【3】初めまして、そしてさようなら
テオはキノコ全般が好物である。スープやパスタに入っていると幸福度が上がるし、潰し焼きのパンの中でも一番好きな具はキノコだ。
新鮮なキノコはジュワッと焼いただけで歯ごたえも良く美味しいし、じっくり干して旨みを凝縮させた物も良い。
そして今、早朝訓練を終えたテオは、モラン夫人お手製のキノコとオリーブのオイル漬けに感動していた。
細かく刻んだキノコとオリーブを、ハーブやガーリックで風味づけしてオイルに漬け込んだ物で、カリカリに焼いたパンにのせて食べるととても美味しい。これならパンが何枚でも食べられそうだ。
「モラン夫人、これ、すっごく美味しいです! 僕、キノコが好きで……!」
「まぁ、それは良かった」
灰色騎士団準職員のモラン夫人は、白髪混じりの金髪をまとめた上品な女性だ。同じ準職員であるノア少年と共に、燃え滓邸の家事全般を担っている。
そんな彼女は、戸棚の隅から一冊のノートを取り出すと、そこに文字を書き込んだ。
『テオさん→キノコとオリーブのオイル漬け』
どうやら、好物を記録しているらしい。
テオは食べる手を止めて、モラン夫人を見た。
「記録……してくれて、いるんですか?」
忘却の呪いを抱えるテオは、一般人の記憶に残りづらい存在である。
故に、モラン夫人やノア少年、アーチボルド管理官などは、壁に貼った『この顔に、ピンときたら忘却のテオ』というポスターを確認していた。
このノートもその一環かと思いきや、違うらしい。
「ふふ。これは以前からですよ。忘却の呪いがなくても、人は忘れる生き物ですから」
そう言ってモラン夫人は、テオにも見えるようにノートを広げた。
そこには灰色騎士達の好き嫌いや、体質に合わない食べ物などが記録されている。
このメニューの一つ一つに、テオの知らない思い出があるのだろう。
「貴方の呪いがなかったとしても……ごめんなさいね、きっと私は、色々忘れてしまうわ。もう、おばあちゃんですもの」
忘却の呪いを抱えるテオは、覚えてもらうことに執着する。
だけど、テオの呪いに関わらず、人は忘れる生き物なのだ。それをテオは残酷だとは思わなかった。
モラン夫人は皺だらけの指で、レシピの文字をそっとなぞる。
「この料理をどこで教わったか、誰と食べたか、誰が好きだったか。そういう思い出を忘れてしまっても……不思議ですね。作り方や味付けは、ちゃぁんと手が覚えているんですよ」
モラン夫人が顔を上げて、テオを見た。
その目を細めて、テオの顔を記憶に焼き付けるみたいに。
「私は、いつかテオさんのことを忘れてしまうかもしれないけれど……貴方の好きなお料理は作ってあげられる。私がいなくなっても、このレシピを見れば、他の誰かが作ってくれる。そうやって、忘れられてしまっても、人の中に何かが残っていくんですよ」
テオにとって忘却は恐ろしいものだが、本来、忘却とは自然なものなのだ。
テオは忘却に抗う身だが、モラン夫人の在り方にちょっとした感銘を受けた。
(忘れてしまっても、残るものはある……)
僅かに胸が疼いた。テオは服の胸元を押さえて、ノートの文字を目で追う。
記録の中には、テオの知らない名前もあった。
西の最果ての戦線に出向いている者か、或いは殉職した者か。
ふと気になって、テオは訊ねる。
「モラン夫人は、ここに勤めて長いんですか?」
「そうですねぇ、もう九年だったかしら……この中では古株かもしれませんね」
モラン夫人は歩く呪いではない、一般人である。
そんな彼女が、燃え滓邸で十年近く働き続けているのには、どんな事情があるのだろう。
テオはノートの文字を目で追いながら、頭の隅で考える。
柔らかな字体、灰色騎士達の体調を考慮したメモ書きも、優しさに満ちていて、モラン夫人の人柄を思わせた。
その時、食堂に砂色の髪に褐色の肌の女──ベリルがやってきた。ベリルはテオを見ると、ヒラヒラと片手を振る。
「おーい、テオー。おねーさんと、ガートルード先生に会いに行こうぜー」
ガートルード。ノートにもあった名前だ。名前の横には、コーヒーの飲み過ぎに注意、と書いてあった。
モラン夫人がおっとりとテオに言う。
「ガートルードさんは、燃え滓邸の医務室担当なんですよ。中央部の研究施設にも、よく顔を出していらっしゃいます」
「えぇと、お医者様……なんですか?」
テオの言葉に、モラン夫人が困ったような顔をした。ベリルも何故か苦笑している。
「人間より呪魔にメスを入れた回数が多いんじゃないかなー」
いきなり不穏な情報である。
硬直するテオに、ベリルは殊更明るい口調で言った。
「まぁ、会ってみれば分かるよ。おねーさんも同行するからさ」
* * *
「やぁやぁ、テオ君。初めまして、そしてさようなら」
まるで、これから相手を殺す暗殺者のような台詞を口にしたのは、薄ら笑いを浮かべている三十代半ばほどの女だ。
灰色騎士の制服の上に白衣を羽織り、暗い茶髪を適当にまとめている彼女の名はガートルード。灰色騎士団の団員である。
彼女は左目に、複数のパーツがついた物々しい片眼鏡をしていた。片眼鏡は黒いレンズで、レンズの向こう側はよく見えない。
固唾を飲んで立ち尽くすテオの肩を、ガートルードがポンと叩く。
「それでは早速、私に君の忘却をかけてくれたまえ」
「色々と、いきなりすぎませんか!?」
「相変わらず飛ばしてるなぁ、ガートルード先生は」
叫ぶテオの後ろで、ベリルが医務室の椅子を勝手に引っ張り出しながら言う。
ガートルードはテオに椅子を勧めると、自身はその真向かいに座った。
医務室は何度か入ったことがあるが、簡素なベッドが三つ並ぶ、清潔感のある部屋だ。
壁際には書類棚の他に、鍵のかかった薬品棚、衛生用品が入った棚がきちんと並んでおり、整理整頓が行き届いている。
「さて、私の行動が些か突飛に思えるかもしれないが、これには理由がある」
ガートルードはゴテゴテした片眼鏡を指先で押さえ、薄ら笑いを浮かべたまま言った。
「君のことはアーチボルド管理官から聞いている。君は既に自身の能力について、幾らか検証したようだね?」
「はい。〈忘我〉と〈指定忘却〉のみですが……」
「そう、君の忘却能力は大きく分けると、一般人が君のことを忘れてしまう〈常時忘却〉。そして、任意発動の〈忘我〉と〈指定忘却〉の三つだ」
ガートルードは机に紙を広げて、〈常時忘却〉〈忘我〉〈指定忘却〉の文字を書き込む。
〈常時忘却〉は、テオが歩く呪いとして覚醒する前から見られた。
加護持ちと歩く呪いを除くテオの周囲の人間が、テオを覚えづらかったり、すぐに忘れたりしてしまう現象だ。常時発動というよりは、ほぼ制御できず力が垂れ流しであるとも言える。
任意発動の〈忘我〉は、対象に我を忘れさせる。いわゆる「ここはどこ、私は誰?」という状態にして、敵の行動妨害をするものだ。これは呪魔にも有効である。
そして最後の〈指定忘却〉。これは、特定の記憶を奪うことができるが代償が大きい。
「君は既に一般人の協力を得て、〈指定忘却〉の検証をしている。特定の記憶を奪った場合、相手は君のことを完全に忘れてしまう──合っているね?」
「……はい」
テオはベリル立ち合いのもと、一緒に訓練している軍人に頼み、朝食の内容を忘れさせる、という簡単な検証をしている。
結果、特定の記憶を奪うことに成功し、その軍人はテオのことを忘れてしまった。
まだ試していないが、〈忘我〉でも同じことになるだろう、という確信がある。一般人は、テオの忘却の呪いに耐性がないのだ。故に、テオの呪いに触れただけで、テオの存在を忘れてしまう。
「では、任意発動である〈忘我〉や〈指定忘却〉を歩く呪いにかけたらどうなるか。検証したことはあるかね?」
「それは……っ」
テオは無意識に膝の上で拳を握った。
絞り出す声は、苦い。
「……やってない、です」
「何故やっていないのか? それは、君が親しくなった相手に忘れられるのが辛いからだ」
「……そうです」
テオは既に、この燃え滓邸で出会った人々を好きになってしまっている。
おおらかな団長のJJ、面倒見の良いベリル、不老不死のカルラ、意地悪なヒューゴ、酔っ払いのロゼ、落ち着きのある大人のハルク──困った人もいるけれど、それでも既に交流を重ねているのだ。
歩く呪いにテオの〈常時忘却〉は効かない。
だが、〈忘我〉や〈指定忘却〉をかけることで、テオのことを忘れてしまったら? それがテオは怖かった。
ガートルードはガリガリと紙にペンを走らせながら、流暢な口調で語る。
「歩く呪いに、〈忘我〉と〈指定忘却〉が有効か? そして、代償に君のことを忘れてしまうのか? この二点は早めに把握するべきだ。そこで、歩く呪いである私が、君の能力検証に協力しようと思う……が」
ガートルードは言葉を切ると、ペンを握ったまま己の体を抱きしめる。
「こうして会話をしている内に、君が私に恋慕を抱いてしまったら……おぉ、なんという悲劇だ。君は私を愛してくれたのに、私は君のことを何一つ覚えていない」
「えー……と……?」
流石に恋慕は無理があるので、ちょっぴり肯定的じゃない相槌が出てしまった。
何を言ってるんだろう、この人は。という目をするテオに、ガートルードはニタリと笑った。
「だから、私達の仲を深める前に検証を済ませたい、ということだよ。分かってもらえたかね?」
テオの後ろでベリルがボソリと突っ込む。
「すごいなぁ、ガートルード先生。一見合理的なのにツッコミどころ満載じゃん」
テオは考えた。これは、ガートルードなりの優しさなのではないだろうか。
テオは、少しでも親しくなった相手から忘れられると傷つく。
だから、ガートルードはなるべくテオが傷つかない形での検証を提案してくれたのだ。しかも、自身が体を張って。
そう考えると、ガートルードに対する感謝の念が込み上げてくる。どうしよう、もう忘れられたら悲しくなりそうだ。
「いやぁ、しかし、自分の身でこんな貴重な体験ができるなんて、実に嬉しいねぇ、うふふふふふ」
ガートルードの笑みが深くなる。薄ら笑いから、どこか恍惚とした笑みに。
今更テオは気づいた。この人、片眼鏡をしていない方の目は隈が浮いているし、若干血走っている。
「私は呪魔が大好きだからねぇ。その呪魔の呪いを直に体験できるなんて、嬉しいじゃあないか」
「え」
硬直するテオに、ベリルが真顔で言う。
「嘘じゃないぞ。この人、捕獲した呪魔の尾刺棘を自分の左目にブッ刺したんだ。筋金入りの呪魔フリークだよ」
「え」
テオは思わず、ガートルードの左目──ゴテゴテした片眼鏡を凝視した。
ガートルードは口の両端を吊り上げ、両腕を広げる。
「さぁ、検証を始めよう! このやりとりの記録は、ベリル君が預かっていてくれたまえ」
「あーなるほど。ガートルード先生がテオのことを忘れたら、これを見せれば良いわけか」
「理解が早くて助かるねぇ」
ガートルードはテオの顔を覗き込むと、細長い指でテオの頬を包み込んだ。
こちらを見下ろす青白い顔は、夢に出そうな笑顔だ。
正直、テオの方が忘れたい。
「今の私が君を忘れた時のために、予め言っておくよ──さようなら、テオ君」
なるほど、それが第一声の「初めまして、そしてさようなら」の真意であるらしい。なんだか哲学的だ。
「忘却とは一つの別れだ。寂しいねぇ、でも寂しくないよ、また出会えるからね、うふふふふふ」
前向きな発言なのに、どうしてこんなにも背筋が冷えるのだろう。とテオは思った。




