反論
家まで送ってもらった祥太は、自分の部屋に明かりが点いている事に気付いた。
「ただいま」
ドアを開けると、ダダダと階段を駆け下りて宏人が現れた。
「お帰りっ」
「宏人……」
祥太は靴を脱ぐのも忘れて呆然とする。
「早かったね」
宏人が玄関に立ち尽くしたままの祥太の腕を引き寄せた。
「彼女と一緒じゃなかったのか?」
靴を脱いで上がると、
「関係ないだろ」
と宏人は顔をしかめた。
「そうだけどさ……」
祥太はムッとした。
せっかく気を遣ってやったのに、ひどい言い草だと思う。
腕を振り払おうとしたが、しっかりと握り締められて身動きが取れない。
狭い階段を上がり部屋に入る。ベッドに腰かけると宏人が口を尖らせた。
「あれから二人きりで何していたの?」
祥太は顔を背けた。
「練習していたんだよ」
「本当に? 何これ……」
腕と手首に貼った湿布に気付いた。
「筋肉痛になるからって」
「そんなに痛いの?」
「まだ痛くないよ」
首を振ると安堵した宏人が、いきなり腕を取って袖をたくし上げた。
「だったら取りなよっ」
「何するんだよっ」
二人がベッドの上で暴れていると、
「お前ら何してんだ?」
と兄がひょこっと顔を出した。
「裕一兄ちゃん」
宏人が起き上がる。組み敷かれていた祥太は悔しくて唇を噛んだ。
「何でもない」
「祥太、宏人に聞いたぞ。ずっと、茂樹さんの所にいたのか?」
「そうだよ」
慌てて腕を隠すと、それを見て兄は息を吐いた。
「あんまり迷惑かけるなよ」
「何それ、迷惑なんてかけるわけないじゃん」
「茂樹さん優しいからな。断れないんだよ」
「茂樹さんが迷惑だって言ったの?」
「あの人がそんな事言うわけないだろ」
「だったらいいだろ? 茂樹さん、また遊びにおいでって言ってくれたよ」
「社交辞令だよ。俺だって行った事ないんだからな。少しは遠慮しろよ」
祥太はぶすっとして黙り込んだ。貝のように閉じてしまうとなかなか開かない。
兄はあきらめて部屋を出て行った。
「ねえ祥太」
「何だよ」
「もう行くのやめなよ」
宏人が突然、そう言った。
「はあ? 宏人までそんな事言うのか?」
「だって、相手は大人だよ。仕事も持っているし、今日、半日はあの人の家にいたじゃん。迷惑だったんじゃないかな」
「え……」
考えもつかなかった。確かに反論できない。
「そ、そうかな…」
「そうだよ。裕一兄ちゃんの言う通り、あの人優しそうだったけど、本当は苛々してたんじゃないかな」
「でも、茂樹さんはダメな時は言うから、気にしなくていいって言ったよ」
「バカだな。そんなの社交辞令に決まってんじゃん」
兄の真似をする宏人に腹が立った。
「うるせえっ」
腕を振り上げて宏人を殴ろうとすると、するりと交わされた。
ひねられて顔をふとんに押し付けられる。
「いってえ。離せよ宏人」
「ねえ、祥太」
「な、何だよっ。早く離せっ」
「キスしてもいい?」
「はあっ?」
この体勢で何を言うか。祥太は宏人を睨み付けた。
「ふざけんなっ。早く離せっ」
「キスさせてくれたら離す」
「お前、頭おかしいんじゃないのか」
祥太は夕べの事を思い出して真っ赤になった。
「さっき彼女に呼び出されただろ? その時、夕べ祥太にしてやったみたいにしてやったらさ、すっごく喜んでくれたんだよ。練習の続きさせてよ」
彼女と言う単語一つで頭に血が上る。
「お、俺は女子じゃねえっ」
殴りつけてやりたいところだが、身動きできない。
「練習って、本番で成功させるためにあるんでしょ。祥太だって、今日夢中でシェーカーの練習してたじゃん。あれとおんなじだよ」
「それとこれとは……」
別だと、叫びたかった。
「とにかく腕を離せよ。痛い」
「祥太がキスさせてくれたら離してあげる」
「い、嫌…」
「祥太、前に僕がキスした事、まだ根に持っている?」
「え……?」
「キスに意味なんかないんだよ」
腕の力も緩めずに頭上で宏人が呟いた。
「僕とキスしたって何も感じないでしょう?」
感じないはずがない。感じるから嫌だと断っているのだ。
宏人は気付きもせずに、祥太をふとんに押し付けたままだ。
宏人が顔を近づける。体が硬直する。涙が出そうになる。祥太は必死で目を閉じた。
宏人に抱きしめられ、体が熱くなってきた。
危険信号がちかちかと点滅し始める。やばい、直ちに難しい事を考えよ、と脳に命令を発した。
受験の日、寒かった。どんよりと曇っていて、兄に何十回も教わった数学の応用問題が出たのに、解けなかった。それから、今、授業で習っている化学式、ちんぷんかんぷんで理解不能。あと、現代国語の難しさ云々。それから、茂樹さんの家で何度も練習したシェーカーの感触……。
茂樹さんの穏やかで優しげな声。それから――。
「し、茂樹さんっ」
思わず口から彼の名前が飛び出た。
「なっ」
宏人が体を離した。
祥太は自由になって慌ててふとんの中に潜り込んだ。
目を上げると宏人が目を潤ませて見つめていた。
「何で、他の男の名前呼ぶの?」
「お前が…っ。ひどい事するからだろっ」
「してないだろっ。僕はただキスしたいって言っただけじゃないか」
「バカっ」
祥太は宏人の膝を思い切り足で蹴った。
「バカは祥太だろっ」
「俺はバカだけど、お前みたいなバカじゃないんだ」
「何だよそれっ。僕の彼女と同じくらいの身長のくせにっ」
「はああ?」
祥太は間延びした声を出した。
「何だそれ…っ」
「似てるんだよ…」
宏人がぼそぼそと言った。
「何がっ」
「この腕の中にすっぽり入るところとか、背丈とかさ、よく似ているんだ」
彼女と似ていると言われて腸が煮え繰り返りそうになった。
「お、俺は男だぞ。それに身長は165センチもあるっ」
「僕の彼女はモデルみたいに背が高いんだよ。あ、でも僕の方が高いけどね」
いちいち付け足される言葉にますますむかつく。
「悪かったな。俺はチビでっ」
「祥太はこれくらいが可愛いんだよ」
頭を撫でられ、その手を振り払った。
「男に可愛いなんて言うな」
「ごめんね」
宏人はしおれた様子を見せかけてから、がばっとふとんの上から祥太を抱きしめた。
「ひ、宏人っ」
「黙ってよ」
宏人がキスをしかけてくる。祥太は手を伸ばして宏人の口を塞いだ。
「やめろ……っ」
ぐいぐいと押し返し、どたばた暴れていると、
「お前らっ、いい加減にしろっ」
突然、ドアが開いて、手にシェーカーを持った兄が現れて怒鳴った。
「ごめんなさい……」
宏人はうな垂れ、祥太は胸を押さえたままぜいぜい息を吐いた。
怖かった。もしかして、裕一が来なければちょっと危うかったかもしれないと、後で気付いた。
「宏人はもう立ち入り禁止」
本気で怒ったらしい祥太の言葉に、さすがに反省したらしく、ごめんなさいと素直に謝った。
祥太はその様子にほだされそうになる。
しかし、押し倒されて彼女と比べられたことを思うと、宏人は許されないことをしたんだと、心を鬼にした。