7話 物語は成長からはじまる。
迷宮に入って最初に感じるのは、音だった。
外の騒がしさが嘘のように消える。
石壁が吸収するのか、街の声が完全に遮断されて、青白い光の通路に三人の足音だけが残る。
「静かだな」
レギンが呟く。
「毎回こうなのか?」
「ああ……慣れたことがない。潜るたびにこれだ」
それを聞いて、少し安心した。
後方にいるシュリさんに声をかける。
「シュリさん……明かりをお願いします」
「呼び捨てでいい」
「う……分かった」
そう言うと彼女は、背負い袋から松明を取り出し火をつけた。
今は壁にある光る苔が照らしているが、少し進むと暗くなるから明かりは必須だろう。
前衛に立つ者は急な戦闘にも対応したいため、後衛が松明を持つのは基本だ。
「……後ろをついてきてくれ」
先頭を俺が歩く。
まず目線は低く、石畳の縫い目。次に壁の隙間。天井は後回しにして、先に床を確認してから両側を確認する。
ガドはこうやって動いていた。
意識してやったわけじゃない。身体がそう動いた。
◆
少し進んだところで手を上げた。
全員が止まる。
目を細める。通路の床。石畳の隙間。光の当たり方が、一か所だけ違う。
しゃがんで近づくと、石の間に細い糸が張られていた。ほとんど見えない。透明に近い、細い繊維だ。
先の壁に小さな穴がある。何かが飛んでくる仕掛けだろう。
「罠がある」
「どこだ?」
「俺の足元。触るなよ」
糸を傷つけないよう、指先で丁寧に外す。
ガドが迷宮でやっていた。あの手の動きを思い返しながら、同じように指を動かす。
カチリ、と何かが外れる感触。
「終わったぞ」
レギンが歩み寄り、その場を覗き込んだ。
「……どこにあった? 全然見えなかったぞ」
「石の色が少しだけ違ったんだ。注意すれば分かる」
「お前、昨日今日で登録したんじゃなかったのか」
「登録したのは昨日だけど……その前に一回迷宮には潜ってるんだ」
「……」
レギンは少し間を置いてから、頷いた。
「助かった。ありがとうな」
「……」
シュリはその様子をじっと見つめていた。
一旦は、このパーティで盗賊として役割を果たせていることに安心する。
とはいえ、油断はしないようにしよう。
慢心がどのような結果に繋がるかはもう十分理解してるから。
◆
しばらく進んだところで、物音がした。
カサ、カサ……。
手を上げて全員を止める。
足音だ。複数。ブラッドラットのような重い音じゃない。もっと細かい、軽い足音だ。
「シュリさ……シュリ、見える?」
「……三体。前方十メートル弱」
フードの奥からシュリが答えた。暗闇の中でも見えている。
弓兵は遠目がきく人が多い。こういう場面では心強い。
「何の魔物だ?」
「リテルン」
レギンの問いにシュリが答える。
講習で聞いた名前だった。亜人型の魔物。ゴブリンを小さくしたような。
やがて、影が姿を現した。
……小さかった。
体長は四十センチほどだろうか。まだらに毛が生えた、緑がかった肌。大きな目。細い手足。
その姿は人に似ていた。
縮小版の人間、とでも言えばいいのか。顔の造りが人間のそれに近くて、その目に何かが宿っているように見えた。感情のようなものが。
「リテルンか。安い相手だな」
「ええ。狩りましょう」
二人は奴らの姿を確認して、戦闘体勢に入っている。
短剣を握る手に力がこもる。わずかに震えていた。
(……倒さなければならない)
頭では分かっていた。でも、手が動かなかった。
その時、松明の明かりのせいか、一体が大きな目をこちらに向けた。
明確に、目があった。
「……ぎぃ」
小さな声を上げた。
(人間じゃない。でも)
「何やってんだ」
俺の迷いを断ち切るようにレギンが横から抜けた。
一歩踏み込んで、剣を振る。乾いた音。首が地面に転がった。
レギンは躊躇わなかった。
「ギィ! ギィ!」「ギィィィ!!」
仲間が一瞬で倒されてパニックになっている。
「……んっ!」
シュリが矢を放つ。
その矢は綺麗な放物線を描いて、逃げようとしていたリテルンの背中に刺さった。力なく倒れる音がした。
「――ギィィィ!!」
仲間が倒れたのを見て逃げれないと悟ったのか、最後の一体が俺の方へ走ってきた。
手の中の短剣。目の前の小さな生き物。
(やれ)
思考がそう叫んでいる。でも身体が一瞬遅れた。
リテルンが脚に噛みつく。
「っ……」
薄い布越しに歯が食い込む。大したダメージじゃない。でも離れない。
(やれ!!)
頭の中で叫ぶようにして、短剣を振り下ろした。
「ギ――」
瞬間、手に伝わってくる感触の気持ち悪さに思わず短剣を手放した。
忘れようとしていた、あの肉を突き刺し骨を砕く感覚が。
カラン。
落ちた短剣の隣、紫色の血液を流しながらリテルンは倒れていた。
しゃがんで、それを見た。
小さな身体。見開かれたまま動かない目。
(俺が、殺したんだ……)
「気にすんな」
いつのまにか、近くに来ていたレギンが言った。
「魔物だ。倒さなきゃ俺たちが死ぬ。それだけだ」
分かってる。分かってはいるが。
「……ごめん。行こう」
短剣を拾い、立ち上がる。
あの感覚が、まだ手に残っていた。
◆
探索を続けながら、俺は徐々に迷宮を歩く感覚を身につけていた。
索敵の勘。壁の異変を感じ取る目。通路の空気の微妙な変化。これらが少しずつ、使えるようになってきた感覚がある。
一昨日の迷宮でガドの動きを見ていた。あの背中を追いかけながら、俺の目と耳は何かを学んでいた。意識していなかったが、ちゃんと吸収していたらしい。
通路の分岐に差し掛かる。右と左。
「どっちだ」
レギンが聞く。
右の通路から、微かな風が流れてきている。
「右はダメだ。開けた空間か大きな空洞がある。何かいる可能性が高い」
「……俺には分からないんだが」
「左に行こう」
俺が言うと、レギンがわずかに口をつぐんだ。
何かを飲み込む顔だった。
「……まあ、お前が先頭だからな」
短い言葉だった。
言葉自体はそうだが、声の奥に何かが混じっていた。
(気のせいか)
左の通路を進んだ。
◆
通路を歩いていると、また魔物の群れと遭遇した。
ブラッドラットだ。五体いる。
あの姿を見ると、右腕が熱くなっていく錯覚に襲われる。あの毒には注意しなければならない。
「おい、どう動くんだ?」
レギンが聞いてくる。いつのまにか、このパーティは俺の意思で動くようになっていたのか。
「右の二体を俺が引き付ける。その間にレギンは正面と左をまとめて。シュリはレギンをサポートして」
「……分かった」
短い承諾。同時に動きだす。
俺は右の二体に動いた。ブラッドラットは速い。ただ速いだけじゃなく、予測の難しい動きをする。
だが一昨日よりも、対応できていた。
「グギィィィッ!!」
一体が飛びかかってくる。身体を半歩ずらす。爪が空を切る。そのまま短剣を首に当てる。
肉を切り裂く感触。もう一体が横から来る。振り返りながら払う。
「――ふぅ」
息を吐く。
気がつけば二体、片付けていた。あんなに苦労させられた相手を、あっさり。
横を見ると。
「くっ……こいつらちょこまかしやがってッ!」
レギンが三体と戦っていて、手こずっていた。
剣を振るうが、ブラッドラットの動きに翻弄されて当たらない。
後ろでシュリは弓を構えているが、レギンが射線上に居続けるため、撃てないようだ。
「後ろだ!」
思わず声が出た。
レギンが指示通りに剣を振ると、一体が吹き飛んだ。連携が崩れたのか、すぐにもう一体に剣が当たった。
残る一体。様子見しながら下がろうとするところ、脳天に矢が突き刺さった。
「……終わった」
シュリが言う。
五体、全部片付いた。
レギンは剣を持ったまま、俺を見ていた。
いや、正確には、俺が倒した二体の死体を見ていた。
「怪我はないか」
「……ない」
それだけだった。
◆
ブラッドラットの素材を剥ぎ取った後、探索を続けた。
俺は何度か罠を見つけ、分岐でルートを判断し、魔物の位置を先に察知した。
(おかしいな)
昨日今日で登録した俺が、こんなに動けるのか。
理由を考えると、やはり一昨日の迷宮の経験が大きい。あの一回で、俺の身体は相当な刺激を受けた。生死に関わる恐怖と興奮の中で、感覚が鋭くなった。
それと……盗賊としての成長。
ギルドでの水晶玉が異常に光っていた。魔力というものが盗賊という職業を通じてどう作用しているのか分からないが、何か関係しているかもしれない。
一方でレギンを見ると、動きが力任せだった。強い。確かに強い。でも無駄が多い。その動きは迷宮を潜るにつれて、粗くなっているように感じる。
(自分が気にしすぎているだけか)
そう思おうとした。
だが、レギンの目が少しずつ変わってきていることには気づいていた。
俺が罠を発見する度、ルート判断をする度、魔物を察知する度。
最初はただ驚いていた。そのうち言葉数が減り、次第に黙ることが増えた。
そして今は……俺の背中をじっと見ている。
(迷宮の呪い)
ガドが言っていた。ここでは感情が強く出る。普段より鋭く、普段より深く。
(レギンの中で、何かが増幅されているのかもしれない)
思考しているその途中。俺の背後で音がした。
振り返ると、レギンが一歩踏み出していた。踏んではならない場所へ。
なんで、と思う前に口が動いた。
「止ま――」
声が間に合わなかった。
踏んだ。ガチリ、と嫌な音がしたと思うと、横の壁から矢が飛んでくる。
身体が動いていた。レギンの腕を引っ張り、二人で壁際に跳んだ。
矢が二人の間をかすめて、壁に突き刺さる。
しばらくそのまま動かなかった。
「……なんだ、今の」
レギンの声が、かすれていた。
「――罠だよ! レギン、どうして俺より先に行こうとした!」
レギンは壁に突き刺さった矢を見ていた。
それから、俺の手が自分の腕を掴んでいたことに気づいたように、視線を下ろした。
力任せに腕を振るわれ、手が弾かれる。
「……」
何も言わなかった。
「レギン……」
俺も、それ以上言わなかった。
先に歩き出したのはシュリだった。
それからレギンは、ほとんど喋らなくなった。
◆
深層まで来たところで、俺は立ち止まった。
「そろそろ最深部だと思うけど……ここより先は三人じゃ厳しい。一旦帰ろう」
後ろに向けて言う。答えがなかった。
振り返ると、レギンが止まっていた。
「……レギン?」
「なんでだよ」
声が震えていた。
「なんでお前が判断するんだ」
「先頭だから――」
「俺より優れてるのか!?」
言葉が続く前に、剣がきた。
俺は横に跳んだ。刃が腕をかすった。
「っ……」
薄い切り傷。深くはない。だが確かに切れた。
レギンが剣を構えていた。
その目が、見たことのない色をしていた。
怒りじゃない。悔しさとも違う。もっと暗い、もっと複雑な感情だった。
「なんで奴隷が……俺より……」
言葉が続かなかった。
剣を握る手が、小刻みに揺れている。
「レギン。一度落ち着け。ここは迷宮だ。感情が増幅される」
「うるさい!」
レギンは怒鳴る。息を荒げながら続ける。
「お前に何が分かる! 俺はずっとここで戦ってきた! なのにお前は……奴隷のくせに……!」
迷宮の呪い。
感情が増幅される。普段ならここまで爆発しなかったかもしれない。だがここでは、感情の歯止めが効かなくなる。
レギンが悪いのか、と言えば、そうは言い切れない。こいつはただ、増幅された何かに飲まれているだけかもしれない。
しかし、この状況はどう考えてもまずい。俺だけで解決できる問題とも思えないし、このままだと殺し合いになるかもしれない。
シュリを見ると、彼女は弓を構えていた。まるで、襲い来るなら射つ。そう言っているようだった。
目が合った。
必死に助けを求める。
俺が何を言いたいのか伝わったのか、彼女は言う。
「――生き残った方につきます」
拒絶。
同じパーティなのに、なんでだよ。そう思わざるを得ないが、しかし彼女ならそう言う気もしていた。
シュリが助けにならないと分かった以上、レギンに集中する。
「レギン……落ち着いてくれ」
「黙れッ!!」
踏み込んでくる。
剣が来る。よける。
また来る。よける。
でも、次はよけれない。短剣を取り出して受けた。
ガキン、と金属音が響く。
力で押し込んでくる。重い。だがその動きは読めていた。
右に流しながら半歩引く。レギンのバランスが崩れた瞬間、脚に引っかけて倒す。
「――ぁ」
レギンが地面に転がった。
すぐに起き上がろうとするが、俺は短剣を首筋に当てていた。
沈黙。
レギンは動かなかった。荒い息だけが聞こえた。
剣を持つ手が、ゆっくりと床に落ちた。
どのくらいそのままでいただろうか。
呼吸が落ち着くとともに、俺はゆっくりと短剣を引いた。
その間、シュリはずっと壁際に立ったままだった。
「シュリ……」
「終わりましたか?」
シュリが言った。
彼女は最初からそういう人間だった。感情的になっている余裕はない。むしろ、この迷宮では彼女の行動のほうが正解なのだろう。
「……」
レギンが起き上がった。
俺を見ない。床を見ている。
「……俺は」
声が小さかった。
「もういい」
立ち上がって、違う道を歩き始めた。
その歩みを、止めれなかった。
先ほどまで殺し合いをしていた相手に、かける言葉が見つからなかった。
レギンの足音が遠くなっていく。その後ろ姿が、いつかの気力を失った女と重なる。
「行きましょう」
シュリが短く言った。
俺は少しの間、レギンが消えた暗闇を見ていた。
(迷宮の呪いだ。あいつが悪いわけじゃない)
そう思おうとした。
でも、腕に残る痛みだけが、現実を押し返してきた。
「……ああ」
歩き出した。
二人で、暗闇を進む。




