【17】振り向かせたい人
灰色騎士団本部である燃え滓邸の食事は、準職員であるモラン夫人と、十三歳の少年ノアの二人が用意している。
二人とも、歩く呪いではなく一般人で、それぞれ事情があって、この燃え滓邸に身を寄せていた。
そんな準職員のノアは、夕食の肉団子のシチューの味見をし、鍋を火からおろす。
料理の味付けは大体モラン夫人がするのだが、今日は珍しく任されたのだ。
『ほら、あの子……テオさん、肉団子のシチューが好きらしいの。それなら、若い方の舌に合わせた方が喜ばれるでしょう』
テオの名前を出されると、ノアは一瞬戸惑い、そして思い出す。
そうだ、〈忘却〉の呪いの人だ、と。
新入りのテオは、周囲の人間から認識されにくくなる呪いを常時撒き散らしているらしい。ただ、この力は歩く呪いや加護持ちには効かない。
なので、燃え滓邸だと、準職員のノアとモラン夫人、それと外部の人間であるアーチボルドが影響を受ける。
ただ、完全にテオのことを忘れてしまうわけではない。壁にテオの名前を書いた紙を貼っているし、毎日顔を合わせているので、記憶は多少定着している。
今のノアにとって、テオという少年は「自分が属する集団の中で、一番影の薄い存在」だ。
ノアは学校に通ったことがないが、同じクラスの一番影の薄い奴、というのが近いかもしれない。
(……変な感じだ。あの人、決して影が薄いわけじゃないのに)
同じ屋根の下で過ごせば分かるが、テオは挨拶の声が大きいし、燃え滓邸の人間と積極的に交流をする。食堂の手伝いをすることもある。
金髪翠眼という容姿も含めて、本来なら人の記憶に残るような存在なのだ。
それでも、呪いの力で存在を忘れられてしまう。
だから、モラン夫人はテオの好物を聞き出し、肉団子のシチューを拵えたのだ。この料理を作れば、テオのことを思い出すように。
味付けをノアに任せたのは、ノアがテオを覚えやすくするためでもあるのだろう。
(……忘却、か)
怖い力だな、と思う。
自分に都合が悪い口約束を反故にしたり、犯罪の証拠を抹消したり、少し悪知恵を働かせれば、いくらでも悪用できる。
この能力に選ばれたのが、善良でお人好しなテオであったのは幸いと言えるだろう。
(味付け、こんなものかな)
塩で味を整え、鍋を火から下ろしたところで、ノアは勝手口の方から聞こえる物音に気づいた。
モラン夫人は団長にコーヒーを届けに行っているところだから、彼女じゃない。
(ということは……)
勝手口の扉を開けると、すぐそばの壁にもたれて座り込んでいる、ピンクがかった髪の女がいた。灰色騎士の一人、ロゼだ。
大方、勝手口から入り込んで酒を持って行こうとしたけれど、ノアがいたからそれもできず、ここでウロウロしている内に力尽きたのだろう。
「ロゼさん、またですか?」
ノアが辛辣に告げると、ロゼはノロノロと顔を上げた。
「……あ……うぅ……酒……」
酒精に淀んだ目はノアを映していない。あの日から、ずっと、ずっと。
ノアは苛立ちを隠さず、ロゼに侮蔑の目を向けた。
「そんな有様で、恥ずかしくないんですか?」
途端にロゼの顔がくしゃくしゃに歪む。叱られた子どものように。
ロゼは膝を抱え、俯き嗚咽を漏らした。
「うー、うぅ……うー……シャルルぅ……うぅー……」
なんて情けない人だろう、なんてみっともない人だろう、なんて惨めな人だろう。
(そんな人を振り向かせたい僕が、一番惨めだ)
ノアは勝手口の扉を押さえ、いくらか棘を引っ込めた声で言う。
「……入ったらどうです。お酒はありませんからね」
「うぅ……」
ロゼはグスグスと鼻をすすりながら中に入り、作業用の椅子にペタンと座り込む。
ノアは黙々と茶を淹れた。急に、留守中の灰色騎士達に茶を振る舞いたくなったのだ。ロゼはついでだ。
「どうぞ」
ノアはティースプーン一杯分の砂糖を紅茶に溶かして、ロゼのそばにおく。
ロゼは慎重に両手でカップを持ち上げ、チビチビと甘い紅茶を飲んだ。彼女は甘い飲み物を一気に飲んだりしない。大事に大事に飲む。
ロゼは腫れぼったくなった目でノアを見た。
「やっぱり、ノアは優しいな……」
「……別に。他の皆さんに持っていくので、そのついでです」
ノアは盆にティーポットとカップを載せ、スタスタと厨房を出ていく。
現在、レイエル聖区に行っているテオ、ヒューゴ、アーチボルドは留守。JJにはモラン夫人がコーヒーを届けに行っているから不要。
となると残りは、カルラ、ベリル、ガートルード、ハルク、の四人。
どうせ誰かしら談話室にいるだろう、と足を運ぶと、留守中の四人全員が談話室のテーブルを囲っていた。
ついでに、白い毛玉も床をコロコロと転がっている。
「紅茶を淹れたんですが……ブリーフィング中ですか?」
ノアが声をかけると、左目に厳つい片眼鏡をした暗い茶髪の女、ガートルードが首だけを捻ってノアを見た。
「やぁやぁ、ノア君。私にコーヒーはないのかね?」
「ガートルード先生はコーヒーばかり飲み過ぎです」
「ちぇ」
薄ら笑いを浮かべたまま、子どもみたいなことを言う。多分三十歳は過ぎているだろうに、よく分からない女性だ。
ガートルードは紅茶のカップを片手に、床に転がる毛玉に「レニー君も飲むかね?」と声をかける。白い毛玉ことレニーは、ガートルードを嫌がるみたいに、「めうぅ」と鳴いてベリルの方に逃げた。
ノアは毛玉を踏まないように気をつけながら、ベリルとハルクのそばにもカップを置く。
「おー、ありがとー」
「ありがとな、ノア坊」
褐色の肌のベリルとハルクは、おそらく南方出身なのだろう。特にハルクは牛の乳を飲まないから、そういうことだと思うが、ノアはあえて何も言わない。
いずれにせよこの二人は、燃え滓邸の中では比較的、接しやすい性格である。
最後にノアは、白髪を二つ結びにした少女カルラのそばに紅茶を置いた。
不老不死の呪いをもつカルラは、この燃え滓邸における最古参だ。
ノアが知る限り、カルラという少女はいつもぼんやりしていて、話しかけてもろくに反応がないのが常だった。
ところがカルラはノアの顔をじっと見て、小さい声で「……ありがとう」と礼を言う。
礼を言われたことはあるが、以前より相手の顔をしっかりと見ている感じがする。多分、テオが来てからだ。
「皆さん、何を読んでいるんですか?」
ノアが訊ねると、カルラが表紙が見えるように本を掲げ、タイトルを読み上げた。
「『呪魔の生態 〜教えて、呪魔博士!〜』」
著者は、まさかのガートルードであった。
閉口するノアに、ベリルが巻きスカートの下で足を組み替えながら言う。
「ガートルード先生の呪魔への愛が、たっぷりみっちり詰まってる本だよ。ただ、実用的なことも書いてあるから、馬鹿にできなくてさー」
「うふふ、愛情とはえてして気持ち悪いものだよ。ネッチョリドロドロさ。その気持ち悪さと本の重さが、私の呪魔への愛の重みというわけだねぇ」
「はいはい、ガートルード先生は重い女だなー」
ガートルードとベリルのやり取りを半ば聞き流していたノアは、スキンヘッドの大男──ハルクだけ、本ではなく紙の束を見ていることに気がついた。
ノアがじっと紙を見ていると、ハルクがそれをノアに差し出す。
「こっちはノア坊も目を通しとけ。テオ坊の〈忘却〉の呪いを、調べてまとめたものだ」
ノアは盆をテーブルに置くと、紙の束を受け取る。
どうやら、ガートルードがテオの〈忘却〉の呪いについて、自らを被検体として調べたらしい。
それによると、テオの〈忘却〉の呪いは、力が弱いが常に発動している〈常時忘却〉、一時的に我を忘れさせる〈忘我〉、任意の記憶を忘れさせる〈指定忘却〉の三つが確認されている。
そして、その効果対象は……。
(〈指定忘却〉は、歩く呪いにも有効……)
ノアはコクリと唾を飲む。
これは重要なことだ。覚えておかなくては。絶対に。
紙に書いてある文字をノアが必死で頭に叩き込んでいると、扉から紙袋を被った頭が現れた。灰色騎士団団長JJである。
「あー、みんな揃ってるー? 良かった。いや良くないんだけど……」
紙袋を被った団長は、頼りない口調で言う。
「実はアドコック研究所から連絡があって……すごい面倒なことになっちゃったみたい」
アドコック研究所と言えば、表向きは軍事研究所扱いだが、その実態は呪魔を研究する施設である。
ガートルードがつい最近まで滞在していたのも、ここだ。
呪魔研究所からもたらされる面倒事──ろくでもないことだ、とこの場にいる全員が察した。
その時、JJの背後で足音が響く。酒に酔っている時とは違う、しっかりした足音。ピンクがかった髪が揺れる。
「……仕事か? 仕事をくれよ、団長」
JJの後ろから姿を現したのはロゼだった。
いつも酒に酔ってグニャグニャになっている彼女だが、真っ直ぐに立つと、痛々しいほど痩せた体と背の高さが際立つ。
ロゼは笑った。背筋が凍るような、破滅的な笑みで。
「……暴れさせてくれ。アタシをシャルルと踊らせてくれ。そのためなら呪魔でもなんでもぶっ殺してやる」
ドロリと澱んだ目の奥で、破壊衝動がチカチカと瞬いている。
ノアは小さく震えながら、手にした紙を握りしめた。そこに記されているのは、テオの〈忘却〉の力の詳細。
(〈指定忘却〉……これを使えば……)




