【5】健気で哀れな生き物
「それは、君が自分自身に忘却をかけた、という可能性はないかね?」
テオは息を呑んだ。そんなこと考えもしなかったのだ。
……だが、確かにそれは、とても理に適っている。
五年前、まだ幼かったテオは、その時点で忘却の呪いを持つ歩く呪いだった。
(当時の僕は、皆に忘れられるのが辛くて、逃げ出したくなって……自分自身に、全てを忘れるよう呪いをかけたんじゃないか?)
自分はそんな弱い人間じゃない、と騎士らしく言いきれたら、どんなに良かっただろう。
だけど、テオは自分の弱さを自覚している。
知らない人を見る目で見られるのが怖かった。人に忘れられるたびに傷ついた。名前を呼ばれるだけでホッとしてしまうぐらい、テオは不安だった。
(呪いのことを知らなければ、まだ頑張れたんだ……)
元気に挨拶をすれば、良い子でいれば、人の役に立てば、親切でいれば、騎士になれば……いつかきっと覚えてもらえる、と頑張ることができた。
だから、自分が忘却の呪いを抱えていると知った時、全部無駄だったと知って、心が折れそうになった。
(ローレンス家の人達が加護持ちで僕に普通に接してくれたから……あの日、出会ったエルバート様が僕を励ましてくれたから、灰色騎士として頑張るぞ、って立ち直れたけど……五年前の僕は、立ち直れなかったんじゃないか?)
五年前の自分は、世界から忘れられて絶望してしまったのだろうか。
そうして忘れられた事実すら忘れたいと願って、自分を呪って……。
「めうっ」
その時、ポケットから白い毛玉がポロリと零れて、椅子に座るテオの膝に落ちた。
毛玉はテオの腕をよじ登り、肩の上に移動すると、ふわふわボディをテオの頬にグリグリ押し付ける。
「めふっ」
「レニー?」
落ち込むテオを、励ましてくれているのだろうか。
テオがレニーのふわふわを享受していると、ガートルードが瞬きをした。
「おや、これは奇怪な生き物だねぇ」
「テオの使役体だよ。初めての呪装顕現の時に出てきて、それ以来、ずっと一緒にいるんだ」
ベリルの説明に、ガートルードが「ほぅ」と興味深そうな声を漏らした。
テオはまだ、レニー以外の使役体を見たことがないが、使役体とは本来、赤黒く、そして呪装顕現が発動している間しか存在しないと聞いている。
レニーのように、白くてふわふわで気の抜ける声で鳴く、ウサギだかネズミだか分からない謎の毛玉は前例がないのだ。
ガートルードは両手でレニーを掴むと、その全身をまさぐった。
「四肢がここ、口はここ、耳がここで……ほうほう、尻尾もあるのか。どれ、肛門は……」
次の瞬間、ガートルードの手の中から白い毛玉がポーンと飛び出し、天井にぶつかり、壁にぶつかり、棚にぶつかり、最後はテオの膝の上に芸術的に着地した。
「めふっ」
心なしか得意気な毛玉に、ベリルが口笛を吹き、ガートルードは拍手をする。
「推定筋肉量からは想像できない動きだ。ちょっと解剖して良いかね?」
「や、やめてくださいっ、レニーは……その、多分ですけど、何回も顕現できるものではないんですっ」
テオがレニーの顕現に成功したのは最初の一回きりだ。二匹目以降のレニーは出てきたことがない。
ベリルがテオに訊ねた。
「そういや、レニーって引っ込めることはできないんだっけ?」
「はい。顕現した剣や盾は消せるんですけど……レニーは何故か消えないんです」
剣や盾は顕現を続けているとテオが消耗するのだが、レニーに関してはそういったこともない。
なので、レニーは最初に姿を現した日から今日に至るまで、ずっとテオのそばで誇り高き毛玉としてコロコロ転がっている。
ガートルードは左目を細め、テオとレニーを交互に見た。
「君の心臓も、このレニー君という使役体も、私の左目には真っ黒に見えるねぇ……なるほど、君の呪いが心臓にあることも、この白い毛玉が呪いであることも事実のようだ」
同じことをJJも言っていた。
おそらくレニーは、極めて規格外な存在なのだろう。
「私は使役体とは疑似生命体だと認識しているが、レニー君はそうは見えない。呪いでできた生物は、呪魔とどう違うのだろうねぇ。実に呪魔好きの心をくすぐる存在じゃないか」
「……ガートルード先生は、どうして呪魔が好きなんですか?」
テオには呪魔が好きという気持ちが理解できない。
呪魔は侵略者だ。他生物を取り込み、人間を苗床にする危険な存在だ。
困惑するテオに、ガートルードは笑いかける。
「呪魔は生物を取り込んで姿を真似るが、人間だけは取り込めないんだ。人間が大好きで、人間を求めずにはいられない。だけど人間にはなれない……そんな健気で哀れな生き物だと思うと、愛しくなってこないかね?」
確かに、呪魔は人間に執着するが、それは個体を増やすための苗床に必要だからだ。
テオは呪魔の行動に、何らかの感情を感じたことはない。そもそも、呪魔にどれだけの知性があるというのか。
「すみません……僕にはよく分からない、です」
「それなら、これをあげよう。出来立てホヤホヤなんだ」
ガートルードは机の引き出しを開けると、一冊の冊子を取り出し、テオに差し出した。
タイトルはズバリ、『呪魔の生態 〜教えて、呪魔博士!〜』。
「呪魔の基本的な生態や、過去に現れた呪魔の実例を呪魔博士のガートルード先生が優しく解説してくれるという本だよ。ここに、私の呪魔に対する愛が詰まっている。是非とも持って行きたまえ」
テオは冊子を受け取ると、恐る恐るページを捲ってみた。
内容は子どもでも分かりやすい噛み砕いた説明から、専門的な解説まで、どんな読者層を想定しているのかがよく分からない本である。
ただ、呪魔と戦う灰色騎士や聖騎士にとっては、間違いなく有益な一冊だ。
例えば、呪魔の武器である尾刺棘を切断した場合、呪魔はこれを優先的に再生する。
その時間は個体差によりけりだが、速いものでおよそ十秒。また、再生した際に尾刺棘の部位を変える個体もある──という解説は、戦闘時における尾刺棘を切断するか否かの判断に役立つだろう。
他にも、呪魔の寿命がいまだにはっきりしないこと、ただし推定百年以上は生きるので、歩く呪いは自身を呪った呪魔が寿命で死ぬのを期待するのはやめた方が無難、などなど。
(すごい。有益な情報がいっぱいだ……ただ……)
その本の中で、ガートルードは呪魔のことを悍ましき侵略者として扱ってはいなかった。
テオには理解できない、呪魔に対する愛情すら感じられた。
冊子から顔を上げると、ガートルードと目が合う。
透明なレンズの向こう側では、赤黒く輝く左目がテオとレニーをねっとりと見つめていた。
「今後も、呪いや呪魔について、もっと詳しく知りたくなったら、私のところへ来たまえ。私は子どもが大好きなんだ…………呪魔の次にねぇ」
最後の一言で全てが台無しだった。




