情報は金になる。
戦いの熱が引いていくと、頭の冷たい部分が動き出した。
谷の風は相変わらず乾いていて、岩肌を撫でるたびに細かな砂を巻き上げている。さっきまで鋼牙の猪たちが暴れていた場所には、もう魔物の姿はない。残っているのは、いくつかの安いドロップアイテムと、俺の左腕に収まった黒銀の機装だけだった。
俺は近くの岩に腰を下ろし、左腕を軽く持ち上げる。
《古代変形機装》。
五十万円を突っ込んだ結果、出てきたもの。
最悪の産廃で、最高の玩具かもしれないもの。
その竜眼が、俺の思考を覗き込むように青白く瞬いている。
さっきの戦闘で分かったことは多い。初期状態で使えるのは《剣装》《盾装》《射装》の三形態のみ。各形態の待機時間は独立しており、一つの形態で手が詰まっても、別の形態へ移れば別の時計を使える。変形硬直はある。装備補正も噛み合わない。スキル性能は本職に劣る。それでも、手番の空白を別形態で埋められるという一点は、常識の外にある。
攻略勢は長年、待機時間という壁を前提に戦術を組んできた。
火力職は火力職の時計で動く。盾役は盾役の時計で耐える。回復役は回復役の時計で味方を繋ぐ。ひとつの職業に与えられた手札は、基本的にその職業の範囲を出ない。だからパーティが必要になる。だから役割分担が生まれる。だから編成理論が価値を持つ。
そこに、この機装は別の答えを持ち込んでいる。
盾で受けたあと、盾の時計が戻るまで待たなくていい。剣へ変われば剣の時計が動く。射へ変われば射の時計が動く。今は三形態だけだが、未解放枠には三十の上級職名が眠っている。もしそれらが本当に開くなら、手番の連鎖はさらに複雑になる。
強いかどうかは、まだ分からない。
いや、正確に言えば、強さを引き出せる人間がどれだけいるか分からない。
だが、情報としての価値は別だ。
未発見の隠しジョブ。誰も知らない取得経路。公式攻略にも、主要掲示板にも、情報屋のリストにも載っていない遺跡。その奥に、役割の壁を踏み越える可能性を持つ機装がある。
その一行だけで、値段がつく。
この世界では、情報がそのまま現実の金になる。
それは比喩ではない。エターナル・ホライゾン・オンラインは、公式RMTを認めている。ゲーム内の素材、装備、通貨、攻略情報、そのすべてが現実の貨幣価値と結びついている。レア素材の出現条件が判明すれば市場が動き、未発見ダンジョンの座標が流れれば企業勢が走り、ボスの新行動パターンが解析されれば攻略情報として売買される。
かつて白騎士団にいた頃、新フェーズの最速攻略と、その先行情報の売却で、チームが二億円近い利益を出したことがある。たった一度の「誰よりも早い」が、それだけの金を生む。もちろん俺個人の取り分は、そこから経費や契約分を引いた一部にすぎない。それでも、数字の重さは嫌というほど身体に染み込んでいた。
情報には鮮度がある。
最初に知った者が最も高く売れる。
二番目は、半額。
三番目は、記事のネタ。
全員が知った頃には、ただの常識だ。
だとすれば、今この瞬間、俺が握っているのは爆弾に近い。火力ではなく、金と注目を吹き飛ばす類の爆弾。
左腕の機装を見下ろす。黒銀の装甲片は、静かに閉じていた。まるで何も起きていないような顔をしている。
「……面倒なものを拾ったな」
呟いてから、少しだけ笑う。
拾った、という表現は正しくない。
五十万円で買ったのだ。
しかも返品不可で。
ーーーーーー
問題は、《古代変形機装》が強いかどうかではなかった。
今のアイズドは、まだ新規アバターに毛が生えた程度だ。レベルも装備も足りていない。初期解放形態も三つだけ。いくら機装の仕組みが異常でも、それを支える身体が弱ければ限界はある。今すぐ上位プレイヤーに見つかって殴られれば、普通に負ける。
だが、情報にレベルは関係ない。
「あの遺跡に、誰も知らない隠しジョブがある」
その一文が世に出た瞬間、何が起きるか。
まず、攻略系の情報屋が動く。座標の特定、取得条件の検証、要求対価の確認。次に企業勢が動く。遺跡周辺の封鎖、金に糸目をつけない検証部隊の投入。配信者も群がる。未発見ジョブを引けるかもしれない場所など、配信映えの塊だ。動画タイトルに「世界初」「隠しジョブ」「五十万円」と並べれば、嫌でも数字が跳ねる。
その中には、俺の正体を探る連中も出てくるだろう。
ジンが白騎士団から消えた直後、辺境に現れた新規プレイヤー。レベル一にしては妙に戦い慣れた動き。異常な判断速度。誰も知らない遺跡に辿り着き、五十万円を即座に突っ込める資金感覚。
線で結ばれるのは、時間の問題だ。
俺は谷の向こうを見た。
人の気配はない。広がっているのは、乾いた岩場と、地図の端へ続く細い道だけだ。何の利益にもならない土地。誰も来ない場所。だからこそ、今の俺には心地よかった。
だが、情報が漏れれば、この静けさは消える。
注目される。
観測される。
解析される。
最適化される。
誰かが俺の動きを記録し、誰かが価値をつけ、誰かが利用しようとする。俺はまた、どこかの盤面に組み込まれる。誰かの勝利のために、誰かの利益のために、誰かの数字のために。
それは、もう十分だった。
昨夜、俺は失業した。
あれはたぶん、敗北だった。不要と判断され、地味だと切られ、築いてきた土台ごと置き去りにされた。だが同時に、俺はそこから解放された。誰かのために勝たなければならない夜は終わった。
それなのに、拾った情報一本でまた戻るのは、さすがに笑えない。
結論は、すぐ出た。
隠す。
《古代変形機装》を隠す。
取得経路を隠す。
あの遺跡を隠す。
アイズドという名前を、軍師ジンと繋がせない。
誰の目にも留まらない辺境を選び、価値を悟られないまま遊ぶ。必要なら、弱く見せる。必要なら、逃げる。必要なら、誰にも説明しない。
この自由を守るためには、沈黙が必要だ。
割に合わない遊びの先に、誰も見ていない景色がある。そこへ通うための入場料が五十万円なら、維持費は沈黙だろう。
俺は立ち上がり、ドロップアイテムを拾った。
鋼牙の破片。
岩甲の欠片。
合わせても大した金額にはならない。効率で言えば、売りに行く時間すら惜しい程度の報酬だ。
けれど、今はそれでよかった。
誰にも値段をつけられない時間のほうが、よほど高い。
ーーーーーー
同じ頃。
覇権ギルド《白騎士団》の作戦室では、エルフのヒーラーが一人、古いログを読み返していた。
作戦室、といっても、それは現実の部屋ではない。白騎士団が保有するギルドハウス内に設けられた、攻略用の専用空間だ。壁一面に戦闘ログが投影され、中央の大卓には各種資料が並べられている。トップギルドらしく設備は豪華で、機能も揃っている。
だが、そこにいるミレイの表情は、豪華さとは程遠かった。
彼女は椅子に座ったまま、卓上に開いたマニュアルを見つめている。
ジンが遺したものだった。
フェーズごとの行動表。支援の優先順位。ボスごとのヘイト変動メモ。回復リソースの配分表。薬品在庫の最低ライン。素材相場が一定以上変動した場合の遠征費調整。メンバーごとの癖。レオンが強引に前へ出たがるタイミング。ミレイ自身が回復を早押ししやすい局面。
緻密だった。
隙がなかった。
そして、重かった。
文字としては読める。意味も、ひとつひとつなら理解できる。だが、それを戦闘中にどう繋げるのかが分からない。どの情報をいつ見るべきなのか。どの判断を優先すべきなのか。なぜジンが、あの瞬間にあの指示を出せたのか。
マニュアルには答えが書いてある。
けれど、答えに辿り着くための目は、書かれていなかった。
「ミレイさん」
作戦室の入口で、若手の一人が声をかけた。まだ加入して半年ほどのアタッカーだ。レオンに憧れて白騎士団に入った、素直で、少し危うい青年。
「次の探求期、来週には入りますよね。ボスの行動、また全部変わるんですよね」
「ええ。アルファの環境統制サイクルが入るから、既存の行動表は一度リセットされるわ」
「でも、マニュアルはありますし、大丈夫ですよね。ジンさんが残してくれたやつ、かなり細かいって聞きましたし」
大丈夫。
その言葉を、ミレイはすぐには返せなかった。
探求期。
超高度管理AIによって、三ヶ月に一度、主要ボスの行動パターンやギミックが再構成される期間。攻略法が確立するまでの数週間、既存のマニュアルはほとんど役に立たない。必要なのは、書かれた答えではなく、書かれていない盤面をその場で読む力だ。
ジンは、それをやっていた。
当たり前のような顔で。
誰が何秒後に危険な位置へ出るか。どの支援が腐るか。ヘイトがいつ剥がれるか。ボスのモーションの揺らぎが、次の行動分岐のどちらを示しているか。マニュアル化できる前の混沌を、彼は戦闘中に読み、仮の答えを置き、間違っていればその場で修正していた。
それは、配信画面には映らなかった。
レオンの一撃は華やかだった。コメント欄は沸いた。切り抜きは伸びた。スポンサーも喜んだ。
けれど、その一撃が安全に通る盤面を作っていたのは、別の誰かだった。
地味で、数字に出ず、配信に映らない仕事。
それを軽んじて、チームはジンを切った。
ミレイは卓上のマニュアルにそっと触れた。紙ではなく、仮想の表示媒体だ。それでも指先には、薄い抵抗感が返ってくる。
土台。
そう思った。
建物の下にあって、普段は誰にも見えないもの。見えないから、あるのが当然だと思われるもの。抜かれて初めて、全員が気づくもの。
「……平気よ」
ミレイは、若手に向かって微笑んだ。
自分でも驚くほど、頼りない笑みだった。
「まずは、今あるマニュアルを読み込もう。分からないところは、私も一緒に確認するから」
「はい!」
若手は少し安心したように頷き、作戦室を出ていった。
扉が閉まる。
静けさが戻る。
ミレイは、ゆっくりと息を吐いた。
平気。
そう言った。
言うしかなかった。
だが、胸の奥では別の言葉が沈んでいる。
本当に?
次の探求期が始まったとき。
ボスの行動が未知に戻ったとき。
レオンがいつものように前へ出たとき。
自分は、ジンの代わりに盤面を読めるのか。
答えは、まだ出なかった。
ミレイはマニュアルを閉じる。
作戦室の壁には、白騎士団の紋章が大きく掲げられていた。白い盾と、交差する剣。勝利の象徴。覇権ギルドの看板。
崩れる音は、まだしない。
ただ、足元がほんの少しだけ傾き始めている。
そんな気がした。
ーーーーーー
辺境を歩く俺は、その夜、ふと足を止めた。
空は赤みを失い、仮想の夜がゆっくりと降りてきている。EHOの昼夜サイクルは現実より少し早い。夕暮れの谷は、昼間とは別の顔を見せる。岩場の影は長く伸び、遠くの木立は黒い塊のように見えた。
俺は左腕の機装を通常表示に戻し、外見上は支給品の片手剣だけを装備した初心者の姿にしていた。《古代変形機装》は左腕の装甲として残るが、上から初期防具の袖を被せれば、遠目にはただの腕当てに見える。
見られないこと。
目立たないこと。
今後の基本方針は、それで決まった。
だからこそ、引っかかった。
視線を、感じた。
明確な追跡ではない。
殺気でもない。
敵性反応も出ていない。
ただ、誰かがこちらをじっと見ているような、薄い気配。
岩陰か。
木立の向こうか。
あるいは、もっと遠くからか。
俺は歩みを止めたまま、周囲の音を拾った。
風。
葉擦れ。
小型魔獣の足音。
遠くの鳥。
プレイヤーの装備音らしいものはない。だが、EHOには録画用の視界補助や、遠距離観察系のアイテムもある。気配を消すスキルも低レベル帯から存在する。視線を感じたからといって、すぐに位置を特定できるほど甘くはない。
こんな何もない場所に、わざわざ来る物好きがいるとは思えなかった。
ここは利益にならない土地だ。経験値効率も悪い。素材も安い。配信者が来ても画にならない。攻略勢が調査する理由もない。
だが、だからこそ気になる。
誰も来ない場所にいる誰かは、たいてい、来る理由を持っている。
俺は何食わぬ顔で歩みを再開した。
視線は、まだ消えない。
追ってきているのか、それとも偶然見ているだけなのか。判断するには情報が足りない。ここで急に走れば、こちらが気づいたと教えることになる。逆に立ち止まりすぎれば、不自然だ。
だから、普通の初心者らしく歩く。
少し疲れたように速度を落とし、時々地図を開く。魔物の気配があれば、わざと少し大きく避ける。今の俺は、レベル一の初心者でなければならない。少なくとも、そう見えていなければならない。
だが、頭の奥では別の計算が走っていた。
もし誰かが、さっきの戦闘を見ていたなら。
もしそれを、録画していたなら。
《古代変形機装》の変形、複数形態の切り替え、低レベルにしては不自然な立ち回り。それらが映像として残っているなら、隠すべき情報の一部はすでに外へ出ていることになる。
握っている爆弾のことを、思い出す。
情報は金になる。
そして、金になる情報を見つけた人間は、たいてい黙っていない。
「面倒事だけは、勘弁してくれよ」
呟きは、夜の谷に溶けた。
返事はない。
だが、視線はまだ、どこかからこちらを見ていた。




