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もやもや



 愛について学んだ祥太は、不死鳥のごとく甦り宏人の家に向かったが、玄関に来て立ちすくんだ。

 ドアを開けたとたん、瑞穂の声が筒抜けて聞こえたからであった。

 ぞっとしてドアを閉めた。

 踵を返して歩き出すと、どっと疲れた。

 二人が一緒にいるところは見たくない。

 もやもやとした嫌な気持ちが胸いっぱいに広がっていく。

 祥太は早足になって、次第に駆け出した。

 祥太は電車に飛び乗った。向かっているのは茂樹の家だった。

 茂樹しか自分の気持ちは理解してもらえない。

 顔を見るだけでもいい。祥太はドアにもたれて、過ぎて行く街並みを眺めた。

 いつの間にか、薄暗くなっている。

 夜は仕事があるという茂樹の言葉など、とうに忘れてしまっていた。

 茂樹のマンションに着いて、運良く出てきた住人とすれ違って、中に潜り込む事ができた。

 エレベーターに乗り込み、部屋の前に来てはたと立ち止まる。

 どうしよう。勢い余ってここまで来てしまった。

 我に返ってうろうろしていると、ドアがいきなり開いた。


「祥太くんっ」


 黒いジャケットを着た茂樹が立っていた。


「茂樹さん……」

「どうしたの?」

「会いたくて……」


 本音を言うと、茂樹が息を呑んだ。祥太は迷惑だったのだと気付き、慌てて振り返った。


「ご、ごめんなさいっ」

「待って」


 咄嗟に腕を取られる。


「何かあったの?」

「何でもないです…」


 うな垂れる姿を見て何か考えている風だったが、茂樹はまっすぐに目を見た。


「祥太くん、部屋で待っていてくれる? これから仕事に行かなきゃいけないんだけど、すぐに帰って来るから」

「え……。でも、迷惑かけちゃダメだって、言われたばかりで……」

「誰が言ったの? 僕は迷惑だなんて一言も言ってないよ」

「うん……」

「ね? だから、大人しく家の中で待っていてくれる?」


 茂樹が祥太の肩を優しく撫でた。それだけでほっとすると祥太は大人しく頷いた。


「はい」

「じゃあ、すぐに戻って来るから」


 そう言うと茂樹は急いで出て行った。


 祥太は部屋の中に入ると大人しくソファに座った。

 今になってとんでもない事をしてしまったのではないだろうかと気付く。

 しかし、ここで黙って帰るのも失礼だと思った。

 茂樹はすぐに戻ってくると言ったのだ。

 祥太は壁にかけてある時計を見た。

 十八時を過ぎている。夕食を食べそこなったとお腹を押さえた。

 思い余ってここに来てしまった。

 理由を聞かれたら、ただ家には戻りたくなかったからとしか言えない。

 質のよいソファに膝を立てて座っていると、だんだんと気持ちがふわふわしてきた。

 次第にうつらうつらしだして、気がつけば祥太は横になって寝入ってしまった。

 ゆらゆらしている。祥太はけだるげに目を開けた。


「え? うわっ」


 ぱっちりと目を覚ますと、茂樹に抱かれている事に気付いた。


「あ、起きちゃった?」

「し、茂樹さんっ」


 お姫様抱っこをされている。


「祥太くん、疲れているみたいだったからベッドで寝かせようと思ったんだ」

「お、下ろして下さいっ。重いから」

「空気みたいに軽いよ」

「そんな事ないよっ」


 茂樹はそっとその場に下ろしてくれる。祥太は恥かしくて顔を伏せた。


「よかった。ここに来た時泣きそうな顔していたから」

「そんな顔していた?」


 顔を押さえると、


「していたよ」


 とくすっと笑う。


「ごめんね、茂樹さん」

「どうして謝るの?」

「何となく……。俺、茂樹さんみたいな大人になりたい」

「僕みたいな? やめといた方がいいよ」

「どうして?」


 顔を上げるとふっと目を細めて、いつもの優しい顔をした。


「僕は君が想像しているほど優しい男じゃないから」

「え? そうなの?」

「うん。たぶん、猫かぶっているよ」

「猫?」


 茂樹を猫でたとえると、短毛で毛並みの良い血統書付きの猫を思い浮かべた。


「祥太くんがあんまり可愛いからさ。いいところ見せたいんだよね」

「俺、可愛くなんかないよ」


 茂樹はそれには答えずに祥太の頭を撫でると、


「送るよ」


 と立ち上がった。


「え……」

「きっと裕一が心配している」

「はい……」


 黙って出てきた事を思い出して祥太も立ち上がった。その時、リビングで電話が鳴り出した。


「ちょっと待っていて」


 茂樹が言って部屋に戻る。かすかだが話し声が聞こえた。


「うん。今から送って来るよ。大丈夫、心配しないで」


 相手は恋人だろうか。

 これ以上聞いてはいけない気がして、祥太は玄関で靴を履いているふりをした。すぐに茂樹が現れる。


「さ、行こうか」


 前と同じように車のキーを持ってエレベーターへと向かった。茂樹は詳しい事は何もきかなかった。

 祥太もまた、せっかく来たのに話すべき言葉を失っていた。しかし、気持ちはだいぶ落ち着いていた。

 家の前まで送ってもらい、茂樹と別れた。


「じゃあ、またね」

「はい。おやすみなさい」


 お礼を言って手を振り、見えなくなるまでずっと車の姿を追っていた。

 ふうと息を吐いて玄関に入る。


「ただいま」


 靴を脱いでいると、


「祥太っ」


 と裕一がリビングから現れて、何も言わずにいきなり殴りつけた。

 右の頬をこぶしで殴られ、祥太の体は弾んで廊下に投げ出された。

 祥太は咄嗟の事で言葉を失った。

 しばらく呆けた後、


「に、にいひゃん……」


 と言って見上げると、目を怒らせた兄がこぶしを震わせている。

 祥太の唇の端は切れて、血が滲んでいた。生温かい血の味がした。


「お前、今までどこにいたんだっ」

「え?」

「茂樹さんのところかっ」

「う、うん……」

「俺は言ったはずだぞ。茂樹さんに迷惑をかけるなって」


 冷水を浴びせられたように、体が震えてきた。


「で、でも、茂樹さんは迷惑じゃないって……」

「あの人、仕事を休んだんだぞっ」

「え……?」


 裕一の言葉に耳を疑った。


「嘘……」

「茂樹さんはうちのバーでは一番の人気なんだ。彼のカクテルが飲みたいって、わざわざ来る人だっているんだぞ。その彼が、今日、お前のために休んだんだ。仕事に穴を開けたんだぞ」

「ご、ごめんなさい」


 祥太の目には涙が溢れ、声が震えた。


「宏人とケンカしたぐらいで茂樹さんの所に逃げるなんて、卑怯な真似すんなっ」


 大声を聞いてリビングから母が顔を出した。


「何なの? 大きな声を出したりして」

「お母さん……」


 頬を押さえ、涙で濡れた祥太の顔を見ると母は顔をしかめた。


「裕一、殴る事ないでしょ」

「こいつが悪いんだよ」


 吐き出すように言って、目を逸らす。


「弟の事をこいつだなんて言っちゃダメよ」


 母が諭すように言うと、


「ふん」


 と鼻で息を吐いた。


「祥太も悪いのよ。遅くなるなら連絡しなさいね」

「ごめんなさい……」

「裕一、心配していたのよ」


 祥太の腕を引き起こし背中を撫でる。

 祥太はうな垂れたままぴくりともしなかった。


「兄ちゃんが心配なのは、俺じゃないんでしょ……」


 ぼそりと呟くと、


「何だと?」


 裕一が再び目を吊り上げた。


「夜なんだから静かにしなさい。祥太は早くお風呂に入って寝なさい」


 母はそれだけ言うと部屋に引っ込んだ。

 兄は顔を背けると階段を上がっていく。

 祥太は冷たい廊下で立ち尽くしていたが、やがてのろのろとお風呂場へ向かった。

 その時リビングから、


「温まってから出なさいね」


 と母の声がした。

 祥太はぐずぐず言いながら、脱衣所で服を脱いだ。

 そして、母の言う通り、のぼせそうになるくらい温まってから、お風呂を出た。

 その日、宏人は現れなかった。




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