【16】ひとりぼっちのクワイア
「『呪装顕現──聖歌の奉仕を』」
夜空を仰ぐヒューゴの外出用首輪の下、喉の呪印から赤黒い呪いがドロリと溢れ出す。
それはたちまち彼の体を包み込み、聖歌隊の正装であるガウンになった。呪印から滴り落ちる呪いをヒューゴは指先で掬って、ペタリと頭に貼りつける。こちらは帽子だ。
帽子を押さえる指を離した時、ヒューゴの表情が明確に変わった。
いつもは捻くれた態度で、自分は意地悪ですと顔中に書いてあるような表情をしているのに、今の彼は静謐で、どこか厳かさすら感じられる。
前を見据える目の奥には、他の灰色騎士が呪装顕現をする時同様、赤い輝きが宿っていた。
テオはコクリと唾を飲む。
(……これは、典礼を執り行う聖職者の顔だ)
ヒューゴが口を開く。空気を震わす歌声が響いた。
「『──神は天使を遣わし給う。民に糧を与え、苦しむ者を癒し、その雷をもって悪を退ける』」
ソプラノの透き通った高音とも、テノールやバスの力強さとも違う、カウンターテナーの歌声は優しい響きだ。
長く伸ばす高音は砂糖の粒より細かく震え、繊細な変化をもって歌を更に展開していく。
(なんて柔らかな声だろう、なんて豊かな歌声だろう)
普段は悪態と皮肉ばかりついて出る口が、舌が、こんなにも繊細な歌を紡ぐなんて。
何か一つ優れたものを、そうテオが口にした時、ヒューゴが激怒した理由が今なら分かる。
この歌声は他の全てを犠牲にして磨き上げないと手に入らない技術だ。そういう至高の領域にある歌声だ。
彼の歌声は、目に見える世界すらも変えるかのようだった。
風に揺れる麦畑の匂い、頬に当たる夕暮れ時の風、沈みゆく夕日の儚さ、一番星の輝き──世界の美しさが、いつもより鮮明に感じる。
「『祝福の海は護りとなりて、平和を約束する。神は天使を遣わし、人々に安らぎと祝福をお与えになる』」
安らぎと祝福、それを歌声にするとこうなるのか、と思わされる。
ただ技術や芸術性が高いだけではない、母の慈愛のように温かで柔らかな質感。その歌声は祈りとして空に昇っていく。
あぁ、それなのに。こんなにも優しく慈愛に満ちた歌声なのに。
──彼の歌は、聴衆を支配する呪いなのだ。
眼下の傀儡化した呪い憑き達が動きを止める。もし、この歌声を聴いた村人がいるのなら、その者も同様に動きを止めるだろう、とヒューゴは言っていた。
ヒューゴの呪いは、支配の呪い。歌声を聴いた者の意識を奪い、支配するものだ。
ただし、テオの忘却の呪い同様に、加護持ちや歩く呪いには、この歌が効かない。
また、支配の歌は呪魔や動物にも効かないらしい。基本的に、歌声を理解する知能がある相手でないと、この支配の聖歌は効果がないのだという。ヒューゴが、傀儡に弓や猟銃を使う知能があるか確認したのは、そのためだ。
「カルラ、行こう」
「……ん」
カルラが黒い羽を広げた。
地平線に僅かに残った夕焼けに、蝙蝠の羽に似たシルエットが浮かび上がる。
飛び上がるカルラの足に、テオは両手で掴まりぶら下がった。カルラの飛行能力は、小柄なテオなら、ギリギリぶら下げて飛べる。
テオの呪装顕現はまだ使わない。今日は短時間だが一度使っているので温存しておきたかった。
(今頃、グレゴリー隊長達も動き始めたはず)
傀儡化した呪い憑き達をギリギリまで惹きつけて、ヒューゴの歌で足を止める。
その隙に、馬に乗ったオズワルド達は左右から、そしてテオはカルラの飛行能力で正面から傀儡達の背後に回り込み、本体である呪魔を叩く。それが今回の作戦だ。
ヒューゴの歌は、もって一〇分。ここからは時間との戦いだ。
「呪魔らしき影は……駄目だ、見えない」
テオは夕闇の中で目を凝らしてみたが、呪魔らしきものは見当たらなかった。
それでも、傀儡達に異変が起これば、呪魔は何らかの行動を起こす筈だ。
一番最悪なのは、呪魔が傀儡を放棄して逃げ出すことである。だがその場合、呪魔は分身体を高確率で回収しにくるだろう、というのがオズワルドの予測だ。
分身体は、呪魔の体の一部である。そして、呪魔は体積が半分以下になると死ぬ──つまり、分身体を作るという行為は、呪魔にとって身を削る危険な行為なのだ。
(小さい球体とはいえ、一五〇個分ともなれば、それなりの質量だ。体積がそのまま生命維持に繋がる呪魔なら、きっと回収に来るはず)
「いた」
唐突に、カルラが鋭い声をあげる。彼女の視線の先で、モゾモゾと動く黒い塊があった。
カルラは一時的に高度を下げる。地面が近づいたタイミングで、テオはカルラの足から手を離して着地した。
カルラはそのまま速度を上げ、大鎌を顕現。飛行の勢いのままに、黒い塊を切り裂く。
テオも呪装顕現をして、加勢しようとした。だが、すぐ違和感に気づく。
カルラが大鎌で大きい塊を切り裂き、「違う」と小声で呟いた。
「……これは、傀儡を操ってる呪魔じゃない」
テオは麦畑の方を見る。傀儡達の背中に張りついた球体に変化はない。
つまり、今カルラが切り捨てたのは、別の呪魔──おそらく、最初に襲われた村人が呪魔化したものなのだ。
(どこだ、傀儡を操っている呪魔はどこにいる……!)
* * *
屋根の上で聖歌を歌いながら、ヒューゴは内心自分自身に腹を立てていた。
以前の自分なら、もっと遠くまで声を響かせることができた。もっと繊細に音を広げることができた。
自分の歌声は明確に劣化している。練習をサボっていたせいだ。
聖歌にとって大切なのは芸術性ではない。祈りこそが聖歌の本質──それでも、技術を疎かにして良いわけではない。
(畜生っ、しょうがねぇだろ! だって俺が歌うと、呪いを撒き散らしちまうんだからさぁ!)
ヒューゴは中央部レフテル市長の息子だ。
家族は教育熱心な両親と、優秀な兄と姉。ヒューゴは勉強も運動も苦手で、得意なものが何もなく、いつも家で肩身の狭い思いをしていた。
家に自分の居場所はない。そう感じたヒューゴは家出をし、とある教会で運命の出会いをした。
レイエル聖区で行われる典礼にも参加するという、中央部最高峰のメルクリフ大聖堂聖歌隊。その歌声にヒューゴは心奪われた。
──これは歌で、そして祈りだ。
思わず聴き入ってしまったヒューゴに、聖歌隊の指導者である老人ドランは優しく微笑み、言った。
貴方も歌ってみませんか、と。
その日、ヒューゴは家出を取りやめにして飛んで帰り、聖歌隊に入りたいと父親に懇願した。
両親は熱心な羽十字教信者だったので、ヒューゴの選択を喜び、応援してくれた。初めて、ヒューゴは両親に応援されたのだ。
聖歌隊での練習は厳しかったけれど、楽しかった。いつだって自分に甘いヒューゴが、歌の練習だけは熱心に取り組んだ。両親も少しずつ自分のことを褒めてくれるようになった。
これは運命の出会いだ。自分にはこれしかない。だから、他のことはてんで駄目でも、周りの奴らに馬鹿にされても、これだけは誇りにしようと決めた。
レフテル市に四等級の呪魔が現れたのは、昨年の冬の白柊祭典の日。ヒューゴがソロの歌唱を担当する舞台だった。
ヒューゴが尊敬していた指導者ドランは呪魔化し、その尾刺棘でヒューゴの喉を刺して逃亡。
ヒューゴは呪魔化こそ免れたが、歩く呪いになり、灰色騎士団送りになった。
(なんで、俺の呪いは歌なんだ。俺にはこれしかないのに。他の何が褒められなくても、これだけはって思ってたのに)
市長の息子が歩く呪いなんて、体面が悪い。両親には縁を切られ、聖歌隊も除隊処分。それからは、やりたくもない呪魔退治を強要される日々。
だが、ヒューゴの呪装顕現は特殊だ。テオやカルラみたいに、戦うための力なんてない。
ただ人を支配するだけ──そんなの、人を傀儡にする呪魔と何が違うのか。
(くそっ、テオのやつ、まだ呪魔を見つけてねぇのかよ!)
ヒューゴの歌による支配は、最長でも一〇分だ。それを過ぎたら、傀儡化した呪い憑き達は一斉に動き出し、村を襲うだろう。そうなったらもう、止める手立てはない。
(もしかして、呪魔がまだ森に引っ込んでんじゃねぇのか?)
ならば……これは賭けだ。
ヒューゴは歌を通じて聴衆達への命令を変える。「止まれ」から「こちらに向かって走れ」と。
命令通り、傀儡達は一斉に走り出した。
武器を握った虚ろな目の大人達が、一斉にこちらに向かってくる。ちょっとチビりそうな光景だが、これで呪魔は何かアクションを起こす筈だ。
その時、ヒューゴは気づいた。ヒューゴの支配に傀儡が抗っている。正確には、傀儡の背中に張りついた呪魔の分身体が抵抗しているのだ。
敵もこちらも、能力は人間を操る支配の力。となると、これは支配の力比べだ。
(……舐めんなよ、クソ呪魔!)
聖歌隊の一員として初めて舞台に立った時、指導者のドランはヒューゴに純白のガウンを手渡し、こう言った。
『ヒューゴ君、この白いガウンを着たら、あなたは天使様と同じように、神様のお手伝いをすることができるんですよ』
呪装顕現で再現したガウンは赤黒く、禍々しいけれど、それでも自分は聖歌の歌い手なのだ。
このガウンに袖を通したならば、天使のように神に奉仕するまで。
「『天使は導きの書物を手に、人々を導く。豊穣の恵、慈悲の癒し、守護者の雷、そして祝福の海──全ては神の御許に』」
ヒューゴは歌詞の意味を考えながら、その言葉を歌声にのせて祈る。
彼が誇れるたった一つを貫くために。




