黄金の針は片道を指す
レベルが上がると、人は強くなる。
ゲームの基本だ。
経験値が入り、ステータスが伸び、装備できる品が増え、スキルの選択肢も広がる。数値が増える。できることが増える。単純で、分かりやすく、そして大抵の場合は嬉しい。
問題は、数値が増えたからといって、面倒事まで減るわけではないことだった。
フェネキア族の地下で淀みを斬り、世界全体に匿名のクリア通知が流れ、俺とルナのレベルは一気に四十台後半まで跳ね上がった。普通なら祝っていい。いや、祝うべきだ。低レベル帯から十数レベル飛ぶどころではない。ゲーム序盤でいきなり中盤装備に手が届くようなものだ。
だが、その報酬と一緒に、セレンはとんでもないものを置いていった。
レベル九十以上推奨の特殊クエスト。
フェネキア族の里のさらに深い場所。
世界樹の根。
淀み。
そして――七つの竜種。
その言葉を聞いた瞬間、俺は反射的に沈黙した。
知らない言葉ではなかったからだ。
もちろん、詳しく知っているわけではない。
七つの竜種の名も、姿も、正確な封印場所も知らない。攻略情報として確定していたわけでもない。まして、実際に戦ったことなどあるはずもない。
ただ、その単語だけは知っていた。
白騎士団にいた頃、上位攻略班の資料庫には、実用性のない情報が山ほどあった。
未確認レイドの噂。
上級NPCの会話断片。
古いイベントの石碑文。
誰も解けなかった謎の詠唱。
攻略に直結しないからと放置されたフレーバーテキスト。
俺はそういうものを、暇な時によく漁っていた。
いや、暇だったわけではない。
トップ層の攻略には、暇という概念がなかった。ボスの行動パターン、レイド構成、装備更新、スポンサー絡みのスケジュール、メンバーのコンディション、配信映え、情報統制。やることはいくらでもあった。
それでも、俺は隙間でそういう断片を読んでいた。
理由は簡単だ。
役に立つかもしれなかったからだ。
あるいは、役に立たないものを役に立つ形へ変えるのが、俺の仕事だったからだ。
その中に、何度か出てきた言葉がある。
《七つの竜種》。
記述は、いつも不自然に欠けていた。
名前はない。
属性もない。
討伐報酬もない。
ただ、上位NPCの会話や古い文献の端に、異物のように残っている。
当時の白騎士団では、ほとんどの人間がそれを雰囲気作りのフレーバーだと扱っていた。俺も、半分はそう思っていた。いかにも高難度ファンタジーらしい禁忌設定。古代の竜。封印。名を呼んではいけない存在。中学生が黒いノートに書きそうな単語が、世界観設定として丁寧に飾られている。
だが、完全には切り捨てていなかった。
このゲームは、ときどきそういう余白を本当に使ってくる。
誰も読まない石碑。
意味のないように見えるNPCの言葉。
説明文の端にだけ書かれた素材の由来。
それらが、探求期に入った途端、急にクエストの鍵になることがある。
だから、七つの竜種という言葉を聞いた時、俺の中で古い資料の断片が繋がった。
あれはただの飾りではなかった。
少なくとも、この世界の深い場所に繋がっている。
ただし、それをルナに話す気はなかった。
白騎士団の名前を出せば、そこから俺の過去へ線が伸びる。
元プロ。
元上位攻略勢。
元白騎士団。
そういう肩書きは、今の俺には邪魔だった。
俺はもう、誰かの勝利のために盤面を組む軍師ではない。黒鉄の名前で、灰衣のルナと一緒に、まだ誰も正解を持っていない盤面を歩いている。
だから、言うならこうだ。
昔の攻略仲間から聞いたことがある。
それくらいでいい。
嘘ではない。
全部ではないだけだ。
ーーーーーー
「七つの竜種って、アイズドさんは知ってるんですか?」
フェネキア族の里を出たあと、ルナがそう聞いてきた。
俺たちは地下都市の外れ、世界樹の根が遠くに見える通路を歩いていた。疑似太陽の光は柔らかく、地下とは思えないほど明るい。だが、その明るさの奥に、さっき聞いた言葉の影が残っていた。
七つの竜種。
世界樹の根。
淀み。
レベル九十以上。
どれも今の俺たちには重すぎる。
「名前だけだ」
俺は答えた。
「名前だけ?」
「ああ。昔、上位攻略の資料で断片を見た。詳しいことは知らない。むしろ、詳しく書かれていないことだけが特徴だった」
「どういうことですか?」
「名を出すな、名を記すな、名を知るな。そういう警告文だけが残っていた」
ルナは少し眉を寄せた。
「怖いですね」
「怖がらせるためのフレーバーだと思っていた」
「違ったんですか?」
「今は、違う可能性が出てきた」
俺は世界樹の根を見た。
巨大な根が、地下の天井と地面を繋いでいる。その膨大な魔力によって、疑似太陽が作られている。フェネキア族はその恩恵で生きている。そして、その根のさらに深い場所に、何かが封じられている。
セレンは、それを詳しく語らなかった。
いや、語れなかったのかもしれない。
七つの竜種の名を口にすること自体が恐ろしい、というフレーバーがこの世界にはある。セレンのような上位NPCでさえ、慎重に扱う領域なのだろう。
「アイズドさんでも、分からないんですね」
「当たり前だ。俺は攻略本じゃない」
「でも、すごく色々知ってます」
「昔、そういうものを読む機会があっただけだ」
「昔の攻略仲間、ですか?」
「そんなところだ」
ルナは、それ以上深く聞かなかった。
ありがたい。
彼女は鈍いわけではない。むしろ、妙なところで鋭い。俺が言いたくない場所を、なんとなく察しているのだろう。そのうえで、今は踏み込まないでくれている。
そういう距離感は、少し助かる。
「じゃあ、そのクエストは今は無理なんですね」
「ああ」
俺は即答した。
「レベル九十以上推奨だ。今の俺たちは四十台後半。報酬で一気に上がったとはいえ、まだ半分にも届いていない」
「でも、四十台後半って、すごいんですよね?」
「普通に考えれば十分すごい。低レベル帯から見れば中堅どころだ。だが、九十以上のクエストから見れば、まだ入り口にも立っていない」
「じゃあ、準備ですね」
ルナは素直に言った。
「準備か」
「はい。レベルを上げて、装備を整えて、ちゃんと動けるようにして、それから行くんですよね」
「簡単に言うな」
「でも、そうですよね?」
そうだ。
そうなのだが、そこへ辿り着くまでにどれだけ面倒が落ちてくるかを考えると、今から胃が痛い。
レベル九十。
世界樹の根。
フェネキア族の封印。
七つの竜種。
淀み。
どれも、今の俺たちが軽く触っていいものではない。
だから、まずは届く範囲からだ。
「グレイム領へ行く」
俺は言った。
ルナが首を傾げる。
「グレイム領?」
「生産都市だ。工房が多い。鉱石、布、外殻、防具の加工ができる。今のレベルに合わせた装備を作るなら、あそこが一番早い」
「装備、ですか」
「ああ。お前も俺も、今の装備では目立ちすぎる」
ルナは自分の髪に触れようとして、途中で手を止めた。
白銀の髪。
白銀の剣気。
それは強さであり、同時に目印でもある。
フェネキア族の里では、まだよかった。だが地上へ出て、プレイヤーの多い街へ入れば、話は変わる。世界通知の匿名二人組を探している連中は必ずいる。情報屋、配信者、企業勢、野次馬。そういうものがまとめて寄ってくる。
俺も同じだ。
《古代変形機装》は隠しているが、今の外観では動きと装備が噛み合っていない。見る者が見れば、何かを隠していると分かる。
隠すには、隠すための装備が必要だった。
「ルナは顔まで隠せる外套がいる」
「顔まで?」
「髪もだ。深いフード付きで、剣を抜く邪魔にならないもの。できれば、足捌きも殺さない」
「ポンチョみたいなものですか?」
「近いな。ただし、ただの布だと戦闘で邪魔になる」
「じゃあ、戦えるポンチョですね」
「言い方は間抜けだが、方向性は合っている」
ルナは少しだけ笑った。
「アイズドさんは?」
「俺は見た目装備を使う」
「見た目装備?」
「課金装備だ。性能はほとんどない。外見だけを変える」
俺はメニューを開いた。
倉庫に眠っていた課金外装の一覧を出す。
その中から、黒鉄の重装騎士風の見た目装備を選ぶ。フルフェイスに近い兜。黒い外殻。大きめの肩当て。いかにも重装職が着ていそうな外観。
実際の防御性能は低い。
あくまで見た目だけだ。
だが、今はそれでいい。
アイズドの本当の職や武器を隠し、黒鉄の重装騎士という外側を作る。グレイム領で工房に入るにも、情報屋の視線を避けるにも、ある程度分かりやすい偽装が必要だ。
「重そうですね」
ルナが言った。
「見た目だけだ」
「でも、重そうです」
「重そうに見えるのが目的だ」
「どうしてですか?」
「重装騎士に見えれば、俺が多少妙な動きをしても、装備の見た目で誤魔化せる。逆に軽装で左腕を隠しながら動く方が不自然だ」
ルナは俺を見上げた。
「アイズドさんは、バレないために職業まで固定して見せるんですね」
「職業を固定しているように見せる、だ」
「難しいです」
「慣れろ。情報は、見せないだけじゃなく、見せたいものを見せる必要がある」
「見せたいもの」
「ああ。俺は黒鉄の重装騎士。お前は灰衣の旅剣士。それで通す」
「灰衣の旅剣士」
ルナは小さく呟いた。
少し気に入ったようだった。
「いいですね」
「そうか?」
「はい。なんか、旅をしてる感じがします」
「実際しているからな」
「じゃあ、私は灰衣です」
「顔と髪を隠せればな」
「頑張ります」
「頑張るのは装備職人だ」
「でも、私も布と仲良くなります」
「まだその概念は早い」
俺が言うと、ルナは不思議そうに首を傾げた。
未来で彼女が本当に布と仲良くなることを、この時の俺はまだ知らない。
いや、知りたくなかった。
ーーーーーー
フェネキア族の里を出る前、セレンからいくつかの情報を受け取った。
グレイム領への最短路。
道中に出る魔物。
街の入口で必要になる通行手続き。
そして、地上エルフとフェネキア族の関係についての、ごく簡単な注意。
世界樹の上、地上にはエルフが住んでいる。
地下にはフェネキア族。
世界樹の膨大な魔力が疑似太陽を生み、地下都市に光を与えている。
その恩恵と封印は、表裏一体だ。
セレンはそこまでしか言わなかった。
七つの竜種についても、深くは触れなかった。
ただ、一度だけ、俺たちへこう告げた。
「今のあなた方には、まだ根の奥へ進む力はありません。けれど、淀みは眠っているわけではない。いつか、向き合う時が来るでしょう」
それは予言のようでもあり、ただの警告のようでもあった。
俺としては、できれば後者であってほしかった。
予言は厄介だ。
当たると面倒だし、外れても気になる。ゲームシナリオにおいて、予言というものはだいたい後で回収される。放置されるとそれはそれで炎上する。誰が何に炎上するのかは知らないが。
セレンと別れ、地上へ戻る道中、ルナは何度も自分の装備を確認していた。
今の彼女は、まだ仮の外套しか持っていない。
深いフードはあるが、戦闘用ではない。足に絡む。剣を抜く時に袖が邪魔になる。視界も狭い。
「これ、戦いにくいですね」
「だからグレイム領へ行く」
「でも、顔は隠れます」
「それだけならな」
「顔を隠すのって、難しいです」
「ただ布を被るだけなら簡単だ。問題は、隠したまま動くことだ」
ルナは少し考えた。
「隠したまま、動く」
「ああ」
「それ、ちょっと面白そうです」
「面白がるな。必要だからやるんだ」
「必要なことも、面白くできた方がいいと思います」
そう言われると、返す言葉に詰まる。
この世界に戻ってから、ルナはときどき俺の理屈の外側から正解を置いてくる。
必要だからやる。
効率がいいからやる。
損を避けるためにやる。
俺はそう考える。
ルナはそこへ、面白そう、という別の軸を持ち込む。
厄介だ。
そして、少し眩しい。
「転ぶなよ」
俺は言った。
「転びません」
「布に足を取られて転んだら、灰衣の旅剣士ではなく灰色の布団だ」
「それは嫌です」
ルナは真剣に頷いた。
そこは笑うところではなかったらしい。
ーーーーーー
地上へ出ると、空の色が違った。
フェネキア族の地下で見た疑似太陽は、柔らかく、どこか神秘的だった。地上の太陽はもっと乱暴だ。光が強く、影も濃い。風があり、匂いがあり、遠くにグレイム領の煙が見える。
工房都市グレイム。
煙突と炉と商会と税でできた街。
生産職が集まり、冒険者が装備を求め、供給村が素材を納める場所。
そして、おそらく面倒が眠っている場所。
俺は課金の見た目装備を反映させた。
黒鉄の重装騎士。
兜の内側で視界が少し狭くなる。実際には見た目装備なので動きの制限は少ないが、外からは重装に見える。左腕周りも、外殻の影に紛れる。
ルナは仮の灰外套を深く被った。
白銀の髪が隠れる。
顔も影に落ちる。
背丈と動きで少女だと分かるかもしれないが、少なくとも一目で白銀の初心者だとは分からない。
「どうですか?」
ルナが聞く。
「顔は見えない」
「声は?」
「声でバレるほど有名ではないだろう」
「それもそうですね」
「ただ、街ではあまり喋るな」
「はい」
「あと、俺のことをアイズドと呼ぶな」
「えっ」
「黒鉄で通す。お前は灰衣だ」
「黒鉄さん」
「さんはいらない」
「黒鉄」
「それでいい」
「なんか、少し変です」
「慣れろ」
俺も慣れる必要がある。
黒鉄。
灰衣。
本名でも、過去の名前でもない。
今の俺たちが、人の目を避けるために作る外側。
仮面だ。
だが、仮面だからといって全部が嘘になるわけではない。
黒鉄の重装騎士として動くなら、その振る舞いを整える必要がある。灰衣の旅剣士として動くなら、ルナも布と視界に慣れなければならない。
名乗りは、装備と同じだ。
身を守るために着るもの。
「行くぞ、灰衣」
俺が言うと、ルナは一瞬だけ目を瞬かせた。
それから、フードの奥で笑った気配がした。
「はい、黒鉄」
変なやり取りだった。
だが、悪くない。
グレイム領へ続く道を進む。
遠くの煙突が、少しずつ大きくなる。
あの街で、俺たちは防具を作る。
顔を隠し、髪を隠し、左腕を隠し、白銀を隠すための装備を。
そして、いつか七つの竜種へ届くための、最初の準備を。
もっとも、今すぐそこへ行くつもりはない。
今の俺たちには早すぎる。
レベルも足りない。装備も足りない。情報も足りない。何より、俺たちはまだこの世界の足元を知らなすぎる。
だから、まずは地味なところからだ。
街へ入り、職人を探し、素材を見つけ、防具を作る。
それだけのはずだった。
それだけのはずだったのだ。
だが、この世界がそんなに素直なら、俺は今ごろ暫定管理者などという罰ゲームを背負っていない。
グレイム領の門が見えてくる。
鉄と石でできた大きな搬入門。
その上に、歯車と槌と銀貨を組み合わせた紋章が掲げられていた。
俺はその紋章を見て、少しだけ眉を寄せた。
銀貨。
税。
搬入門。
この時点で嫌な予感はしていた。
当たらなくていい予感ほど、よく当たる。
「黒鉄?」
ルナ――灰衣が、隣で首を傾げた。
「何でもない」
「嫌そうな顔をしてました」
「兜の中まで見るな」
「見えません。でも、分かります」
この感覚派め。
俺は前を向いた。
グレイム領の門が開く。
黒鉄と灰衣は、初めてその工房都市へ足を踏み入れた。
七つの竜種は、まだ遠い。
レベル九十のクエストも、世界樹の根も、フェネキア族の封印も、今の俺たちには届かない。
だが、届かない場所へ行くには、まず届く場所から積むしかない。
その一歩目が、防具作り。
そう思っていた。
この時はまだ。
まさか防具を作るだけのはずが、村の税と炉と領主権限に首を突っ込むことになるとは、さすがに想像していなかった。
最高のクソゲーは、目的地に着く前からもう面倒の匂いを漂わせていた。
第一部終了です。




