「上手い」と「速い」は別ものだ
第五章 「上手い」と「速い」は別ものだ
竹本弘毅は、自分の運転を疑ったことがなかった。
というより――疑う“必要”がないと思い込んでいた。
「俺は運転が上手い」
ハンドルを切る角度。アクセルを踏む深さ。ブレーキの抜き方。
一つひとつが自分の手足みたいに馴染んでいる、という感覚があった。
それが“上手さ”だと信じていた。
だから、スリリングな追い越しもできる。
ギリギリで間に合う。相手がびびって避ける。
対向車が来ても「読める」。
読み切ってすり抜ける瞬間のあの高揚――あれが、竹本にとっては勝利だった。
「事故? 起こすわけねえやろ。俺が誰だと思ってんだ」
むしろ事故を起こすのは、チンタラ走る奴らだ。
判断が遅い。合流が下手。車間距離ばかり空ける。
慎重という名の“迷惑”。
「下手くそが道路に出てくんなって話」
追い越し車線のない片側一車線の自動車専用道路。
そこでは、前の車が遅いだけで流れ全体が止まる。
その理屈を竹本は“真理”みたいに握りしめる。
「俺のドライビングテクニックを見習えっての」
言葉にした瞬間、胸の奥がスッと軽くなる。
自分は悪くない。自分は優れている。
だから、どけない相手が悪い――と。
ただ、その“優れている”という感覚は、いつも一人きりの車内でしか完成しなかった。
誰かに認められたわけでも、評価されたわけでもない。
それでも竹本は、認められたことにして走る。
軽自動車の中で、竹本は今日も、自分だけの王様だった。
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第六章 事務所の蛍光灯の下で
一方、大塚恭一は、会社の敷地に車を入れてからもしばらくハンドルから手を離せなかった。
心臓の鼓動が、ワイパーみたいに一定のリズムを刻まない。速くなったり、落ち着いたり、また跳ねたりする。
市の南部にある工場の事務所。
蛍光灯の白い光。コピー機の稼働音。朝礼前のざわつき。
いつもなら“日常”として流してしまう音が、今日はやけにうるさかった。
恭一は席に着き、ネクタイを緩めるふりをして息を整えた。
そこへ、同僚の吉岡がコーヒーを片手に寄ってくる。
「大塚さん、顔色悪いっすよ。どうしたんすか」
恭一は一瞬迷った。
でも、迷ってる場合じゃない、と自分に言い聞かせる。
「……また、例の軽だよ。駅の方の通学路。あの煽り運転」
吉岡の眉が上がる。
「あー……あの、やたらピカピカやるやつ?」
「そう。車間詰めて、蛇行して、パッシングして……今日もだった。しかも駅前の時間帯」
恭一は、言いながら喉が乾くのを感じた。
恐怖を言語化すると、逆に現実味が増してくる。
「……通報したんすか?」
恭一は頷いた。
「した。運転しながらだから、細かいとこまでは言いきれなかったけど。場所と状況と、車の特徴、ナンバーの一部。ドラレコも残ってる」
吉岡はコーヒーを置き、腕を組んだ。
「正解っすよ、それ。最近、あの辺ほんと危ないっすもん。高校生のチャリも多いし」
「……そうなんだよ。俺も一番怖いのはそこ。あいつ、自分が“上手い”って思ってるタイプだ」
恭一は、言葉を選んだ。
相手を悪者にしたいというより、構造が怖かった。
「“上手いから大丈夫”って信じてる。だから止まらない。自分の運転に酔ってる」
吉岡は鼻で短く笑った。笑ったというより、呆れた音だった。
「上手い奴ほど、あんな煽り方しないっすけどね」
恭一は苦く頷く。
上手い運転は“相手を動かす”んじゃなくて、“相手が安心して動ける”運転だ。
けれど、竹本のやっているのはその逆だった。
「これ、放っといたらいつか……」
言いかけて、恭一は途中で止めた。
“事故”という単語が、事務所の蛍光灯の下で妙に生々しい。
吉岡が低い声で言う。
「……大塚さん以外にも、被害者いると思いますよ。通学路ってことは保護者も見てるだろうし。もし他にも通報が入ってたら、警察も動きやすいっす」
「……そうだな。俺のドラレコ、保存しておく。必要なら提出する」
「必要になりますよ、多分。ああいうのは、だんだんエスカレートする」
その言い方が、妙に確信めいていて、恭一は背中が冷えた。
同時に、少しだけ救われた気がした。
自分が大げさに騒いでいるわけじゃない、と確認できたから。
朝礼のベルが鳴る。
人の動きが一斉に揃う。
恭一は立ち上がりながら、もう一度だけスマホのメモを見た。
通報した時間。場所。車の特徴。ナンバーの断片。
そして――ドラレコのデータ名。
この町の朝を、当たり前のまま守るには、
“何も起きてから”じゃ遅い。
恭一は、自分にそう言い聞かせて、列に並んだ。
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