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危険運転の末路  作者: リンダ


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6/10

点が地図になる瞬間

 第十五章 交通係の机の上で、“点”が地図になる


 警察署の交通係の一室は、派手さのない緊張で満ちていた。

 壁の時計は淡々と進み、机の上には地図とメモ、そして提出された映像の一覧が並ぶ。


 恭一のドラレコ。

 秋山梨花のスマホ動画。

 駅員の目撃。

 保護者の相談。

 自動車専用道路での無理な追い越しを撮った別のドラレコ。


 ひとつひとつは“怖かった”で終わってしまいそうな出来事だ。

 だが、数が集まると“パターン”になる。


 担当官が地図に印をつけていく。


 〇〇小学校脇の生活道路


 駅前の狭い道(列車到着と重なる時間帯)


 幹線への合流地点


 自動車専用道路の入口


 そして赤ペンが止まった。


「……同じ時間帯、同じルート、同じ車両の可能性が高い」


 そこに、最後の一片が加わる。

 ナンバー情報だ。


 映像の中には、完璧ではないが、複数の角度から読み取れた断片がある。

 梨花の動画は決定的だった。揺れの少ないフレームで、車両の特徴とナンバーが一瞬クリアに映っていた。


「照合できます」


 担当官は淡々と言った。

 淡々としているのは、感情がないからじゃない。

 感情で動かないための訓練の結果だ。


 彼らはその情報から、所有者を割り出す。


 ——竹本弘毅。

 ——住所は町内、駅の北側のアパート。


 書類の上に名前が載った瞬間、部屋の空気が少し変わった。

 噂が、人物になる。

 影が、形になる。


「駅前張り込みも検討する。ただ、まずは行動の確認だな」


 交通係の指示は短い。

 “いつ、どこを、どう走るか”。

 そこが固まれば、押さえるための動きが組める。


 第十六章 アパートの朝は、静かに始まる


 駅前の張り込みは、目立つリスクがある。

 駅周辺は人が多い。視線も多い。

 相手が警戒する可能性も高い。


 だから警察は、まず“出発点”を見た。


 竹本のアパート近く。

 まだ空気が冷たい時間帯。

 道路には新聞配達のバイクと、遠くで鳴くカラスの声。


 覆面車両が一台、目立たない位置に止まる。

 窓越しに、駐車場が見える角度。

 ライトもつけない。無理に何かをしない。

 ただ、待つ。


 六時四十五分前後。

 アパートの階段を降りてくる影があった。


 小柄な男。

 早足。周囲をちらりと見回す癖がある。

 鍵を取り出す動きが雑で、いらだちが体の端々に出る。


 ——竹本弘毅。


 彼は軽自動車に乗り込むと、エンジンをかけた。

 小さな車体が駐車場を出ていく。

 その動きは、どこか“急いでいる”というより、最初から苛立っているようだった。


 覆面車両は、距離を保ったまま後を追う。

 目立たないように。追い詰めない。焦らせない。

 “安全な追跡”だけを最優先にする。


 そして、竹本は町の生活道路へ入っていく。


 第十七章 追跡の車内、見えてくる“いつもの癖”


 通学路。制限30。

 ここで普通なら速度を落とす。

 しかし、竹本の軽は落ちない。


 前の車に追いつく。

 車間を詰める。

 蛇行。

 パッシング。


 ——映像で見た通りの動きが、現実の道路上で繰り返されていた。


 覆面車両の中で、助手席の隊員が低く言う。


「常習だな……迷いがない」


 迷いがない。

 それが一番怖い。


 “今日はたまたま”じゃない。

 “今日もいつも通り”だ。


 竹本は駅前へ向かい、あの狭い道へ入っていく。

 列車到着と重なる時間帯。自転車の学生が増える。

 歩行者もいる。

 なのに、速度が落ちない。


 追跡する側は、そこで一層神経を尖らせる。

 何かが起きてからでは遅い。

 しかし、先回りして止めるにも、根拠と手順が要る。


 竹本は駅前を抜け、幹線へ出る。

 そして、自動車専用道路へ。


 片側一車線。

 前が詰まる。

 竹本の苛立ちが、車体の動きに露骨に出る。


 対向車線へ鼻先を出す。

 戻る。

 また出す。

 そして、見通しが微妙な区間で、無理な追い越し。


 覆面車両の中の空気が一段重くなる。

 “押さえるべき危険”が、目の前で繰り返されている。


「現行で止めるなら——駅前が一番安全だな」


 隊員の声は静かだった。

 追い越し区間で止めれば、それ自体が新たな危険になる。

 駅前のあの空き地、そして道路形状。

 恭一の提案は、現場感覚として理にかなっていた。


 この日、警察は最後まで“止めなかった”。

 止められなかったのではなく、止めなかった。

 なぜなら、確実に押さえるための条件が揃っていない。

 そして、相手の危険運転が「その瞬間だけ大人しくなる」可能性もある。


 だが、代わりに得たものは大きい。


 ルート。

 時間。

 癖。

 危険行為の反復。

 そして——“同一人物が運転している”という確信。


 竹本が職場の駐車場に滑り込み、車を降りる。

 その背中には、何も知らない余裕があった。


(俺は上手い)

(事故なんて起きない)

(下手くそが悪い)


 そういう自己陶酔が、歩き方にまで滲んでいる。


 覆面車両は距離を置いた場所で停まった。

 エンジン音が止み、車内が静かになる。


「次だな」


 誰かが言った。

 “次”とは、張り込みの実施。

 そして——確実に押さえるための、現行の瞬間。


 第十八章 恭一の胸にある“線”——そして駅前の空き地


 恭一は、警察が動き始めていることを、まだ詳しくは知らない。

 捜査の細部は伝えられない。

 それでも、署の担当官の言葉の端々から感じ取っていた。


 ——積み上がっている。

 ——見ている。

 ——動く準備をしている。


 恭一は、駅前の空き地を通るたびに思う。

 あそこなら、止められる。

 通学路の時間帯を安全に守りながら、現行で押さえることができるかもしれない。


 ただ、その願いは“正義の快感”じゃない。

 単純に、怖いからだ。


 駅前の狭い道。

 学生の自転車。

 あの速度。

 あの距離。


「いつか」じゃ遅い。


 恭一は、自分のドラレコデータをもう一度バックアップした。

 動画配信のコメント欄も見直し、危うい書き込みは非表示にした。

 町が“私刑”の熱に傾けば、守れるはずのものまで壊れる。


 守るために動く。

 壊すために動かない。


 恭一はその線を、何度も引き直していた。



第十八章 恭一の胸にある“線”——そして駅前の空き地


 恭一は、警察が動き始めていることを、まだ詳しくは知らない。

 捜査の細部は伝えられない。

 それでも、署の担当官の言葉の端々から感じ取っていた。


 ——積み上がっている。

 ——見ている。

 ——動く準備をしている。


 恭一は、駅前の空き地を通るたびに思う。

 あそこなら、止められる。

 通学路の時間帯を安全に守りながら、現行で押さえることができるかもしれない。


 ただ、その願いは“正義の快感”じゃない。

 単純に、怖いからだ。


 駅前の狭い道。

 学生の自転車。

 あの速度。

 あの距離。


「いつか」じゃ遅い。


 恭一は、自分のドラレコデータをもう一度バックアップした。

 動画配信のコメント欄も見直し、危うい書き込みは非表示にした。

 町が“私刑”の熱に傾けば、守れるはずのものまで壊れる。


 守るために動く。

 壊すために動かない。


 恭一はその線を、何度も引き直していた。



第十九章 空き地の朝、赤色灯はまだ灯らない


駅のすぐ隣に、小さな空き地がある。

舗装も中途半端で、たぶん昔は資材置き場か何かだった場所。今は雑草が伸び、雨の日は水たまりが残る。


そこに、覆面パトカーが一台、夜明け前から静かに入った。

外から見れば、ただの車。

中から見れば、張りつめた呼吸と、時計の秒針。


「六時四十八分、ここを通る可能性が高い」


交通係の若い警察官が、時刻表のように頭の中で復唱する。

上りと下りが同時に着く、あの時間帯。

通学の自転車が増え、歩行者の足取りが重なる時間帯。


ただ、最初の日は――来なかった。


竹本の軽自動車は、いつもの時間にアパートを出た。

だが、その日は駅前の道に入らず、一本先の幹線へ抜けた。

偶然か、気まぐれか、何かを嗅いだのか。わからない。


覆面車内で、誰かが短く息を吐いた。


「……空振りか」


空振り。

けれど、焦りは禁物だった。

相手は常習で、毎日似た動きをする。

待つ側が、先に疲れたら負けだ。


“待つ”という行為は、派手じゃない。

だが、事件を止めるのは、いつだってこういう地味な時間の積み重ねだった。


第二十章 竹本弘毅の「誠実」


竹本弘毅には交際相手がいた。


相田真理恵あいだ まりえ、23歳。看護師。

外科病棟を受け持ち、夜勤もある。

人の体から血が出る現場に慣れているぶん、心の傷には余計に敏感なタイプだった。


真理恵の前で、竹本は別人のように振る舞った。


「無理すんなよ」

「ちゃんと飯食ってるか」

「俺、真理恵のこと大事にするから」


まっすぐに目を見て言う。

手を繋ぐときは強すぎない力で。

LINEの返事も、ちゃんと返す。

約束も守る。


“誠実”という言葉を、演じることはできる。

竹本はそれを知っていた。


婚約も決まり、挙式の日取りも決まっていた。

式場のパンフレットを二人で眺め、真理恵が「これかわいい」と笑うと、竹本はうんうんと頷いた。

同棲の話も出た。真理恵の夜勤に合わせて家事分担の案も作った。


真理恵は指折り数えて待っていた。

結婚という言葉が、現実として近づいてくることが嬉しかった。


彼女は知らない。

竹本が朝の通学路で、どんな顔をしてハンドルを握っているのかを。

駅前の狭い道を、どんな速度で抜けていくのかを。

幅寄せ、煽り、無理な追い越し――

それが“日課”になっていることを。


夢にも思わなかった。


看護師として、事故の搬送を受ける側の現場を知っているのに、

その事故を生む側に、いちばん近い人がいるなんて。


ある夜、真理恵は竹本の部屋で、式の招待状の宛名を相談していた。


「ねえ、弘毅くんのお友達って……何人くらい呼ぶ?」


竹本はソファでスマホをいじりながら、軽く答える。


「そんな多くなくていいよ。身内中心で」


その口調は、穏やかで、優しい。

真理恵はその声に安心して、ペンを走らせた。


その裏で、竹本の中には別の声がある。


(俺は運転が上手い)

(危ないのは、遅い奴だ)

(俺は事故なんて起こさない)


二つの顔は、まだ交わっていない。

だから、真理恵の世界は壊れていない。


――まだ。


第二十一章 二度目の朝、現実が“映像”を追い越す


張り込み二日目。

覆面パトカーは同じ空き地に入った。

隊員は、駅前の流れを目で追う。

通学の自転車、改札へ急ぐ足、車の列。


六時四十九分。

遠くから、軽いエンジン音が近づく。


「来た」


濃いグレーの軽自動車。

速度が、明らかに周囲と違う。

駅前の狭い道に入っても落ちない。落とさない。


そして、やる。


前車に詰める。

パッシング。

左右に振る蛇行。

対向車が来ているのに、鼻先を出して威嚇。


駅へ向かう自転車が、恐怖で路側帯に寄る。

ふらつく。

歩行者が咄嗟に立ち止まる。


覆面車内で、誰かが低く言った。


「……これだ。危険運転の反復。現行で押さえられる」


ただし、止め方を間違えれば、そこで事故が起きる。

パトカーのサイレンで驚かせてはならない。

相手の前に突然出るのも危険だ。


計画はシンプルだった。


駅前区間を抜けた直後、合流しやすい地点で後方につく


無理な追い越しの兆候が出た段階で、停止命令


安全な場所へ誘導して確保


覆面パトカーがゆっくりと流れに乗り、距離を詰める。

竹本の軽は、相変わらず前車に貼りつき、圧をかける。


その時、竹本がまた対向車線へ出ようとした。

駅前区間を抜けたばかりなのに。


「——今だ」


車内で合図が飛ぶ。

覆面パトカーの赤色灯が、内側から灯った。

サイレンは鳴らさない。

まずは光で、“追う意思”を示す。


竹本の軽が一瞬だけブレーキを踏む。

ほんの一瞬の迷い。


(……やべ)


そういう“やべ”が、運転席の肩の動きに出る。


だが竹本は、逃げようとはしない。

逃げれば、罪が重くなることくらいは知っている。


それでも悪質だった。

停止命令が出た瞬間も、わざと蛇行気味に走り、後続を揺さぶるように速度調整をした。

最後まで「自分が主導権」を握ろうとする。


安全な退避スペースへ誘導。

停車。

隊員が降りる。声は落ち着いているが、隙はない。


「運転者、免許証を提示してください」


竹本は、ここでも演技をする。


「……何ですか? 俺、何かしました?」


その言い方は、まるで心当たりがない人間のそれだった。


だが、積み上げられた映像と、目撃と、通報の記録がある。

そして今、目の前で起きたことがある。


「危険な車間距離、蛇行、進路変更の強要に近い運転、通学時間帯の駅前での速度超過が確認されています。先ほども対向車線へ出ようとしましたね」


竹本の喉が、わずかに鳴った。


「……いや、俺は運転が上手いから。事故なんて——」


その言葉は、そこで止められた。


「上手いかどうかは関係ありません。危険かどうかです」


竹本弘毅は、その場で身柄を確保された。

“現行”という言葉の重みが、駅の空気のすぐ近くで形になった。


第二十二章 数ヶ月分の“朝”が、ここで回収される


取調室は狭い。

壁は白く、机と椅子と、録画の機材。

竹本はそこに座らされ、ようやく自分の立場が“運転の王様”ではないことを理解し始める。


警察官が画面を回転させる。


恭一のドラレコ。

梨花のスマホ動画。

別の車のドラレコ。

駅員の証言メモ。

保護者の相談記録。


そして今日の、張り込み中に確認した行為。


“点”が、完全に“線”になっていた。

線どころか、網だ。


竹本は唇を舐めた。

喉が乾く。手のひらに汗が出る。


「俺は……事故起こしてないですよ」


「事故が起きる前に止めるために動いています」


淡々と返される。

竹本はそこで初めて、自分の“事故が起きていない”が免罪符ではないことを知る。


危険運転は、危険であること自体が罪だ。

そして、“常習”は重い。


第二十三章 真理恵の夜勤明け、鳴り続けるスマホ


相田真理恵は、夜勤明けだった。

外科病棟は慌ただしく、夜の間に緊急手術が入り、仮眠もまともに取れなかった。


ロッカールームでスマホを見ると、竹本からの返事が来ていない。

いつもなら、夜勤中でも一言は入る。


(寝てるのかな)


そう思って画面を閉じた直後、知らない番号から着信が入った。


「相田真理恵さんの携帯でお間違いないですか。こちら、山口県警です」


真理恵は、言葉が理解できなかった。

県警。

自分は何もしていない。

患者のこと? 事故の連絡? いや、そんな連絡は病院を通す。


「……はい」


声が震えた。


「交際されている竹本弘毅さんの件で、ご連絡しました。本人が本日、危険運転に関する件で身柄を確保されました」


真理恵の視界が、一瞬狭くなる。

耳の奥で血が鳴る。


「……え?」


“誠実な人”の顔が、頭に浮かぶ。

「無理すんなよ」と言ってくれた声。

招待状の宛名を一緒に考えた夜。

挙式の日取り。

指折り数えて待っていた日々。


それらが、全く別の映像に塗り替えられていく。


危険運転。

煽り。

幅寄せ。

無理な追い越し。


外科病棟で、交通事故の患者を受け持った夜が蘇る。

骨折、内臓損傷、脳挫傷。

家族の泣き声。

あの“壊れ方”を、彼女は知っている。


(……まさか)


その“まさか”が、現実として目の前に落ちてくる。


「詳しい内容については——」


警察官の説明が続く。

真理恵は聞いているのに、頭に入ってこない。

ただ、胸の奥が冷えていく。


通話が終わっても、スマホは重かった。

リングに変える予定だった指が、妙に遠く感じる。


第二十四章 失う順番は、止まらない


そこから先は早い。

竹本の行為は“町の噂”ではなく、“警察の記録”になった。

そして記録は、社会の扉を次々と閉めていく。


会社は事情を知り、処分を検討する。

通勤車両での危険運転の常習は、職場の信用に直結する。

同僚たちの間にも恐怖が広がる。


“あれ、竹本だったのか”

“毎朝あんな運転してたのか”


真理恵は、病院の休憩室で一人、震える息を吐く。

結婚式場からは日程確認の連絡が入る。

友人からは「どうしたの?」とメッセージが来る。


言えない。

言った瞬間に、全部が決定する気がした。


けれど、決定はもう始まっていた。


彼女の中で、竹本の“誠実”が崩れていく。

崩れるたびに、同じ疑問が刺さる。


(私の前の顔は、何だったの)


看護師として、命をつなぐ側にいるのに、

いちばん近い人が命を削る側だった。


その矛盾が、真理恵の心を静かに壊していった。


第二十五章 恭一の朝、守られた通学路


恭一は、いつもの道を走った。

駅前の狭い道。

通学の自転車。

歩く人の足音。


同じ朝なのに、どこか空気が違う。


背後からのパッシングがない。

詰めてくる圧がない。

蛇行の影がない。


恭一はハンドルを握りながら、ようやく息を吐けた。

“何も起きない朝”が、こんなにありがたいことだったのかと思う。


ただ、喜びは派手じゃない。

それは、人が当たり前に持っていたはずの安全が、戻っただけだからだ。


恭一のスマホには、梨花から短いメッセージが届いていた。


『最近、駅前こわくないです。ありがとうございます』


恭一は画面を見て、胸の奥がじんと熱くなるのを感じた。

ありがとうと言われるためにやったわけじゃない。

でも、救われたのは確かだった。


守れた。

少なくとも、いくつかの朝を。


そして同時に、思う。


真理恵という人が、これからどんな顔で日々を歩くのか。

彼女の人生に落ちた影は、通学路の影よりずっと深いかもしれない。


“危険運転”は、道路の上だけの話じゃない。

人の生活を、未来を、関係を、静かに壊す。


竹本弘毅は、その壊れ方を知らなかった。

知ろうともしなかった。


だから――失う順番は、止まらない。

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