生産職の上限は火の向こう
上級職というものは、単純にレベルを上げれば開くわけではない。
少なくとも、EHOではそうだった。
一定レベル。
一定の熟練度。
特定スキルの使用履歴。
クエスト達成。
NPCとの関係。
特殊な称号。
そして、プレイヤー本人の行動傾向。
それらが複雑に絡み合って、ある日突然、上級職への道が開くことがある。
これが非常に厄介だった。
ゲームらしく、必要条件を全部一覧で見せてくれればいいものを、このゲームはそういうところで妙に意地が悪い。条件の一部だけを見せ、残りは行動で探れと言ってくる。いわゆる探求期向けの設計だ。誰も正解を知らない場所を歩かせるための仕組み。
たとえば、ルナが目指すかもしれない《絶剣》。
あれも、なれるかどうかは分からない。
被弾しないこと。
相手の起こりを読むこと。
剣で斬るより先に、身体が答えへ届くこと。
そうした行動が積み重なった先に、いつか道が開くかもしれない。
かもしれない、だ。
確定ではない。
その曖昧さこそが、EHOというゲームの嫌なところであり、面白いところでもある。
プレイヤーの行動は、世界に記録される。
戦い方も、選び方も、何を見て、何を避け、何を捨て、誰と関わったかも。
運営が明言していた範囲では、高度な行動判定AIがそれを解析し、上級職や特殊クエストの適性に反映しているらしい。
もちろん、プレイヤーから見れば完全には分からない。
だから、条件を満たしたと思ったのに開かないこともある。逆に、何気なくやっていた行動が積み重なり、突然道が出ることもある。
最高のクソゲーである。
攻略する側からすれば最悪だ。
だが、探索する側からすれば、これ以上なく魅力的でもある。
そして今、その仕組みが生産職にも繋がっている可能性が出てきた。
古代書庫の石台には、昨日閉じた断片が残っている。
《深き創成は、職を越える》
《五つの火を知る者、五つの材を読む者》
《火と材と形を結び、上なる炉へ至る》
《閲覧制限》
《上位職記録への接続条件を満たしていません》
上位職記録。
その言葉を見た瞬間、きなこもちの顔から軽口が消えた。
消えたまま、まだ戻っていない。
第三炉の作業台の前で、彼女は古代書庫から持ち帰った限定複写を見つめていた。
金槌は腰にある。
いつも通りの姿だ。
だが、目だけが違う。
炉の火を前にした時の目でも、珍しい素材を見つけた時の目でもない。
届くかもしれない場所を見つけてしまった人間の目だった。
「黒鉄さん」
きなこもちが言った。
「あたし、これ、条件近いのかな」
その声は、思ったより小さかった。
俺はすぐには答えなかった。
答えられなかった、という方が近い。
安易に肯定すれば、彼女は燃える。
安易に否定すれば、今見えた道を潰すことになる。
どちらも違う。
「可能性はある」
俺は言った。
「可能性?」
「ああ。確定ではない」
最初に釘を刺す。
ここを曖昧にすると危ない。
「五つの火、五つの材。これが何を指すかはまだ分からない。五つの生産職かもしれない。五系統の素材かもしれない。五種類の炉かもしれない。あるいは、全部違う意味かもしれない」
「でも、あたしは五職カンストしてる」
「そうだな」
「理外創成も成功してる」
「している」
「古代素材分類も見た」
「見た」
「リーフェ村の素材も読めた」
「読んだな」
「じゃあ」
「だから、可能性はある」
俺は繰り返した。
「だが、可能性と条件達成は違う」
きなこもちは唇を結んだ。
納得していない顔だ。
だが、聞く気はある。
「上級職や上限解放は、プレイヤー側に見えている条件だけでは決まらない。レベル、熟練度、実績、行動履歴、世界側の記録。それらが揃って初めて道が出る」
俺は限定複写に目を落とす。
「お前の場合、理外創成の成功、複数生産職の到達、素材提供者との同意、古代分類の閲覧。条件に近そうなものは揃いつつある。だが、足りないものもあるはずだ」
「何が?」
「それが分かれば苦労しない」
きなこもちが、少しだけ笑った。
「黒鉄さん、たまに冷たいよね」
「冷やさないと燃えるやつがいるからな」
「誰のこと?」
「炉の前に立ってる小さい危険物」
「ひどい」
軽口が少し戻った。
だが、完全ではない。
彼女の視線は、まだ断片記録から離れない。
ーーーーーー
グラン親方は、限定複写を慎重に読み直していた。
第三炉の奥にある小さな会議台には、古代書庫の複写、炉会議の記録、きなこもちの理外創成実績、リーフェ村の同意記録が並んでいる。
今回は、書庫ではなく第三炉で話している。
理由は単純だ。
古代書庫の中で長々と議論すると、きなこもちが追加項目を開こうとするからだ。
危険な場所に危険物を置いてはいけない。
これも防火対策である。
「上なる炉、という表現が気になります」
グラン親方が言った。
「現代の生産職には、上級炉や専用炉という分類はあります。しかし、この記録の言い方は設備そのものではなく、職人の到達点を指しているようにも読める」
「職人の到達点……」
ルナが小さく復唱した。
彼女も会議台の横に立っている。
フードは深く被ったままだが、今日の彼女はいつもより静かだった。戦闘職であるルナにとって、生産職の上限解放は直接の話ではない。だが、上級職という意味では、彼女自身の《絶剣》にも繋がる。
「戦闘職にも、似たようなものがあるんですよね」
ルナが俺を見る。
「ありますよね、というより、ある可能性が高い」
「可能性」
「そうだ」
俺は答える。
「一定レベルになったからといって、誰でも絶剣になれるわけじゃない。たぶん、ルナの行動記録、被弾率、回避、剣の振り方、どんな敵とどう戦ったか。そういうものが積み重なって判断される」
「私は、なれるんでしょうか」
ルナの声は、少しだけ揺れていた。
珍しい。
彼女は強さそのものには素直だが、自分の先にあるものを口にするときは慎重になる。
「分からない」
俺は言った。
ルナは黙る。
「ただ、道が開く可能性はある」
「可能性ばっかりですね」
「このゲームがそういう作りなんだ。確定と言った瞬間、だいたい裏切られる」
「でも、可能性があるなら、進めます」
ルナは静かに言った。
きなこもちが横から見る。
「ポンチョちゃん、強いね」
「ルナです。あと、少し怖いです」
「怖いの?」
「はい。でも、怖いから、ちゃんと進まないといけない気がします」
きなこもちが、少しだけ目を伏せた。
「それ、分かる」
戦闘職と生産職。
方向は違う。
だが、届くかもしれない場所が見えた時の怖さは同じなのかもしれない。
届けば変わる。
届かなければ、今の自分では足りなかったことが分かる。
どちらも怖い。
だから、人は軽口を叩いたり、事実という言葉で逃げたりする。
俺のことだな。
やめよう。
自分で自分を殴る趣味はない。
ーーーーーー
古代書庫の断片を整理する。
《深き創成は、職を越える》
これは、単一職の熟練だけでは足りないという意味に読める。
きなこもちは複数の生産職を高レベルまで上げている。鍛冶、裁縫、細工、錬金、木工。五職カンスト級という時点で、普通の生産プレイヤーとはかなり違う。
《五つの火を知る者》
これは、五つの生産分野、あるいは五つの炉の扱いを指す可能性がある。
鍛冶炉、裁縫圧着、錬金窯、木工乾燥、細工精密台。
そういう設備ごとの火や熱を知ること。
ただし、これは推測だ。
《五つの材を読む者》
これは、五系統の素材理解かもしれない。
鉱石、布、木、革、魔力材。
あるいは、古代分類上の別の五系統かもしれない。
これも推測。
《火と材と形を結び、上なる炉へ至る》
これは、素材、設備、完成形を結びつける技術。
理外創成の本質に近い。
素材が本来持つ用途を読み、火で起こし、形へ落とす。
そういう意味に読める。
だが、読めるだけだ。
正解とは限らない。
「記録は答えじゃない」
俺は言った。
きなこもちがこちらを見る。
「答えっぽい形をした、別の問いだ。ここに書いてあることをそのまま条件表だと思うな」
「じゃあ、どうするの」
「仮説として扱う」
「仮説」
「ああ。今分かっていること、分かっていないこと、試していいこと、まだ試すべきではないことを分ける」
俺は会議台に四つの欄を作った。
《分かっていること》
きなこもちは複数生産職を高レベルまで上げている。
理外創成を実用品質で成功させた。
素材提供者の同意記録がある。
古代書庫の理外創成基礎断片を閲覧できた。
《分かっていないこと》
五つの火の正確な意味。
五つの材の正確な意味。
上なる炉が職業なのか、設備なのか、称号なのか。
上限解放条件の不足分。
《試していいこと》
既存素材の用途照合。
炉会議での安全な理外創成手順の整備。
素材提供者同意記録の標準化。
小規模な試作。
《まだ試すべきではないこと》
希少素材を使った深い創成。
未知素材の実験投入。
古代書庫の上位職記録への強制接続。
世界樹関連素材の代替実験。
きなこもちが、最後の欄を見て不満そうにした。
「めっちゃ止めるじゃん」
「止める」
「少し試すくらいなら」
「少しで灰になる」
「それはそう」
「それはそう、で済ませるな」
グラン親方が深く頷いた。
「黒鉄殿の整理は妥当です。特に、同意記録の標準化は重要です。理外創成を使う場合、素材提供者がリスクを理解しているかを明確にする必要があります」
きなこもちが頬を掻いた。
「職人からすると、ちょっと息苦しいけどね」
「自由にやりたいか」
「やりたい」
「なら、自分の素材でやれ」
「高いんだよ」
「人の素材で自由にやるな」
「正論パンチやめて」
ルナが小さく笑った。
だが、すぐに真面目な声に戻る。
「でも、きなこもちさんが上限解放できたら、すごいですよね」
「できたらな」
俺は言った。
「確定ではない」
「はい。可能性です」
ルナは素直に頷く。
学習している。
よいことだ。
可能性という言葉は、希望にも罠にもなる。
だから、何度でも確認する必要がある。
ーーーーーー
その時、会議台の上に新しい通知が浮かんだ。
《職人実績記録の照合が可能です》
《対象:モチモチきなこもち》
《照合しますか?》
きなこもちが固まった。
俺も一瞬、黙った。
これは、古代書庫から持ち帰った限定複写が、きなこもちの職人実績と反応しているらしい。
便利。
そして危険。
非常に危険。
「押す?」
きなこもちが聞いた。
「押さない」
「即答」
「本人の実績記録だ。お前の同意がいる」
「あたしは押していいよ」
「本当にか」
「本当に」
「照合結果で、上限解放に近いとか遠いとか出るかもしれない」
「うん」
「出なかった場合もある」
「うん」
「足りない条件が出て、無茶したくなる可能性もある」
「あるね」
「それでも見るか」
きなこもちは少しだけ黙った。
いつもの彼女なら、見る、と即答したかもしれない。
だが、今は違う。
理外創成の記録を見た後だ。
素材を灰にする怖さ。
同意記録の重さ。
上へ行けるかもしれない怖さ。
それらを一度、飲み込んでいる。
「見る」
彼女は言った。
「でも、一人では見ない」
俺は少し目を細めた。
「どういう意味だ」
「黒鉄さんと、親方と、ポンチョちゃんもいて」
「ルナです」
「知ってる。あと、見るだけ。すぐ試さない。何か出ても、その場で決めない」
グラン親方が静かに頷いた。
「それなら、よいでしょう」
俺も頷いた。
「分かった。ただし、結果は非公開保留。炉会議へ出すかどうかは、内容を見てから決める」
「うん」
きなこもちが、石台から複写された照合盤へ手を置く。
《本人同意を確認》
《職人実績記録を照合》
ログが流れ始めた。
《鍛冶系熟練:上限到達》
《裁縫系熟練:上限到達》
《細工系熟練:上限到達》
《錬金系熟練:上限到達》
《木工系熟練:上限到達》
《理外創成成功記録:複数》
《素材提供者同意を伴う理外創成成功記録:確認》
《古代分類素材への適性反応:微弱》
《上位職記録への接続:条件不足》
《不足条件:不明》
微弱。
条件不足。
不足条件、不明。
実にこのゲームらしい。
見せるだけ見せて、最後は不明で止める。
きなこもちは、ログをじっと見ていた。
「近いのか、遠いのか、分かんないね」
「そういう結果だな」
「微弱って何」
「反応はあるが、足りない」
「何が?」
「不明」
「腹立つね」
「同意する」
珍しく意見が合った。
グラン親方が、照合結果を真剣に見つめる。
「五職上限到達は、やはり条件の一部に見えます。理外創成成功記録も反応している。ただ、古代分類素材への適性反応が微弱ということは、まだ素材側の条件が足りないのかもしれません」
「古代分類素材……」
きなこもちが呟く。
「灰鉄鉱と根麻布だけじゃ、足りない?」
「それも不明だ」
俺はすぐに言った。
「ここで決めつけるな。古代分類素材といっても、灰鉄原鉱の末端、根麻系織布の末端を扱っただけだ。上位素材が必要かもしれないし、別系統の素材が必要かもしれない。あるいは、素材ではなく行動記録が足りないのかもしれない」
ルナが、静かに言った。
「焦ったら、危ないんですね」
「ああ」
「絶剣も、同じですか?」
「たぶんな」
俺は答える。
「何か一つ足りないと言われた時、人はその一つを探して走り出す。でも、その足りないものが本当に一つとは限らない。見えている不足条件が、罠みたいなこともある」
「罠」
「このゲームは、正解に見える遠回りを平気で置く」
いや、本当に置く。
そしてプレイヤーは喜んで踏む。
俺も踏む。
だから、偉そうなことは言えない。
ただ、今はきなこもちを止める立場だ。
止めるというより、走り出す前に靴紐を結ばせる立場。
「きなこもち」
俺は言った。
「今、この結果で分かったことは一つだけだ」
「何?」
「お前には反応がある」
彼女がこちらを見る。
「だが、開いてはいない」
「うん」
「だから、開いていない扉を殴るな」
「殴らないよ」
「蹴るな」
「蹴らない」
「炉で炙るな」
「それはちょっと考えた」
「考えるな」
きなこもちは、ふっと笑った。
今度は少し自然だった。
「分かった。今は殴らない。蹴らない。炙らない」
「最後が一番信用できない」
「職人だから」
「免罪符にするな」
ーーーーーー
照合結果を非公開保留に設定する。
《職人実績照合結果》
《対象:モチモチきなこもち》
《公開状態:非公開保留》
《共有範囲:本人、黒鉄の重装騎士、灰衣の旅剣士、第三炉グラン》
《炉会議提出:保留》
《理由:上位職関連情報、誤読防止、過剰挑戦防止》
また過剰挑戦防止。
きなこもちが横目で見る。
「やっぱりあたしのことだよね」
「少なくとも半分は」
「もう半分は?」
「俺たち全員だ」
可能性が見えれば、人は動きたくなる。
それはきなこもちだけの問題ではない。
ルナもそうだ。
俺もそうだ。
届かない場所が見えた時、無理やり手を伸ばしたくなる。
だから、線を引く。
今はここまで。
次に行くには準備。
この繰り返しだ。
地味だ。
だが、地味な準備を飛ばすと、たいてい死ぬ。
ゲームでも現実でも、それは同じだった。
グラン親方が会議台の記録を整理しながら言う。
「今後、理外創成を扱うなら、第三炉としても手順を作る必要があります」
「手順?」
きなこもちが嫌そうな顔をする。
「自由を縛るためではない」
グラン親方は静かに言った。
「素材提供者の同意。灰化リスクの説明。失敗時の補償。成功時の所有権。完成品の用途。これらを明確にしなければ、理外創成はまた危険な死に機能として扱われる」
きなこもちは何も言わなかった。
言い返せないのだろう。
彼女自身が、その重さを知ったばかりだから。
「炉会議へ出すのは、理外創成そのものの上限記録ではなく、手順案だ」
俺は言った。
「理外創成を推奨するのではなく、使う場合の安全線を作る。灰になる危険を消せないなら、せめて誰が何を理解していたかを残す」
グラン親方が頷く。
「それなら、職人側も受け入れやすいでしょう」
きなこもちが小さく呟く。
「面倒だなあ」
「面倒だ」
俺は言った。
「でも、面倒を省いた理外創成は、ただの素材灰化装置になる」
「それは嫌」
「なら面倒をやれ」
きなこもちは、しばらく黙った。
それから、軽く息を吐く。
「分かった。やる」
短い返事だった。
だが、十分だった。
ーーーーーー
夕方、第三炉の外へ出ると、工房区の煙が赤く染まっていた。
炉の火と夕日の色が混ざり、空が少し煤けた橙色になる。
きなこもちは、いつもより静かにその煙を見ていた。
「五つの火、か」
彼女が言う。
「まだ意味は不明だ」
「分かってる」
「上限解放も確定ではない」
「分かってる」
「焦るな」
「黒鉄さん、心配性?」
「管理者としての注意だ」
「暫定?」
「暫定だ」
「じゃあ暫定心配性」
「その呼び名は却下だ」
きなこもちは少し笑った。
そして、また煙を見る。
「でもさ、反応があるって分かっただけで、結構やばいね」
「何が」
「嬉しい」
彼女は素直に言った。
「怖いけど、嬉しい。自分がやってきたことが、ただの変な遊びじゃなかったかもしれないって思える」
俺は何も言わなかった。
そういう時、軽く返す言葉はない。
ルナが隣で静かに言う。
「私も、分かる気がします」
「ポンチョちゃんも?」
「ルナです。まだ、絶剣になれるか分からないです。でも、なれるかもしれないなら、ちゃんと戦いたいです」
「ちゃんと戦う、か」
きなこもちは笑った。
「じゃあ、あたしもちゃんと作るか」
「今までは?」
「ちゃんと作ってたよ。たぶん」
「たぶんをつけるな」
少しだけ、いつもの調子に戻ってきた。
それでいい。
届くかもしれない場所が見えた。
だが、まだ届いてはいない。
だから今は、手元の火を見る。
灰にならないように。
燃えすぎないように。
そして、いつか上なる炉へ届くために。
最高のクソゲーは、生産職の上限すら曖昧な火の向こうに隠している。
だが、反応はあった。
それだけで、人は進みたくなる。
危ない。
だから、進むなら慎重に。
俺たちはその日、上限解放に関する記録を非公開保留にした。
何も解決していない。
何も開いていない。
けれど、きなこもちの前には、確かに一本の細い道が見え始めていた。




