凍てつく白亜の幻城
『エターナル・ホライゾン・オンライン(EHO)』が正式サービスを開始してから、現実世界の時間にしてちょうど一年半が経過しようとしていた。
北の果て、『極光の氷原』。
容赦なく吹き荒れる猛吹雪が、仮想肉体の体温をゴリゴリと削っていく。防寒装備を持たないプレイヤーであれば、数分で【凍傷】のデバフを受け、そのままHPが尽きて雪ダルマと化すだろう。
初心者マウントである『ストライダー』の背に揺られながら、俺は漆黒の重鎧――課金スキンではあるが、視覚的な重厚感は十分に備わったその腕をさすり、静かに息を吐いた。白い呼気が、瞬時に凍りついて空中に散っていく。
(……一年半、か)
マウントの規則正しい足音を聞きながら、俺はふと、これまでの果てしない旅路に思いを馳せていた。
サービス開始当初、初めてログインした瞬間に感じた「未知の世界への衝撃的な驚き」は、とうの昔に色褪せてしまったと思っていた。プロゲーマーという労働の歯車に組み込まれ、トップギルド『白騎士団』の軍師として君臨していた俺にとって、世界一美しいとされるエルフの樹上都市も、息を呑むような夕焼けが広がる荒野も、単なる「効率的なレベリングスポット」や「ボスまでの最短ルート」という情報データでしかなかったからだ。
だが、プロのしがらみから解放され、こうして一人の開拓者として再び未知の領域へと足を踏み入れている今、俺の胸の奥底には、あの頃とは全く違う種類の静かな熱が灯っていた。
システム上のウェザリング(汚れや傷の表現)が細かく刻み込まれた自分の装備を眺める。
泥を啜り、人間の限界を超えた並列思考で脳を焼き切り、数え切れないほどの死線を越えてきた歳月の重み。それは、ただ与えられたコンテンツを効率的に消費するだけでは決して得られない、プレイヤー自身の魂に刻まれた「軌跡」と重なったように見えた
「……アイズドさん。吹雪、強くなってきましたね」
隣を並走するストライダーの背から、ルナが声をかけてきた。
彼女は新調した蒼色の軽装鎧の上に、寒さを凌ぐための分厚いファーマントを羽織っている。
「ああ。だが、システム上の極限環境ってのは、目的地が近い証拠でもある。マップの座標が正しければ、この吹雪を抜けた先にアーサー王が言っていた『モルガンの居城』があるはずだ」
俺たちは少し速度を落とし、互いの声が届く距離でストライダーを並走させた。
周囲にはモンスターの気配すらない。あまりの過酷な環境設定により、通常のモブエネミーすらスポーン(出現)を拒絶されているのだ。
ただ風の音だけが響く氷原の中で、ルナがふと、ぽつりと呟いた。
「……それにしても、アーサー王のお話、気になりますね」
隣を並走するルナが、ふとそんなことを口にした。
「あの怪我をしたお爺さんが王様で、モルガンっていう悪い魔女に国を奪われちゃったんですよね。私、神話とか伝承にはあまり詳しくないんですけど……そのモルガンって、現実のお話でもそういう悪い魔女として描かれているんですか?」
ルナの素朴な疑問に、俺は少しだけ記憶の引き出しを探った。
「いや、一概にそうとも言い切れないのが神話の面倒なところだ。現実のアーサー王伝説は、様々な時代の詩人や作家が独自の解釈で書き加えているからな。モルガンも『モルガン・ル・フェイ』と呼ばれたりして、名前や立ち位置が文献によってかなり曖昧なんだよ。国を滅ぼす邪悪な魔女として描かれることもあれば、単なる妖精だったり、傷ついたアーサー王を癒すために現れる善き存在として描かれることもある」
「へえ……! 癒してくれる存在、ですか。お話によって全然違うんですね」
「ああ。だが、EHOみたいなMMORPGでシナリオを作るなら、プレイヤーに分かりやすい『邪悪な魔女』のテンプレを採用するのが一番手っ取り早い。今回もその王道ルートのシナリオなんだろうさ」
神話の裏側にあるかもしれない複雑な事情など、俺の思考には微塵も浮かばなかった。ゲームのシステム的に、提示されたクエストの目標が絶対であると信じ切っていたからだ。
俺の淀みない解説を聞いていたルナは、感心したように目を輝かせた。
「アイズドさんって、本当に博識ですね! ゲームのデータや解析だけじゃなくて、そんな昔の神話や伝承にまで詳しいなんて、すごいです!」
「…………」
純粋な尊敬の眼差しを向けられ、俺は思わず言葉に詰まった。
背中を、嫌な汗がツーッと流れ落ちる。
(……やめろ。それ以上俺を褒めるな)
俺の脳裏に、鍵をかけて海の底に沈めていたはずの『中学生時代』の記憶――いわゆる『黒歴史』が、鮮明なフラッシュバックとなって蘇ってきたのだ。
中二病。それは誰もが一度は通る、あるいは発症を免れる、痛々しくも恥ずかしい思春期の麻疹である。
当時の俺は、右腕に包帯を巻き、無駄にシルバーアクセサリーをジャラジャラと鳴らしながら、図書室でケルト神話や悪魔学の分厚い事典を読み漁っていた。『俺の右腕に封じられし闇の力が……』などと真顔で呟き、神話の神々や魔女の名前をノートにびっしりと書き写していたあの頃。
ルナが感心している俺の『博識』は、そんな痛々しい時代に、厨二病の熱病に浮かされて暗記した無駄知識の残骸に過ぎないのだ。
「……アイズドさん? どうかしましたか? 急に黙り込んじゃって……顔が赤いですよ?」
「……いや。なんでもない」
俺は顔から火が出るほどの羞恥を悟られないよう、わざと深くフードを被り直して、自嘲気味に苦笑した。
「……まあ、過去にな。誰にでも、神話や伝承に無駄に傾倒するイタい時期ってのがあるもんさ」
「過去? イタい時期?」
ルナは首を傾げていたが、俺はそれ以上深堀りされるのを避けるため、意図的に話題を切り替えた。
「おい、ルナ。前を見ろ。マップの座標だと、そろそろ着くはずだ」
「あ、はいっ!」
俺たちはストライダーの手綱を引き、歩みを止めた。
アーサー王が指定した、極光の氷原の最深部。
しかし、そこには城はおろか、遺跡の欠片すら存在しなかった。ただ見渡す限り、どこまでも白く平坦な雪と氷の平原が広がっているだけだ。
「あれ? 何もありませんよ? 座標、間違えちゃったんでしょうか?」
「いや、システム上のナビゲーションは間違いなくここを指している」
俺はストライダーから降り、雪を踏みしめながら懐に手を入れた。
取り出したのは、アーサー王と別れる間際に「迷いし時、これを示すがいい」と託された小さなアイテム――『星辰のメダリオン』だ。
静寂に包まれた平原の中で、その古びたメダリオンをそっと虚空に向けて掲げる。
その瞬間だった。
キィィィィン……という、ガラスの擦れ合うような高く澄んだ音が鳴り響き、メダリオンから溢れ出した淡い黄金色の光が、平原の空間を波紋のように激しく揺らした。
空間そのものに掛けられていた巨大な隠蔽魔法が、パラパラと氷の粒子となって剥がれ落ちていく。
「――――あ」
ルナの口から、感嘆の吐息が漏れた。
俺もまた、その圧倒的な光景を前に、しばし言葉を失った。
何もない雪原の奥から姿を現したのは、天を突くほどに巨大で、そして恐ろしいほどに美しい『白亜の城塞』だった。
透き通るようなクリスタルと純白の石材で構築されたその城は、上空にたなびく極光の色彩を反射して、七色に煌めいている。長い間、氷の呪縛に囚われていたことで、城壁の随所には巨大な氷柱が垂れ下がり、それがかえってこの場所の時間が止まっているかのような幻想的な静謐さを醸し出していた。
「すごい……綺麗ですね、アイズドさん……」
ルナが夢見るような声で呟き、白亜の城へと無防備に一歩足を踏み出そうとした。
だが、俺の軍師としての本能が、その静謐な美しさに潜む『強烈な異物感』を感知した。
「――待て、ルナ。下がるんだ」
俺はルナの肩を力強く掴んで引き寄せ、右腕の機装をカチャリと鳴らして臨戦態勢に入った。
感動に心を奪われ、危うく見落とすところだった。
白亜に輝く巨大な城門。そのアーチの下、深い影が落ちる場所に、そいつは『立っていた』のだ。
「え……?」
ルナも俺の視線の先に気づき、息を呑む。
幻想的な白亜の城には到底似つかわしくない、漆黒を基調とした重厚な鎧。
顔は禍々しい意匠の兜で完全に覆い隠されており、その体格はあの巨大なアーサー王にも匹敵するほどの筋骨隆々たる巨漢だ。
そして特筆すべきは、彼の右肩に無造作に担がれている一本の『ロングソード』だった。刃の厚みだけで大盾ほどもありそうなその大剣は、ただそこに存在しているだけで、周囲の空間を押し潰すような圧倒的な重圧を放っていた。
かつては輝かしき円卓の騎士の一角であったのだろうか。だが、今の彼から放たれているのは、全てを焼き尽くす黒点の如き威圧感と、侵入者を絶対に許さないという冷徹な殺意のみ。正体不明の、黒い騎士。
「……お出迎え、ってわけじゃなさそうだな」
俺は低く呟き、三白眼を細めてその黒き門番を睨み据えた。




