第66話 黒紋組織からの正式な招待
黒い円の中に三本の線。
百年以上前の記録にも残っていたその印は、差出人名のない封書の裏に、まるで署名の代わりのように描かれていた。
『今回は、良い選択でした』
『次は実験ではなく、話をしましょう』
その下には、会談の日時と場所、それから同行可能人数まで記されている。
場所はリュネール王国でもレクスたちの王国でもない。両国の間に横たわる山岳地帯、その南端に残された旧修道院だった。今はどこの宗教組織も管理しておらず、数十年前から巡礼路としても使われていないらしい。
会談日は十二日後。
同行者は三名まで。
武器の携行は自由。
ただし、相手側も同数。
逃げるための道まで書いてあるわけではない。
「怪しい」
レクスが封書を読み終えて最初に口にしたのは、それだった。
「今さらね」
クラウディアが隣から紙を覗き込む。
「むしろ、黒紋組織から『怪しくない招待状』が来た方が怖いわ」
「それはそう」
ディートは笑わなかった。
「行くつもりですか」
「まだ決めてない」
「私なら反対します」
「理由は?」
「罠にしか見えないからです」
簡潔だった。
「あなたを生け捕りにする、黒紋を刻む、あるいは能力を解析する。その程度は誰でも考えます」
「殺す可能性は?」
「殺すつもりなら、もっと簡単な機会があったでしょう」
クラウディアが封書を指で軽く叩いた。
「灰の谷でね」
「だから殺さない?」
「そこまでは言ってない。ただ、少なくとも今までの行動を見る限り、レクスを死なせるより選ばせたい、使いたい、観察したい。そのどれかを優先しているように見える」
「全部かも」
「あり得るわね」
レクスは封書を折り直した。
「じゃあ、なおさら今日決めない」
◇
ラグナス地方での仕事を終え、正式な報告書をリュネール王国側へ引き渡したあと、レクスとクラウディアはベルンへ戻った。
帰路の途中でも、招待状について二人だけで結論を出すことはしなかった。
ベルンのギルドへ着いた翌日には、ヴァレル、ローディス、ガレン、アデル、ミリアが揃い、招待状の検証から始まった。
「紙自体は普通です」
アデルが言う。
「通信術式、自壊術式、追跡術式、精神干渉、全部なし。文字にも魔力反応はありません」
「普通すぎて逆に怖くない?」
レクス。
「それは術式解析では評価できません」
「残念」
ガレンが鼻を鳴らす。
「罠なら、紙へ仕込む必要がないだけじゃ。場所へ仕掛けておけばよい」
「そうだよな」
「納得するな」
ローディスが低い声を挟んだ。
「まず、指定された旧修道院を調べる。会談へ行くかどうかは、その後だ」
「行くって返事しなくても?」
ミリアが招待文の末尾を示した。
「返答方法は書いてあります。日時の二日前までに、修道院から二十キロ東の石標へ、同封された白紙札を置く。それが了承の合図になるそうです」
「断る時は?」
「何もしない」
「便利だな」
「相手側にとっては、でしょうね」
◇
旧修道院の調査は、直接人を送り込む前に記録から始めた。
四十七年前に放棄。
地下墓所あり。
かつての巡礼路は三本。
一つは崩落。
一つは森へ。
残り一つは街道へ続く。
さらに古い図面には、修道院地下から山の反対側へ抜ける排水路まで記されていた。
「逃げ道が多い」
ギルバートが地図を見ながら言った。
南部任務を終えたばかりで、今回は珍しく自分から会議へ呼ばれるのを待っていたらしい。
「罠には向かない?」
「逆でしょう」
セシリアが答える。
「相手が逃げるにも便利よ」
「こっちが囲みにくいってことか」
「そう」
レクスは地図を見たまま聞いた。
「ギルバートなら行く?」
「俺?」
「昔じゃなくて今」
ギルバートは少し考えた。
「条件次第」
「即答で行くって言わなくなったな」
「それ言われると思った!」
「で、条件は?」
「こっちが外を押さえられる。通信できる。黒紋を刻まれた時に対処できる。あと、相手が人数守る保証はないから、増援が来ても逃げられる」
「なるほど」
「それから」
「まだある?」
「ノアは絶対連れて行かない」
レクスはすぐ頷いた。
「それは俺も同じ」
◇
ノア本人にも、招待状が届いたことだけは伝えた。
隠す理由がなかったからだ。
ただし、会談へ同行させる案は最初から出していない。
「俺のことを聞きますか」
ノアは少し緊張した顔で聞いた。
「聞く」
「紋章のことも?」
「うん」
「誰が入れたか」
「分かれば」
ノアは膝の上で右手を握った。
「俺も行った方が、顔を見て思い出すかもしれません」
「行きたい?」
レクスが聞き返す。
ノアはすぐには答えなかった。
「……役に立つとは思います」
「行きたいか聞いた」
少し長い沈黙のあと。
「怖いです」
「じゃあ行かなくていい」
「でも」
「怖くても行きたいなら別。でも、『役に立つから』だけなら連れていかない」
ノアは何か言い返しかけて、やめた。
「ずるいですね」
「何が?」
「そう言われると、俺も自分で考えないといけない」
「その方がいいだろ」
「たぶん」
最後には少し笑った。
「じゃあ、今回は行きません」
◇
中央ギルド側の意見は、もっと割れた。
「会談そのものを拒否すべきだ」
そう主張する者もいた。
灰の谷で人為的に灰殖獣を刺激した。
深層王の覚醒を早めた。
監視塔の人間へ精神干渉した。
ノアの黒紋と同系統の術式を使っている。
それだけで十分、敵対勢力とみなす理由になる。
一方で。
「今後も古代封印へ介入するつもりなら、情報源として無視できない」
そういう意見もあった。
百年以上前から活動している可能性がある。
古代封印に関する知識は、国家側を上回っているかもしれない。
何より、向こうから会談を申し込んだ。
これは初めてだった。
「で」
ヴァレルがレクスを見る。
「君はどうしたい」
「今聞く?」
「今まで他人の意見を聞いただろ」
「まだ現地調査残ってる」
「そこまで待つか」
「うん」
ヴァレルは少し笑った。
「Sランク権限を使えば、国の許可がなくても行ける」
「それ、行けって意味?」
「違う。国家から強制されず、自分で決められるという意味だ」
「逆に、国が止めても?」
「法的には一定範囲で可能だ。ただし外交問題は起こすな」
「面倒だな」
「Sランクだからな」
「便利なところだけ欲しかった」
「世の中そうはいかん」
◇
三日後。
旧修道院周辺を調査した偵察隊から報告が届いた。
罠らしい大規模術式なし。
黒紋の残留反応も、現時点では確認できない。
地下通路は二本が生きている。
一つは北側斜面へ。
もう一つは古い排水路を通り、谷へ抜ける。
周囲五キロには、定住民なし。
「場所としては悪くない」
ローディスが言った。
「民間人を巻き込む可能性が低い」
「向こうがそこ選んだ理由もそれ?」
フィンが聞く。
「そう思わせるためかもしれん」
ガレン。
「全部疑うと何もできないな」
「だから条件を作るんじゃ」
◇
条件は、レクスが自分で書き出した。
一つ。
会談開始前に、双方が同行者数を確認する。
二つ。
会談中、黒紋術式を含む精神・記憶・身体への干渉を行わない。
三つ。
地下深部へ誘導された場合は拒否する。
四つ。
こちらの外部支援部隊を、修道院外の十分な距離へ配置する。
五つ。
通信遮断が起きた場合、会談を中止。
六つ。
相手側が人数を増やした場合も中止。
七つ。
レクス自身の判断で、いつでも退席できる。
「多いわね」
クラウディアが紙を見た。
「もっといる?」
「いえ、十分」
「俺、こういうの前より上手くなった?」
「かなり」
「Sランクだから?」
「灰殖獣のおかげじゃない?」
「複雑」
ローディスは内容を確認し、頷いた。
「妥当だ」
「向こうが断ったら?」
「会談もなしだ」
「それでいい」
◇
同行者は、レクスを含めて四人。
招待文では「同行三名まで」と書かれているため、条件内だ。
クラウディア。
ローディス。
ガレン。
戦闘力だけで選んだわけではない。
クラウディアはSランクとして即時判断ができる。
ローディスは王国側の責任者で、交渉と拘束判断を担える。
ガレンは黒紋と古代封印術式の識別役。
「ギルバートは?」
本人が聞く。
「今回はなし」
「理由は?」
「別に弱いからじゃない」
「分かってるよ」
「黒髪の女、お前の反応も見てる気がする」
「俺がいると話変わる?」
「たぶん」
ギルバートは少し不満そうだった。
「ノアのこと聞きたい」
「俺が聞く」
「本人じゃなくて?」
「ノアが行かないって決めた」
その一言で。
ギルバートは黙った。
「……なら、分かった」
「外にも来ない?」
「行かない」
「本当に?」
「別任務入れる」
「それは助かる」
「ただ」
「何?」
「帰ってきたら全部話せ」
「必要な範囲で」
「そこは変わらないんだな!」
◇
白紙札へ条件を書き込むことはできない。
相手が用意したものだから、勝手に術式を書けば反応が変わる可能性がある。
そこでレクスたちは、白紙札とは別に一通の文書を用意した。
『会談の意思あり。ただし、以下を条件とする』
そこへ七項目。
最後に。
『一項でも拒否する場合、会談は成立しない』
署名は。
レクス・アルヴァーン。
だけ。
「王国名入れないの?」
ミリアが聞いた。
「入れた方がいい?」
「今回は、あなた個人へ届いた招待です」
「じゃあ俺で」
「Sランクとして?」
「それも書く?」
「向こうは知っているでしょうね」
「ならいらない」
◇
指定された石標へ、白紙札と条件文を置いたのはローディス配下の斥候だった。
監視はしない。
相手が受け取るところを捕まえようとすれば、会談そのものが壊れる可能性がある。
ただし、周囲へ無人観測具だけは置いた。
翌朝。
白紙札と条件文は消えていた。
代わりに。
一枚。
短い返答。
『全条件を受諾します』
「簡単すぎない?」
レクスが言う。
クラウディアも同じ顔をしている。
「もう少し値切ると思ってたわ」
「値切るもの?」
「交渉ってそんなものでしょう」
ガレンが紙を鼻先まで近づけた。
「術式なし。追跡なし。筆跡は灰の谷のものと似ておる」
「本人?」
「確定はできん」
「またそれか」
「確定できんものを確定と言う方が危ない」
「分かってる」
◇
それでも。
会談を受けることにした。
理由は、信用したからではない。
安全だからでもない。
相手が情報を持っている可能性が高く、こちらにも聞きたいことがある。そして、現時点で完全に拒絶するより、条件をこちらで決めた上で話す価値がある。
それだけだった。
「怖くない?」
ミリアが出発前に聞いた。
「少し」
「珍しく素直ですね」
「怖くない方がおかしいだろ」
「そうですね」
「でも、逃げ道ある。外もいる。通信もある。人数も決めた」
「それでも何か起きる可能性はあります」
「ある」
「それでも行く?」
「うん」
「理由は?」
レクスは少し考えた。
「知らないまま次の封印に手を出される方が嫌だから」
◇
会談当日。
旧修道院は、朝から薄い霧に包まれていた。
屋根の半分は崩れ、石壁には蔦が絡み、礼拝堂だった場所には鳥の巣まである。かつて祈りを捧げた人々の気配はもうなく、代わりに湿った石と苔の匂いが満ちていた。
修道院から一キロ離れた林には、王国側と中央ギルド側の支援班が待機している。
五分ごとの通信確認。
異常があれば即撤退。
「最終確認」
ローディスが言う。
「相手が一人でも多ければ?」
「帰る」
「通信が切れたら?」
「帰る」
「黒紋へ干渉されたら?」
「抵抗して帰る」
「挑発されたら?」
レクスは少し考える。
「内容次第」
「そこは帰ると言え」
「殴らなければ話くらい聞く」
クラウディアが笑う。
「その方がレクスらしいわ」
ガレンは杖を持ち直した。
「儂は話すより先に、術式を見るぞ」
「それでいい」
◇
崩れかけた礼拝堂。
指定時刻。
相手は。
もう来ていた。
黒髪の女。
灰色外套の男。
そして。
見覚えのない二人。
一人は四十代ほどの痩せた男。
もう一人は短い茶髪の女。
合計四人。
約束通り。
黒髪の女が立ち上がる。
「来てくれたんですね」
「条件飲んだから」
「すべて守ります」
「今のところは?」
「最後まで」
「そうだと助かる」
黒髪の女は少し笑った。
「以前より、ずいぶん条件が増えましたね」
「そっちのせいだろ」
「否定しません」
◇
全員が互いの人数を確認する。
ガレンが術式反応を探る。
異常なし。
ローディスが出口を確認。
塞がれていない。
クラウディアが座る前に、壁と窓の位置を一度見た。
レクスも椅子へ腰を下ろす。
「まず」
黒髪の女が言った。
「改めて、ラグナスでの判断を評価します」
「それいらない」
「なぜ?」
「試験受けてないから」
「私たちの?」
「中央のSランク試験だけで十分だった」
「もう終わったでしょう」
「だから増やすな」
女が珍しく少し笑う。
「では、評価ではなく感想ということにしましょう」
「もっといらない」
「難しいですね」
◇
「こっちから聞く」
レクスは前置きを打ち切った。
「ノアの黒紋」
女の表情から笑みが消えた。
「ええ」
「誰が入れた」
「名前は、まだ言えません」
「じゃあ、お前じゃない?」
「私ではありません」
「命令した?」
「していません」
「止めた?」
「止めてもいません」
「灰の谷でも同じこと言ったな」
「事実ですから」
「理由は?」
女は少しだけ間を置いた。
「私たちは一枚岩ではないからです」
レクスは返事をしなかった。
百年前の記録。
残せ。
開け。
同じ黒印を持つ者同士の対立。
それと。
繋がる。
「派閥がある?」
クラウディアが聞く。
「その言葉が近いです」
「いくつ?」
「数え方によります」
「便利な答えね」
「事実です」
「じゃあ大きいのだけ」
女はしばらく黙った。
それから。
「封じ続けるべきだと考える者。保存し、観察すべきだと考える者。安全化した上で利用すべきだと考える者。そして」
「そして?」
「強制的に使えばよいと考える者」
空気が少し変わった。
◇
レクスは黒髪の女を見る。
「ノアは最後?」
「近い」
「近い?」
「彼に施された処置には、監視、記憶遮断、自壊が含まれていた。あれは、失敗や離反を個人の問題ではなく資産損失として扱う考え方です」
「資産?」
ローディスの声が冷える。
「人間を?」
「そう扱う者がいる」
「あなたは?」
女は少しだけ目を伏せた。
「私は好まない」
「でも止めなかった」
「ええ」
「なら同じだろ」
レクスは感情を荒げなかった。
ただ、言葉は変えない。
「嫌いなやり方を、同じ組織の中で放置した。それで『私は違う』って言われても、ノアには関係ない」
女は反論しなかった。
「その通りです」
「謝る?」
「私が謝っても、彼の紋章は消えません」
「それもそう」
「ただし」
女は初めて、少しだけ言葉を選んだ。
「今後も放置するつもりはありません」
「信じろって?」
「いいえ」
「またそれか」
「信用してほしいとは、以前も言っていません」
◇
ガレンが杖の先を床へ軽く打った。
「では聞こう。百年以上前から黒円三条の印を使っていた者どもは、お主らの先祖か」
黒髪の女の目が僅かに動いた。
「そこまで調べましたか」
「答えになっとらん」
「系統としては、そうです」
「組織名は《アーク》か?」
今度は。
女。
少し。
黙った。
「近い」
レクスの中で何かが繋がる。
「近い?」
「古い呼称の一部です」
「じゃあ正式名称は?」
「今は、別の名前を使っています」
「何」
「まだ言えません」
「何で」
「ここで私が勝手に明かせる情報ではないからです」
「上がいる?」
「います」
「お前が一番上じゃない?」
「違います」
初めて。
そこは明確だった。
◇
「なら何で、お前がいつも出てくる」
レクスが聞く。
「深層王。灰殖獣。今回の会談。全部お前」
「あなたの担当だからです」
「俺の?」
「正確には」
黒髪の女はレクスをまっすぐ見た。
「《減らす者》の観測と交渉」
「その呼び方やめて」
「ではレクス・アルヴァーン」
「最初からそれで」
「あなたは、力だけなら非常に便利です」
「褒めてないな」
「褒めるつもりではありません」
「正直だな」
「でも」
女の声が少し低くなる。
「私たちが欲しいのは、あなたの呪いだけではない」
レクスは目を細めた。
「何」
「それは」
女はすぐには続けなかった。
むしろ、そこで会談を一度切るように水差しへ手を伸ばす。
「次の話に関わります」
「もったいぶるな」
「長い話になりますから」
「今日は話しに来たんだろ」
女は少し笑った。
「確かに」
◇
礼拝堂の外では、霧がゆっくり薄くなっていた。
通信石。
正常。
出口。
開いている。
人数。
変化なし。
約束は。
今のところ。
守られている。
レクスは初めて、黒髪の女と戦場ではなく、同じ机を挟んで話している。
敵。
それは変わらない。
ノアへ黒紋を刻む組織。
深層王を実験に使い。
灰殖獣へ性質を覚えさせ。
人間の記憶まで弄った集団。
でも。
その中にも。
考えの違う者がいる。
そして。
彼らがレクスに求めているものは。
九十九パーセント弱くする力だけではない。
「続けて」
レクスが言った。
黒髪の女は静かに頷く。
「では、なぜ私たちがあなたに『選ばせている』のか。その話をしましょう」
そこでようやく。
会談は。
本題へ入った。




