白銀一閃
根脈浅層へ戻る道は、さっきよりも静かだった。
それは、良い兆候ではない。
最初に入った時は、白砂の流れる音があった。都市の下を巡る細い血流のような、さらさらとした響き。だが今は、その音が少し遠い。通路そのものが息を潜め、奥にいる何かに耳を澄ませているようだった。
俺は左腕の《古代変形機装》を確認する。
《古代変形機装》
《盾形態:使用可能》
《射出形態:使用可能》
《刃形態:使用可能》
《拘束形態:使用可能》
《簡易端末形態:使用可能》
《護域展開:再現可能》
《注意:守護対象の連続再定義により負荷が残っています》
《淀み接触履歴:軽微》
盾形態、射出形態、刃形態。
使用可能。
護域も使える。
ただし、前回と同じ置き方は魔蛇に見られている。ログにもはっきり出ていた。
《注意:同一護域展開パターンは学習されています》
親切な警告である。
言われなくても分かっている。だが、言われると腹が立つ。分かっているのに通知してくる上司みたいなものだ。たぶん悪気はない。悪気がない分、さらに腹が立つ。
隣では、ルナが剣を握っていた。
表情は硬い。
けれど、足取りは乱れていない。
訓練環で何度も繰り返した「見せる回避」を、頭の中でなぞっているのだろう。視線は敵のいない前方だけではなく、床の白砂、壁の根、白狐の尾、後方の通路へ順に動いている。
いい傾向だ。
少なくとも、目の前の敵だけを見て突っ込む段階は越えた。
めでたい。
ただし、相手は人の視線と回避を見てくる黒い蛇なので、成長確認の教材としてはだいぶ悪質である。
「出口は?」
俺が聞くと、ルナは即答した。
「後ろの一本通路。偽の分岐が出た場所を越えて、第一流路。その先が沈殿槽です」
「よし」
「今日は間違えません」
「その台詞がフラグにならないことを祈る」
「祈らないで信じてください」
「努力する」
「それ、信じてないやつです」
軽口は返ってくる。
なら、まだ大丈夫だ。
怖さは消えていない。むしろ、消えない方がいい。怖さを失えば、淀みの声に足を取られる。必要なのは、怖さを抱えたまま動くことだ。
イリスは最後尾で、浄砂袋と白澄砂の容器を確認していた。
白澄砂。
通常の浄砂よりも澄んだ、白金色に近い粒。
根の間で半日かけて調えた、今回の本命だ。
ただし、一投分しかない。
核へ届けば、大きく削れる。
外せば次はない。
実に分かりやすい条件だ。分かりやすい条件は、だいたい胃に悪い。
白狐は先頭を歩いている。
ただし、尾の光は抑えていた。昨日までのように白い光で道を照らすのではなく、床の白砂に尾先を近づけ、流れが生きている場所だけを短く示す。魔蛇に光を覚えられている以上、白狐自身も見せる情報を絞っているのだろう。
聖獣が情報管理を始めた。
このゲーム、いよいよ教育に悪い。
「第二流路まで、あと少しだ」
イリスが言った。
「淀みの気配は?」
「濃い。先ほどより広がっている。だが、まだ浅層内だ」
俺の視界にもログが浮かぶ。
《特殊クエスト:淀みの魔蛇を祓え》
《現在地:根脈浅層・第一流路》
《淀み反応:中》
《追跡性:高》
《流路侵食率:29%》
《目的:第二流路の淀み核へ白澄砂を届かせる》
《注意:淀みの声に応答してはいけません》
「二九%。増えてるな」
「三割を越えると、第三流路へ滲む可能性がある」
イリスの声は硬い。
「なら、ここで削るしかない」
俺は足を止めた。
目の前には、前回流路偽装が起きた場所がある。三つに見えた道は消え、今は一本の通路だけが奥へ続いている。だが、その奥の空気が黒い。青白い根の光が、通路の先で鈍く濁っている。
魔蛇は待っている。
こちらを覚えたうえで。
「確認する」
俺は短く言った。
「作戦は三段階。まず、俺が前回と同じように流路を守る。魔蛇に『また同じ手で来た』と思わせる」
「はい」
「ルナは、前回と同じ回避の初動を見せる。魔蛇がその先を潰しにきたら、訓練通りに外せ。黒糸が出たら、白銀の光をまとわせた剣先で進路をずらす。斬り込むな。逸らすだけだ」
「分かりました」
「イリスは一投目の浄砂を見せる。分かりやすく、止めやすい線でいい。魔蛇が反応したら、白澄砂を本命の流れに乗せる」
「承知した」
「白狐は、必要な瞬間だけ流れを示してくれ。光りすぎるな」
白狐が尾を一度振った。
不満はありそうだが、今回は素直だった。
「あと、声が聞こえても返すな。影が出ても追うな。本物か迷ったら、白狐を見る。俺の声でも、変だと思ったら疑え」
ルナが少しだけ息を吸った。
「はい」
イリスも頷く。
「守り手として心得た」
俺は左腕の機装を起動する。
黒銀の金属が展開し、盾形態が組み上がった。
《古代変形機装:盾形態》
《黒鉄外装:展開》
《簡易護域:使用可能》
《注意:淀みを吸収する機能はありません》
「何度も言うな」
俺は小さく呟いた。
黒鉄は淀みを飲み込まない。
拒絶する神秘の盾でもない。
ただ、形を変え、判定を置き、角度をずらし、護域を張る。
それ以上でも、それ以下でもない。
だからこそ、使い方を間違えれば普通に負ける。
「行くぞ」
俺たちは第二流路へ踏み込んだ。
ーーーーーー
淀みの魔蛇は、前回よりも大きくなっていた。
第二流路の奥で、黒い身体が通路の壁と床に絡みついている。蛇と言っても、明確な頭や目があるわけではない。流れる黒砂と液体が混ざり、時折、盾の輪郭や剣の線、人の腕のようなものを浮かべながら、長い身体をくねらせている。
中央には黒い核があった。
卵にも心臓にも見える、濁った結晶。
そこから魔蛇の身体が生え、白砂の流れを吸い上げている。核の表面には、前回の浄砂で焼けた白い傷が残っていた。
効いてはいる。
だが、浅い。
視界にログが走る。
《淀みの魔蛇:警戒状態》
《淀み核:浅層形成中》
《流路侵食率:29%》
《精神干渉:微弱》
《追跡性:高》
精神干渉、微弱。
もう来ている。
俺は呼吸を整え、床の白砂だけを見る。黒い核を見すぎるな。声を聞いても返すな。影を追うな。分かっている。分かってはいるが、こういう注意はだいたい破らせるために存在している。
だから、最初から破られる前提で対策を組む。
「第一段階」
俺は盾を床に突き立てた。
守護対象を根系流路に定義する。
前回と同じ。
魔蛇に見せるための、分かりやすい初動。
《守護対象を確認中》
《根系流路:仮守護対象》
《盾形態:護域展開》
半透明の鱗状防壁が、白砂の細い流れに沿って薄く広がる。
魔蛇が即座に反応した。
黒い身体から数本の糸が伸びる。
正面ではない。
左右の壁を伝い、護域の外側を迂回する線。前回、俺が護域を広げすぎた場所を狙っている。
学習している。
よし。
学習しているなら、読める。
「ルナ」
「はい!」
ルナが前へ出る。
彼女は魔蛇の黒糸に対して、いつもの回避の初動を見せた。左へ沈む。前回、魔蛇に読まれた動きだ。黒糸がその先へ伸びる。ルナの逃げる場所を先に塞ぎにくる。
そこで、ルナの足が止まった。
止まったように見えた。
実際には、重心を一瞬だけ中央へ戻している。左へ行くと見せ、左へは行かない。右へ大きく逃げるのでもない。黒糸が伸び切る一拍前、彼女はその場で膝を抜き、黒糸の下をくぐるように半歩だけ前へ入った。
魔蛇の先読みが空振る。
ルナの剣先に、薄い白銀の光が走った。彼女は黒糸を斬り払わず、刃の腹をそっと添えるように進路へ差し込む。白銀の薄光が黒糸に触れ、じゅっと音を立てた。糸は焼け切る前に軌道を変え、俺が用意した護域の端へ流れる。
護域が黒糸を弾いた。
《白銀出力:26%》
《断続展開》
《黒糸の進路補正:成功》
《護域接触:成功》
《補助系統評価:上昇》
「いい!」
俺は短く言う。
ルナは深追いしない。すぐに下がり、足元の白砂を見る。
「出口、後ろ一本。右壁沿いの流れがまだ生きてます!」
「そのまま維持」
魔蛇が身をよじった。
黒い身体の表面に、ルナの動きに似た線が走る。だが、さっきの動きは前回と違う。魔蛇は一拍遅れた。完全には読めていない。
そこへ、イリスが一投目の浄砂を放つ。
わざと高い。
わざと見やすい。
白い粒が弧を描き、核へ向かう。
魔蛇は即座に反応した。黒い壁が持ち上がり、浄砂の軌道を塞ぐ。予想通り。白い粒は核へ届く前に黒壁へ呑まれ、じゅうと音を立てて消えた。
《浄砂:囮投擲》
《淀みの魔蛇:防御反応》
《核前方に黒壁を形成》
囮は成功。
だが、魔蛇もそれだけでは終わらない。
黒壁の内側から、人型の影が三つ剥がれ落ちた。
一体は剣士。
ルナの足運びを真似た影。
一体は盾持ち。
俺の護域を真似た影。
そして、もう一体は小柄な支援役に似た影。
胸の奥が、わずかに軋んだ。
来たな。
俺は視線を床へ落とす。
見るな。
追うな。
影は本物ではない。
支援役に似た影は、こちらへ手を伸ばした。
――まだ、見ていてくれますか。
声がした。
前回よりも、少しだけ本物に近い。
音の高さではない。言い方でもない。もっと嫌なところだ。助けを求めながら、同時に自分で立とうとしているような、その揺れ。
淀みは前回の俺の反応から、少し修正してきている。
学習速度が早すぎる。
だが、返さない。
今、俺が守るのは過去ではない。
流路。
白澄砂の線。
ルナ。
白狐。
この場にあるものだ。
「アイズド!」
ルナの声。
彼女は影を見ていない。
俺を見ている。
いや、俺が一瞬止まりかけたことを見ていた。
「問題ない」
俺は答えた。
「本物じゃない」
「はい!」
ルナはそれ以上聞かない。
剣士影が彼女へ迫る。ルナは正面から受けず、白銀の薄光を宿した剣先を影の膝の外側へ滑り込ませた。斬るのではなく、関節の動線を逸らす。影の足が空を踏み、突進の線がずれる。そのまま彼女は一歩下がり、槍のない空間へ身体を抜く。
いい。
斬るより速い。
倒すより、役割を奪う動きだ。
俺は射出形態へ変形した。
《古代変形機装:射出形態》
《変形硬直:発生》
盾持ちの影が、その瞬間を狙って前に出る。黒い盾を構え、こちらの射線を塞ぐ。前回の俺の盾を真似ているくせに、守る対象は核だ。守る形を、淀みが自分のために使っている。
気持ち悪い。
だが、読めている。
《射出形態:使用可能》
《短杭射出:準備完了》
俺は盾持ちの影を撃たない。
足元の白砂を撃つ。
弾丸が床を抉り、白砂が横へ跳ねる。盾影の足元が一瞬だけ白く光り、影の輪郭が薄れる。
《射出形態:短杭射出》
《対象:白砂流路》
《流路衝撃:発生》
《盾模倣体の姿勢崩れ:成功》
「今だ、イリス」
イリスが動いた。
だが、白澄砂はまだ投げない。
二投目に見せかけた通常の浄砂。これも囮だ。
魔蛇は反応した。黒壁の一部を割き、イリスの手元へ黒糸を伸ばす。投げる前に潰す気だ。予想より一手早い。
「ルナ、手元!」
ルナが反応する。
彼女はイリスの前へ直接入らない。そこへ行けば黒糸の本命に絡め取られる。代わりに、イリスの手元へ向かう黒糸の途中、床から少し浮いた位置へ剣を差し込んだ。白銀の光を帯びた刃が黒糸に触れ、糸の軌道が下へ落ちる。
落ちた黒糸を、俺の護域が弾く。
イリスはその隙に通常の浄砂を投げた。
魔蛇はそれを黒壁で防ぐ。
三度目。
魔蛇は、浄砂の軌道に反応している。
なら、本命はもう少し低く、白砂の流れに混ぜる。
「白狐」
俺が呼ぶと、白狐が尾をわずかに光らせた。
ほんの一瞬だけ。
右壁沿いの細い流れが、白く浮かぶ。
魔蛇が反応する。白狐の光へ黒糸が伸びる。
だが、それも見せ餌だ。
白狐はすぐに光を消し、尾を引く。黒糸は空を掴む。そこへルナが剣先を差し込み、黒糸の行き先を護域の端へずらす。護域が弾き、黒糸は焼けて消えた。
流れが開く。
今だ。
「本命」
イリスが白澄砂の容器を開いた。
金色を帯びた白い粒が、彼女の指先から低く放たれる。投げるというより、流れへ置く動き。白澄砂は床の白砂に乗り、光の粒となって核へ向かった。
魔蛇が気づく。
黒い身体が一斉に縮む。
核の前へ壁を作る。
遅い。
俺は護域の対象を切り替えた。
流路ではなく、白澄砂の線。
守る範囲を細く、薄く、ただ一点へ伸ばす。
《守護対象を再定義》
《対象:白澄砂の流路線》
《護域展開:線状》
《警告:不安定な守護対象です》
《警告:過負荷率上昇》
左腕が軋む。
細すぎる護域は安定しない。だが、数秒でいい。
白澄砂の進路を、半透明の鱗が覆う。魔蛇の黒壁がそれを押し潰そうとする。護域が軋む。視界に過負荷の警告が走る。
ルナが前へ出た。
黒壁の端から、彼女の回避先を潰す黒糸が飛ぶ。さっき見せた初動を、魔蛇がまた先読みした。今度はルナも読み返していた。彼女は左へ沈む初動を見せたまま、膝を落とし、剣を下からすくうように振る。白銀の薄光をまとった刃が、黒糸の根元に触れた。斬り裂くのではなく、根元の線を横へ押し流す。
黒糸が、白澄砂の線から逸れる。
その一瞬、護域の負荷が軽くなった。
白澄砂が核へ届く。
黒い核の表面に、金白の粒が触れた。
音はなかった。
ただ、光が走った。
核の内側から白い亀裂が広がり、黒い結晶が大きく震える。魔蛇の身体が通路全体で暴れた。根の壁が鳴り、床の白砂が逆巻く。
《白澄砂による核干渉を確認》
《淀み核:大幅損傷》
《流路侵食率:29% → 16%》
《淀みの魔蛇:形態不安定化》
一気に削れた。
成功だ。
だが、成功した瞬間が一番危ない。
魔蛇は、核を守るために形を変えた。
ーーーーーー
黒い蛇の身体が、ほどけた。
ばらばらになった黒砂が通路いっぱいに広がり、その一部が上へ、壁へ、床へと走る。蛇の形を捨て、流路そのものへ染み込もうとしている。
「蛇をやめたぞ」
俺は盾形態へ戻しながら言った。
イリスの表情が変わる。
「核を削られた魔蛇が、根脈へ散るつもりだ。ここで広がられると第三流路へ届く」
「止める」
言葉は簡単だ。
だが、黒砂は多い。
護域を広げれば過負荷。
広げなければ漏れる。
白狐の光を使えば焼けるかもしれないが、魔蛇に道として覚えられる危険がある。
ルナの剣で全ては捌けない。
守る順番を決めろ。
全部は無理だ。
なら、第三流路へ繋がる線を止める。
「ルナ、右奥の流れだけを見る。第三流路へ向かう黒砂を逸らせ」
「はい!」
「イリス、残りの浄砂を第三流路側へ。核はもういい。広がる方を止める」
「承知!」
「白狐、光は一瞬だけだ。第三流路の入口を示せ」
白狐が鋭く鳴いた。
尾の先が、一瞬だけ白く光る。通路奥、右上の根の隙間。そこに細い流れがある。黒砂がそこへ向かっていた。
俺は護域をその入口へ張る。
対象は流路の境界。
範囲は狭く。
ただ、ここだけを止める。
《守護対象を再定義》
《対象:第三流路入口》
《護域展開:局所》
《警告:黒砂流入圧が上昇しています》
黒砂が護域へぶつかる。
重い。
蛇の形だった時より、圧が分散していて掴みにくい。水を盾で防いでいるような感覚だ。いや、墨汁か。しかも過去の声つきの墨汁。最低である。
その黒い流れの中から、声がした。
――怖いの?
今度は、俺の声ではない。
ルナが反応した。
彼女の足が一瞬だけ止まる。
やはり、来たか。
黒砂の中に、道場の板張りに似た影が浮かんだ。古びた床。木剣のような影。俺はルナの現実を詳しく知らない。だが、彼女の反応だけで分かる。あれは彼女の脆いところに触れている。
影の中から、誰かの声がした。
――また逃げるのか。
ルナの顔から血の気が引いた。
白狐が鳴く。
ルナは白狐を見る。
戻った。
まだ大丈夫だ。
「ルナ、本物じゃない」
俺は言った。
ただし、それ以上は言わない。
助けすぎるな。
彼女自身が戻る必要がある。
ルナは唇を噛んだ。
黒砂が彼女の足元へ伸びる。魔蛇は、彼女が止まった瞬間を狙っている。前回と同じだ。脆いところを見せ、足を止めさせ、その隙に流路へ入り込む。
ルナは一歩、前に出た。
逃げたのではない。
影へ向かったのでもない。
黒砂の流れと、第三流路の入口の間へ入った。
白銀の光が、剣の根元から薄く走る。彼女は大きく振らなかった。剣先を低く差し込み、黒砂の先端を横へ払う。刃に宿った白銀の薄光が淀みの表面を焼き、黒砂の流れをほんの少しだけ逸らした。
その「ほんの少し」が、十分だった。
黒砂は第三流路の入口ではなく、俺の護域へ流れ込む。
護域が受ける。
重い。
左腕が軋む。
《護域過負荷》
《形態維持限界:接近》
分かっている。
「イリス!」
浄砂が飛ぶ。
残り少ない白い粒が、護域に押し止められた黒砂へ降りかかる。黒砂が泡のように弾けた。第三流路へ向かう流れが薄くなる。
だが、魔蛇はまだ終わらない。
削られた核から、最後の大きな黒い塊が剥がれた。
その塊が、今度は明確な形を取る。
ルナに似た影。
白銀の髪を黒く濡らしたような、顔のない少女の影。
それが、ルナと同じ構えを取った。
「私……」
ルナが呟く。
影の剣が、白銀ではなく黒い光を帯びる。
白銀の模倣。
いや、違う。
白銀の形をした淀み。
ルナの脆いところに、ルナ自身の影を被せてきた。
《淀みの模倣体:白銀模倣》
《参照対象:ルナ》
《模倣精度:中》
《注意:接触時、認識干渉が発生する可能性があります》
黒いルナが踏み込む。
速い。
だが、本人ほど自然ではない。白銀の光を真似た黒い刃は、淀みの糸をまとっている。あれに触れれば、今度こそ深く入られる。
「受けるな、避けろ!」
俺が叫ぶ。
ルナは動かない。
一瞬、恐怖で止まったのかと思った。
違った。
彼女は黒い自分の初動を見ていた。
相手は、彼女の回避を真似た影だ。
なら、攻撃にも彼女の癖が混じる。
どこへ届こうとしているか。
どこが本物の線ではなく、淀みが作った見せかけなのか。
ルナは半歩、左へ動く初動を見せた。
黒いルナが、その先へ刃を置く。
読まれている。
いや、読ませた。
ルナはその場で身体を沈め、剣を上からではなく下から滑らせた。白銀の光を帯びた剣先が、黒い刃の腹に触れる。力で打ち合わず、軌道だけを外へずらす。
黒い刃が空を切る。
ルナの剣は、そのまま影の中心へは行かない。
中心を斬れば、深く触れる。
だから彼女は、影の足元へ剣先を落とした。黒い自分と流路を繋ぐ、細い淀みの線。そこへ白銀の光をまとった刃を差し込み、横へ払った。
線が焼ける。
黒いルナの影が崩れた。
「……本物じゃない」
ルナが小さく言った。
声は震えていた。
だが、返事ではない。
確認だ。
「私は、そっちじゃない」
影は黒砂となって散った。
魔蛇の核が、また大きく震える。
《模倣体の維持に失敗》
《淀み核:不安定化》
《流路侵食率:16% → 14%》
下がった。
だが、まだ核はある。
そして、白澄砂はもうない。
浄砂もほとんどない。
魔蛇は弱っているが、消えてはいない。
核の黒い亀裂の奥で、何かがうねった。
さっきまでの蛇ではない。
もっと小さく、もっと濃いもの。
魔蛇が最後に残した、本当の芯。
イリスが息を呑む。
「核の内側に、淀みの芯がある」
「外殻だけ削ったか」
「だが、かなり弱っている。今なら封じられる」
「どうやって」
イリスは言い淀んだ。
その沈黙だけで、嫌な予感がした。
白狐が一歩前へ出る。
尾が白く光る。
「白尾さまの光で芯を焼く気だ」
イリスが言った。
「だが、それをやれば、魔蛇は白尾さまの光をさらに深く覚える」
白狐は振り返らなかった。
自分がやるしかないと思っているのだろう。
頑固な狐だ。
「待て」
俺は言った。
白狐の尾が止まる。
「まだ手はある」
「白澄砂はもうない」
イリスが言う。
「浄砂も残りわずかだ」
「ああ。だから、焼くんじゃなくて、流す」
俺は核の位置を見る。
白澄砂で外殻を割った。
ルナが模倣体との線を断った。
侵食率は一四%まで落ちている。
淀みの芯は、まだ流路にしがみついているが、魔蛇としての形は崩れた。
なら、ここで消し切るのではなく、根の本流から切り離す。
流れを戻せば、芯は沈む。
セレンが言っていた。淀みは本来、沈むものだ。根の底に澱み、浄砂と白尾の光で少しずつ薄める。
なら、今やるべきは完全消滅ではなく、魔蛇化の解除。
「第三流路を守る。第二流路の本流を戻す。芯を根の底へ沈める」
「できるのか」
「やる」
言ってから、少し笑いそうになった。
根拠は薄い。
だが、盤面は見えた。
次の一手で決める。
「ルナ、最後にもう一度、黒い線を逸らせるか」
ルナは息を整え、頷いた。
「できます」
「イリス、残りの浄砂を芯の後ろへ。押し込むんじゃない。逃げ道を塞ぐ」
「承知」
「白狐、お前は光るな。尾で本流だけ示せ」
白狐が不満げに鳴く。
「頼む。今は焼くより、流す」
しばらくの沈黙。
白狐は、渋々尾を下げた。
分かってくれたらしい。
俺は盾形態を構え、護域を展開する。
守る対象は第三流路ではない。
第二流路の本流。
流れそのもの。
白砂が進むべき道。
《守護対象を再定義》
《対象:第二流路本流》
《護域展開:線状》
《守護系統評価:上昇中》
そこへ護域を細く沿わせる。黒い芯が嫌がるように震えた。ルナが横へ入る。白銀の薄光を帯びた剣先を、黒い芯から伸びる最後の糸へ差し込む。
斬らない。
力で押さない。
ただ、進路を変える。
黒い糸が、本流から外れる。
イリスの浄砂が後ろへ落ち、芯の逃げ道を塞ぐ。
白狐の尾が、光らずに本流の向きを示す。
俺は護域を一気に絞った。
白砂の流れが戻る。
淀みの芯が、本流から剥がれた。
黒い塊は一瞬だけ宙に浮き、何かを言おうとした。
声にはならなかった。
次の瞬間、根脈の底へ沈むように、黒い芯は白砂の下へ落ちていった。
《淀みの魔蛇:形状崩壊》
《流路侵食率:14% → 6%》
《根系流量:回復中》
《淀み核:沈降》
《特殊クエスト更新:淀みの魔蛇を祓え》
《目的達成:魔蛇化を解除しました》
《注意:淀みそのものは完全消滅していません》
完全討伐ではない。
だが、魔蛇化は解いた。
第二流路に、白砂の音が戻り始めた。
ーーーーーー
誰もすぐには動かなかった。
通路に、さらさらと白砂の流れる音が戻っていく。
さっきまで黒い蛇が絡みついていた壁にも、青白い根の光がゆっくりと走り始めた。まだ完全ではない。ところどころ黒い染みは残っている。だが、都市の血流は止まっていない。
ルナがその場に座り込んだ。
俺は一瞬慌てたが、彼女は手を上げる。
「大丈夫です。ちょっと、力が抜けただけです」
「黒い影に触られたか」
「触られてはないです。たぶん。でも、声は聞こえました」
「返したか」
「返してないです」
「ならいい」
そう言ってから、俺は少しだけ迷った。
「何を言われた」
ルナは膝の上で手を握った。
「また逃げるのか、って」
「そうか」
「意味は、分かります。でも、今は言えません」
「言わなくていい」
俺がそう答えると、ルナは少しだけ安心したように息を吐いた。
「でも、いつか対策します」
「そうしろ」
「はい」
イリスが流路の状態を確認する。
「魔蛇化は解けた。芯は根の底へ沈んだ。だが、淀み自体は残る。長の浄化が必要だ」
「当面は?」
「第三流路への侵食は止まった。外縁訓練環への滲みも収まるだろう」
「なら、成功でいいか」
「成功だ」
イリスは短く言った。
フェネキア族の評価としては、最大級の褒め言葉かもしれない。
白狐が近づいてきた。
尾先で俺の左腕を軽く叩く。
「何だ」
白狐はふいと顔を逸らした。
たぶん、礼ではない。
礼っぽい何かを、礼とは認めたくない顔だ。
「お前も頑固だな」
尾で叩かれた。
物理的に。
意外と痛い。
ルナが少し笑った。
笑えるなら、大丈夫だ。
俺は左腕の機装を見る。
ログがまだ残っている。
《守護対象:根系流路》
《護域展開:線状》
《守護系統適合率:大幅上昇》
《補助系統評価:上昇》
《正式形態解放条件は未達成》
「また未達成か」
思わず呟く。
ルナが覗き込む。
「でも、大幅上昇って出てますよ」
「出てるな」
「なら、前進です」
「前向きだな」
「アイズドが言ったんですよ。足りないものが見えてるだけましだって」
「言ったか」
「言いました」
自分の言葉は、たまに返ってくる。
厄介だが、悪くない。
第二流路の奥で、黒い染みがゆっくり薄れていく。
淀みは完全には消えない。
脆いところも、消えない。
ただ、流れから切り離し、沈めることはできる。
たぶん、人の中の過去も似たようなものなのだろう。
消えない。
なかったことにはならない。
だが、今の流れを飲ませないようにすることはできる。
白砂の音を聞きながら、俺はそんなことを思った。
そして、少しだけ笑った。
「アイズド」
ルナが言う。
「今度は、楽しそうです」
「気のせいだ」
「でも、ちょっと分かります」
「何が」
「倒したんじゃなくて、流したんですよね。だから、なんか……勝ったというより、戻した感じがします」
「そうだな」
戻した。
その表現は、悪くない。
俺たちは魔蛇を倒し切ったわけではない。
だが、根脈の流れを戻した。
白狐が先へ歩き出す。
帰る合図だ。
俺たちは第二流路を後にした。
背後には、まだ薄い黒が残っている。
けれど、その下で白砂は確かに流れていた。
今は、それで十分だった。




