物語は奴隷からはじまる。
頭が割れるように痛い。何も見えない。なんだ、この痛み。
ガタンッ――!!
「っ……!?」
背中を強打する。
腐った木材みたいな硬い床に身体を叩きつけられ、息が詰まった。
次の瞬間。
鼻を刺すような臭気が、肺の奥まで流れ込んでくる。
汗。泥。獣臭。血。腐った藁。糞尿。嗅ぎなれない臭いが一気に。
「げほっ……! げほっ……!」
反射的に咳き込む。息を吸おうとしても、その空気があまりにも異常で咳き込みつづける。
やっと目を開けると、薄暗い空間だった。
木の板で囲われた空間。
隙間から差し込む光が、ちらちらと揺れている。そう、この空間自体が定期的に揺れているのだ。
そのたびに全体が軋み、釘が悲鳴みたいな音を立てた。
ガタン! ゴトン!! ガガガガッ!!
ひときわ大きな揺れが襲う。
「いっ……てぇ……」
尻が浮くほど揺れた。
車輪が石に乗り上げるたび、身体ごと跳ねた。
車輪? いや、そもそもこれ……。
「馬車……?」
口に出した瞬間、喉が異様に乾いていることに気づく。頭が冷静になったのだろう。
ひび割れた唇を舐めると、鉄臭い味がした。
視界を巡らせると、十数人。同じ荷台に人が押し込められていた。
皆、痩せている。いや、痩せているなんて言葉じゃ足りない。
骨だ。
皮膚の下に肋骨が浮き、頬は落ちくぼみ、目だけが異様にぎらついていた。
着ているものも酷かった。布、というより雑巾に近い。泥で茶色く変色した麻布を身体に巻き付けているだけ。
当然、俺自身も同じ格好だった。
「……なんだよ、これ」
自分の腕を見る。
細い。あまりにも。筋肉なんてほとんどない、ガリガリだ。
膝には痣。
足首には擦り傷。
爪は割れている。
まるで長年まともな食事を取っていないみたいだった。
「これが俺――」
その瞬間。
脳裏に、強烈な光景が蘇る。
『危ないッ!!』
その時覚えているのは、やけにうるさいクラクションの音。横断歩道でスマホを落とした女子高生。突っ込んでくる大型トラック……。
身体が勝手に動いて――。
「……あ」
そこで途切れた。つまり。
「俺……死んだのか?」
いわゆる、異世界転生。
ラノベとかで見たことあるやつだ。俺もよく読んでいた。
だが……もっとこう、なかったのか?
王族とか。貴族とか。チート能力とか。
なんでボロ布一枚で家畜みたいに運ばれてるんだよ。俺。
そのとき、耳に声が入ってくる。
「うぅ……おがあざん……」
隣で、小さな女の子が泣いていた。
年齢は六、七歳くらいか。
髪は泥で固まり、鼻水を垂らしている。
周りに親らしき人はいない。一人のようだ。周りの人びとは、女の子が泣いても床を見て固まっている。
「やだぁ……こわいよぉ……」
その声が聞こえた瞬間。
馬車の前方から怒鳴り声が飛んできた。
「うるせぇぞガキ!!」
バシィッ!!
「ひっ!?」
何かが弾ける音だった。
御者が、荷台へ鞭か何かを打ち込んだのだろう。木の板壁がギシギシと鳴る。
「商品が喚くんじゃねぇ!!」
商品と、確かにそう言った。人間じゃなく。商品。
周囲の大人たちも顔を伏せるだけだった。誰も逆らわない。ただ目を伏せるだけだ。
いや、逆らえない。
その空気が、当たり前みたいにそこにある。
思わず拳を握った。だが。
「……っ」
力が入らない。
腹が減っている。いや、減っているなんてレベルじゃない。身体の芯が空っぽだった。今ここで立ち上がっても、まともに殴りかかることすらできないだろう。
それほどまでに、この身体は弱っていた。
女の子は、小さい声ですすり泣いていた。
◆
数時間後。
頭に血が回ってきたのか、脳が機能し始めているのを感じる。つまり、記憶が戻ってきている。
この身体の元の持ち主。俺は現代の日本で死に、この身体に魂として入ってきた。
名前は――「ユウト」。
山奥の寒村で生まれ育った少年だ。
畑は痩せ。獣も少なく。果実も実らない乾いた森。
冬になれば何人も死ぬ。そんな土地でユウトは育った。
まともな食事なんて年に数回。
木の根を掘り、麦を水で薄めて粥にして、虫を食べる。
それが日常だった。それでも、ユウトの家族はまだマシだった。だれも死なずに「家族」ができていた。
でも、今年はさらに酷かったらしい。
飢饉だ。
雨は降らず、作物は枯れ、森から生命が消えていった。村の人々は税を払う事もできず、徐々に倒れていった。
それでも、村にはまだ資源があったのだ。
『人』だ。
その中の一人が、この身体だった。それだけだ。
「終わってるだろ……」
思わず呟く。
文明レベルも低い。道は舗装すらされていない。窓ガラスも見ない。
衛生観念なんて皆無。
馬車の外を見れば、畑を耕している農民が裸足で泥を踏んでいた。
そして皆、異様に痩せている。生きるだけで精一杯。
そんな世界。
「俺はいったいどうなるんだ……」
「おい、新入り」
突然、前方に座っていた禿頭の男が話しかけてきた。
右目が潰れている。よく見れば、体中傷だらけだ。只者ではなさそうだ。
「お前、鉱山送りじゃねぇのか?」
「……鉱山?」
「普通の奴隷はまず鉱山だ。だが、お前みてぇなヒョロはすぐ死ぬからなぁ……」
男は俺の腕を見て鼻で笑った。
「だから“あっち”に回される」
「あっち?」
男はニヤリと笑った。
「迷宮都市だよ」
――迷宮都市。
迷宮。ダンジョン。
その言葉に、少しだけ胸が高鳴った。異世界ファンタジー。冒険者。魔法。幼い頃から夢に見た想像上の世界だ。
しかし、次の言葉で、その幻想は粉々になった。
「貴族どもの遊び場さ」
「……遊び?」
「奴隷を潜らせて、どこまで生き残るか賭けるんだよ」
「は?」
「使い潰しだ。死ねば次を買うだけ」
男は笑った。乾いた諦めきった笑いだ。
人間の命が、代えの効く道具……。その事実が、突然現実的なものとして俺に降り掛かってきた。
「運が良けりゃ、生き残って冒険者になれるがな……」
その目には、何も宿っていなかった。
◆
あれから荷台の中で三日ほど数えた。幸い、最低限の飯は貰えるらしく生きるだけなら問題はなかった。
途中で何回か街に寄って、あの男が言ったように体つきの良い男は途中の街で降ろされていった。
残されたのは、あの男と俺、後は女と子供だった。男は鉱山の街で降りるかと思ったが……。
「おらぁ片腕が動かねえ」
男が御者にそう言うと、迷宮都市行きが決まった。
やがて、馬車の動きが遅くなる。気づくと揺れも少なくなってきた。経験上、これは街に近づいたときの状況だ。
木の板の隙間から前方を見る。
巨大な城壁都市が見えた。
「うわ……」
思わず声が漏れる。
見上げるほど高い石壁。
煙を吐く工房。
人、人、人。
山村育ちの記憶しかないこの身体には、まるで別世界だった。当然、俺自身にとっても。
「すげ……」
感嘆の声を漏らすと、俺の声に反応して何人かが同じように外を見始める。
馬車が動いて徐々に都市に近づくと、城門が見えてきた。
「止まれ!!」
怒声に近い声が聞こえ、馬車が止まる。どうやら、入門手続きがはじまるようだ。
「はい。商品は奴隷で――」
御者のものが見張りの兵士と何か会話しているのが聞こえてきた。都市の中に入るのだろう。
馬車が動き始め、外の景色が変わっていく。
今まで訪れた街とは比較にならないぐらい規模が大きい。
さらに、綺麗だ。下水設備があるのか道端に糞尿が溜まっている様子はない。
この世界の中でも、最新の文明であるということを肌で感じる。
馬車はそのまま進み続け、鉄格子付きの建物へ入っていく。
「いやー長かった……報酬は弾んでもらうぜ」
御者が馬車を停め、荷台の扉を開ける。
周囲には、武装した兵士が待機していた。皆一様に、殺気に近い雰囲気を纏っている。
その中の一人が荷台に近づいてきて、感情のこもっていない目をこちらに向ける。
「ついてこい」
是非も言わせぬといった様子だ。
「ふっ……」
この状況でも、どこか余裕そうな男。
その男を先頭に、俺達は荷台から降りて兵士について行く。
金で装飾された廊下を通る。
その先で、巨大な扉を兵士が開けた。
開けた先は広間になっていた。
そして、俺達を見下ろすように高台からこちらを見る目があった。
奴隷商。
そこにいた貴族は、太っていた。
この世界で、太った人間を初めてみた。明らかに高級なシルクの生地の服。宝石の指輪を何個もはめ、脂ぎった顔。
「ほぉーう。今年のガキどもか」
品定めするような目。家畜を見る目だった。
「こいつら、迷宮用か?」
「はい旦那様。安物ですが数はおります」
「ははっ! どうせすぐ死ぬ! 安いので十分よ!」
周囲にいる同じような格好をした貴族たちも笑う。
なんなんだこの状況は。これが当たり前なのか?
「今回は誰が一番奥まで行くか賭けませんか?」
「子供を先頭に置いた方が面白いぞ!」
胸糞が悪い。
だが、ここではそれが普通なのだろう。逆らうことはできない。
気づくと、横に見知らぬ男が立っていた。
「……連いてこい」
そう言って現れた男を見て、少し驚いた。
大男だった。全身傷だらけ。片耳が欠けている。だが、その目だけは異様に鋭く、捕食者のようなギラつきを見せていた。
「そいつぁ元奴隷だ」
貴族が笑いながら言う。
「運良く生き残ってなぁ。今じゃワシの護衛よ」
その男は馬鹿にしたようなその言葉を聞いても気にしていないのか、それとも言葉を発することが禁じられているのか、無視して続ける。
「並べ」
その言葉に、全員が従う。
逆らえば殺されるともう理解していた。あの女の子ですら、声を上げなかった。
机に羊皮紙が並べられる。貴族の家とはいえ、紙が量産されているのを見るとやはりこの都市だけ水準が異常に高いように思える。それも迷宮の恩恵なのだろうか……。
思考していると、急かすように護衛が言う。
「仮の契約書だ。読める必要はねぇ。名前を書け」
その紙を見て、息を呑んだ。
(日本語……!?)
この世界で文字らしき文字を見なかったから認識してなかった。
これが公用語なのか、それとも俺が転生したからなのか、ユウトの記憶ではどうだった?
さまざまな考えが頭を巡る。
だが、文字が読めることでこの状況が変わるわけでもなさそうだ。
何か私語を発し、貴族の気分を害したら周りの兵士がまたたく間に俺を八つ裂きにするだろう。実際、文字を読めていなさそうな奴隷たちも質問すらせずに自分の名前を書いているようだった。
(落ち着け俺……)
改めて羊皮紙に目を落とす。
色々とツッコミどころ多い文章だったが、最後の方に目を引く一行があった。
【借入金:金貨10000枚】
頭がおかしい。
ユウトとしての感覚だけでも分かる。村なら何百年分にも及ぶ金額だろう。
これが、俺達の命を保証するお金……ということだろう。拒否すれば死、受け入れれば借金というわけだ。狂ってやがる。
「これを返済するまで、お前らは旦那様の所有物だ」
「……返せるわけ」
呟いた瞬間。
護衛の男がこちらを見る。文字が読めることに気づいたのだろう。少し驚いた顔をする。
男が近づいてきて、耳打ちしてきた。
「返せねぇよ」
静かな声だった。
だが、男は気分を害した様子もなく、話を続ける。
「普通に働けばこの都市でも六十年。大抵は死ぬ」
絶望的な現実を、ただ事実として告げる声。
しかし、男はその後少しだけ笑みを浮かべる。
「だが迷宮で成果を出せば話は別だ」
男は自分の剣を軽く叩いた。
「魔石。遺物。素材。価値あるもんを拾えば借金は減る」
「……だから潜らせるのか」
「そうだ。数撃ちゃ当たる」
合理的だ。
そして、あまりにも軽い命。
◆
翌朝。
迷宮の入口に、俺達奴隷は立たされていた。
馬車の中には大勢いた人びとも、今となっては十人ほどか。
皆、青ざめている。それもそうだろう。昨日の口ぶりからして、迷宮に入った者に命はない。俺達は今から、死にに行くのだから。
武器はボロい短剣一本。革鎧ですらない。麻布のボロい服。それだけだ。
「お前らの仕事は簡単だ」
護衛の男が言う。
「迷宮に入って、持てるだけ持って帰る」
「魔物が出たら……?」
誰かが震えながら聞く。
「逃げろ」
男は即答した。
「勝てるわけねぇ」
静まり返る。
「では、開けます」
様子を見ていた迷宮を管理する兵士が言う。
巨大な石門が、ゆっくり開く。
その先は暗闇。冷たい風が吹き出してくる。
湿ったカビくさい臭いがする。まるで巨大な獣の口だ。むせ返るようだ。
「行け」
誰も動けない。恐怖で足が止まる。
だれが、獣の口に自ら足を踏み入れるのだろうか。
背後では、貴族たちが笑っていた。
「誰が最初に死ぬと思う?」
「右のガキに金貨三枚」
子供に金貨を賭けながら。
「……っ」
拳を握る。
生きる。絶対に。
こんな場所で終わってたまるか。
片目の男が先頭に立ち、こちらを向いた。
「行くぞ。ボウズ」
「……あぁ」
そして。
奴隷たちは、ゆっくりとダンジョンへ足を踏み入れた。




