現実の喧騒とカフェに舞い降りた白銀
深い没入感から意識が浮上し、視覚と聴覚が現実のそれへと切り替わる。
VRヘッドセットを外した俺――神代冬司は、ゲーミングチェアの背もたれに深く寄りかかり、大きく伸びをした。
カーテンの隙間から差し込む朝日が、薄暗かった部屋を白く照らしている。時計を見れば、すっかり朝になっていた。
「……やれやれ、徹夜でバケモノとやり合っちまったか」
疲労感はあるが、プロゲーマー時代に感じていたような、胃を締め付けるような重苦しいストレスはない。むしろ、極上の映画を一本見終わった後のような、心地よい充足感が全身を満たしていた。
俺は立ち上がり、日課のルーティンをこなし始めた。
溜まっていた洗濯機を回し、熱めのシャワーを浴びて凝り固まった筋肉をほぐし、無精髭を剃って身だしなみを整える。プロ時代は睡眠時間を削って解析に回していたため、部屋は常に荒れ果てていたが、引退してからの俺は案外、人間らしい生活リズムを取り戻しつつあった。
部屋の空気を入れ替えるため、ベランダの窓を大きく開け放つ。
初夏の爽やかな風が吹き込んできた。タワーマンションの低層階にあるこの部屋からは、近くの通りを行き交う人々の姿がよく見える。
ふと視線を落とすと、眼下の歩道を歩いていく二人組の若い女性が目に留まった。一人は目を惹くような美しいプラチナブロンドのストレートヘアをした少女で、どこかルナのアバターの面影を感じさせるような、ハッとするほどの美しさがあった。
「……綺麗な子もいるもんだな。ゲームのやりすぎで、現実の女の子までルナに見えてきやがったか」
俺は小さく自嘲し、窓を閉めて部屋を出た。
「よし。たまには外の空気でも吸うか」
俺はシンプルなジャケットを羽織り、マンションの近くにある行きつけのカフェへと足を向けた。
休日の午前中ということもあり、カフェの店内は程よく賑わっていた。
窓際のテラス席に陣取り、注文したアイスティーを傾けながら、俺はぼんやりと通りを眺めた。
白騎士団を追放されてから、現実世界の時間にしてまだ二週間ほどしか経っていない。
だが、その二週間は、これまでの俺のゲーマー人生の中でも、ダントツで一番濃密で狂った日々だった。
産廃ジョブである【古代変形機装】との出会い。最適化されたマニュアルの破壊。そして、路地裏で出会った変な初心者とのパーティ結成。
彼女と行動を共にしたおかげで、俺はプロの連中が絶対に見ることのできない地下都市の美しい景色や、白亜の幻城、そして世界を揺るがす竜の深淵にまで辿り着くことができた。
「……アイツには、感謝しねえとな」
グラスの中でカラカラと氷が鳴る。俺は小さく笑みをこぼした。
初心者狩りに怯えていた少女は、今やレベル99の絶対君主の懐に飛び込み、キーポイントである祭壇を一人で粉砕するほどの最強のアタッカーへと成長した。俺の無茶苦茶な指示に文句ひとつ言わずについてきてくれる彼女がいなければ、俺はとっくにあの極寒の死地で雪ダルマになっていただろう。
そんなことをしみじみと考えていた、その時だった。
カラン、とドアベルが鳴り、カフェの入り口に現れた二人の人影に、俺の視線が自然と引き寄せられた。
それは、先ほどマンションのベランダから見かけた、あの二人組だった。
一人は、洗練されたファッションに身を包み、ハキハキとした雰囲気を持つ女子大生風の女性。
そしてもう一人は、その友人に引けを取らない……いや、周囲の客の視線を一手に集めるほどの、圧倒的な美貌を持つ少女だった。
陽光を透かすような艶やかなプラチナブロンドのストレートヘアを背中まで長く伸ばし、少し大きめのカジュアルなパーカーをすっきりと着こなしている。白く滑らかな肌と、どこか凜としたサファイアブルーの瞳は、雑誌から抜け出してきたモデルのようだ。
隣を歩く友人の女子が楽しげに話しかけているが、少女の方はどこか上の空で、相槌を打ちながら店内をキョロキョロと見回している。
(へえ……近くで見ると、すげぇ美人だな。でも、あのコロコロと変わる表情や仕草には、まだ少しあどけなさが残ってる。隣の友人と同じ、大学生くらいか? あんな華やかな女子大生コンビなら、さぞ現実でもモテるんだろうな)
俺はアイスティーのストローを咥えながら、完全にモブのおっさん視点で内心感嘆していた。
と、その時。
キョロキョロと店内を見回していた少女のサファイアブルーの瞳が、窓際の席に座っていた俺の顔でピタリと止まった。
(ん?)
目が合ってしまった。
近所のよしみというか、先ほどベランダから一方的に見ていた気まずさもあり、俺はただの反射で軽く会釈をしてしまった。
すると。
少女の顔が、文字通りパァァァッ! と花が咲いたように輝いたのだ。
彼女は、隣で話しかけていた友人を完全に放置し、弾かれたようにこちらへ向かって一直線に駆け出してきた。
「え、ちょっとルナ!? どこ行くの!?」
友人の女子が慌てて声をかけるが、少女は全く気にする様子もなく、俺の座るテーブルの目の前までやってくると、カフェの店内に響き渡るような、満面の笑みと大きな声で叫んだ。
「アイズドさーん!! 奇遇ですねっ、こんなところで会えるなんて!!」
「――ッブッ!?」
俺は、口に含んでいた冷たいアイスティーを、見事な勢いで盛大に吹き出した。
幸いテーブルの下に飛んだため被害は出なかったが、俺は気管に液体を詰まらせ、激しくむせ返った。
「ゲホッ、ゴホッ……ゴホォッ!?」
「ああっ、大丈夫ですか!? すいません、いきなり大声出しちゃって」
少女が慌ててテーブルの紙ナプキンを取り出し、俺に差し出してくる。
その声。その瞳。揺れるプラチナブロンドのストレートヘア。友人が呼んだ『ルナ』という名前。そして、この裏表のない無邪気な表情。
現実の世界で、俺のアバター名である「アイズド」を、こんなにも親しげに、大声で呼ぶ人間は、この世界にただ一人しか存在しない。
「お、おまっ……ゲホッ……お前かよ!!」
俺は涙目で紙ナプキンを受け取りながら、目の前にいる美貌の女子大生――ルナの現実の姿に、盛大に突っ込んでいた。
ネットリテラシー皆無の天然アタッカーとの、予期せぬ現実での遭遇。
俺の平穏な休日の一時は、開始早々に木端微塵に粉砕されることとなったのだった。




