黒き忠義
極光の氷原の最深部、メダリオンが解き放った巨大な隠蔽魔法の奥から姿を現した幻の都、キャメロット。
純白の石材と透き通るようなクリスタルで構築されたその白亜の城塞は、上空に波打つ極光の色彩を反射して、この世のものとは思えない幻想的な美しさを放っていた。風さえも止み、世界が息を潜めたかのような静寂の中、俺とルナの足音だけが、新雪を踏みしめる乾いた音を立てている。
俺たちの胸の内に迷いはなかった。
ここに至る道中、湖畔で倒れていた白銀の髭の老ドワーフ――アーサー王の悲痛な言葉が、二人の心を確固たる目的で結びつけていたからだ。
『すべては、妖妃モルガンの呪縛から始まった。彼女は闇の魔術に手を染め、反乱を起こし、我が忠義の円卓の騎士たちは次々と命を散らした……』
血と泥に塗れ、己の無力さに涙を流しながら国と民を案じていた可哀想な王。その悲惨な姿を目の当たりにしたルナの心には、純粋な義憤が燃え盛っていた。「絶対にあの悪い魔女を倒して、王様とキャメロットの人たちを助けるんだ」という、一点の曇りもない正義感。
そして俺自身もまた、プロゲーマーとしてのメタ的な視点から、この状況に完全なる確信を抱いていた。
正義の王アーサー。妖妃モルガン。叛逆の騎士モードレッド。これは現実の神話や伝承において、そして無数のRPGのクエストにおいて、最もポピュラーで古典的なモチーフである。善と悪の構図がこれほどまでに明確に設定されているからこそ、プレイヤーは一切の疑問を抱くことなく、悪の魔女に向かって剣を振るうことができるのだ。
俺たちプレイヤーは『正義の代行者』であり、この白亜の城の奥に潜むのは『絶対悪』である。その図式に疑いを差し挟む余地など、一ミリも存在しなかった。
だが、どれほど目的が正しかろうと、ここはVRMMO『エターナル・ホライゾン・オンライン(EHO)』の最奥に隠された死地だ。
俺たちの歩みは、巨大な城門のアーチの下にぽつりと落ちる深い影の数十メートル手前で、ピタリと止まった。
「……ルナ、警戒を解くな。あれはただの背景じゃないぞ」
「はい……分かっています。肌がビリビリするくらい、強い気が伝わってきますから」
城門の真ん中に立ち塞がるようにして、そいつは静かに佇んでいた。
幻想的な白亜の城には到底似つかわしくない、漆黒を基調とした重厚な全身鎧。
顔は禍々しい意匠が施された分厚い兜によって完全に覆い隠されており、その体格は、先ほど別れた巨大なドワーフであるアーサー王にも匹敵するほどの筋骨隆々たる巨漢であった。鎧の表面には無数の戦傷が刻まれているが、不思議と手入れが行き届いており、黒光りする装甲には赤黒い呪詛のような文様が微かに明滅している。
そして特筆すべきは、彼の右肩に無造作に担がれている一本の『ロングソード』だ。
ロングソードという名称からは程遠い、大盾と見紛うほどの厚みと身の丈を超える長さを誇るその大剣は、ただそこに存在しているだけで、周囲の空間の質量を押し潰すような圧倒的な重圧を放っていた。
「……いきなり斬りかかってくる様子はないな。アクティブエネミーじゃないのか?」
俺は小さく呟いた。
敵は俺たちが近づいていることに気づいているはずだが、微動だにせず、ただ彫像のように門を塞いでいる。
軍師としての経験則が告げていた。こういう場合、下手にこちらから攻撃を仕掛ければ、即座にカウンターの即死ギミックが発動する可能性が高い。まずは会話による接触を試みるのが、RPGにおける定石だ。
「ルナ、武器はまだ抜くなよ。俺が話をつけてみる」
俺はルナを背後に控えさせると、両手を軽く広げて敵意がないことを示しながら、一歩、また一歩と漆黒の騎士へと歩み寄った。
雪を踏む音が、異様に大きく響く。
十メートルの距離まで近づいた時。
彫像のように静止していた黒き騎士が、ふうっと小さく息を吐くようにして、肩に担いだ大剣をゆっくりと下ろした。
「……やれやれ。こんな地の底の最果てまで、随分と元気な迷い子が来たもんだ」
兜の奥から響いてきたのは、俺の予想を裏切るような、どこか呆れたような気さくな声だった。
地を這うような悪魔の呪詛でも、狂気に満ちた叫びでもない。そこには、長く孤独な任務に耐え忍んできた一人の人間としての疲労感と、フランクな響きが含まれていた。
「いきなり斬りかかってこないとは、あんたらも随分と物好きだな。それとも、単なる命知らずか?」
漆黒の騎士は、大剣の切っ先を雪に突き立て、柄に両手を重ねて寄りかかった。まるで、道端で世間話でも始めるかのようなリラックスした立ち振る舞いだ。
ルナが俺の背後からひょっこりと顔を出し、目を丸くした。
「えっ……? 魔女の城の門番なのに、なんだかすごく気さくで、普通にお話ができる人ですね……?」
「ああ。どうやら高度な知性と人格アルゴリズムを持ったNPCらしい。うまく説得するか、情報を引き出せるかもしれない」
俺も内心で驚きつつ、警戒レベルを少しだけ下げて『対話モード』へと切り替えた。
「お出迎えご苦労なこった。こっちも無駄な消耗はしたくないんでね、話が通じる相手で助かるよ」
俺はあえて、いつものぶっきらぼうな口調で応じた。
「俺たちもここまで散々苦労して歩いてきたんでね。悪いが、その門の中に入らせてもらわないと困るんだよ」
すると、漆黒の騎士は微かに兜の顎を引き、俺の全身――初期装備の布の服に偽装された課金スキンの重鎧と、腰に白銀の片手剣を提げたルナの佇まいを値踏みするように観察した。
「……その足運び、そして纏う闘気……数多の死線をくぐり抜けてきた真の戦士と見受けられる。だが、生憎と通すわけにはいかないんだ。俺も、あのお方からこの門を死守するように言いつかっている身でね」
漆黒の騎士は、少し申し訳なさそうに肩をすくめた。
「お引き取り願おう。あんたらのような腕利きの戦士と、無意味に殺し合いたくはないんでな」
その言葉の端々から感じられる、洗練された騎士としての誇りと人間味。
だからこそ、ルナは納得がいかない様子で声を上げた。
「どうして、あなたみたいな立派な騎士様が、モルガンみたいな悪い魔女に従っているんですか! 彼女は、国を氷に閉ざして、たくさんの騎士たちを殺した悪人なのに!」
ルナの真っ直ぐな非難の言葉に、漆黒の騎士は少しだけ沈黙した。
「悪い魔女、か。……まあ、外の世界じゃそういう風に伝わっているんだろうな」
彼は兜の奥で、自嘲気味に低く笑った。
「だが、俺にとってあのお方は、誰よりも気高く、誰よりも……いや、いい。とにかく、通すわけにはいかないんだ」
騎士は再び大剣を握り直し、その声色からフランクさを消し去った。
「あのお方は今、城の奥深くで、世界を救うための『大いなる儀式』を行っておられる。その御身と魂を削り、途方もない苦痛に耐えながら……ただ一人で、すべてを背負っておられるのだ。ゆえに、何者であっても干渉は許されぬ。俺の命に代えても、この門は通さない」
その言葉には、主君に対する絶対的な忠誠と、深い悲哀が滲み出ていた。
だが、その言葉を聞いた俺とルナの心に浮かんだのは、同情ではなく強い警戒感だった。
(世界を救う儀式? ハッ、魔女の強力な洗脳魔法か何かにかかってるんだろうな。あるいは、奪った『聖杯』を使って、さらなる悪行を企んでいるのを、システムが『儀式』と称しているだけだ。典型的な、悪に心酔したボスの取り巻きの台詞回しだ)
俺はプロゲーマーとしての冷徹な視点で、彼の言葉を完全に『敵の戯言』として切り捨てた。
「悪いが、その『儀式』とやらを止めさせてもらう。こっちにも、引けない理由があるんだよ」
俺は一歩前へ踏み出し、交渉のカードを切る決断を下した。
クエストの進行フラグを強制的に動かし、この門番を戦闘モードへと移行させるための、最も強力にして正当なキーワード。俺たちをこの場所へ導いた『正義の依頼主』の名前だ。
「俺たちは、その魔女に奪われた国を取り戻すために来た。……正当な持ち主である『アーサー王』からの、直々の依頼でな」
俺がその名前を口にした、まさにその瞬間だった。
ピタリ、と。
極光に照らされていた白亜の城門の空気が、文字通り『凍結』した。
物理的な冷気ではない。人間の本能が警鐘を鳴らすような、絶対的な死の気配。
「アイズド、さん……っ!」
背後でルナが息を呑み、反射的に腰の片手剣の柄に手を掛けた。彼女のサファイアブルーの瞳が、極限の緊張に見開かれている。
俺の目の前に立つ漆黒の騎士。
先ほどまで礼節をわきまえていた気さくな武人の姿は、そこにはもう無かった。
禍々しい兜の奥の深い闇の中で、二つの眼光が、地獄の業火のように赤黒く濁り、爛々と輝き始めたのだ。
「……あ……アーサー、だと……?」
絞り出すような、地の底から這い出た怨霊のような呪詛だった。
騎士の全身を覆う漆黒の甲冑の隙間から、ドス黒い闘気が立ち昇り始める。それは周囲の雪を瞬時に蒸発させ、空間そのものを削り取るような、圧倒的で濃密な『殺意』の塊だった。
「おい、どうした……!?」
突然の異常な豹変に、俺は思わず一歩後ずさった。
ただのプログラムされた敵対心じゃない。骨の髄から、魂の底から絞り出されたような、本物の憎悪。
「貴様ら……あの、狂王の、狗か……ッ!!!」
騎士の絶叫が、静寂の氷原をビリビリと揺るがした。
「狂王だと!? テメェ、正義の王を捕まえて何を言ってやがる!」
俺が怒鳴り返すと、騎士はさらにドス黒い闘気を爆発させた。
「正義の王……? 虫酸が走る! あの男がどれほどの血と犠牲を敷き詰めてきたか、貴様ら何も知らぬままに、あのお方の崇高な祈りを邪魔しようというのか!」
「アイズドさん! この人、完全に魔女に心を操られてます!」
「チィッ、対話の余地はゼロか!」
もはや言葉は通じない。
俺は瞬時に右腕を振るい、機装のコマンドを叩き込んだ。
ガシャンッ! という硬質な金属音と共に、三十のクラスを並列処理する俺の腕のデバイスが、巨大な城壁の如き《要塞大盾》へと変形する。
「あのお方の崇高なる願いを……これ以上、あの外道に踏みにじらせてたまるものかッ! 貴様らも同罪だ……ここで塵一つ残さず、消し飛ばしてくれるッ!!」
漆黒の巨漢が、雪に突き立てていた大剣を片手で軽々と引き抜いた。
ギィィィィンッ! と、刃が石畳を削る甲高い音が鳴り響き、大剣の表面に刻まれた赤い呪詛の文様が激しく発光し始める。
「ルナ! 来るぞ!!」
「はいッ!!」
チャキッという澄んだ音と共に、ルナが白銀の片手剣を抜き放つ。
彼女の全身から【絶剣】の初期段階である白刃のオーラが立ち昇り、戦闘態勢が完全に整った。
黒き騎士が、右肩に大剣を構え、地を割るほどの踏み込みと共に突進してくる。
ただの一振りで、城門ごと俺たちを両断しようとする圧倒的な気迫。
吹雪が止んでいた極光の空の下、静寂を破るように、騎士の黒い闘気と、ルナの白銀のオーラ、そして俺の機装の駆動音が激しくぶつかり合う。
極限まで高まった緊張感が限界を突破し、火花を散らす激突のコンマ一秒前。
神話の真実を懸けた、白亜の幻城における理不尽な死闘の幕が、今まさに切って落とされようとしていた。




