃より厄介な場合がある。特に古代書庫の本は、だいたい呪物に近い。
それでも、見る。
見なければ、何を閉じるべきかも分からない。
「行くぞ」
俺が言うと、きなこもちが金槌を腰に差した。
「今日は理外創成なし?」
「なし」
「世界樹素材もなし?」
「なし」
「上限解放も?」
「なし」
「じゃあ何しに行くの?」
「余計なことをしないための確認だ」
「一番黒鉄さんっぽい理由だね」
褒めていないことだけは分かった。
ーーーーー
地下第七保管庫は、今日も静かに開いた。
石壁の奥で歯車が回り、封印線がほどけ、冷たい空気が流れ出す。何度来ても、この扉の開閉音には慣れない。音が重いのだ。物理的な重さだけではなく、情報が奥から押し出されてくるような重さがある。
古代書庫の石台に近づくと、表示は昨日から変わっていた。
《旧炉系統記録 追加照合》
《対象:根下炉》
《関連分類:灰鉄原鉱系/古代根系繊維/樹脈魔力流/封印補助構造》
《深層分類:制限中》
《世界樹核心記録:閲覧不可》
《竜種関連記録:閲覧不可》
最後の二行で、少しだけ息が楽になる。
閲覧不可。
実にいい言葉だ。閉じていてくれ。できればずっと閉じていてほしい。
きなこもちが、残念そうに目を細める。
「竜種関連、閲覧不可だって」
「嬉しそうに言うな」
「いや、不可って出ると逆に気になるじゃん」
「気にするな」
「無理」
ルナが少し不安そうに石台を見る。
「名前は出ないんですね」
「出ない。少なくとも、この段階では」
俺は念を押すように、石台の表示を確認した。
七つの竜種について、固有名は出してはいけない。
上位NPCであるセレンでさえ、あれを軽く口にしなかった。古代書庫の記録にも「名を記すことを禁ず」といった禁忌文が残っていた。世界観上、その名を知ること自体が淀みへの門とされている。
プレイヤー視点なら、ただのフレーバーだと笑える。
だが、ここまで来ると笑えない。
この世界は、フレーバーの顔をした爆弾を平気で置く。
「根下炉の記録だけを開く」
俺は言った。
石台へ手を置く。
空中に、旧炉系統の図が展開された。
第三炉、灰脈炉、外殻試作炉、封印補助炉。そしてそれらのさらに下、地中深くへ伸びる線の先に、《根下炉》という項目が浮かぶ。
名前の横には、細い注釈。
《世界樹根圏より漏出する樹脈魔力を、加工熱および疑似光源へ転用する補助炉》
ルナが息を呑んだ。
「疑似光源……」
「ああ」
フェネキア族の里で見た疑似太陽。
地下にありながら、あの里は明るかった。世界樹の膨大な魔力によって、疑似太陽が生成されている。その光が地下都市を照らし、フェネキア族の生活を支えている。
今の記録は、それと同じ系統の技術に見える。
ただし、こちらは都市の光ではなく、工房の炉へ転用するものだ。
「グレイム領も、世界樹の魔力を使っていたんですか?」
ルナが聞く。
「可能性はある」
俺は答えた。
「ただし、フェネキア族の里みたいに直接ではない。根圏から漏れ出す魔力の一部を、古代工房が補助熱や光源に変えていた、という記録だろう」
グラン親方が、記録を食い入るように見ている。
「第三炉の古い火力特性……なるほど。だから旧規格安定板は、ただの炉熱ではなく、魔力の揺れを逃がす構造を持っていたのかもしれません」
「樹脈魔力というやつか」
「はい。通常の魔石炉とは違う、根を通る魔力の流れ。それを扱うなら、火力の上げ下げだけでは足りない。揺れを受け流す材が必要になる」
「灰鉄か」
俺が言うと、グラン親方は頷いた。
「灰鉄原鉱系の性質と合います。熱と衝撃を抱え込まず、横へ逃がす。樹脈魔力の脈動を受け流す外殻材として使われていたのなら、灰鉄鉱の評価が現代で低くなった理由も分かる」
用途が失われた。
何度目だろう、この構造は。
灰鉄鉱は剣材ではなかった。
根麻布は魔力布ではなかった。
理外創成は素材灰化装置ではなかった。
第三炉は末端の古い炉ではなかった。
グレイム領の工房文化も、ただの生産都市の商売ではなかったのかもしれない。
意味を失ったものが、別の低評価を貼られて残っている。
この世界は、やたらとそういうものを見せてくる。
「根麻布も関わるのかな」
きなこもちが言った。
石台の枝を拡大すると、《古代根系繊維》の系統が《根下炉》の補助構造へ繋がっている。
《根系覆布》
《湿りを拒む》
《形を記憶する》
《魔力を通さず、避ける》
《樹脈魔力の乱反射を抑える覆いとして使用》
きなこもちの目が輝いた。
「やっぱり! 根麻布、ただの外套じゃないじゃん。魔力を通さないから、逆に魔力の乱れを抑える覆布になるんだ」
「声が大きい」
「ごめん。でも、これは熱い」
「火がない書庫で熱くなるな」
「職人には無理」
グラン親方も、珍しく興奮を抑えきれない顔をしていた。
「灰鉄は樹脈魔力の揺れを逃がす。根麻は乱れを避け、覆う。旧規格安定板の原型に、この二つが補助材として関わっていた可能性が高い」
「リーフェ村の素材が、ここにも繋がるんですね」
ルナが言った。
「可能性だ」
俺は釘を刺す。
「まだ可能性。ただし、かなり濃い」
「アイズドさんが濃いって言うの、珍しいです」
「俺だって全部薄めて言うわけじゃない」
ただし、公開は別だ。
この情報をそのまま出せば、リーフェ村素材の価値は跳ねる。
跳ねすぎる。
昨日決めた公開区分が、ここで役に立つ。
炉会議には、旧炉系統における灰鉄鉱と根麻布の補助材用途として限定的に出す。
世界樹、樹脈魔力、フェネキア族、封印補助構造。
そこは保留。
また保留だ。
俺は本当に保留係にでもなったのかもしれない。
ーーーーー
記録はさらに下へ続いた。
《根下炉 周辺構造》
《地下根圏観測孔》
《樹脈魔力導管》
《疑似光源補助鏡》
《上層接続:地上森域》
《下層接続:フェネキア族地下領域》
空気が変わった。
ルナが無意識に姿勢を正す。
グラン親方は口を閉じた。
きなこもちも、さすがに軽口を止めた。
地上森域。
下層接続。
フェネキア族地下領域。
世界樹の上、地上にはエルフが住んでいる。フェネキア族の里で聞いた話だ。世界樹の膨大な魔力によって地下には疑似太陽が生成され、その光がフェネキア族の生活を支えている。
この記録は、グレイム領の古代工房が、その上下構造のどこかに関わっていたことを示している。
地上のエルフ。
地下のフェネキア族。
その間に伸びる世界樹の根。
グレイム領地下の古代工房は、その根圏から漏れる魔力を加工に使っていた可能性がある。
ただの生産都市ではない。
世界樹を中心とした古代の素材加工網。
その端末の一つ。
そう考えた方が自然だった。
「グレイム領って、世界樹と繋がってたんですね」
ルナが小さく言った。
「過去形だな」
俺は答える。
「今は繋がりが失われている。少なくとも、現代の工房区にはその自覚がない」
「それが、古代書庫に残っていた」
「ああ」
きなこもちが、ぼそっと言う。
「もったいない」
「何がだ」
「こんな面白い技術が、ただの旧規格とか低評価素材とかで片づけられてたのが」
その言葉は、思ったより真面目だった。
職人としての悔しさなのだろう。
素材の使い道が失われる。
炉の意味が失われる。
技術の名前だけが残り、中身が死ぬ。
それは、生産職にとってかなりつらいことなのかもしれない。
「失われた理由もあるはずだ」
グラン親方が言った。
「世界樹との接続が途切れた。フェネキア族地下領域との交流が断たれた。地上エルフとの関係が変わった。あるいは、封印に関わる何かがあった」
封印。
その単語が出た瞬間、石台の一部が暗く沈んだ。
まるで、こちらの言葉に反応したように。
表示が切り替わる。
《封印補助構造》
《閲覧制限》
《竜種関連記録を含みます》
《固有名記録:封鎖》
《警告文のみ閲覧可能》
やめろ。
俺は本気でそう思った。
警告文のみ。
その時点で、だいたいろくでもない。
ルナが俺を見る。
「閉じますか?」
閉じるべきだ。
今すぐ閉じるべきだ。
だが、警告文だけは見ておく必要があるかもしれない。名前や詳細に触れず、どこが危険なのかだけ確認する。それは今後、不用意に踏み込まないための境界線になる。
こういう理屈で人は呪われた本を開くのだろう。
分かっている。
分かっているが、見ないまま帰るのも危ない。
「警告文だけだ」
俺は言った。
「固有名が出たら即閉じる。読むのも、複写もしない」
全員が頷いた。
俺は警告文を開く。
空中に、黒い罅のような文字が浮かんだ。
《七つの竜種》
その項目名だけが、歪んだ文字で表示される。
続く行は、すべて黒く塗り潰されていた。
名前はない。
属性もない。
姿もない。
ただ、いくつかの警告だけが読める。
《名を記すことを禁ず》
《名を呼ぶことを禁ず》
《名を知ることは、淀みへの門である》
《根の下に眠るものを起こすな》
《光を保つ者は、影の名を持つな》
《封じる者は、語らず》
《語る者は、封じられず》
書庫が、静まり返った。
きなこもちの軽口はない。
グラン親方も息を潜めている。
ルナは、無意識に手を自分の剣へ近づけていた。抜こうとしているわけではない。ただ、そこにあることを確かめている。
文字だけだ。
ただのフレーバーテキスト。
そう言い切れれば楽だった。
だが、これは軽くない。
名前そのものを呪いのように扱っている。
世界樹の根。
フェネキア族の封印。
疑似太陽の光。
その裏側にある影。
七つの竜種。
固有名は出ない。
出してはいけない。
「閉じる」
俺は即座に言った。
石台を操作し、警告文を閉じる。
複写もしない。
公開区分設定も、内容ではなく「警告文確認/詳細未閲覧」とだけ記録する。
《竜種関連警告文》
《固有名:未閲覧》
《複写:禁止》
《公開状態:非公開保留》
《保留理由:禁忌記録、淀み関連危険、現段階での理解不能》
記録板にそう残した瞬間、少しだけ息が戻った。
だが、書庫の冷たさは変わらない。
「名前、なかったですね」
ルナが言った。
「なくていい」
俺は答えた。
「今は、名前がないことが情報だ」
「名前がないこと」
「ああ。上位NPCが口にしない理由も、古代記録が黒塗りにしている理由も、同じ方向を向いている。あれは、知ればいい情報じゃない」
グラン親方が重く頷いた。
「職人の領域ではありません」
その一言で十分だった。
グラン親方は世界樹の素材や炉の話には踏み込める。
だが、竜種の名には踏み込まない。
それでいい。
きなこもちも、珍しく何も言わなかった。
ただ、小さく息を吐いてから、ぽつりと呟いた。
「火に入れちゃいけない素材って、あるんだね」
「あるだろうな」
「今の、素材じゃないけどさ」
「情報も素材に似ている」
「あー……黒鉄さんが言うと、やだな。それ、ほんとにそうっぽい」
情報も素材だ。
扱いを間違えれば、灰になる。
あるいは、こちらが燃える。
ーーーーー
竜種関連を閉じた後、根下炉の記録だけを整理した。
見えてきたことは多い。
グレイム領地下には、かつて世界樹の根圏魔力を補助利用する炉があった可能性がある。
灰鉄鉱は、その魔力の揺れを逃がす外殻や緩衝材として使われていた可能性がある。
根麻布は、魔力を通さない性質によって、乱反射や湿りを避ける覆布として使われていた可能性がある。
旧規格魔力安定板は、そうした古代工房技術の劣化継承品だった可能性がある。
第三炉は、その古い系統の一部を残している。
そして、深層は世界樹、フェネキア族、地上エルフ、封印補助構造へ繋がっている。
ただし、七つの竜種には触れない。
名前は出さない。
詳細も見ない。
今の俺たちが持ち帰るべきは、線だけだ。
地図ではない。
線。
世界がどう繋がっているかの、細い線。
俺は公開区分を設定する。
《根下炉記録》
《炉会議限定公開候補:旧炉系統と灰鉄鉱・根麻布の補助用途》
《第三炉限定:樹脈魔力と旧規格安定板の技術照合》
《非公開保留:世界樹核心、フェネキア族地下領域、地上森域、封印補助構造》
《厳重非公開:竜種関連警告文》
《固有名:未閲覧》
《複写:禁止》
設定を終えると、石台の表示が静かに落ち着いた。
きなこもちが言う。
「これ、職人たちに全部見せたら大騒ぎだね」
「だから見せない」
「灰鉄と根麻の用途だけ?」
「炉会議にはな。第三炉では、旧規格安定板の調整に必要な範囲だけ扱う」
「世界樹は?」
「保留」
「フェネキア族は?」
「保留」
「竜種は?」
「言うな」
「はい」
珍しく素直だった。
それだけ、さっきの警告文は効いたのだろう。
ルナが石台を見つめたまま言った。
「アイズドさん」
「何だ」
「私たち、フェネキア族の里に行きましたよね」
「ああ」
「セレンさんが、根の奥の話をしました」
「ああ」
「それで、ここにも根の記録がある」
「そうだな」
「じゃあ、いつか繋がるんですね」
いつか。
便利で、残酷な言葉だ。
今ではない。
けれど、いつかは来る。
世界樹の根。
フェネキア族の封印。
七つの竜種。
グレイム領の古代工房。
リーフェ村の素材。
第三炉の火。
全部が、一本の線の上に乗り始めている。
俺はその線を見たくないようで、見たかった。
非常に厄介だ。
「たぶんな」
俺は答えた。
「ただし、今じゃない」
「はい」
「今の俺たちがやるべきなのは、グレイム領の整理と、装備調整と、レベル上げだ。世界樹の奥へ行くには足りないものが多すぎる」
「分かっています」
ルナは素直に頷く。
「でも、見えてしまいましたね」
「ああ」
見えてしまった。
届かない場所が。
それだけで、次に進む理由になる。
そう言ったのは、少し前の俺だ。
余計なことを言ったものだと思う。
ーーーーー
書庫を出る前に、石台が最後の通知を出した。
《根下炉記録 限定照合完了》
《世界樹根圏との関連を確認》
《次段階閲覧条件は変更されません》
《世界樹系素材の所持》
《または、フェネキア族上位者の承認》
《警告:竜種関連記録は現段階で閲覧非推奨》
非推奨。
ゲームでこの言葉が出る時は、だいたい「やるな」と同義である。
やらない。
少なくとも今は。
俺は通知を閉じた。
階段を上る。
背後で魔力灯がひとつずつ消える。
古代書庫の冷たい光が遠ざかり、領主館倉庫の空気へ戻る。
地上へ出ると、グレイム領の空には薄い雲が広がっていた。
工房区の煙が、その雲へ溶けていく。
世界樹の根から漏れた魔力が、かつてこの街の炉を支えていたのかもしれない。
そう考えると、今見ている煙の意味まで変わって見える。
ただの工房の煙ではない。
失われた系統の残り火。
その火が、まだ細く繋がっている。
「黒鉄さん」
きなこもちが隣に並ぶ。
「根下炉、復活できると思う?」
「今は考えるな」
「考えるだけ」
「お前の考えるだけは、だいたい手が動く」
「それは否定できない」
「否定しろ」
グラン親方が、静かに言った。
「復活というより、まずは理解です。今の第三炉で扱えるものではありません。世界樹系素材も、樹脈魔力も、我々はほとんど知らない」
「親方でも知らないんだ」
「知らないものは知らないと言うべきです」
「かっこいい」
「当然です」
グラン親方は本当に強い。
知らないと言える職人は、信用できる。
知ったかぶりをする職人は危険だ。特に火と素材を扱う場合、知ったかぶりは爆発する。たぶん物理的に。
ルナは少しだけ空を見上げていた。
「世界樹の上には、エルフがいるんですよね」
「フェネキア族の里で聞いた話ではな」
「地上のエルフと、地下のフェネキア族。その間に根があって、グレイム領の工房も昔はその根と繋がっていた」
「そういう線は見えた」
「すごく広いですね」
「広すぎる」
俺は即答した。
「今、全部考えると頭が死ぬ」
「じゃあ、少しずつですね」
「ああ」
少しずつ。
古代書庫は一気に答えを出さない。
むしろ、一つ読むたびに問いが増える。
世界樹はただの背景ではない。
フェネキア族はただの地下種族ではない。
グレイム領はただの生産都市ではない。
リーフェ村の素材も、第三炉の火も、古代書庫の扉も、どこかで世界樹の根へ繋がっている。
そして、その根の奥には、名を記すことすら禁じられたものが眠っている。
面倒だ。
壮大すぎる。
俺は、もう少し小さい話がしたい。たとえば防具の調整とか、レベル上げとか、今日の飯とか。そういうスケールで生きていたい。
だが、見えてしまった。
地下から世界樹へ伸びる線が。
なら、無視はできない。
ただし、今すぐ触らない。
それが今日の結論だった。
ーーーーー
第三炉へ戻ると、炉の熱が身体を包んだ。
古代書庫の冷たさとは違う、現実感のある熱だ。
きなこもちは作業台に飛び乗るように近づき、根麻布の小片と灰鉄鉱の試料を並べた。手がもう動きかけている。危険物である。
「きなこもち」
「分かってる。試さない。見るだけ」
「触るな」
「見るだけって言ったじゃん」
「お前の見るだけは、触るまでが早い」
「信用ないなあ」
「実績がある」
グラン親方が試料を一つずつ箱に戻した。
「本格的な検証は、炉会議の承認後です。根下炉記録に関わるものは、第三炉内でも限定扱いにします」
「親方まで」
「当然です」
きなこもちは不満そうだったが、逆らわなかった。
今日見た記録の重さは、彼女にも分かっている。
理外創成の時とは違う。
あれは素材と職人の火だった。
今日の記録は、世界樹と封印に繋がる火だ。
扱いを間違えれば、素材が灰になるどころでは済まない。
俺は暫定管理記録を開き、今日のまとめを入力する。
《第六十七記録:根下炉照合》
《グレイム領旧炉系統と世界樹根圏の関連を確認》
《灰鉄鉱、根麻布の旧用途補強》
《世界樹核心、フェネキア族地下領域、地上森域は非公開保留》
《竜種関連警告文を確認。ただし固有名未閲覧、複写禁止》
《次段階閲覧条件:世界樹系素材の所持、またはフェネキア族上位者の承認》
これでいい。
すべてを開けたわけではない。
むしろ、開けないことを決めた記録だ。
だが、それも前進なのだろう。
ルナが横から記録を見て、静かに言った。
「今日は、扉を閉じる話でしたね」
「そうだな」
「でも、線は見えました」
「ああ」
「地下から世界樹へ」
その言葉が、妙にしっくり来た。
グレイム領の地下。
古代書庫。
根下炉。
世界樹の根。
フェネキア族の里。
疑似太陽。
地上のエルフ。
そして、根の奥に眠る名を禁じられた竜種。
全部がまだ遠い。
だが、線だけは見えた。
「届かない場所が増えたな」
俺は言った。
「増えましたね」
ルナは少し笑う。
「でも、届くところから片づけるんですよね」
「俺の台詞を取るな」
「覚えています」
「忘れてくれてよかった」
「大事なので」
大事かどうかは知らない。
ただ、今の俺たちにはそれしかできない。
世界樹へ行く前に、グレイム領を片づける。
フェネキア族の承認を求める前に、今の関係を整理する。
竜種の名に触れる前に、名前を出してはいけない理由を覚えておく。
そして何より、レベルを上げる。
レベル四十台後半で、レベル九十推奨のクエストへ行くほど俺は無謀ではない。たまに無茶はするが、無謀とは違う。違うはずだ。たぶん。
炉の火が、静かに揺れた。
古代書庫の冷たい光とは違う。
今、手元にある火。
この火を守り、使い、整えることから始めるしかない。
最高のクソゲーは、地下の工房から世界樹の根まで、一本の面倒な線を引いてきた。
なら、こちらもその線を辿る準備をする。
ただし、今すぐではない。
今はまだ、届かない。
届かない場所が見えただけだ。
それだけで十分、次に進む理由にはなる。
俺は記録を閉じた。
その瞬間、第三炉の奥で、灰鉄の試料が小さく鳴った気がした。
気のせいだと思う。
思いたい。
だが、この世界で気のせいは、だいたい次の面倒の前触れだ。
俺は聞かなかったことにして、炉から少し離れた。




