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失業した軍師、産廃ジョブで世界の余白を攻略する 〜古代変形機装は、使い手の頭がおかしいほど強くなる〜  作者: 三元豚


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五十万の価値と狂人の微笑



 石門は、ゆっくりと内側へ開いた。


 苔に覆われた古代の門が、低い駆動音を響かせながら動いていく。重い。音だけで分かる。単なる石材の擦れる音ではない。もっと奥に、歯車と軸受けが噛み合うような機械的な振動が混じっている。


 竜の鱗を模した文様の奥を、青白い光が血管のように走った。その光が柱から梁へ、梁から床へ、床から門の継ぎ目へと伝わっていく。生き物の神経のようでもあり、古びた機械の回路のようでもあった。


 やがて、門の隙間に人ひとり分の闇が開く。


 俺はしばらく、その奥を見つめていた。システムメッセージは出ない。推奨レベルも表示されない。ダンジョン名も、クエスト開始通知も、経験値倍率の補正もない。ただ、暗い。それだけだった。


 普通なら、ここで引き返す。少なくともレベル一の新規アバターが、安物の片手剣一本で踏み込む場所ではない。


 だが、俺の足は動いていた。


 好奇心。そう呼ぶには、少し乾いている。期待。そう呼ぶには、まだ熱が足りない。ただ、分からないものが目の前にある。それだけで、足が前へ出た。


 石門の内側へ一歩入った瞬間、外の風の音が消えた。


 背後で、門が閉じる。重い音が、腹の底に沈んだ。


 視界が暗くなる。だが、完全な闇ではない。壁面の文様が、かすかに光を帯びていた。青白い線。竜の肋骨のように湾曲した光。歯車の歯を思わせる円。それらが回廊の奥へ、細く、途切れ途切れに続いている。


 俺は片手剣の柄に触れたまま、周囲を見た。敵性反応はない。足音もない。罠の予兆もない。ただ、空気だけが重い。湿った石と、錆びた金属の匂い。現実ではないはずのそれが、鼻の奥に残る。


「……さて」


 小さく呟く。声は回廊に吸われ、すぐに消えた。


 俺は一歩ずつ、奥へ進んだ。


     ◆


 門の奥にあったのは、もうひとつの門だった。


 外門よりも小さい。だが、こちらのほうが明らかに重要だった。


 黒い石で作られた円形の扉。表面には、外門と同じ竜と機械の文様が刻まれている。中央には、竜の眼に似たくぼみ。その周囲を、歯車状の輪が三重に囲んでいた。


 俺は扉に手を置いた。押す。動かない。引く。当然、動かない。支給品の片手剣で軽く叩いてみる。鈍い音が返るだけ。HPバーも出ない。攻撃対象ですらない。


 力ずくで開く類のものではない。すぐにそう判断して、俺は手を止めた。


 鍵穴はない。認証装置らしい発光部もない。だが、何もないわけではない。


 扉の表面に刻まれた文様。竜のようでいて、機械のようでもある意匠。その溝の深さが、場所によって違っていた。俺は指で文様をなぞる。


 鱗。翼。歯車。爪。回路。心臓。


 どれも同じように見えて、わずかに違う。深く擦り減っている場所。ほとんど摩耗していない場所。触れられた痕跡がある。長い年月の中で、誰かが何度も手を置いた場所と、一度も触れられていない場所。


 EHOのオブジェクトは、見た目だけの飾りであることも多い。だが、こういう隠し判定系のギミックでは、テクスチャの差分が意味を持つことがある。


 古い。不親切。説明不足。だが、ヒントは残っている。


 古代人が、どこに手を置いて出入りしていたか。何を順路としていたか。何を禁忌として避けていたか。痕跡が、答えを残している。


 俺は扉から半歩離れ、全体を見た。


 まず、最も摩耗が深いのは竜の眼。これはおそらく起動確認。次に、右下の歯車。左上の翼。中央下部の心臓。しかし、この三つは触れられた痕跡が多すぎる。何度も開閉に使われた基本操作部だろう。


 今、必要なのはそれではない。外門を開いた後、内門を開くための試験。あるいは、侵入者を選別するための問い。そう考えるなら、頻繁に触れられた場所ではなく、逆に摩耗の浅い場所を見るべきだ。


 ほとんど使われていないが、意図的に配置されている紋様。右の爪。左の鱗。下部の回路。そして、竜の喉元に小さく刻まれた歯車の半円。四つ。


 俺はそれらの位置関係を、扉全体の文様と重ねる。竜が翼を広げる。機械が起動する。心臓から回路へ。回路から爪へ。爪から鱗へ。最後に喉。


 順序は、たぶん逆だ。起動ではなく封印解除なら、流れを戻す。


 喉。鱗。爪。回路。


 俺はその順に、摩耗の浅い四つの紋様を押した。


 一つ目。反応なし。二つ目。扉の奥で、かすかな音。三つ目。青白い光が、一瞬だけ走る。四つ目。低い駆動音。


 扉の三重の輪が、それぞれ別方向へ回り始めた。石の円盤が、噛み合っていく。古代の錠前が、数千年ぶりに答えを思い出すように。


 やがて、円形の扉は左右へ滑った。


 開いた先に、また闇がある。


 俺は一度だけ息を吐いた。


「力押しじゃない、か」


 悪くない。むしろ、かなりいい。この遺跡は、火力で踏破する場所ではない。観察し、読み、選ぶ場所だ。そういう場所なら、レベル一でもまだ戦える。


     ◆


 内部は、戦闘の気配がない空間だった。


 薄暗い回廊。壁に沿って並ぶ柱。床には、細かな金属線のような模様が走っている。天井は高く、暗がりの中へ溶けていた。


 魔物の影はない。罠の作動音もない。代わりに、回廊の各所で、人型の石像が眠るように佇んでいた。


 古代の守人。そう呼ぶのが、一番しっくりくる姿だった。


 背丈は人間より少し高い。顔は仮面のようにのっぺりとしていて、胸部には竜の眼と同じ文様が刻まれている。腕は長く、指先は刃物めいて尖っていた。もし起動すれば、レベル一の俺など一撃で潰せるだろう。


 普通のプレイヤーなら、ここで身構える。隠しダンジョン。古代遺跡。眠れる守護者。倒せば報酬。そういう文法で世界を見るからだ。


 俺も、かつてならまず敵として評価した。HPはどれくらいか。弱点属性は何か。攻撃モーションは速いか。ソロで処理可能か。逃走経路はあるか。


 だが、今は違う。


 戦う前に、戦わなくていい可能性を見る。軍師の仕事は、いつもそこから始まる。


 俺は石像に近づきすぎないよう距離を保ちながら、一体ずつ観察した。床。壁。石像の足元。光の当たり方。埃の積もり方。


 足元の床だけ、磨り減っていない。周囲には薄く砂埃が積もっているのに、石像の前だけ、不自然に乱れがない。


 誰も近づいていない。あるいは、近づく必要がなかった。


 倒すために置かれた敵なら、戦闘領域として床に傷が残る。誘導用のスペースがある。回避を想定した余白がある。だが、ここにはそれがない。


 石像は道を塞いでいない。視線もこちらを向いていない。起動条件らしい魔法陣もない。脅威ではない。少なくとも、今は。


 触れてはいけない装飾。あるいは、何か別の役割を持つ沈黙。


 その沈黙が、何より雄弁だった。


 俺は片手剣から手を離した。


 敵ではないものを敵として扱えば、戦闘が始まる。逆に言えば、戦闘を始めなければ、戦場にならない場所もある。


 昔、白騎士団の若手に何度も言ったことだ。ギミックに剣を振るな。まず見る。見てから触る。触る前に、なぜそこにあるのか考えろ。


 あいつらは、たいてい三回に一回くらいしか聞かなかった。


 俺は回廊の中央を避け、壁際を歩いた。石像の影を踏まないように。胸部の文様に触れないように。床の金属線を横切るときは、光の流れが途切れていない箇所だけを選ぶ。


 すると、回廊の奥に細い光が見えた。


 天井の隙間から差し込む光ではない。壁面の文様が、反射によって道を示している。青白い線が、床の金属模様に沿って、奥へ奥へと続いていた。


 迷路ではない。古代人にとっては、ここは日常的に通る施設だったのだろう。暗がりの中で迷わないための道標。訪問者にではなく、住人に向けて残された案内。


 だから、不親切で。だから、自然だ。


 俺はその光を辿って、さらに深くへ降りていった。


     ◆


 階段は、長かった。


 螺旋状に地下へ続いている。壁面には相変わらず竜と機械の文様。だが、降りるにつれて、竜の意匠は少しずつ変わっていった。


 入口では、竜は翼を広げた守護者のように描かれていた。中層では、歯車と回路に絡め取られた獣のように見えた。そして最下層に近づく頃には、竜はもはや竜ではなかった。


 骨。炉心。血管の代わりに走る配線。心臓の位置に埋め込まれた球体。生物と機械の境界が、曖昧になっている。


 俺は足を止め、壁画に触れない距離で眺めた。


 古代文明。機械竜。そんな単語が、頭の隅に浮かぶ。もちろん、今の段階ではただの連想だ。情報が足りない。断片だけで結論を出すのは、軍師として最悪の癖だ。


 だが、断片を拾わない人間は、そもそも答えに辿り着けない。


 俺は記憶に壁画を刻み、再び階段を降りた。


 やがて、足元の感触が変わる。石ではない。金属。薄い音が、靴底から返ってきた。


 階段の終わりに、広い空間があった。


 地下とは思えないほど天井が高い。四方の壁には、巨大な柱。柱の間には、眠る石像たち。そして中央に、それはあった。


 天秤。


 巨大な、石造りの天秤だった。


 左右に伸びる皿は、人が一人横になれるほど大きい。支柱には竜の尾のような装飾が巻き付き、中央の台座には古代文字の碑文が刻まれている。


 ここだけ空気が違った。


 ダンジョンの最深部。宝物庫。祭壇。処刑台。そのどれにも似ていて、どれとも違う。


 俺はゆっくり近づき、碑文を読んだ。文字は半分以上が欠けている。翻訳システムも完全には機能しない。ところどころが文字化けし、意味のない記号に置き換わっている。


 それでも、辛うじて読める一節があった。


 ――対価なき者に、その先はない。


 分かりやすい。あまりにも分かりやすい。


 片方の皿には何も載っていない。もう片方には、すでに枯れた古代の通貨らしきものが、わずかに積まれている。古びた金属片。かつては貨幣だったのだろう。価値は、もうない。少なくとも現在のEHO経済では換金不能。


 だが、天秤はそれを今も対価として記憶している。


 要求は単純だ。


 価値あるものを差し出せ。差し出した分だけ、扉は開く。


 ただし、見返りの保証は、どこにも書かれていない。


 俺は天秤を見つめたまま、思わず笑いそうになった。


 これは罠だ。戦闘の罠ではない。毒針も落とし穴も、即死ギミックもない。


 もっと性質が悪い。


 期待値の罠だ。


     ◆


 考えてみれば、当然だった。


 この遺跡は、攻略情報のどこにも載っていない。入口は隠されていたが、完璧に発見不可能というほどではない。地図に「旧時代の遺構」と記載はあった。外門にも反応はあった。内門のギミックも、観察すれば解ける。


 つまり、過去に誰かがここまで来ていてもおかしくない。


 いや。おそらく、来たのだ。


 誰かが外門を見つけ、内門を開け、回廊を抜け、この天秤の前まで辿り着いた。そして、引き返した。


 理由は簡単だ。払う価値がないからだ。


 何が出るか分からない。要求額も不明。成功保証もない。失敗時の返金もない。関連クエストも表示されない。称号報酬も見えない。そもそもレベル一帯の外れにある無名遺跡だ。


 ここで高額な対価を要求された時点で、効率で生きるプレイヤーは計算する。


 見返り不明。情報価値不明。期待値マイナス。よって撤退。


 正しい。あまりにも正しい判断だ。


 俺だって、昨日までならそうした。白騎士団の軍師ジンなら、まず払わない。調査班を組む。古代文字の解読を依頼する。周辺の類似遺跡を洗う。攻略掲示板の未確認報告を漁る。そのうえで、支払う価値があるかどうかを算出する。


 期待値が立たないなら、保留。投資額に対して回収見込みが薄ければ、撤退。それが軍師の規律だ。それがプロの判断だ。ゲームを仕事として扱うなら、絶対に間違っていない。


 だが、その正しさのせいで、この天秤は残っていた。


 この世界の誰もが最適化に染まっているからこそ、誰も割に合わない扉を開けない。経験値にならない。金策にならない。配信映えしない。成功保証がない。攻略サイトに載っていない。そう判断された場所だけが、世界の端に取り残される。


 誰も読まなかった仕様書の余白。誰も払わなかった対価の先。そこに何があるのか。


 俺は、天秤の空の皿を見つめた。


 必要なのは、おそらく現在のゲーム内通貨。それも少額ではない。新規アバターの俺が、普通にプレイして用意できる額では到底ない。


 手段は、一つしかなかった。


 メニューを開く。視界の右側に半透明のシステムパネルが展開する。ステータス。装備。インベントリ。マップ。フレンド。そして、公式取引。


 EHOでは、公式に現実通貨とゲーム内通貨の交換が可能だ。もちろん手数料は取られる。レートも市場変動する。現実の金をゲームに入れるプレイヤーもいれば、ゲームで稼いだ金を現実へ戻すプレイヤーもいる。企業勢も、プロチームも、配信者も、生産職も、情報屋も。全員がこの流れの上にいる。


 仮想世界の血流。


 俺は公式取引画面を開き、必要額を入力した。


 天秤の反応から逆算した最低要求額。現実換算で、五十万円。


 表示された数字を見て、指が止まった。


 五十万円。


 大金だ。少なくとも、昨日プロチームを外れた三十歳の元プロゲーマーが、何が出るか分からない石の天秤に放り込んでいい額ではない。


 退職金、というほど綺麗なものではないが、白騎士団時代に稼いだ蓄えはある。生活にすぐ困るわけではない。とはいえ、無職になった翌日に五十万円をゲーム内の謎ギミックへ突っ込むのは、世間の物差しで言えばかなり終わっている。


 いや、かなりではない。普通に終わっている。


 俺は自分の指先を見た。仮想の指だ。だが、止まっている感覚は現実のものだった。


 これは投資か。違う。投資と呼ぶには、回収見込みが薄すぎる。これは研究費か。それも違う。俺は学者ではない。これは浪費か。たぶん、そうだ。


 何が出るかも分からない遺跡に、現実の金を五十万円分投げ込む。


 昨日までの俺なら、そんな判断をしたプレイヤーを見て鼻で笑っただろう。期待値が立たない。情報が足りない。リスクに対してリターンが不明。やめておけ。その一言で終わる。


 それが正しい。


 正しいはずなのに。


 俺は、決済画面を閉じなかった。


     ◆


 五十万円で、何が買える。


 家賃。食費。しばらくの生活費。高性能な周辺機器。現実の旅行。あるいは、もう少し堅実な投資。


 そんな項目が、頭の中を通り過ぎる。どれも正しい。どれも、まともだ。


 だが、まともな計算だけでここまで来た結果、俺は昨日、ゲームを遊べなくなっている自分に気づいた。


 勝つために必要なものだけを選んだ。利益が出るものだけを拾った。無駄を削った。見せ場を作った。数字を積んだ。そうして手元に残ったのは、白騎士団の軍師ジンという名前と、疲れ切った三十歳の自分だった。


 だったら、一度くらい間違えてもいい。


 効率が悪くてもいい。割に合わなくてもいい。誰にも説明できなくてもいい。いや。誰にも説明できないからこそ、今の俺には意味があるのかもしれない。


 この遺跡が誰にも開かれなかったのは、皆が正しく計算したからだ。割に合わないと判断したからだ。なら、割に合わないものの先にしか、誰も見たことのない景色はない。


 期待値の計算式に、まだ誰も入れていない項がある。世界の余白。そんな曖昧で、数字にならないもの。


 プロなら切り捨てる。軍師なら無視する。スポンサーなら評価しない。視聴者なら数秒で離脱する。


 でも、ゲーマーなら。


 たぶん、覗きたくなる。


 俺は天秤を見た。空の皿は、何も言わない。払えとも言わない。払うなとも言わない。ただそこにあって、待っている。何千年も、誰かが自分から対価を置くのを待っていた。


 ひどい設計だ。不親切で、非効率で、悪趣味ですらある。


 だが、少しだけ分かる。


 価値があると分かっているものに金を払うのは、取引だ。価値があるか分からないものに金を払うのは、賭けだ。


 そして、賭けたいと思ってしまった。


 勝てるからでもない。儲かるからでもない。誰かに見せるためでもない。ただ、その先が見たい。


 久しぶりの感情だった。


「……最悪だな」


 俺は小さく笑った。その声は、天秤のある空間に吸い込まれて消える。


 最悪だ。あまりにも効率が悪い。あまりにも合理性がない。だから、今の俺にはちょうどいい。


 決済確認。現実通貨からゲーム内通貨への交換。手数料込み。最終確認。この取引は取り消せません。見慣れた警告文が表示される。


 俺は、少しだけ間を置いた。


 それから、確定を押した。


     ◆


 天秤の空の皿に、金貨が降り始めた。


 最初は一枚。次に十枚。百枚。千枚。光の粒が集まり、重みを持った金属へ変換されていく。


 公式取引によって生成されたゲーム内通貨が、天秤の皿に積み上がっていく。乾いた音が、地下空間に連続して響いた。硬貨が硬貨を叩く音。小さな音のはずなのに、やけに大きく聞こえた。


 現実の五十万円が、今、仮想の金貨になっている。そしてその仮想の金貨は、俺の目の前で、石の皿にただ積もっていく。


 馬鹿げている。


 だが、不思議と後悔はなかった。


 皿が沈む。反対側の皿が上がる。古代の通貨が、かすかに震える。天秤の支柱に刻まれた竜の尾が、青白く光り始めた。


 まだ足りない。


 俺は息を止める。


 金貨がさらに降る。皿が沈む。支柱の文様が一つずつ点灯する。竜の爪。歯車。翼。心臓。最後に、眼。


 天秤が水平を取った。


 その瞬間、空間全体が低く震えた。音というより、振動。地面の奥で何か巨大なものが目を覚ましたような感覚。


 左右の皿に積まれた金貨と古代通貨が、同時に光へ変わる。金色と青白い光が絡み合い、台座の中央へ吸い込まれていく。


 天秤は、対価を受け取った。


 戻ってこない。当然だ。賭け金とは、そういうものだ。


 次の瞬間、正面の石壁に亀裂が入った。縦に一本。そこから左右へ、蜘蛛の巣のように割れ目が広がる。だが、崩れない。


 割れた石壁の奥から、金属のレールがせり出してくる。床下で、無数の歯車が回る音。何千年も眠っていた機構が、ぎこちなく、だが確実に動き始める。


 石壁の中央が開いた。


 その奥から、黒い台座が競り上がってくる。


 台座の上にあったのは、古びた金属の塊だった。


     ◆


 人の腕ほどの大きさ。


 最初は、武器には見えなかった。剣でも、槍でも、杖でもない。盾でも、銃でも、装飾品でもない。


 黒銀色の金属片が幾重にも折り畳まれ、楕円形の中枢部を守るように組み合わさっている。表面には、入口の門と同じ文様。竜の鱗。歯車。回路。翼。生き物の外骨格と、機械の装甲を無理やり一つにしたような異様な造形。


 中枢部からは、かすかな駆動音が漏れていた。規則正しい。鼓動に似ている。だが、それは生命の音ではない。古い機械が、まだ自分は動けると主張しているような音だった。


 俺は台座に近づいた。


 警告は出ない。敵性反応もない。だが、手を伸ばす直前、視界の端にシステムウィンドウが浮かんだ。


 《不明な古代機装を確認しました》


 《接触しますか?》


 はい。


 いいえ。


 この二択ほど信用ならないものもない。はいを選べば、たいてい面倒が始まる。いいえを選べば、たぶん何も起きない。何も起きなければ安全だ。安全で、効率的で、失うものもない。


 だから俺は、はいを選んだ。


 指先が金属塊に触れる。


 冷たい。


 次の瞬間、金属塊の表面を青白い光が走った。折り畳まれていた装甲片が、わずかに開く。中枢部に刻まれた竜の眼が、こちらを見た。


 見られた。


 そんな錯覚があった。


 視界に通知が走る。


 ――隠しジョブ《古代変形機装》を獲得しました。


 俺は、しばらくその文字を見つめていた。


 隠しジョブ。その単語だけなら、大当たりだ。未発見ジョブの初回取得。情報価値は計り知れない。条件次第では、五十万円など安い。いや、もしジョブ性能が環境を変えるレベルなら、この情報だけで桁が一つ変わる。


 視界の端で、ジョブ説明が展開する。俺は反射的に、全文を読み始めた。


 《古代変形機装》


 古代文明が遺した機械竜中枢デバイスを基礎とする特殊戦闘体系。


 機装核を介し、戦況に応じて武装形態および戦闘特性を変化させる。


 変形可能形態は、適合条件の解放により増加。


 各形態は既存上級クラスの戦闘特性を部分再現する。


 ただし、形態ごとの待機時間、硬直、装備適性、出力制限は独立して管理される。


 使用者には高精度の状況判断、連続入力、形態記憶、待機時間管理を要求する。


 なお、変形失敗時には機装出力が不安定化し、一定時間すべての形態が使用不能となる。


 俺は最後まで読み終えて、眉を寄せた。


 ひどい。


 説明文が、ひどい。


 やれることは並べてある。だが、どう使うのかが一切書かれていない。強みも見えない。役割も分からない。タンクなのか、アタッカーなのか、支援なのか、ヒーラーなのか。


 いや、説明文だけ見れば、その全部をやるように読める。その時点で、普通はおかしい。


 ゲームにおいて、役割が広すぎるものは弱い。器用貧乏。中途半端。全部できる代わりに、どれも一流には届かない。


 ましてやこのジョブは、上級クラスの特性を部分再現するとある。


 部分。


 この単語が最悪だ。完全再現ではない。つまり本職には劣る。そのうえで、形態ごとの待機時間が独立。硬直も発生。装備適性も制限。変形失敗時には全形態停止。


 読めば読むほど、面倒の塊にしか見えない。


 十人が見れば、十人が三秒で産廃と切り捨てる。いや、ゲームに詳しい人間ほど切る。なぜなら、弱い理由が説明文の時点で多すぎるからだ。


 高い操作負荷。不明瞭な役割。失敗時の重いペナルティ。成長条件の不透明さ。パーティ内での採用理由が見えない。配信映えするかどうか以前に、攻略現場で使うには不安定すぎる。


 五十万円。


 その数字が、脳裏に浮かぶ。


 俺は腕の中の金属塊を見下ろした。


 これに、五十万。


 現実の五十万円を払って、出てきたのがこの説明文。普通なら、頭を抱える。掲示板に書き込むなら、こうだ。


 未発見ジョブ引いたと思ったら、変形硬直と独立CT管理で死ぬゴミでした。情報料五十万返せ。


 コメント欄は盛り上がるだろう。産廃乙。人柱ありがとう。検証勢助かる。ざまあ。


 想像できる。想像できてしまう。


 それなのに。


 俺は、まだこのジョブを外れだと断じられなかった。


     ◆


 説明文をもう一度読む。


 古代文明が遺した機械竜中枢デバイス。戦況に応じて武装形態および戦闘特性を変化。既存上級クラスの戦闘特性を部分再現。形態ごとの待機時間は独立。硬直。装備適性。出力制限。高精度の状況判断。連続入力。形態記憶。待機時間管理。


 普通のプレイヤーなら、この時点で投げる。


 ロールが決まらないジョブは、パーティに入れづらい。操作が難しいジョブは、安定しない。安定しないジョブは、攻略に採用されない。攻略に採用されないジョブは、評価されない。評価されないジョブは、研究されない。研究されないジョブは、弱いまま放置される。


 そうして、産廃になる。


 分かりやすい流れだ。


 だが、俺の目は別の場所に引っかかっていた。


 待機時間が、独立。


 これは欠点だ。普通なら。だが、もし本当に独立しているなら、形態を切り替えることで、通常一つのロールでは持ち得ない時間軸を複数持てる可能性がある。


 変形硬直。これも欠点だ。だが、硬直が固定なら、敵の攻撃後隙や移動硬直に重ねることで相殺できる可能性がある。


 部分再現。弱い。だが、必要な瞬間だけ必要な特性を抜き出せるなら、過剰な性能はいらない。


 高精度の状況判断。連続入力。形態記憶。待機時間管理。全部、欠点だ。普通のプレイヤーにとっては。


 けれど、俺が白騎士団で十年やってきたことは何だった。


 味方全員のクールタイムを頭に入れる。敵の行動分岐を読む。誰のスキルが何秒後に戻るかを把握する。ヘイト、軽減、火力、回復、位置取り、薬品、退路。それらを同時に管理し、戦場全体を一つの盤面として動かす。


 このジョブの説明文は、確かに最悪だった。


 だが、その最悪の条件群は、どこか見覚えのある最悪でもあった。


 人間一人に、パーティ全体の管理を要求している。


 そんな印象。


 馬鹿げている。ゲーム設計としては、たぶん失敗している。普通のプレイヤーに扱わせるつもりがない。


 いや。本当に、普通のプレイヤーに扱わせるつもりがなかったのかもしれない。


 古代文明の遺産。機械竜の中枢デバイス。その言葉が、壁画の記憶と重なる。竜の骨格。炉心。配線。心臓。生物と機械の境界が曖昧になった壁画。


 このジョブは、単なる職業ではない。何かの残骸だ。この世界の深いところに埋まっている、まだ誰も触れていない仕様。


 強いのか、弱いのか。当たりなのか、外れなのか。長年、仕様書を読めば一目で価値を見抜いてきた俺にすら、こいつだけは底が見えなかった。


 底が見えない。


 その感覚が、妙に懐かしかった。


 俺は金属塊を持ち上げた。


 重い。だが、装備不可ではない。腕に添わせると、金属片が勝手に展開し、左腕を覆うように固定された。黒銀の装甲が、手首から肘までを包む。中枢部の竜眼が、かすかに光る。


 視界の端に、新しいUIが開いた。


 形態選択。


 表示されたのは、わずか三つ。


 《剣装》


 《盾装》


 《射装》


 初期解放形態。それぞれの横に、待機時間の表示。変形硬直。出力安定率。適合率。


 情報量が多い。


 レベル一の初心者用ジョブ画面ではない。むしろ、上級者向けのデバッグコンソールに近い。


 俺は思わず笑った。


「……本当に、ひどいな」


 ひどい。不親切。面倒。割に合わない。評価されない理由がよく分かる。これを最初に引いたプレイヤーがいたとしても、数分で投げただろう。パーティで試して、変形硬直中に死んで、掲示板に愚痴を書いて終わり。そして産廃認定。


 その流れが、目に浮かぶようだった。


 だが、俺はまだ笑っていた。


 強いのか、弱いのか分からない。使えるのか、使えないのか分からない。五十万円の価値があったのかどうかも分からない。分からないことだらけだった。


 昨日までの俺なら、最悪の状況だ。情報が足りない。期待値が立たない。判断不能。保留。撤退。そう結論づけたはずだ。


 今は違う。


 分からない。


 久しぶりに、本当に分からない。


 その手応えのなさが、なぜか、悪くなかった。


 俺は左腕の機装を見下ろし、ゆっくりと拳を握った。金属片が、呼応するように鳴る。小さな駆動音。眠っていた竜の、最初の呼吸。


「さて」


 俺は、誰もいない地下の祭壇で呟いた。


「五十万分は、遊ばせてもらうぞ」


 その言葉に応えるように、《古代変形機装》の竜眼が、青白く瞬いた。

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