バーテンダー
これが兄の言っていたトントンという音の正体なのだろうか。
確かに夜な夜なトンカチを叩く音がしていたが、あまり気に留めなかった。
サッカー部の朝練と宏人の家にも通い続けていたので、兄の部屋で何が行われていたかなんて、それどころではなかったのである。
「これはカウンターと言って、ここでバーテンダーがカクテルを作るんだ」
触ってみて、と言われて撫でるとその滑らかさに驚いた。
茂樹は目を丸くする祥太を見てくすりと笑った。
「驚いて当然だよね。まさか、ホームバーを作ってしまうんだから。裕一もがんばったね」
茂樹がそう言ってするりとカウンターの中に入って、中央に立つ。
気がつけば天井にスポットライトまで備え付けていて、兄がスイッチを押すと茂樹を照らした。
「ここまでするとはね」
茂樹が苦笑しながら、カウンターの上に置いてあった不思議な形の筒を取った。
「それは?」
「シェーカーだ。今度はこれを振る音がするから、覚悟しておけよ」
兄がニヤニヤして言う。
祥太は、これは何に使うものなのだろうと首を傾げた。
「それで、今日は何を飲ませてくれるの?」
茂樹が、カウンターから出てきて裕一に訊ねた。
「あ、はい」
兄が代わって中央に立った。
「ウォッカを」
兄が後ろの棚から隠していたらしいボトルを取り出して茂樹に渡した。
茂樹が、ああと頷いた。
「スミノフ・ウォッカだね」
赤い蓋のついた透明のボトルを受け取って眺めると返した。裕一は真剣な顔で分量を量るとカクテルを作り始めた。
「何ができるか楽しみだね」
と、祥太にイタズラっぽくウインクをした。
祥太はドキッとして頷く。
裕一は、シェーカーに材料を入れてしまうと、ストレーナー(濾し器)をはめてからトップをはめた。そして、右手でシェーカーのトップを押さえ、薬指と小指でボディを挟んだ。
左手は中指と薬指でシェーカーの底を支え、人差し指と小指でボディを挟むように持つ。親指はストレーナーに添える。それからシェーカーを肩と胸の間で前後に振り始めた。
カシャ、カシャ、カシャと小気味よい音がする。
祥太は目を丸くして眺めていた。
「すげぇ…」
感嘆の息を漏らすと茂樹が隣で目を細めた。
裕一は手を止めるとグラスを引き寄せてトップを外すとなみなみとそれに注いだ。透明の液体がグラスを満たしていく。
鮮やかな手つきで、カウンターを滑るようにグラスを茂樹の前へ差し出した。
「ウォッカ・マティーニです」
「ありがとう」
茂樹がグラスを傾けてひと口飲んだ。
「うん。おいしい。レモンピールもほんのりと香るし、さっぱりして辛口もよく効いている。ミスター・ボンドになった気分だ」
「茂樹さんっ」
からかい口調の茂樹に、裕一が口を尖らせる。祥太はわけが分からずにぽかんとしていた。それに気付いて茂樹がグラスを置いた。
「裕一は映画が好きなんだよ。特にカクテルが出てくる映画を探すのが趣味でね。それを見つけてはせっせと練習を繰り返す」
茂樹はすっと顔を上げると裕一を見つめた。
「ちょっと残念なのは、少し水っぽいかな」
「え?」
裕一が目を瞠った。
「氷が少し多かったのかもしれない。小ぶりに削った方がいいかもしれないね」
「あ、はい」
大人しく言うことを聞いている裕一を横眼に、祥太はそっとグラスを手に取って見た。鼻を近付け一気に飲もうとすると、
「待ったっ」
と兄が大声を出したのでびっくりした。
「わわっ」
祥太は思わずそれを引っくり返しそうになる。
「な、何だよっ。兄ちゃんっ。脅かすなっ」
兄弟の様子を眺めていた茂樹が、
「僕がカクテルをご馳走するよ」
と言った。
「え? 本当?」
祥太は目を輝かせた。茂樹は頷くと、裕一の隣に立った。
「ここには何があるのかな?」
と宝物を探すように、しゃがんでカウンターの下をごそごそ探った。
「ああ、いろいろあるね」
嬉しそうに言ってから、ビニール袋に入った氷を出した。