妖妃の遺産
巨大な地割れがキャメロットの中央を二分し、深淵から立ち上る禍々しいエネルギーが世界を赤黒く染め上げていた。
その絶望の震源地で、聖杯の奇跡を代償にして『憤怒の竜』をこの世に引きずり出したアーサー王の肉体が、ついに限界を迎えた。
まるで、操り人形の糸がプツリと切れたかのように。
狂気に満ちた哄笑を上げていた王は、白目を剥いてその場に崩れ落ち、二度と動かなくなった。
ピロロロロンッ、と。
この終末的な光景にはあまりにも不釣り合いな、軽快で陽気なファンファーレが鳴り響いた。
『special quest Clear!! —— 狂王アーサー 討伐完了』
『莫大な経験値および、スペシャルクエスト進行報酬がインベントリに振り込まれました』
視界を覆う金色のシステムウィンドウ。現実世界の通貨に換算すれば、数年は遊んで暮らせるほどの莫大な富と名誉が、今この瞬間、俺たちのデータに付与されたはずだった。
だが、俺の心に歓喜の感情は一ミリも湧き上がってこなかった。
俺の視線は、キャメロットの中央に固定されたまま、地割れの底から這い出してきた、天を突くほどの巨体を誇る『暴力の化身』に完全に釘付けになっていた。
漆黒の双角。マグマのように赤熱して脈打つ岩盤のような鱗。
空を覆い尽くすほどの規格外の竜翼が羽ばたくたびに、熱風が吹き荒れ、白亜の城の残骸がチリのように吹き飛ばされていく。
そして、俺は震える声でアナライズを起動し、その頭上に表示された『ステータス』を視界に収めた。
「……嘘、だろ」
『焦熱の災竜 ―― Lv.121』
「レベル、121……!?」
俺は魔導書を持つ手をダラリと下げ、乾いた笑いを漏らすことしかできなかった。
現在、このEHOにおけるプレイヤーの絶対的なレベル上限は80。神の領域とされた先ほどのアーサー王でさえ、レベル99だ。
上限突破という次元ではない。レベルが10離れた格下からの攻撃をすべて「ダメージ0」として弾き返すこのゲームの絶対法則において、レベルが40以上も離れた存在など、もはや戦闘の対象ですらない。
システムそのものを破壊し、ただそこに存在するだけで万物を消し飛ばす『神に等しきバグ』。
俺の天才軍師としての脳細胞が、何億回シミュレートしようとも「勝率0パーセント」という計算結果を弾き出し、完全に白旗を揚げていた。
「もう……ダメだ」
完全に諦め、死を覚悟したその時だった。
「――モードレッド。ガウェイン、アグラヴェイン」
極限の恐怖と轟音に包まれた空間に、冷たく、だがどこまでも透き通った声が響いた。
モルガンだった。
彼女は漆黒のドレスの裾を翻し、猛り狂う憤怒の竜の前に、たった一人で進み出た。その横顔には、もはや迷いも悲哀もなく、すべてを終わらせるための『絶対の覚悟』が刻まれていた。
「お前たちは、この客人と、まだ街に生き残っている住人を連れて、今すぐここから離れなさい」
その言葉の意味を理解した瞬間、モードレッドが弾かれたように叫んだ。
「な、何を言っているのですか、母上! 私も残ります! 母上と共に、あの竜を――」
「足手まといです。下がりなさい、モードレッド」
モルガンの言葉は、氷のように冷たく、一切の反論を許さない鋭い拒絶だった。
ピシャリと突き放されたモードレッドが、息を呑んで立ち尽くす。
「モルガン様……! 我ら円卓の騎士、主君を置いて逃げ帰るなど、騎士の誇りが許しませぬ!」
ガウェインが大剣を握り直し、引き下がらずに前に出ようとした。
「ガウェイン」
モルガンは振り返らずに、静かに告げた。
「かつて、お前が私に忠誠を誓った日。私が『いつか、たった一度だけ私の我儘な願いを聞いてほしい』と約束したのを覚えているわね?」
「……ッ!」
「そのたった一度の願いを、今、ここで使います。……生きなさい、ガウェイン。あの子たちを護って」
その言葉に、漆黒の巨漢の全身から力が抜け、ガウェインは雪と瓦礫の混じる床に膝を突いた。
「おおお……あ、あぁぁぁ……ッ!」
兜の奥から、獣のような、血を吐くような慟哭が漏れる。彼は泣く泣く、主君の最期の命令を承諾するしかなかった。
「……モルガン様」
震える声が響いた。アグラヴェインだ。
常に冷徹で、感情を表に出すことのなかった鉄灰色の事務官。彼は言うまでもなく、王の姉であるモルガンの合理的な判断の正しさを理解し、指示通りに動こうとしていた。
だが、その細面の顔は耐え難い苦悩に歪み、鉄灰色の甲冑を濡らすほどに、滝のような涙をボロボロと流し続けていた。
「アグラヴェイン。この国とあの子たちの後始末……あなたに任せますよ」
「……はっ。必ずや……!」
アグラヴェインは涙を拭うことすら忘れ、深く、深く頭を下げた。
円卓の騎士たちとの別れを終えたモルガンは、最後に、俺とルナの方へと静かに振り返った。
「見知らぬ開拓者たちよ。……そなたたちに会えてよかった」
妖艶な魔女の顔に、この日初めて、心からの優しく柔らかな微笑みが浮かんだ。
「絶望的な理不尽の中で、決して折れることなく抗い続けたあなたたちの姿に、私は感銘を受けました。あなたたちのような存在が、この狂った世界の理を、いつか必ず打ち破ってくれると信じています」
モルガンが細い指先で虚空に魔法陣を描くと、二つの光の球体が現れ、俺とルナの目の前へとゆっくりと降りてきた。
「私の城の倉庫で眠っていたものです。持っていきなさい」
光が収まり、ルナの前に現れたのは、白銀の魔力線が美しく走る、薄衣のように軽やかな『魔法を唱えられる剣士用装備(魔法剣士の装束)』だった。
そして俺の前に現れたのは、まるで流体金属のように形を変える、漆黒の『成長型防具』。俺の右腕の【古代変形機装】と連動し、タンクからヒーラーへとロールを変えるたびに、その役割に最適な形状とステータスへと自動的に変形する、軍師のための究極の外套。
「これで、もう初期装備の布の服で無理をする必要はありませんよ、狂気の軍師殿」
「……あんた」
俺は、その防具を手に取り、言葉を詰まらせた。
「さあ、行きなさい!」
モルガンが叫ぶと同時に、彼女の身体がふわりと宙へと浮き上がった。
銀糸の髪が猛烈な魔力の風に舞い上がり、彼女の周囲に、キャメロットの空を覆い尽くすほどの莫大な数の魔法陣が展開される。
彼女は、燃え盛るマグマと闇を纏ったレベル121の『憤怒の竜』へと真っ直ぐに向き直った。
そして、最期に一度だけ、最愛の娘へと視線を向けた。
「愛しているわ、モードレッド」
慈愛に満ちた母の微笑み。
それが、妖妃モルガンがこの世界に残した、最期の言葉だった。
彼女は凄まじい魔力の光の奔流となって、圧倒的な絶望を放つ竜の巨体へと、たった単騎で飛び立っていった。
轟音。閃光。空間そのものが消滅するような、神話級の激突が幕を開ける。
「母上ェェェェェェェェェェェェッ!!!!」
崩れゆく白亜の城の跡地で、残された真紅の騎士の絶叫が、悲痛に、どこまでも悲痛に響き渡っていた。




