物語は迷宮からはじまる。
意を決して、迷宮へと足を踏み入れる。
瞬間、空気が変わった。
外よりも冷たい。
湿っているのに、妙に乾いたような臭いが鼻につく。カビと土、それから何か獣じみた臭気。壁には青白く光る苔のようなものが張り付き、ぼんやりと通路を照らしていた。
石造りの通路はかなり広く、五人が並んでも余裕で進めるだろう。
上を見上げる。天井も高く、両手を伸ばしても全然届きそうにない。三メートル以上はあるだろう。
「……」
誰も喋らなかった。
いや、喋れなかった。
先頭の男が歩き始めると、それにつられるように俺達も歩き始めた。
足音だけが響く。
コツ、コツ、コツ。
その音が妙に耳につく。
経験したことのない緊張感に襲われ、身体が震える。
周りを見ると、同じような表情が浮かんでいた。
その時、後ろから大きな音が鳴った。
ゴゴゴゴゴ――ン。
完全に閉じ込められた。
そう理解した瞬間、胃の奥が冷たくなる。
一人の奴隷が持たされた松明の炎が、風に吹かれて揺らめく。
「おい」
先頭を歩いていた片目の男が低い声を出した。
「固まって歩け。壁際は避けろ」
今までロクに喋らなかった男が、急に協力的な態度で接してきたことに違和感を覚える。
しかし、男の顔を見ると真剣な表情をしていた。
気になったので、聞いてみる。
「なんでだ?」
「罠がある」
その言葉に、全員の顔が強張った。
男は前を向いたまま続ける。
「音を立てるな。騒ぐと寄ってくる」
「寄ってくるって……何が」
誰かが震え声で聞いた。
男は少しだけ黙り、それから吐き捨てるように言う。
「魔物だ」
その単語だけで空気がさらに重くなった。
魔物。俺自身には聞き馴染みのない言葉だが、身体は震えている。
本来の身体の持ち主であるユウトの記憶がそうさせているのか。
無意識に短剣を強く握りしめていた。
ボロボロだ。刃こぼれもしてる。
こんなので戦える気がしなかった。魔物とやらに襲われたらひとたまりもないだろう。
「……アンタ、名前は?」
前を歩く男に尋ねる。
「ガド」
「俺は……ユウト」
「覚える必要あるか?」
ぶっきらぼうな返事だ。
だが、その声には妙な落ち着きがあった。少なくとも、この場で一番経験があるのは間違いない。
だから皆、自然とガドの後ろを歩いていた。
ガド自身もそれが良いと思っているのか、一人で先頭にいるという危険な状況に文句も言わない。
迷宮について、この世界について何も知らない俺もガドの後ろについていくしかない。
しばらく歩いていると、声を上げる者がいた。
「く、くらいよぉ……こわいよぅ……」
馬車で泣いていた女の子だった。
心細くなってしまったのか、震える声で呟いた。
「おいガキ」
「ひっ」
「口を閉じろ。死にたくなければな」
ガドは子供相手にも容赦ない物言いだ。
だが、それを見ても周りの大人たちは庇う様子もない。ガドの言うことが正論ということもあるが……それ以上に、この世界は他人に気遣うほど余裕もないし、倫理観もないのだろう。
見たところ、十歳にも満たない子供だ。そんな子が親元を離れてしまって……。
「……怖いなら、俺がそばにいようか」
優しく声をかける。
「え?」
「すぐ後ろを歩いて。俺の背中だけ見て歩いてたら、きっとあっという間だよ」
「……」
「名前、なんていうの?」
「えっと、ミナっていうの……」
「そっか。さっきも聞いたかもしれないけど、俺はユウト。よろしくね」
「うん」
そういうと、ミナは俺のすぐ後ろを歩くようになった。
ペタペタと軽い足音がついてくる。
「もし疲れたらおんぶしてあげるから、遠慮なくいってね」
「あ……ありがとう」
子供の相手はそこまで得意ではないんだけど……みんなが放置するなら、俺が面倒を見るしかない。
そんな様子を見ていたのか、ガドは妙な表情を浮かべていた。
目を見開き、心底驚いているような。
続けて、口を開く。
「こんなバカがまだいたとはな……」
◆
通路をしばらく進む。分岐がいくつもあった。
右、左、下へ続く階段。どれも同じように暗い。
先頭を歩くガドは、まるで道を知っているかのように進んでいく。
思わず、口を開いてしまった。
「迷わないのか?」
「……」
ガドはこちらを見てため息を吐く。
しかし、口を開いて答えてくれる。
「一階層は単純だ。新人用だからな」
「新人用……」
新人用とは言うが、死ぬ前提で俺たちはこの迷宮に送られていることを考えると、そう安いものでもないのだろう。
「個々では弱い魔物が多い。その代わり、奴らは群れる」
群れる……か。嫌な言葉だ。
しかし、ガドはどうしてここまで迷宮に詳しいのだろうか。
今はゆっくり話せる状況ではないだろうから、どこかのタイミングで話を聞けたらいいが……。
その時。
ピタ、とガドが止まる。その場に緊張が走る。
「……聞こえるか」
耳を澄ます。
最初は分からなかったが。
カサ……。カサカサ……。
何かを引きずるような音。それも一つではない。
目の前というほどの距離感ではないが、間違いなく、この暗闇の奥から聞こえてくる。
「灯りを下げろ」
ガドが囁く。
奴隷の一人が持っていた松明を慌てて伏せる。
暖色の明かりに包まれていた通路が、青白い苔の光だけになる。
暗い。だが、完全なる闇というわけではない。
「岩陰に隠れて、できるだけ体勢を低くするんだ」
ガドの言葉にみな必死に従った。
俺も、近くにあった岩陰に隠れる。ミナも同じ場所で隠れた。
彼女の手が背中に触れ、震えているのが伝わってくる。
その震えが伝わり、俺も恐怖心に支配されていく。
暗闇のなかで。赤い点が浮かんだ。
一つ、二つ、三つ。数えているうちにも赤い点はどんどん増える。
やがて、物音は鳴き声のようなものに変わった。
暗闇の奥から、影のシルエットが徐々にあらわになっていく。
「……ネズミ?」
誰かが呟く。
確かに、形はネズミのようだった。だが、普通のネズミじゃない。
大きさが、大型犬ぐらいあった。
毛がまだらに抜け落ち、赤黒い肌が見えている。口からは黄色い涎を垂らしていた。
そして目が……人間みたいにギラついていた。
「ブラッドラットだ」
ガドが短剣を抜いた。
戦闘態勢なのか? 戦うべき相手なのか?
迷っていると、ガドは囁く。
「刺激するな。ゆっくり下がれ」
その言葉を聞き、安堵した。
よかった。戦うわけではないんだな、と。
だが。
その時だった。
「ひっ――」
後ろにいた女が腰を抜かしたのだろう。
尻もちをつき、石を蹴飛ばす。
カランッ――。
乾いた音が響いた。
「クソッ――」
ガドが言葉を発すると同時に。
赤い目が、一斉にこちらを向いた。
「グギィィィッ!!」
「走れッ!!」
ガドが怒鳴った。
同時に、ブラッドラットの群れが突っ込んでくる。
「うわぁぁぁ!!」
誰かが悲鳴を上げるのと同時に、先頭の一匹が飛びかかってくる。
鋭い牙と、赤黒い爪。死の予感。
「くっ――」
反射的に短剣を振るった。
ガキィン!
硬い。首あたりに刃先が当たっているのに、鉄みたいな感触。
ネズミは止まらず、そのまま肩に噛みつこうとしてくる。
「ッ、この……!」
押し返そうとするも、力で負けている。
このままだと、やられる……!
「――おらぁ!!」
横にいたガドがネズミを蹴り飛ばした。
ブラッドラットが壁に叩きつけられる。しかし、効いてる様子はなくギラギラした目をこちらに向けている。
「走れユウト!!」
「あ、あぁ……」
そこで振り返ったとき、既に走り出している者もいれば、恐怖したのかその場でうずくまる者もいた。
倒れてる人たちは、どうするのか? 俺にできることは……
「置いてけ!! 止まったら全員死ぬ!!」
迷いを察したのか、ガドが怒声を上げる。
「ミナ!!」
「え――」
ミナの手を握り、全力で走り出す。
悲鳴が響く。
後ろで誰かが倒れた。肉を噛み千切る嫌な音がする。
「いいから逃げろ!! 死ぬぞ!!」
ガドは逃げれずにいる奴隷を蹴飛ばしながら走る。
やばいやばい。
急いで逃げなければ追いつかれる。足音や鳴き声が段々と近づいてきている。
必死に足を動かしていた。
動けずにいる者も無視して、ひたすらに――
グン。
突然、何かに引っ張られた。
掴んでいた手が離れた。
「え……」
振り返る。
動けなくなっていた女の奴隷が、ミナの足を引っ張っていた。
音を立てた女だった。
「は、はなし――」
「し、死にたくないッ!! 助けてぇぇぇ!!」
女は腕に血管が浮かび上がるほど、必死にミナの足を掴んでいた。爪が肌に食い込んでいるのが見える。
ミナは痛そうに、必死にその女の手を足から剥がそうとしていた。
奥から、大量の赤い目が徐々に大きくなっていく。
音が、大きくなっていく。
ドッドッドッドッ。足音なのか。俺の心臓の音か。
極限の状況で、頭がかつてないほど回転する。
(どうする。ミナを無理やり引っ張るか? いや、女は片腕が引きちぎれることになっても離さないだろう。女ごと引っ張っていく? いや、女は俺よりも身体が大きい。とてもじゃないが、俺のこの細い体では抱えていくこともできないだろう)
グルグルと頭をいろんな考えが巡る。答えは出ない。
ほんの一秒にも満たないその思考。だがその結論は一向に出ないまま、俺はミナを見つめた。
ミナも、こちらを見つめていた。
「たすけて――」
声にならない声が、聞こえた気がした。
その瞬間、俺はある一つの正解にたどり着いた。
たどり着いてしまった。
その瞬間、脳が冷えるのを感じる。
今までの自分では考えることすらしなかったことを。
しかしそれ以外の選択肢がないということを。
理解したから。
震えていた身体が落ち着く。そして、今から自分がしようとしていることに背筋が凍る。
俺は振り返り、ミナの下へと駆けた。
そして、ミナの足を掴んでいる女の腕へ。
短剣を思いっきり突き刺した。
「ぁぇ――」
目の前で起こった光景を理解できなかったのか、女は叫ぶのをやめてそれを見つめていた。
掴んでいた力が緩む。その隙に、ミナを引っ張る。
「走るぞ!!」
ミナを連れて走り出す。彼女を見ると、唖然とした表情を浮かべていた。
それでもありがたいのは、足を動かして走ろうとしてくれていることだ。
後ろから肉が裂けるような音がしたと思うと、すぐに大群が蠢く音に消えた。
「はぁはぁ……」
やめろ。考えるな。今は逃げることだけに集中するんだ。反省も後悔も、生きのびなければできない。
自分に言い聞かせるようにして、必死に足を動かす。
息が切れる。肺が痛む。飢えたこの身体は、少し走っただけで悲鳴を上げていた。
隣を見ると、ミナも必死に足を動かしている。俺が引っ張っているのもあり、辛そうだ。
「「グギィィィ!!」」
「うわぁぁぁ――」
誰かが倒れるたびに、肉を噛み千切る嫌な音が鳴る。
その声に急き立てられるようにしておれたちは走り続けた。
「こっちだ!!」
前方を走っていたガドが声を上げ、指を向ける。
そっちを見ると、狭い横道だった。とはいえ、ブラッドラットたちも通れそうなぐらいの道幅に見える。安全なのだろうか?
疑いが頭をよぎるが、ガドを信頼してそちらへ向かう。
他の奴隷たちも、そっちの方向へと足を向ける。
「ミナ!」
「わ、わたしっ、もう……っ」
「もう少しだ!」
逃げている全員がそこへと向かう。
最後尾はおれたちのようだ。すぐ後ろに奴らが迫っているのを感じる。
「はやく!!」
いち早く着いたガドが急かすようにして入口から顔をのぞかせている。
最後の力を振り絞って足を動かし、横道へと飛び込んだ。
その直後。
ガゴォンッ!!
背後から、どでかい金属音が鳴る。見れば、鉄格子が落ちて入口を塞いでいた。
向こう側でブラッドラットたちが狂ったように暴れていた。
「グギィィィ!!」
鉄格子がミシミシと揺れる。だが通れない。鋭い牙が鉄を噛み、金属をこすり合わせたような不快な音が鳴る。
それがしばらくつづいた。
やがて群れは諦めたのか、徐々に引き始め暗闇へと消えていった。
「はぁ……っ、はぁ……」
静寂。誰のものとも分からない息づかいだけが聞こえる。
「……クソが」
ガドが壁に拳を打ちつける。
その顔には苛立ちや後悔よりも、諦めに近い色が浮かんでいた。
六人だった。おれら含めて、生き残ったのは六人。
半分近く死んだ。
迷宮に入って、まだ三十分も経っていないだろう。
改めて、おれたちは死地にいるんだと思い知らされる。
その時、袖が引っ張られる。
「お、おにいちゃん……」
小さな手が震えている。
安心させようと右手を動かそうとしたとき。
そこで気づいた。
俺の右腕、さっきブラッドラットの爪が掠った場所だ。
そこの皮膚が黒ずみ始めていた。
「……え?」
熱い。
興奮していて今まで気づかなかったが、傷口が焼けるように熱い。
横で見ていたガドの表情が変わる。
「マズいな」
「な、なんだよこれ」
「ブラッドラットの毒だ。効きは遅いが……血に入ると全身に回って、焼けるような痛みと共に内蔵を腐らせる」
「は……?」
ガドは奥歯を噛み締めて苦しい表情を浮かべた後、大きくため息を吐いた。
「冒険者なら毒消し薬の一つや二つあるが……おれたち奴隷はそんなの持たされてねえ」
「……」
転生して、奴隷になって、ダンジョン送りで、毒にかかり。対処法はなし。
「はっ……」
乾いた笑いがこぼれる。
必死になって人まで刺した結果がこれか。
あのときの女の顔が、頭から離れない。短剣を刺した感触まで、まだ手に残っている気がした。
死ぬその時まで、決して忘れることはできないだろう。
「おにいちゃん、だいじょうぶなの?」
「ああ……大丈夫だよ」
口からでまかせだ。だけど、幼い少女にはあまりにも残酷な光景を見せてしまった。
これ以上、不安にはさせたくなかった。
「まだ助かるかもしれねえぞ」
「え?」
ガドは言う。
「おれたちは貴族たちに遊び半分で迷宮送りにされたが……価値のあるものさえ持って帰れば奴らは目の色を変えるはずだ」
「……」
「金になるって分かれば、死なないように治療もしてくれるはずだ」
仮定も仮定。希望的観測。彼らしくない言葉だった。
それが本心からくる言葉なのかは分からないが、確かに可能性はあるのかもしれない。
そうだ。おれはまだ死ぬと決まったわけじゃない。
なら、最後まであがくしかないじゃないか。
「よし、そうと決まれば急ぐぞ」
歩きはじめるガドに聞く。
「今更だけど、どこに向かうんだ?」
「一階層の深層だ。迷宮は深いところほど価値のあるものが掘れる」
深層、か。これほど人が死んだというのに、おれたちは更に深く潜るしかないのだ。
「行くぞ」
そうして、奴隷たちは暗闇に消えていった。




