白狐の導きと、円環の安息地(サンクチュアリ)
『勝てないなら、勝てるようになればいい。僕なら、その本当の在り処へ君たちを導くことができる』
雪原の冷たい風が吹き抜ける中。
モフモフの小動物の姿をした伝説の魔術師マーリンは、不敵な笑みを浮かべて俺たちにそう告げた。
レベルキャップ上限解放の試練。現在のシステムの上限である『レベル80』の壁を越え、狂王アーサーを蹂躙したあの『憤怒の竜』の領域へと至るための、唯一の鍵。
ゲーマーとしての俺の血は、その未知なる試練という響きに激しく沸き立っていた。今すぐにでもその場所へ案内させ、最強のステータスを手に入れたいという欲求が胸の奥で渦巻いている。
だが。
俺は即座に首を縦に振ることはできなかった。
「……待て。その話に乗るのは、少しだけ後回しだ」
俺はマーリンから視線を外し、周囲の光景を見渡した。
燃え尽き、黒煙を上げる白亜の都キャメロットの残骸。
その傍らの雪原にへたり込み、母を失って涙も枯れ果てたモードレッド。主君を喪い、膝を突いて項垂れる漆黒の巨漢ガウェイン。そして、鉄灰色の甲冑をボロボロにしながら、辛うじて生き延びた数十名の住民たちを必死に庇うように立っているアグラヴェイン。
誰もが、心身ともに限界の底の底を打っていた。
この極寒の死地で、彼らを置き去りにして、俺たちだけが試練へと向かうことなどできるはずがない。プロゲーマーとして「NPCはただのデータに過ぎない」と割り切っていたかつての俺ならいざ知らず、共に血を流し、背中を預け合った彼らを、俺はもうゲームのオブジェクトだとは思えなくなっていた。
「……彼らの安全を確保するのが先だ。こんな場所に長く留まっていれば、あの竜の余波か、あるいはハイエナどもに嗅ぎつけられる」
俺は奥歯を噛み締めた。
ワールドアナウンスによって、世界中の企業勢やPKたちが、進行フラグを持った『匿名の開拓者』を血眼になって探しているはずだ。
俺たちだけであれば隠密行動も可能だが、これだけの数の負傷したNPCを連れて移動するのはリスクが高すぎる。一般の街やセーフゾーンである『エリュシオン』などに逃げ込めば、瞬く間に企業勢の包囲網に引っかかり、彼らまでPKの標的として巻き込んでしまうだろう。
「だけど、アイズドさん。どこへ逃げれば……」
俺の葛藤を察したのか、ルナが不安そうに周囲を見回す。
安全で、他プレイヤーの目が絶対に届かず、なおかつこれだけの人数を収容できる場所。そんな都合のいい避難所が、この世界に――。
「あっ!」
突然、ルナが何かを閃いたように顔を上げ、ポンッと手を打った。
「アイズドさん! セレンさんたちのところなら、絶対に安全じゃないですか?」
「セレン……砂海の地下都市か!」
俺はハッとして、己のインベントリを開いた。
そうだ。俺たちはかつて、砂漠の地下に隠された『空を抱く地下都市』で、澱みの魔蛇を討伐した。その時、フェネキア族の族長セレンから、彼らの都市へと直接繋がる専用の転移アイテムを授かっていたではないか。
「ルナ、よく思い出した! お手柄だぞ!」
俺はルナの頭をガシガシと撫で回し、インベントリから美しい白磁のアイテム――『白狐の羅針盤』を取り出した。
表面に狐の横顔と三日月が彫り込まれ、中心に深い青色をした魔石がはめ込まれた、一族の長のみが持つ転移装置。外部のプレイヤーには決して侵入できない、システムから完全に隔絶された絶対の安全圏。
まああの族長なら許してくれるだろ。
「アグラヴェイン! 住人たちを集めろ! 今から全員を安全な場所へ退避させる!」
俺の言葉に、アグラヴェインが弾かれたように顔を上げた。
「安全な場所……? アイズド殿、まさか我々まで連れて行っていただけるのですか?」
「当たり前だ! あんたらをこんな地獄に置いて行けるか!」
俺の怒鳴り声に、モードレッドとガウェインも顔を上げた。彼らの瞳に、微かな驚きと、深い恩義の色が浮かぶ。
「アイズド……お前という奴は」
ガウェインが震える声で呟き、アグラヴェインは即座に住人たちを俺の周囲へと集め始めた。
「よし、全員集まったな。マーリン、あんたも置いて行かれたくなかったら中に入りな」
『やれやれ、手回しがいいねぇ。お邪魔させてもらうよ』
小動物の姿をしたマーリンが、ルナの腕の中にピョンと飛び乗る。
俺は『白狐の羅針盤』を高く掲げ、魔力を流し込んだ。
羅針盤の中心の魔石がサファイアのような青光りを放ち、俺たち全員の足元に、清らかな白銀の魔法陣が展開される。吹雪とマグマが混濁する地獄のような空間を、幻想的な光の奔流が包み込んでいく。
「……さらばだ、キャメロット」
モードレッドが、燃え落ちる白亜の都に向かって、最後に一度だけ深く頭を下げた。
直後、強烈な光が視界を白く染め上げ、俺たちの身体は光の粒子となって、極光の氷原から完全に転移・離脱した。
***
視界が再び晴れた時。
俺たちを包み込んでいたのは、凍てつく吹雪でも、肌を焦がす熱風でもなく、穏やかで澄み切った大気だった。
「おお……ここは……」
ガウェインが感嘆の声を漏らす。
そこは、巨大な世界樹の根が幾重にも絡み合い、天井から淡い光の粒子が雪のように降り注ぐ、美しき『空を抱く地下都市』の中央広場だった。
「誰だ! 結界を抜けてきたのは!」
突然の集団の転移に、周囲を警戒していたフェネキア族の戦士たちが槍を構えて集まってきた。
だが、その奥から優雅な足取りで現れた長身の女性が、彼らを制止した。
「武器を収めなさい。……我が同胞の気配を感じたと思えば。お帰りなさい、規格外の開拓者殿」
黄金の九本の尻尾を揺らし、族長のセレンが柔らかな微笑みを浮かべて俺たちの前に進み出た。
「久しぶりだな、セレン。悪いが、少しの間、こいつらを匿ってくれないか。事情はあとで説明する」
俺がそう言ってキャメロットの住人たちと円卓の騎士たちを示すと、セレンは彼らのボロボロの姿と、深い悲哀の気配を瞬時に察取した。
「……ええ。多くを語る必要はありません。あなた方が連れてきた者たちです、我らフェネキアは手厚く歓迎いたしましょう」
セレンの指示により、すぐに毛布や温かい食事が運ばれ、住人たちの治療と保護が迅速に開始された。
アグラヴェインは深く頭を下げ、モードレッドやガウェインも安堵の表情でその場に崩れ落ちるように座り込んだ。
その安堵の空気が広がる中。
フェネキア族の群衆を掻き分けるようにして、一人の老人が静かに前に進み出てきた。
「……あ」
俺は、その老人の顔を見て息を呑んだ。
ひび割れた大地のように深い皺を刻んだ顔。それは、俺たちがこの未知の大陸に降り立ったばかりの頃、辺境のテントで『あのお方』の伝承を語って聞かせてくれた、あのフェネキア族の長老だった。
「……旅の者よ。いや、真なる神話の深淵に触れし、英雄たちよ」
老人は、俺とルナの姿を、そして俺たちが纏う壮絶な死闘の残り香を感じ取り、濁った瞳に強い畏敬の念を浮かべていた。
「お前たちは、見てきたのだな。あの、忌まわしき原初の絶望を。そして……生還してきたのだな」
「ああ。あんたが言っていた『あのお方』?かどうかはわからないが、バッチリこの目に焼き付けてきたぜ。……クソみたいにデカくて理不尽な、バケモノだった」
俺が不敵に笑うと、老人は深く、深く頭を下げた。
「奇跡だ……。お前たちならば、あるいはこの狂った世界の理を、終わらせることができるやもしれん」
始まりの地で伝承を語った老人との再会。
それは、ただのゲームのフラグではなく、俺たちの歩んできた旅路が一つの円環を閉じ、そして次なる次元へと繋がる確かな証明のように感じられた。
「……アイズドさん」
その感慨に浸っていると、ルナがふらつく足取りで俺の袖を引いた。
彼女の顔色は青白く、サファイアブルーの瞳は極度の疲労で半ば閉じかかっていた。
無理もない。彼女はシステムのアシストに頼らず、己の現実の神経を極限まで酷使して、レベル99の狂王や地下の祭壇と死闘を繰り広げたのだ。精神的にも肉体的にも、現実の彼女の身体はとうに限界を迎えているはずだ。
「ルナ。お前は一度ログアウトしろ。現実でしっかりと飯を食って、泥のように眠れ」
「でも……アイズドさんを置いて、私だけ……」
「馬鹿野郎、今のお前じゃ次の試練に足手まといになるだけだ。安心しろ、皆の安全は確保した。追手もここには来られない」
俺は彼女の頭を優しく撫でた。
「俺はここで、軍師として次の戦いの準備を進めておく。……お前が万全の状態で帰ってくるのを、待ってるからよ」
「……はいっ。必ず、すぐに戻ってきます」
ルナは俺の言葉に力強く頷き、モードレッドやセレンたちに軽く手を振ると、システムメニューからログアウトを選択した。
光の粒子となって消えていく白銀の少女を見届けた後。
俺は、ルナの腕の中から抜け出して俺の肩に乗っていたモフモフの魔術師、マーリンを横目で睨んだ。
「さて、マーリンの旦那。ルナが戻ってくるまでの間、俺にたっぷりと聞かせてもらおうか。……俺たちが挑むべき『レベルキャップ上限解放の試練』の、本当のヤバさをな」
絶対の安全圏で、俺は再び軍師としての冷徹な思考回路を起動し、来るべき神話の試練への準備を静かに、そして確実に進め始めていた。




