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第69話 ノアを捨てた男

 ノアが思い出した《監督官》という呼び名は、その日のうちに中央ギルドと王都へ共有された。


 翌朝には、過去十年分の黒紋関連報告と照合が始まっていた。もっとも、役職名らしきものが一つ増えたからといって、すぐに人物を特定できるほど話は簡単ではない。


「《監督官》なんて、普通の組織でも使いそうな名前だな」


 レクスが資料をめくりながら言うと、ミリアは受付から運んできた記録箱を机の端へ置いた。


「その通りです。鉱山、工房、軍需施設、魔術研究所。監督官という肩書き自体は珍しくありません」


「じゃあ役に立たない?」


「そんなことはありません。ただし、名前が分からない以上、役職だけで追うのは難しいという意味です」


 会議室にはレクスのほか、クラウディア、ガレン、アデル、ローディスが揃っていた。ギルバートは別依頼の報告で午前中だけ不在だが、午後には戻る予定らしい。


 ノア本人は、今日はここへ来ていない。


 昨夜の記憶回復でかなり疲れたため、朝の時点で「今日は休みたい」と自分から伝えたからだ。


「それでいい」


 レクスが言うと、ミリアも頷いた。


「本人が来なくても調べられることは、こちらで調べます」


「むしろ、その方がいいじゃろう」


 ガレンが分厚い帳面を閉じた。


「記憶を掘ることを調査の主軸にしたら、また小僧を情報袋に逆戻りさせるだけじゃ」


「それは嫌」


「なら本から探せ」


「だから読んでる」


「三頁目で眠そうな顔をするでない」


「字が小さい」


「十九歳じゃろうが」


     ◇


 午前中に見つかったのは、黒紋組織そのものの記録ではなかった。


 六年前。


 王国南部で保護された身元不明の青年。


 右手に焼けたような痕跡があり、発見当初は自分の名前さえ答えられなかった。


 治療記録には、こう書かれている。


『記憶障害あり。命令に対する反応のみ異常に良好。質問には答えられないが、特定の術式句に対し即座に起立、移動、停止する』


「黒紋は?」


 レクスが聞く。


「当時の記録では、ただの火傷痕と判断されています」


 アデルが答える。


「写真は?」


「ありません。ですが、治療師の手描きがあります」


 紙に残された図は粗い。


 それでも。


 円形。


 その内側に。


 三本の線らしき痕がある。


「かなり似てる」


 クラウディアが言った。


「本人は?」


「二週間後に失踪しています」


「自分で?」


「そこは不明です」


「連れ戻された?」


「可能性はある」


 ローディスが慎重に答える。


「ただし、当時の警備記録では侵入者なし。本人が夜間に施設を出た可能性も高い」


「記憶ないのに?」


「命令だけ残っていたなら、外から何かを受けた可能性もある」


 ガレンが紙を指で叩く。


「遠隔命令じゃな。ノアの黒紋にも監視と行動拘束があった。系統が同じなら不思議ではない」


「じゃあ」


 レクスは記録の一文を見る。


「失敗した奴を、記憶消してもう一回使う?」


 誰もすぐには答えなかった。


 断定するには材料が足りない。


 それでも。


 ノアの記憶。


『使えなくなったなら、別の使い方をすればいい』


 あの言葉と。


 妙に噛み合っていた。


     ◇


 午後になって、さらに二件見つかった。


 一人は国境付近で倒れていた中年の男。


 もう一人は、隣国で保護された十代後半の女性。


 二人とも記憶に大きな欠落があり。


 右手に。


 黒い紋章が焼き潰されたような痕跡。


「偶然じゃない」


 ギルバートが戻ってきて資料を見た瞬間、そう言った。


「まだ三件」


 レクスが止める。


「三件も、だろ」


「場所も年代も違う」


「だから余計にじゃないか?」


 ギルバートは腹立たしそうに椅子へ座った。


「同じような奴が別々の場所で見つかってるなら、組織がずっとやってた可能性あるだろ」


「ある。でも確定じゃない」


「分かってる」


 返事はした。


 ただ、納得している顔ではない。


「怒ってる?」


「かなり」


「ノアのこと?」


「それもある」


 ギルバートは資料を一枚持ち上げた。


「俺、昔は役に立つ奴とか立たない奴とか、そういう見方してたところがあったからさ」


 レクスは何も言わなかった。


「もちろん、こんなことはしてない。でも」


 ギルバートは自分で続ける。


「『役に立たないなら外す』って考え方の先に、こういうのがある気がして嫌なんだ」


「そこまで同じじゃない」


「分かってるよ」


「じゃあ」


「分かってても嫌なんだよ」


 その言い方に、レクスはそれ以上何も言わなかった。


 過去の自分と。


 目の前の最悪なもの。


 同じではない。


 でも、似ている部分を本人が見つけてしまったなら。


 簡単に否定しても意味がない。


     ◇


 夕方近く。


 休むと言っていたノアが、ギルドへやって来た。


 顔色は悪くない。


 右手の布もいつも通り。


「休むんじゃなかった?」


 レクスが聞く。


「昼まで寝ました」


「じゃあまだ休んでても」


「思い出したんです」


 その言葉で、部屋の空気が変わる。


「自然に?」


 アデル。


「はい。術式は使ってません」


「痛みは?」


「少し頭が重いくらいです」


「話せる?」


 レクス。


「話したいです」


 今度は本人がそう言った。


「じゃあ聞く」


     ◇


 ノアは椅子へ座り、両手を膝の上へ置いた。


「昨日の《監督官》の続きです」


「顔?」


「少しだけ」


「無理しなくていい」


「はい」


 ノアは一度、息を整えた。


「白髪が混じってました」


「年齢は?」


「四十代か、五十代くらい」


「服は?」


「黒。長い上着。でも黒髪の女の人たちより、もっと固い感じの服でした」


「軍服に近い?」


 ローディスが聞く。


「たぶん」


「傷とか特徴は?」


「左の耳に」


 ノアは自分の耳へ触れた。


「金属の輪みたいなのがありました」


「耳飾り?」


「飾りじゃないと思います。何か術式が刻んであった」


 アデルがすぐ記録する。


「他には?」


「目が……」


 ノアの声が止まった。


 レクスは待つ。


「冷たい、とかじゃなくて」


「うん」


「人を見る時、数を見てるみたいでした」


 部屋の誰も口を挟まなかった。


「俺たちを並べて、何人使えるか確認してるみたいに」


 ノアの右手が少し強く握られる。


「それで」


「何があった?」


「一人、失敗した人が連れて来られました」


     ◇


 その人物は、二十歳前後の男だったという。


 任務で負傷した。


 右腕が動かない。


 黒紋の反応も一部壊れている。


 それでも。


 生きていた。


「本人、帰りたいって言ってました」


 ノアの声が少し掠れる。


「家?」


「分かりません。組織から離れたいって意味かもしれない」


「監督官は?」


「笑わなかったです」


「何て言った?」


 ノアは一度、目を閉じた。


「『帰る場所などない』」


 ギルバートの顔が険しくなる。


「それから?」


「『役目を失った者に自由を与える理由はない』」


 レクスの中で何かが冷えた。


「その人、どうなった?」


「別の部屋に連れて行かれました」


「その後見た?」


「……見ました」


 ノアの呼吸が少し乱れる。


「やめる?」


「まだ大丈夫です」


「本当に?」


「はい」


 ノアは自分で続けた。


「三日後、その人が戻ってきました」


「同じ人?」


「顔は同じです」


「記憶は?」


「俺の名前を覚えてませんでした」


 ノアの目が机へ落ちる。


「前は話したことあったんです。何回か。でも、戻ってきた時は」


 口元が強く結ばれる。


「誰に話しかけても、決まった言葉しか返さなかった」


「何て?」


「『命令を』って」


     ◇


 ギルバートが椅子の背へ拳を押し当てた。


 音は立てない。


 でも。


 怒っている。


「それが」


 ノアが続ける。


「俺が逃げる前に見た最後の人です」


「最後?」


「その人だけじゃなかった」


 クラウディアの顔が硬くなる。


「他にも?」


「何人かいました」


「何人?」


「分かりません。三人か、四人か」


「全部同じ?」


「少し違います。でも、みんな」


 ノアは自分の胸の前で手を止めた。


「何か、空っぽに見えました」


「監督官は何て呼んでた?」


 レクスが聞いた。


 ノアはそこで、はっきりと顔をしかめた。


「思い出しました」


「何を?」


「呼び方」


 少し間を置き。


「《空の器》」


 アデルの筆が止まった。


     ◇


「空の器」


 ガレンが低く繰り返す。


「記憶を削って、命令だけ残した人間」


 レクス。


「それだけとは限らん」


「何が?」


「器、という言葉を使うなら」


 老呪術師は眉間へ皺を寄せる。


「別の術式、別の能力、別の黒紋を入れ直す前提かもしれん」


「再利用?」


「可能性の話じゃ」


「十分最悪だな」


 ギルバート。


「それ、殺すより悪いだろ」


「簡単には比べられない」


 クラウディアが言う。


「でも、自分で選ぶものを全部奪われてる」


「そこ」


 レクスが言った。


「黒髪の女と完全に逆だ」


「選ばせる者と、選択そのものを奪う者」


 ローディス。


「組織内部の対立が、思想だけでなく実際の処置へ出ていると見るべきか」


「まだ女側の話も全部信じるわけじゃない」


 レクス。


「でも強硬派の方は」


「危険度が一段上がった」


「うん」


     ◇


「ノア」


 レクスは少し間を置いてから聞いた。


「お前が逃げた直接の理由、それ?」


 ノアはすぐには答えなかった。


「……たぶん」


「たぶん?」


「全部はまだ戻ってません。でも」


 自分の右手を見る。


「俺も、失敗しました」


「何を?」


「任務」


「どんな?」


「思い出せません」


「その後?」


「監督官に呼ばれた」


 ノアの指が震えた。


「『次に失敗すれば、お前も器に回す』って」


 レクスは何も言わなかった。


「その時、初めて」


「逃げようと思った?」


「はい」


「じゃあ役に立たないから捨てられると思ったのは」


「たぶん、あの人たちを見たからです」


 そこまで言うと、ノアは少し疲れたように息を吐いた。


「俺、ずっと」


「うん」


「役に立たないと、消されると思ってました」


 レクスはすぐ励ます言葉を探さなかった。


 その考えは。


 ただの思い込みではなかった。


 実際に。


 そういう場所にいた。


 だから。


 簡単に「もう大丈夫」と言って終わらせるのも違う。


「今は?」


 レクスが聞いた。


 ノアは少し考える。


「まだ、そう思う時あります」


「そっか」


「でも前よりは」


「何が違う?」


「役に立てなくても、すぐ捨てられない場所があるって分かりました」


「それなら」


 レクスは少しだけ笑う。


「少しずつでいい」


     ◇


 ノアの話が終わった後。


 レクスたちは、過去に保護された三人の身元不明者について再調査を依頼した。


 黒紋痕。


 記憶欠落。


 命令反応。


 それらが《空の器》と一致するか。


 結果が出るまでには時間がかかる。


 だが。


 組織の強硬派が何をしているのか。


 かなり形が見えてきた。


「人を削る」


 レクスが言った。


「記憶も、判断も、自分で選ぶところも」


「便利な兵士にするため」


 クラウディア。


「そこに古代災厄の力まで入れる可能性ある?」


「あるかもしれない」


 ガレン。


「むしろ、それが最終目的の一つでも驚かん」


「古代の力を、安全に人へ入れる?」


 ギルバートが嫌そうな顔をする。


「それ、灰殖獣より面倒じゃないか」


「人間が持って歩くならな」


「しかも命令聞く」


「最悪だ」


 レクスは短く言った。


     ◇


 問題は。


 黒髪の女たちと。


 どう向き合うか。


「一時的に組める?」


 クラウディアが聞いた。


「何と?」


「強硬派を止めるために」


「嫌だな」


「分かる」


「信用してない」


「それも分かる」


「でも」


 レクスはそこで止まった。


 嫌だ。


 だから拒否する。


 それだけで済めば簡単だ。


 ただ。


 強硬派が本当に人間を《空の器》へ変え。


 古代災厄の力まで利用しようとしているなら。


 組織内部の情報を持つ黒髪の女たちは、最も早くそこへ辿り着ける存在でもある。


「一緒に戦うことと、許すことは別?」


 ギルバートが言った。


「何でお前が先に言う」


「最近覚えた」


「便利だな」


「だろ?」


 少しだけ空気が緩む。


「共闘しても」


 レクスは言った。


「トルメのことも、灰の谷のことも、ノアのことも消えない」


「もちろん」


 ローディス。


「だが、目の前で別の人間が同じ被害に遭うなら、止めるために敵の情報を使うことはある」


「じゃあ」


「状況次第だ」


「それが一番面倒なんだよな」


     ◇


 夕暮れ。


 ノアは先に帰った。


 今日はもう十分思い出した。


 本人もそれを分かっていて、自分から「続きは明日にしません」と言った。


 その変化を。


 レクスは少し嬉しく思う。


 会議室に残った面々で、最後の確認をしていた時。


 通信石が鳴った。


 王都経由。


 緊急ではない。


 ただし。


 優先度高。


「何?」


 ローディスが応答する。


 数秒後。


 顔色が変わった。


「どうした?」


「黒紋関係だ」


 全員が見る。


「どこ」


「北東部。旧封印監視網の一つから、監視員が消えた」


「全員?」


「八名」


「死体は?」


「ない」


「黒紋?」


「現場に黒円三条の印が一つ」


 レクスの背筋が冷える。


「それだけ?」


「もう一つ」


 ローディスは通信石の向こうから届いた内容を確認する。


「封印設備の外部拘束術式が、内側からではなく外側から解除されている」


「誰かが開けた?」


「その可能性が高い」


「中身は?」


「古代記録では――」


 ローディスが一瞬言葉を止める。


「《能力を奪い、蓄えるもの》」


 部屋の空気が変わった。


 ギルバートが立ち上がる。


「強硬派か?」


「まだ断定できない」


 レクス。


「でも」


 クラウディアが続ける。


「相性が悪すぎるわね」


 人の能力を奪う古代存在。


 人間を《空の器》へ変える者たち。


 もし。


 二つを。


 組み合わせようとしているなら。


「場所は?」


 レクスが聞いた。


「ここから馬で六日」


「準備は?」


「最速なら明朝」


「黒髪の女側には?」


「まだ連絡経路がない」


「向こうから来るかも」


 ガレンが低く言う。


「内部の連中が勝手に動いたなら、あの女も放ってはおかんじゃろ」


 レクスは机の上に残されたノアの証言記録を見る。


『役目を失った者に自由を与える理由はない』


『空の器』


『判断など要らない』


 今度は。


 考えているだけでは。


 間に合わないかもしれない。


「明日出る」


 レクスは言った。


「理由は黒紋組織を追うためじゃない」


 ローディスが聞く。


「では?」


「次のノアを増やさないため」


 それだけは。


 迷う理由がなかった。

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