第8話 王国騎士団からの依頼
レクスがベルン郊外の川を発ってから、北東の国境砦へ到着するまでには半日ほどかかった。
王国騎士団が用意した馬車は軍用らしく頑丈だったが、乗り心地まで良いわけではない。車輪が石を踏むたびに座席が跳ね、そのたびに向かいへ座った騎士が申し訳なさそうな顔をした。
「急なお願いになってしまい、本当に申し訳ありません。私は第三大隊副長のローディスと申します。本来なら大隊長自ら迎えに上がるべきところなのですが、砦を離れられる状況ではなく……」
「気にしなくていい。人が倒れているなら、迎え方に時間を使う方がもったいないだろう」
「そう言っていただけると助かります」
四十歳前後に見えるローディスは、鎧こそ磨かれているものの、目の下には濃い隈があった。
レクスはそれを見て、砦の状況が報告以上に悪いのではないかと考えた。
「倒れた兵士は何人だ?」
「今朝の時点で四十三名です。軽症者を含めれば六十を超えます。最初の発症者が出たのは五日前で、その時は疲労かと思われました。ですが翌日から急激に増えまして」
「症状は?」
「最初は身体が重いと言い始めます。その後、手足の感覚が鈍り、高熱でもないのに大量の汗をかく。重症になると自力で立てません。意識はある者が多いのですが……」
ローディスは一度言葉を切った。
「眠れないんです」
「痛みで?」
「恐怖で、です。眠ると誰かが胸の上に乗っているような感覚があり、耳元で声がする、と」
「声?」
「『渡せ』と」
「何を?」
「分かりません。発症した者は全員、同じ言葉を聞いているそうです」
レクスは腕を組んだ。
病気なら同じ幻聴が出ることもあるだろうが、呪詛反応が確認されているなら話は違う。
「治癒術師は?」
「王都から二名、高位治癒術師が来ています。毒、病、魔力障害、精神異常まで一通り調べました。しかし治療魔法をかけても、良くなるのはほんの数分だけです」
「呪術師は?」
「三名。全員、呪いが掛かっていることまでは分かるそうですが、術式の形が見えないと言っています。無理に解除しようとすると、患者の方が先に衰弱する恐れがあるとも」
「なるほど」
敵だけを弱らせるなら簡単だ。
けれど呪詛が人間の生命力に食い込んでいる場合、下手にまとめて壊せば宿主まで傷つけることがある。
レクスにも、現物を見る前から「できます」と断言するつもりはなかった。
「それで、どうして俺のところへ?」
尋ねると、ローディスは少しだけ言いづらそうにした。
「ベルン支部から届いた報告書に、あなたが黒鎧のガルムへ複数の弱体術を同時に施し、魔獣自身の抵抗能力まで低下させたとありました」
「ああ」
「王国の呪術師たちは、呪いそのものを消そうとして失敗しています。大隊長がその報告を読んで、発想を変えたんです。消せないなら、まず弱らせられないか、と」
「呪詛そのものを?」
「無茶を言っているのは承知しています」
ローディスは苦笑した。
「正直に申し上げれば、我々も半信半疑です。ただ……他に手がありません」
「半信半疑なのは普通だと思うぞ」
「怒られませんか?」
「どうしてだ?」
レクスが本気で分からず尋ねると、ローディスは一瞬ぽかんとして、それから小さく笑った。
「いえ。ベルンで聞いた評判通りの方だと思っただけです」
「どういう評判なんだ?」
「それは……ご本人には少々申し上げにくいですね」
嫌な予感がしたので、それ以上は聞かないことにした。
◇
国境砦へ到着した頃には、日が傾き始めていた。
石造りの城壁の上には弓兵が立ち、普段なら訓練の声が響くはずの中庭も妙に静かだった。
代わりに聞こえてくるのは、担架を運ぶ足音と、治療棟から時折漏れる苦しげな声だった。
「想像していたより酷いな」
「昨日まではまだ歩ける者が多かったのですが」
ローディスの顔が曇った。
「こちらです」
案内された治療棟には、簡素な寝台が並べられていた。
男たちの大半は屈強な兵士なのだろうが、今は頬が落ち、浅い呼吸を繰り返している。
入口近くでは白い法衣の女性が魔法を使っていた。
「もう一度、浄化をかけます。少し楽になるはずですから」
「先生……もういいよ。あんたまで倒れちまう」
「患者が治療師の心配をしないでください」
強い口調で返しているものの、女性の額にも汗が滲んでいた。
その隣で、老齢の呪術師が難しい顔をしている。
「ローディス副長、その若者が?」
「はい。黒魔導士レクス殿です」
老呪術師の視線がレクスを頭から足まで測った。
「若いな」
「十九だからな」
「年齢を聞いたわけではない」
「そうか」
「……変わった坊主だな」
なぜか初対面の人間から似たような反応をされることが増えている。
レクスは気にせず、最も近い寝台へ向かった。
「この人を診ても?」
「頼む」
横たわっている兵士は三十歳ほどだった。
目は開いている。
「聞こえるか?」
「……ああ」
「名前は?」
「グレン。歩兵隊だ」
声は掠れているが、意識は明瞭らしい。
「少し魔力を見る。嫌な感じがしたら言ってくれ」
「こんな状態だ。多少嫌でも我慢するよ」
「無理はしなくていい」
レクスはグレンの胸元へ手をかざした。
すぐに違和感があった。
人間の魔力は血液とは違うが、身体の中を巡っている。
ところがグレンの魔力は、胸の中央を通るたびにわずかに減っていた。
吸われている。
「……なるほど」
レクスは目を細めた。
外から掛けられた単純な呪いではない。
もっと小さいものが、身体の中へ潜り込んでいる。
「何か分かったのか?」
老呪術師が身を乗り出した。
「呪いを掛けられているというより、呪いに寄生されている」
「寄生?」
「この人の魔力を餌にして育ってる。だから治癒術をかけると一時的に元気になるんじゃないか?」
白衣の治癒術師が驚いた。
「そうです。治療直後だけは脈も安定します。でも、すぐ元に戻ってしまって……」
「治療で足した生命力まで食われてるんだと思う」
老呪術師の表情が変わる。
「待て。だが、それなら呪詛の核が見えるはずだ。儂も何度も探した」
「見えにくいようにしてある」
「隠蔽術式か?」
「それもある。でも、それより厄介なのは宿主の魔力と同じ波長に寄せていることだな」
レクスはグレンの胸元に意識を集中した。
弱体術を使う時、自分は敵の強さだけを見ているわけではない。
何がその強さを支えているのか。
筋力なのか。
魔力なのか。
外皮なのか。
再生なのか。
それを見つけ、支えを一つずつ崩す。
相手が呪詛でも、考え方は変わらない。
「試すぞ」
「何をする?」
「こいつの隠蔽能力を落とす」
老呪術師が眉をひそめた。
「呪詛に弱体術を?」
「敵なら対象にできる」
「そんな理屈で……」
そこまで言ったところで、レクスが術を発動した。
「《深淵呪詛》」
グレンの身体ではなく、その奥に巣食うものへ意識を絞る。
擬態能力。
魔力吸収。
生命力吸収。
精神干渉。
増殖。
抵抗。
一つずつ削る。
九十九パーセントまで。
グレンが大きく息を吸った。
「う……っ」
「痛いか?」
「いや……逆だ」
彼は自分の胸へ手を置いた。
「急に……軽くなった」
白衣の治癒術師が駆け寄り、脈を取る。
「さっきまでと違う……魔力の減少が止まっています!」
「馬鹿な」
老呪術師も杖を向けた。
数秒後、その顔から血の気が引いた。
「見える」
「何がです?」
「呪詛だ。今までどれだけ探しても輪郭すら掴めなかったものが……胸の中央に、小さな黒い核がある」
「弱くしたから隠れられなくなったんだろう」
レクスは平然と答えた。
老呪術師はしばらく何も言えなかった。
「そんなことが……呪いを解除するのではなく、呪いの方を弱らせるなど」
「解除できるか?」
「今ならやれる」
即答だった。
老呪術師は寝台の横へ立ち、杖を構えた。
「グレン。少し熱を感じるぞ。耐えてくれ」
「ああ。今なら何でもやってくれ」
複雑な術式が展開される。
レクスは手を出さなかった。
自分の仕事は終わっている。
抵抗力をほとんど失った黒い核へ、呪術師の解除術が入り込んだ。
しばらくすると、グレンの胸元から薄い煙のようなものが浮かび上がった。
黒い糸が絡み合ったような塊だった。
それが空中で崩れ、消える。
「……消えた」
治癒術師が呟く。
グレン自身も、何度か手を握ったり開いたりしていた。
「指が動く」
声が震えた。
「ずっと痺れてたのに……ちゃんと感覚がある」
ゆっくり身体を起こす。
「待ってください、急に起きては!」
「いや、起きられる。俺、自分で起きられるぞ」
周囲の兵士たちがざわめいた。
「グレン?」
「治ったのか?」
「おい、本当に?」
グレンは何度も頷いた。
「胸の上にいた奴がいなくなったみたいだ。息もできる」
その言葉を聞いた瞬間、隣の寝台に横たわっていた若い兵士が、震える声を出した。
「俺も……俺もお願いします」
別の者も起き上がろうとする。
「黒魔導士さん、俺も頼む」
「弟が重症なんだ。先にあいつを診てやってくれ!」
「待て」
レクスが声を上げると、治療棟が静かになった。
「全員診る。だから焦るな。重症者から順番にやる」
それだけ言って、次の寝台へ移る。
ローディスが慌てて追いついた。
「レクス殿、本当に全員を?」
「そのために呼んだんじゃないのか?」
「そうですが、六十名以上います。あなたの魔力は……」
「呪いそのものが弱い。最初の一人で構造も分かったから、次からはもっと早い」
「弱い?」
老呪術師が呆れたように聞き返す。
「儂らが五日間、三人がかりで手も足も出なかったものを?」
「今は弱い」
「お主が弱くしたんだろう!」
「ああ。そういう意味なら、その通りだな」
老呪術師は杖を握ったまま天井を仰いだ。
「頼むから少しくらい自分がおかしいと自覚してくれ……」
「最近よく言われる」
「なら聞け!」
治療棟のあちこちから、久しぶりらしい笑い声が漏れた。
◇
作業は夜まで続いた。
レクスが寄生呪詛を弱らせ、三人の呪術師が核を除去する。治癒術師たちは衰弱した身体を回復させる。
一人ではできない仕事だった。
だからこそ、レクスには心地よかった。
勇者パーティにいた頃も協力していたつもりだったが、あの頃は自分が何をしているのか理解されることがほとんどなかった。
ここでは違う。
「次、抵抗を落とすぞ」
「待て、こっちの術式が整うまであと十秒じゃ」
「分かった」
「レクスさん、こちらの患者は生命力がかなり低いので、吸収だけ先に止めてもらえますか?」
「できる」
「助かります」
役割が噛み合っていく。
誰かが誰かの功績を奪う必要などない。
呪術師は解除する。
治癒術師は治す。
騎士たちは患者を運び、水を用意する。
レクスは呪いを弱らせる。
それだけだった。
最後の重症者から黒い核が消えた時には、窓の外は真っ暗になっていた。
「終わったな」
レクスが腰を伸ばす。
さすがに少し疲れた。
ローディスが水の入った杯を差し出した。
「本当に……全員を助けてしまいましたね」
「俺だけじゃない」
「それでも、あなたが来る前は何もできなかった」
「呪術師がいなければ俺も外せなかったぞ」
ローディスはしばらくレクスを見たあと、穏やかに笑った。
「そういう方だから、余計に皆があなたを評価するのでしょうね」
「何の話だ?」
「いえ。こちらの話です」
嫌な予感がする返しだった。
そこへ砦の大隊長がやってきた。
五十歳ほどの大柄な男で、レクスが作業している間も何度か様子を見に来ていた人物だ。
「レクス殿」
「何だ?」
「まず、第三大隊を代表して礼を言わせてほしい」
大隊長は深々と頭を下げた。
周囲にいた騎士たちまで一斉に姿勢を正す。
「六十三名。あなたのおかげで、一人も失わずに済んだ」
「だから、俺だけじゃ――」
「分かっている」
大隊長は顔を上げた。
「それでも礼を言わせろ。我々にも、それくらいの格好はつけさせてくれ」
そう言われると、断りづらい。
「……分かった。どういたしまして」
「それと、もう一つ」
大隊長の表情が変わった。
「今回の呪詛は自然発生したものではないそうだな」
「ああ」
レクスもそこは気になっていた。
六十三人もの兵士へ同じ寄生呪詛が入り込んでいる。
偶然ではない。
「入口がある」
「入口?」
「呪いが全員へ入り込むきっかけだ。食事か、水か、共有した装備か……何か同じものに触れている」
大隊長はローディスと顔を見合わせた。
「実は発症者には、一つ共通点がある」
「何だ?」
「全員、六日前に北の旧監視塔へ派遣された部隊の者だ」
「旧監視塔?」
「国境のさらに手前、十年前に放棄された施設だ。最近、夜になると火が見えるという報告があり、調査に出した」
「そこで何か拾ったのか?」
「何も持ち帰っていない、と報告されている。ただし――」
大隊長は声を落とした。
「塔の地下で、見慣れない黒い祭壇を見つけたそうだ」
レクスの表情から、わずかに気楽さが消えた。
「壊したのか?」
「触れてはいない。危険と判断して引き返したと聞いている」
「見る必要がありそうだな」
「頼めるか?」
「ここまで来たなら、原因まで確認した方がいい」
レクスはそう答えてから、ふと気づいた。
明日は川へ戻って釣りをするつもりだった。
「……できれば早く終わらせたい」
「何か急ぎの用事が?」
「釣りの続きをしたい」
大隊長はぽかんとした。
ローディスが横で笑いを堪えている。
「人命より釣りを優先するつもりはない。ただ、予定は予定だからな」
「なるほど」
大隊長は口元を緩めた。
「では夜明けと同時に出よう。昼までに終わらせられれば、夕方には川へ戻れる」
「それなら助かる」
六十三名の兵士を救った黒魔導士が、報酬よりも明日の釣果を気にしている。
その話が砦中へ広まるまで、さほど時間はかからなかった。
そして翌朝。
レクスは王国騎士団とともに、呪詛の発生源と疑われる旧監視塔へ向かうことになる。
そこにあるものが、ただの呪われた祭壇ではないことを、この時点ではまだ誰も知らなかった。




