解放とゲーマーアイズドの誕生
光が、身体を縫い上げていく感覚があった。
まず、足先。次に、指。腕、胸、喉、瞼。現実の肉体から切り離された意識が、仮想の神経へと静かに流し込まれていく。
完全没入型VRのログインは、いつも一瞬の落下から始まる。内臓が浮くような感覚。脳の奥に、薄い膜が一枚かかるような感覚。そして次の瞬間には、もうひとつの身体が、当たり前のように自分のものになっている。
何千回と繰り返してきた手順だった。
慣れている。慣れすぎている。プロ時代の俺にとってログインとは、仕事場のドアを開けるのと同じだった。
今日のスケジュール。攻略対象。参加メンバー。必要素材。薬品在庫。配信開始時刻。スポンサー向けの見せ場。ログインした瞬間から、頭の中にはそれらの項目がずらりと並び、勝利までの線を引き始める。
だが、この日は違った。
瞼を開けた瞬間、俺は最初に違和感を覚えた。
軽い。
身体が、ではない。肩が、でもない。もっと内側。意識の奥に、いつも当然のように積まれていた重りが、丸ごと消えていた。
スポンサーの期待。来週の遠征日程。若手の育成方針。ミレイの回復タイミングの修正。レオンの火力を最大限に見せるためのルート構築。配信の数字。コメント欄の空気。マニュアル更新。ギルド内の不満処理。
それらが、何ひとつない。
残っているのは、まっさらな新規アバター一体。レベル一。職業未定。装備は支給品の安物。所持金は、ほとんどゼロ。フレンドリストも空白。ギルド欄には、所属なし。実績も、称号も、過去の栄光もない。
アイズド。
昨夜つけた、何の意味も説明できない名前。何の数字も背負っていない名前。
視界の端に表示されたその文字を見て、俺はしばらく動けなかった。
ジンではない。白騎士団の軍師ではない。誰かの勝利を支えるための見えない土台でもない。
久しぶりに、俺は誰でもない人間として、世界の真ん中に立っていた。
ーーーーー
始まりの街、エリュシオン。
数千万人のプレイヤーが最初に降り立つ、EHO最大の基点都市。
白い石造りの建物が幾重にも重なり、中央広場には巨大な噴水がある。噴き上がる水は陽光を受けて虹色にきらめき、空には翼を持つ輸送獣がゆっくりと弧を描いていた。
初めてこの街に立った人間なら、たぶん息を呑むだろう。剣と魔法の世界。異世界そのものの空気。現実では見られない、鮮やかすぎる青空。どこまでも広がる仮想の地平線。
だが、俺の目に最初に飛び込んできたのは、そういうものではなかった。
広場の上空に浮かぶ巨大な電光掲示。そこに、素材相場がリアルタイムで流れている。
鉄鉱石。銀鉱石。低級魔石。薬草。竜鱗。希少結晶。それぞれの買値と売値。前日比。取引量。その横には、小さな換算表示。ゲーム内通貨ゴールドと、現実通貨のレート。
エターナル・ホライゾン・オンラインは、ただのゲームではない。
公式にRMTが組み込まれている。ゲーム内で稼いだ金は、一定の手続きを経て現実の金になる。レア素材は資産であり、攻略情報は商品であり、未発見の狩場は鉱脈であり、プレイヤーの技術は収益を生む労働力だった。
剣と魔法の皮を被った、仮想資本主義社会。それが、この世界のもうひとつの顔だ。
「はい、初心者さん注目ー! 序盤最速レベリングルート、今なら動画概要欄から無料配布中でーす!」
広場の一角で、派手な衣装の配信者が声を張り上げている。彼女の周囲には半透明の撮影用ドローンが浮かび、通りすがりの新規プレイヤーを背景に取り込みながら、映像を配信用の構図へと整えていた。
別の壁面には、攻略情報の売買掲示がある。
最新フェーズ攻略。上級職解放条件。未公開ボス行動表。高効率金策ルート。買い取り希望。販売価格応相談。
情報には、値札がついている。安くはない。それでも売れる。この世界では、誰かより一日早く知ることが、そのまま利益になるからだ。
企業ロゴを背負ったプレイヤー集団が、広場を横切っていく。
十人編成。前衛三、後衛四、支援二、荷物持ち兼記録係一。装備はレベル帯にしては過剰なほど整っている。歩幅まで揃っていた。おそらく、今日の狩場、補給地点、休憩時間、換金タイミングまで秒単位で管理されている。
かつての俺が、毎日組んでいた類の盤面だった。
見れば分かる。あの集団がこのあと向かうのは、南門から出て十五分の低級魔獣エリアではない。その先にある、再湧き時間の短い鉱石混在型の狩場。経験値効率と素材収益を両立できる、序盤にしてはかなり美味い場所だ。
人員の練度から考えて、二時間でレベル八前後。回収素材の換金を含めれば、現実通貨で昼食代くらいにはなる。新規を引率しているように見せているが、実際は低レベル帯の金策ファームだろう。
俺は、そこまで考えてから、軽く息を吐いた。
職業病だな。
何も背負っていないはずなのに、世界を見た瞬間、効率と利益の線が勝手に浮かんでしまう。
空が青い。噴水がきれいだ。街並みが美しい。そんなことより先に、俺は相場と導線と時間効率を見ている。
笑えない。
いや。少しだけ、笑えるかもしれない。
十年かけて染みついた癖は、そう簡単には抜けないらしい。
ーーーーー
中央広場の端に、初心者向けの案内掲示板があった。
クエスト情報。推奨狩場。ギルド勧誘。職業適性診断。序盤攻略の基礎講座。
そこに立った瞬間、俺の頭は、ほとんど反射で最適ルートを組み始めた。
まず、南の草原でチュートリアル依頼を三つ消化する。報酬の革手袋と初級回復薬を入手。次に、東の小川沿いで水棲スライムを狩り、薬草と粘液を回収。粘液は今朝の相場なら売らずに保持。レベル四で北東の廃農場へ移動。夜時間に出現率が上がるブラックラットを狩れば、経験値効率が二割上がる。
そこでレベル七まで上げ、初級職の派生条件を満たしてから、最短で上級職ルートへ入る。必要時間は、休憩込みで五時間弱。資金効率も悪くない。ミスをしなければ、今日中に初心者帯を抜けられる。
組み終えた。
一瞬で。
迷いもなければ、躊躇もない。十年間、そうしてきたからだ。目的を設定する。最短経路を引く。無駄を削る。最小の時間で最大の成果を取る。
正しい。
あまりにも正しい。
だから俺は、掲示板の前で足を止めた。
そのルートの先に、楽しいことはひとつもなかった。
経験値が増える。金が増える。装備が整う。レベルが上がる。効率の良い狩場を、効率良く巡り、効率良く強くなる。それは、よくできた作業だ。誰よりも速く、誰よりも正しく、誰かに見せるための数字を積む作業。
俺はそれを十年やってきた。そして昨夜、ようやくそこから失業した。
なら。もう、急ぐ理由はない。
俺は掲示板から視線を外した。
南門ではない。東の小川でもない。北東の廃農場でもない。攻略サイトで赤くおすすめ表示されているルートの、どれでもない。
地図を開く。エリュシオン周辺のマップが、半透明の光で視界に重なった。主要狩場には、プレイヤー密度を示す色がついている。南の草原は赤。東の小川は橙。北東の廃農場も、すでに黄色く染まり始めている。
人が多い。金になるからだ。経験値になるからだ。誰かが正解だと言ったからだ。
俺は地図を少しずつ拡大し、街の西外れを見た。
そこには、ほとんど色がなかった。推奨レベル表示も曖昧。クエストアイコンもない。素材採取ポイントも記録されていない。
ただ、薄い灰色の文字が一行だけ浮かんでいた。
旧時代の遺構。
それだけ。
攻略価値、なし。収益性、なし。初心者誘導、なし。配信映え、未知数。効率で言えば、最悪の選択だった。
だからこそ、俺は地図を閉じた。
口元が、勝手に少しだけ歪む。可笑しかった。自分でも驚くくらいに。
たぶん俺は今、ものすごく無駄なことをしようとしている。
それが、少しだけ嬉しかった。
◆
西門を抜けると、喧騒は急に遠ざかった。
エリュシオンの城壁は、外から見ると驚くほど大きい。白い石壁が空を切り取り、その向こうには、街のざわめきと相場表示と配信者たちの声が閉じ込められている。
一歩外へ出ただけで、音が変わった。
風の音。草の擦れる音。遠くで鳴く鳥の声。足元の土を踏む感触。
完全没入型VRの感覚再現は、何度体験してもよくできている。靴底に伝わる細かな振動。鼻を抜ける草の匂い。肌を撫でる風の温度。それらが現実のものではないと、頭では分かっている。
それでも身体は、確かにそこに立っていると錯覚する。
いや、錯覚という言い方は、もう古いのかもしれない。人間の脳がそう感じるなら、それは一つの現実だ。
プロ時代の俺なら、この道を歩く時間さえ惜しんだだろう。移動短縮アイテム。転移サービス。騎乗生物。あるいは、そもそも来る価値がないと判断する。
だが今は、歩いているだけで少し楽だった。
誰もいない。
それがいい。
整備された狩場には、必ず誰かがいる。稼げる場所には人が集まる。効率の良い場所には、攻略ルートが敷かれる。そこにはいつも、最適化された人間の気配がある。
だが、稼げない場所には誰も来ない。
経験値効率が悪く、素材も落ちず、クエストもない場所に、わざわざ足を運ぶプレイヤーはいない。当たり前だ。当たり前すぎて、ひどく快適だった。
地面が少しずつ荒れていく。草の背が高くなり、道らしい道が消え始める。遠くに岩場が見えた。その先に、地図上の灰色の文字が示す場所がある。
旧時代の遺構。
名前だけなら、それらしい。だが、EHOにはそういう雰囲気だけの背景オブジェクトも多い。古びた石碑。壊れた塔。意味ありげな壁画。実際には何のイベントも発生しない、世界観演出のための空白。
攻略組は、そういうものを無視する。
俺も昔なら、そうした。
意味がないから。効率が悪いから。時間の無駄だから。
岩陰が揺れた。
考えるより先に、身体が止まる。視界の端に、赤い敵性反応。
三つ。
低く唸る声とともに、岩陰から獣が姿を現した。
ロック・ハウンド。
岩のような外皮を持つ、狼型の低級魔獣。推奨レベルは三から五。新規プレイヤーが序盤で不用意に囲まれ、初めて全滅の味を知る相手として有名だ。
俺はレベル一。装備は支給品の片手剣。防具も薄い。ステータスだけで見れば、三体同時は厳しい。
普通なら、逃げる場面。
だが、盤面は悪くない。
三体の配置を見る。右の個体が前に出ている。肩の沈みが深い。突進型。中央は頭を低くしているが、まだ様子見。咆哮でこちらの行動を止めるタイプ。左はすでに円を描くように動き始めている。背後を取る気だ。
地形を見る。右手に岩壁。左は少し開けている。背後には浅い窪み。正面から受ければ囲まれる。下がれば、中央の咆哮で硬直を取られ、左右から噛まれる。
なら、答えは決まっていた。
俺は逃げずに、右の一体へ踏み込んだ。
突進の予備動作が始まる。前脚に力が入る。首がわずかに沈む。その瞬間、半歩だけ身体をずらした。
ロック・ハウンドの牙が、俺の肩先をかすめる。当たらない。だが、避けすぎない。大きく避ければ、次の動きが遅れる。必要なのは、攻撃判定の外へ出る最小距離。
突進の勢いを殺せなかった右の個体が、そのまま左の個体の進路へ突っ込む。
二体の足が絡む。硬直。〇・七秒。十分だ。
俺は支給品の片手剣を、右の個体の前脚に叩き込んだ。ダメージは小さい。だが、狙いは体力を削ることではない。よろめき値。姿勢制御。次の行動開始を遅らせる。
中央の個体が咆哮する。
音波が空気を震わせ、行動阻害の判定が走る。俺はその瞬間だけ、岩壁の陰へ身体を滑り込ませた。
遮蔽物。判定不成立。
視界の端に、システムログが小さく流れる。
《咆哮》を回避しました。
知っている。
この手の低級魔獣の咆哮は、音ではなく直線範囲のスキルとして処理される。現実の感覚に騙されると、耳を塞ぐ。ゲームの仕様を読めば、壁を挟む。それだけの違いだ。
中央の個体が硬直する。咆哮後の隙、一・二秒。俺は岩壁を蹴って前へ出た。
片手剣を喉元へ。
一撃。二撃。
ステータスが低いせいで、削り切れない。だが、充分。敵の体勢が崩れたところで、俺はあえて追撃せず、狭い岩の隘路へ後退した。
三体は、横並びでは来られない。先頭に立てるのは一体だけ。数の有利は、地形で消える。あとは順番に処理すればいい。
剣を振る。避ける。踏み込む。止まる。下がる。敵を誘導する。
火力で押し潰しているわけではない。高性能なスキルを使っているわけでもない。ただ、相手が強い形を作らせず、自分が負けない形だけを残している。
軍師の仕事は、戦う前にほとんど終わっている。
最後のロック・ハウンドが、光の粒になって砕けた。入手経験値は微々たるもの。ドロップも安い牙が一本だけ。時間効率で言えば、最低に近い。
だが、俺はしばらくその場に立ったまま、動かなかった。
誰にも見られていない。コメントも流れない。称賛もない。切り抜かれることもない。討伐ログを提出する相手もいない。
それなのに、口元が緩んでいた。
勝ったからではない。上手くやったからでもない。ただ、今の戦いが少し面白かった。
それだけだった。
「……なるほど」
俺は小さく呟く。
忘れていた。
低レベルの魔狼三体を、安物の剣一本で捌く。そんな取るに足らない戦闘にも、考える余地はある。工夫する余地がある。勝ち筋を見つける楽しさがある。
世界は、最短ルートの上だけに存在しているわけではない。
当たり前のことを、俺はずいぶん長く忘れていたらしい。
ーーーーー
街道の終わりに、崖があった。
正確には、崖の裂け目だ。地図上ではただの地形の凹凸にしか見えない場所。近づいてみれば、そこには人の手が入っていた。
いや。人の手、と言っていいのかどうかも分からない。
苔と砂に半ば埋もれた、巨大な石の門。左右の柱は黒ずみ、上部は崩れている。だが、その表面に刻まれた文様だけは、不自然なほど鮮明だった。
竜の鱗。歯車。翼。回路。生物の骨格と、機械の配線が絡み合ったような紋様。
古代文明系の意匠に似ている。だが、俺が知っているどのダンジョン様式とも違った。
白騎士団時代に、攻略対象の建築パターンは一通り叩き込んでいる。エルフ遺跡。旧帝国地下道。神殿型フィールド。竜族の墓所。機工都市跡。そのどれとも微妙に違う。
似ているのに、合わない。
既存の分類から、半歩だけ外れている。
そういうものは、たいてい危険だ。そして、面白い。
門の前には、案内表示もない。推奨レベルもない。クエスト開始マークもない。近づいても、システムメッセージは出なかった。
つまり、少なくとも通常の導線上にある施設ではない。
ただの背景オブジェクト。または、まだ誰も見つけていない何か。
俺は門の周囲をゆっくり歩いた。足元の砂。苔の生え方。崩れた石片の配置。壁面の傷。
視線を走らせていくと、柱の根元にだけ、妙な違和感があった。
苔がない。
年月を経た遺跡にしては、そこだけ表面が剥き出しになっている。誰かが最近触れた、というよりは、何かの判定領域として処理されているような不自然さ。
俺はしゃがみ込み、指先で石の表面に触れた。
冷たい。感触は石だ。だが、指を滑らせた瞬間、微かに光が走った。
青白い線。
一瞬だけ、竜の文様の目に光が灯る。
システムメッセージは出ない。音もない。だが、確かに反応した。
「……隠し判定か」
声が、自然と低くなる。心拍数が上がる。現実の身体ではなく、仮想の身体の反応。だが、意識は確かにそれを緊張として受け取っていた。
こういうものを見つけたとき、昔の俺ならまず情報を売る価値を計算した。
未発見遺跡。隠しイベントの可能性。古代文明系の新規導線。もし上級職や希少素材に繋がるなら、初動情報だけでかなりの額になる。
白騎士団なら、即座に調査班を組み、周辺を封鎖し、攻略情報を独占する。俺もそう提案しただろう。
正しい判断だ。
だが、今の俺は一人だった。
所属なし。レベル一。安物の剣一本。誰に報告する義務もない。誰かの利益に変える必要もない。
目の前にあるのは、ただの分からない扉だ。
俺は、ゆっくりと息を吸った。
分からない。
次に何が起きるか分からない。
この感覚を、どれくらいぶりに味わっただろう。
攻略済みのボス。既知のギミック。解析済みのルート。最適化された金策。それらは安全で、確実で、利益になる。
だが、分からないものだけが、人間を前へ動かすことがある。
「さて」
俺は門の前で、軽く指を鳴らした。音が、崖の裂け目に小さく反響する。
久しぶりに、正解のない場所に立っていた。
久しぶりに、誰かのためではなく、自分のために扉を開けようとしていた。
効率で言えば、最悪。利益で言えば、不明。危険度で言えば、論外。
だからこそ、悪くなかった。
俺は石門に手を置いた。
青白い光が、今度ははっきりと紋様の奥を走る。竜の眼が開く。歯車が噛み合うような、低い音がした。
そして、苔むした古代の門が、数千年ぶりに目を覚ますように、ゆっくりと内側へ開き始めた。




