第68話 彼らが欲しいのは俺の呪いだけじゃない
黒紋組織との会談を終えてベルンへ戻った翌日、レクスは朝からギルド二階の会議室に座っていた。
正面には、旧修道院で交わした会話をまとめた記録が三冊。その横には百年以上前の黒円三条に関する古文書、ノアの黒紋解析、深層王と灰殖獣の報告書まで積まれている。
机の端でミリアが新しい紙束を揃えながら言った。
「Sランクになってから、読む書類が増えましたね」
「聞いてた話と違う」
「誰から何を聞いたんですか」
「権限が増える。断りやすくなる。休暇が取りやすい」
「全部本当でしょう」
「書類が増えるって言ってなかった」
「聞かれませんでしたから」
「ずるいな」
「契約書には書いてあります」
「もっとずるい」
向かいの席でクラウディアが笑った。
「でも今回は読んだ方がいいわよ。昨日の話、かなり重要だったもの」
「分かってる」
会談に同席したローディスとガレン、後から合流したアデルも揃っている。
ただし、今日の目的は黒髪の女の言葉をそのまま信じることではない。
どこまでが既存の情報と一致するのか。
どこが新しい主張なのか。
どこに嘘を混ぜられても気づけないのか。
そこを切り分ける。
「まず、派閥の存在」
ローディスが記録を開いた。
「これはノアの断片記憶、および百年前の記録と整合する」
「封印を残せって奴と、開けろって奴」
レクス。
「同じ黒印を持ちながら対立していた記録も複数ある」
「なら黒髪の女が適当に作った話ではない可能性は高い?」
クラウディアが尋ねる。
「高い。ただし」
ローディスは指で記録の一文を叩いた。
「『派閥がある』ことと、『彼女自身がどの派閥で何をしているか』は別問題だ」
「そこ」
レクスも同意した。
「自分は強制利用に反対って言ったけど、止められなかったこと多すぎる」
ノアの自壊紋。
監視塔の精神干渉。
深層王への実験。
灰殖獣への属性付与。
黒髪の女本人が全部を実行したわけではないとしても、同じ組織の中で起きたことだ。
「責任を否定しなかった点だけは、まだましじゃ」
ガレンが言う。
「じゃが、『儂は嫌いじゃった』で済むなら組織責任など要らん」
「そう」
レクスは椅子へ少し深く座った。
「だから敵なのは変わらない」
◇
問題は、その先だった。
『私たちが欲しいのは、あなたの呪いだけではない』
黒髪の女が言った言葉。
会談中にも説明は聞いた。
それでも改めて資料を並べると、その意味が少し違って見える。
アデルが灰殖獣の記録を机へ広げた。
「レクスさんの能力だけが欲しいなら、組織側の行動には不自然な部分があります」
「どこ?」
「まず、灰の谷です。あなたが《深淵呪詛》を使えることだけ確認したいなら、深層王の時点で十分でした」
「確かに」
「深層王では抵抗網を突破し、最終的に主要能力を九十九パーセントまで落とした。その時点で『災害級存在を弱体化できる』ことは証明されています」
「じゃあ灰殖獣は何を見るため?」
「能力の種類が違う相手へ、どう対応するか」
クラウディアが答えた。
「一体の強い敵ならレクスは強い。でも、灰殖獣は増える。攻撃を学ぶ。個別弱体化も共有網で戻す。あれは単純な『九十九パーセントが通るか』を見る試験じゃなかった」
「試験って言い方嫌なんだけど」
「私も嫌よ。でも、向こうから見ればそうだったでしょうね」
レクスは反論できなかった。
深層王は。
強いものを、弱くできるか。
灰殖獣は。
一体ずつ弱くするだけでは足りない時、何を狙うか。
そして。
ラグナスの《地脈を巡らせるもの》。
危険だけれど必要でもある存在を前に、どうするか。
「全部、違う判断が必要だった」
レクスが言う。
「ええ」
アデルが頷く。
「黒髪の女性は、それを見ていた可能性があります」
「能力じゃなくて、使い方」
「もっと言えば」
クラウディアが言葉を継いだ。
「使わない判断も」
◇
そこでギルバートが遅れて会議室へ入ってきた。
「悪い、下で捕まった」
「誰に?」
「新人に。聖剣見せてくださいって」
「見せた?」
「鞘だけ」
「偉い」
「何でお前に褒められると腹立つんだろうな」
「昔の自分思い出すから?」
「たぶんそれ」
ギルバートは空いている椅子へ座り、途中までの説明を受けた。
一通り聞き終えると、珍しくすぐには口を挟まなかった。
「……あいつら、レクスを王様にしたいわけじゃないんだよな」
「何で急に王様」
レクス。
「だって、判断させたいって話だろ。古代災厄を残すか殺すか使うか」
「でも決定権全部くれるとは言ってない」
「そうか」
「たぶん、答えの一つとして欲しいんだと思う」
クラウディアが補足する。
「自分たちの派閥同士だけで決めると、それぞれの思想に引っ張られる。だから外部の判断軸が欲しい」
「でも、それなら普通の専門家でもよくないか?」
「そこがレクスの力と繋がる」
ローディスが言った。
「判断するだけの者には、選択肢を作れない場合がある」
「選択肢?」
「深層王を思い出せ。普通なら、倒せるか封じるかしかなかった。灰殖獣も、増殖を止める方法がなければ討伐も利用も現実的ではなかった」
ギルバートの表情が変わった。
「レクスが弱くするから、選べる状態になる」
「そういうことじゃろう」
ガレンが頷く。
「強すぎるものを、考える余地があるところまで落とす。その上で何をするか決める。向こうが欲しいのは、その一連全部じゃ」
「それ」
レクスは嫌そうに言った。
「余計に便利な道具扱いじゃない?」
「本人も一部はそう言ってたでしょ」
クラウディア。
「あなたの力は使いたい、って」
「正直すぎるんだよな、あの人」
「嘘ばかりよりはましじゃが、正直なら信用できるというものでもない」
ガレンの言葉に、全員が頷いた。
◇
昼前。
ノアが会議室へ来た。
今日は記憶解除の予定日ではない。
ミリアが「無理に参加しなくてもいい」と伝えたらしいが、本人が会談内容を聞きたいと言った。
「黒髪の人、俺のことを話しましたか」
席へ着くなり、ノアは尋ねた。
「話した」
レクスは誤魔化さなかった。
「自壊紋を入れたのは自分じゃない。強制利用を支持する側の人間がやった可能性が高いって」
「強制利用……」
「人を道具に近い扱いする連中」
ノアの指が右手の布の上で止まる。
「俺も?」
「たぶん。でも確定じゃない」
「はい」
その返事は、以前より落ち着いていた。
「黒髪の人は?」
「自分はそういうやり方に反対だって。でも組織には残ってる」
「じゃあ味方?」
「違う」
レクスは即答した。
「敵?」
「今はそう見る」
「でも話したんですよね」
「敵でも話せる時はある」
ノアは少し考え込む。
「難しいですね」
「かなり」
「敵なら全部悪い、じゃない?」
「そうなら楽だった」
ギルバートが口を挟んだ。
「俺も昔は、敵なら斬ればいいって思ってたから分かる。今でも斬った方が早い相手はいるけどな」
「最後の一言いらなくない?」
セシリアならそう言っただろうが、今日は不在だ。
代わりにクラウディアが言った。
「あなたは剣士だから、多少は仕方ないわ」
「多少なんだ」
◇
「ノア」
アデルが声を少し柔らかくした。
「一つ確認してもいいですか。嫌なら答えなくて構いません」
「はい」
「組織にいた頃、自分たちを『使える者』『使えない者』のように分ける言葉を聞いたことは?」
ノアの顔から少しだけ色が引いた。
レクスがすぐ見る。
「やめる?」
「……まだ大丈夫です」
「本当に?」
「はい。自分で言います」
それなら。
待つ。
ノアはゆっくり呼吸を整えた。
「ありました」
「どんな言葉?」
「はっきりは……でも、任務に失敗した人が戻ってきた時」
そこで一度止まる。
「その人、怪我してました。でも歩けたし、話せた。俺は治療されると思ってた」
「違った?」
「別の部屋へ連れて行かれました」
「その後は?」
「見てません」
「誰が連れていった?」
ノアは目を閉じた。
「黒い服の男たち。手に同じ紋章がありました」
「黒髪の女は?」
「いませんでした」
「確実?」
「そこは……かなり」
「分かった」
◇
「その時」
ノアは自分から続けた。
「誰かが言ったんです」
「何て?」
「『使えなくなったなら、別の使い方をすればいい』って」
部屋の空気が冷えた。
ギルバートの手が膝の上で固く握られる。
しかし、何も言わない。
レクスもすぐには質問しなかった。
「声、覚えてる?」
「男です」
「年齢は?」
「分かりません。でも若くはなかったと思います」
「見た?」
「背中だけ」
「顔は?」
「思い出せません」
「無理にやらなくていい」
「でも」
「今ので十分」
ノアは少し悔しそうだった。
「一番大事なところが思い出せない」
「大事かどうかは俺たちが決めることじゃない」
「でも、その人が」
「逃げない」
レクスは言った。
「何?」
「今日思い出せなくても、情報は消えない。お前が今すぐ全部出さなくても、俺たちは勝手に先へ進める」
ノアはゆっくり顔を上げた。
「……はい」
◇
ノアが休憩へ出たあと、ガレンが低い声で言った。
「『別の使い方』か」
「黒紋の自壊だけじゃない可能性ある?」
レクス。
「あるじゃろうな。記憶遮断、遠隔監視、行動拘束。それだけ揃っておれば、人間を再利用する術式へ繋げることもできる」
「断定は?」
アデル。
「せん。ただし、思想としては十分あり得る」
ローディスの顔は険しい。
「強硬派が人員を資産と見なしているなら、離反者を殺すだけとは限らない。記憶を削って別任務へ戻す方が効率的、と考える者もいるだろう」
「最悪」
ギルバートが吐き捨てた。
「ノアが逃げた理由、それかもしれないな」
レクスは言った。
「自分もそうなるって思った?」
「あるいは、実際に見たか」
クラウディア。
「そこはまだ記憶が戻ってない」
「そうね」
◇
会議は午後まで続いた。
黒髪の女がなぜレクスを直接支配しようとしないのか。
そこも改めて検討された。
「単純に、できないからじゃない?」
ギルバートが言う。
「俺なら警戒して近づかせないし」
「それもある」
クラウディア。
「でも、灰の谷ではもっと強引な方法も取れたはずよ。例えばノアを人質にするとか」
レクスの目が少し冷える。
「やってたら戦ってた」
「分かってる。だからやらなかった可能性もある」
「俺が怒るから?」
「それだけじゃなくて、判断そのものが見られなくなるからじゃない?」
アデルが続けた。
「強制された判断は、彼女たちの欲しいものではない?」
「なるほど」
レクスは嫌そうに眉を寄せた。
「俺の判断を見たいから、自由にしとく?」
「少なくとも彼女の側は」
「それ、尊重されてるようで気持ち悪いな」
「分かるわ」
クラウディアも苦笑した。
「でも強硬派は逆」
「そうでしょうね」
ローディスが資料を閉じた。
「黒髪の女が言った通りなら、彼らはレクス殿を拘束し、能力だけ使えればよいと考える可能性がある」
「判断いらない?」
「自分たちで決めるからな」
「だから派閥が違うのか」
「そこは筋が通る」
◇
夕方。
ノアがもう一度会議室へ戻ってきた。
「大丈夫?」
レクスが聞く。
「はい。少し休みました」
「今日はもう記憶の話しなくてもいいぞ」
「そのつもりだったんですけど」
「けど?」
「一つ、勝手に出てきました」
レクスはすぐ姿勢を直した。
「痛い?」
「違います。昔の声です」
「どの声?」
ノアは少し迷った。
「さっき話した人とは、たぶん同じです」
部屋に残っていたクラウディア、ガレン、アデルも黙る。
「何て言った?」
ノアは目を閉じなくても答えられた。
「『判断など要らない』」
レクスの眉が寄る。
「続きは?」
「あります」
ノアの声が僅かに震えた。
「『選べる者に選ばせるから、失敗する。力を持つ者には役目だけ与えればいい』」
誰もすぐには口を開かなかった。
黒髪の女。
選んでほしい。
強硬派の男。
判断など要らない。
同じ組織。
正反対。
「その人」
レクスが慎重に聞く。
「お前に命令したことある?」
「……あります」
「内容は?」
「まだ出ません」
「十分」
「でも名前は」
「今日はいい」
ノアは悔しそうに唇を噛んだ。
「少しだけ、聞こえそうなんです」
「無理するな」
「無理じゃないです」
「本当に?」
「はい」
レクスは止めるべきか迷った。
以前なら。
自分で決めたかもしれない。
でも今は。
「じゃあ、自分で決めて」
ノアは一度頷く。
「少しだけ続けます」
◇
記憶解除の術式は使わなかった。
ただ、ノア自身が戻ってきた声を辿る。
長い廊下。
冷たい石壁。
右手の黒紋がまだ新しく、熱を持っていた頃。
何人かの少年少女が並ばされていた。
その前を。
男。
歩く。
顔。
ぼやける。
声だけ。
鮮明。
『役に立つ者には役目を。役に立たぬ者には、別の器としての役目を』
ノアの呼吸が浅くなる。
「やめる?」
レクス。
「……もう少し」
『選択は上がする。お前たちは従えばいい』
そして。
誰かが。
その男を。
呼んだ。
「……聞こえた」
ノアが掠れた声で言う。
「何て?」
「名前じゃないかもしれません」
「それでいい」
「呼び方です」
ノアは目を開いた。
「《監督官》」
アデルがすぐ書き留める。
「役職名?」
「たぶん」
「他には?」
ノアは首を振った。
「今日は、もうここまでにします」
「うん」
自分で言った。
それでいい。
◇
ノアが帰ったあと、レクスは会議室の窓を開けた。
夕方のベルンは、仕事帰りの冒険者と市場の声で騒がしい。外では普通の一日が終わろうとしている。
その一方で。
黒紋組織の中では。
古代災厄をどう扱うかだけではなく。
人間をどう扱うかでも。
考え方が割れている。
黒髪の女は。
レクスに選ばせたい。
別の誰かは。
選ばせること自体を無駄だと思っている。
「俺の呪いが欲しいだけじゃない」
レクスが言う。
クラウディアが隣に来た。
「もう分かった?」
「ああ」
「何が?」
「黒髪の女は、俺が考えるところまで欲しい」
「強硬派は?」
「考えなくていいから従え、って方」
「どっちがまし?」
レクスは少し考えた。
「比べたくない」
「正解」
「でも」
「でも?」
「後の方は、ノアにやったことを俺にもやるかもしれない」
「そうね」
「なら」
レクスの声から少しだけ温度が消えた。
「そっちは、話す前に止めないと駄目かもしれない」
まだ名前は分からない。
顔も。
居場所も。
分からない。
ただ。
声だけ。
戻った。
『判断など要らない』
ノアが逃げた場所の奥に。
そう言った男がいる。
そして、その男の考え方は。
レクスが灰の谷で、ラグナスで、ようやく覚え始めたものと。
完全に逆だった。




