五感の極致と、荒野のパズル
初心者都市『エリュシオン』の西門を抜ける直前。俺――アイズドは、大通りに店を構える恰幅の良いNPCの親父から、一本の串焼きを受け取った。
「ほれ、兄ちゃん! 焼きたての『ワイルドボアの串焼き』だ! 街の外に出る前に、腹ぁごしらえしときな!」
「ああ、もらうぜ。釣りはとっときな」
インベントリから初期支給金である銅貨を数枚支払い、俺はまだジュージューと音を立てている大ぶりの肉串に齧り付いた。
「…………ッ!!」
その瞬間、俺の脳髄を、強烈な快感が駆け抜けた。
炭火でカリッと香ばしく焼き上げられた表面の食感。噛み締めた瞬間に、肉の繊維からジュワリと溢れ出す熱い肉汁。野性味あふれる濃厚な旨味と、それを引き立てるピリリと辛い未知の香辛料の刺激。
鼻腔を抜ける炭の匂いから、頭蓋骨に響く咀嚼音に至るまでが、ダイブシステムを通じて脳のニューロンへと直接、完璧にレンダリングされている。
「すげえ……。本当に、すげえな」
俺は、あまりの美味さに思わず感嘆の声を漏らした。
EHOを構築する次世代型フルダイブ・システム。それは視覚や聴覚といった基本的な感覚だけでなく、触覚、嗅覚、そして『味覚』に至るまで、人間の五感すべてを極めて高度に再現する仮想現実技術の結晶だ。
プロゲーマーとして最前線にいた頃の俺は、食事などただの「バフ(ステータス向上)アイテムの摂取作業」としか考えていなかった。
味覚設定の数値を最低まで落とし、コンマ一秒でも早くステータスを上げるためだけに、味のしないポリゴンの塊を機械的に胃に流し込んでいたのだ。
「……本当、もったいないことをしてたぜ」
滴る脂を手の甲で拭い、ペロリと舐めとる。その舌触りすらも生々しい。
俺は串焼きをあっという間に平らげると、満足げな息を吐いて街の巨大な城門をくぐり抜けた。
一歩、外の世界へ踏み出した途端――視界が一気に開けた。
「……これが、EHOの世界……!」
思わず、足が止まる。
どこまでも高く、澄み切った青空。足元には見渡す限りの大草原が広がり、頬を撫でる風が、青々とした草の匂いを運んでくる。
このEHOの舞台となるのは、大海の只中に浮かぶ巨大な陸地――『超大陸レムリア』。
中央に位置するこの初心者都市『エリュシオン』を中心として、東西南北に広大で多様なフィールドが広がっている。
目を細めて遥か南の地平を望めば、鬱蒼と生い茂る巨大な『大樹海』のシルエットが見える。あそこは、強靭な肉体と野性を持つライカン(獣人族)たちの部族が割拠する魔境だ。
さらに視線を東へと移す。
南東の彼方には、雲海を穿つほどの途方もない巨木――エルフたちの聖地である『世界樹』が、神々しい緑の光を放ってそびえ立っている。
そして真東には、険しい赤茶けた岩山をくり抜いて作られたドワーフたちの『大鉱山都市』があり、今この瞬間も、彼らの打つ鍛冶の槌音が大地を震わせているはずだ。
北にそびえるのは、万年雪に覆われた極寒の山脈。
そこは、強大な力を持つ「龍」を崇めるドラゴニュート(竜人族)たちの聖域であり、生半可なレベルのプレイヤーでは凍死のデバフで命を落とす過酷なエリアだ。
そして――俺が今歩みを進めている『西』のエリア。
そこは、俺と同じヒューマン(人間族)たちの主な生活圏であり、同時に、いまだ全容が解明されていない『古代文明の残骸』が最も多く点在する、未開とロマンに溢れた荒野である。
「風の強さ、日差しの暖かさ、遠くで鳴くモンスターの声……」
俺は両手を広げ、仮想世界の空気を胸いっぱいに吸い込んだ。
プロ時代の俺は、この圧倒的な世界を、ただの『処理すべきデータ』としてしか見ていなかった。空の青さも、風の匂いも、タイムアタックにおいてはただの環境テクスチャや環境音(SE)といった「ノイズ」としてシャットアウトしていたのだ。
なんて傲慢で、勿体ないプレイをしていたのだろうか。
ゲームのシステムを誰よりも深く理解していたつもりで、俺は一番大切な「世界を楽しむこと」を放棄していた。
「……さあ、取り戻すぞ。俺の失われたゲーム体験を」
俺は誰の目も気にせず、鼻歌交じりの軽い足取りで、西に広がる荒野へと向かって歩き出した。
◆ ◇ ◆
西の荒野を歩き始めてから、現実時間で一時間ほどが経過した。
「……プロ時代なら、こんな無駄なルートは絶対に通らなかったな」
俺は乾いた岩肌を撫でながら、一人ごちた。
西のエリアは初心者向けの狩り場が点在しているが、少しルートを外れると、ただの荒涼とした岩山と砂埃が続くばかりで、モンスターすらまばらになる。
効率的なレベリング(経験値稼ぎ)を求めるプレイヤーは、絶対に立ち入らない辺境の地だ。
だが、目的地もなくブラブラと歩く「ただの冒険」が、今の俺にはたまらなく面白かった。
やがて、切り立った岩山の谷間を抜けたところで、視界の様子が一変した。
赤茶けた自然の岩肌に混じって、苔生した「灰色の金属」や「巨大な歯車の残骸」が、無造作に地面から突き出し始めたのだ。
「古代文明の遺跡群か……」
近づいて手で触れてみる。
冷たく、しかしどこか不思議な魔力を帯びた金属の質感。
崩れかけた石柱と、地面に半分埋もれた巨大な金属のパネル。一見すると風化してランダムに散らばっている、ただの背景のように見える。
「ん……?」
通り過ぎようとした俺の足が、ピタリと止まった。
「なんだ、これ」
目の前に広がる遺跡の配置に、強烈な『違和感』を覚えたのだ。
俺は目を細め、プロゲーマーとして培われた異常なまでの空間把握能力で、遺跡全体を俯瞰の視点で捉え直した。
五本の壊れた石柱。地面に刻まれた幾何学的な紋様。
一見バラバラに見えるが、太陽の光が差し込む角度と、石柱の影が落ちる位置を線で結ぶと、ある一定の規則性が見えてくる。
「ただの乱数生成の背景じゃない。これ……『なぞなぞ(パズル)』になってるのか?」
俺の口角が、無意識のうちに吊り上がった。
プロの攻略マニュアルにも、ネットの検証掲示板にも、こんな辺境の遺跡のパズルなど一文字も載っていない。誰も通らないルートの、誰も気にも留めない背景オブジェクトに、運営(AIアルファ)はこっそりと『悪ふざけ』を仕込んでいたのだ。
「最高じゃないか。こんなイカした隠し要素、燃えないわけがない」
俺は、獲物を見つけた肉食獣のような三白眼を輝かせた。
すぐさま遺跡の中心に立ち、石柱の根本を調べてみる。やはりだ。風化して石と同化しているが、僅かに回転させられるギミックが仕込まれている。
「影の伸びる方向を、地面の金属パネルの導線に合わせる……いや、違う。この紋様は古代の時計盤と同じ配置だ。なら、現在時刻の『短針』と『長針』の角度に合わせれば……」
俺は少しばかりの試行錯誤を経て、五本の石柱のうち二本を特定の角度へと押し込んだ。
直後――。
『ガコンッ!』
地鳴りのような重低音が響き、遺跡全体の歯車が連動して回り始めた。
地面に埋もれていた金属パネルがスライドし、まばゆい光と共に、一つの宝箱がせり上がってくる。
『条件クリア:未発見の古代遺跡パズルを解読』
『隠しジョブ【古代変形機装】のアンロック条件を満たしました。クラスチェンジしますか?』
「……隠しジョブ、だと?」
表示されたジョブの詳細情報を流し読みするにつれ、その異常性が浮き彫りになっていく。
古代文明の遺産である「仕掛け武器」を操り、戦闘中にガントレット、戦斧、大剣、銃火器などへと自在に変形させられ、変形に伴って自身のクラスそのものが瞬時に切り替わる。ノコギリ状の刃から長柄の武器へと遠心力で展開するような、複雑怪奇な機構を備えた武器だ。
武器種ごとに存在する膨大なスキルツリーをすべて記憶し、それぞれ独立したクールダウンタイマーを管理。その上で、コンマ数秒のグローバルクールダウンを一切腐らせることなく、敵の攻撃に合わせてフレーム単位で武器を変形させ続ける……。
人間の情報処理能力では到底不可能とされる、究極の「ネタ職(お遊び要素)」だ。
だが。
「……く、くくっ」
俺の口から、自然と笑い声が漏れていた。
「待てよ……。敵の行動を完全に記憶して、未来を予測しながらフレーム単位で最適なクラスにチェンジし続ければ……《ヴァンガード(盾)》の無敵防御で致死攻撃を凌ぎ、直後に《マギカ・ガンナー(銃)》に変形して遠隔バーストを叩き込み、隙を見て《イアイカスター(刀)》で最大火力を叩き出す……」
それを一人で永遠に回し続けられる、最強の万能兵装。
「最高じゃないか。こんなイカれたパズル、燃えないわけがない」
俺は空中に浮かぶ『YES』のホログラムボタンを、力強く押し込んだ。
その瞬間、宝箱の中から飛び出した金属塊が幾何学的な光のラインを放ち、ガチャリ、と重低音を響かせて俺の右腕に装着された。高圧の排気音が鳴り、ギアが噛み合う小気味良い音が脳髄を痺れさせる。
ステータスが書き換えられ、視界の端に膨大なスキルのアイコンがずらりと並んだ。
大人の男特有の、諦めや疲労感に満ちたため息など微塵も出ない。今の俺は、真新しいおもちゃを与えられた子どものように目を輝かせていた。
「これが……俺の新しい相棒」
――その光景を、遺跡の陰からこっそりと見つめる影があった。
「す、すごい……! なにもない石柱を回しただけで、あんなすごい武器が……!」
息を呑んで目を丸くしているのは、白銀の髪の少女、ルナだ。
レベル一の初期ステータスゆえの極端に狭い『索敵範囲』。彼女は、システム的な死角となる絶妙な距離感を保ちながら、足音を忍ばせてずっと俺の後をつけてきていたのだ。
「アイズドさん……ううん、師匠! 私も絶対に、そのすごい冒険についていきますからね!」
小さな声でそう呟きながら、彼女は小さな拳を握りしめた。
俺が背後にくっついてきているストーカー(ビギナー)の存在に気づくのは、このすぐ後、最初のモンスターとの戦闘に突入してからのことである。




